八
離れへと続く渡り廊下は、久遠館の一番奥にあった。
本館の廊下を抜け、遊戯室の前を通り過ぎ、さらに奥へ進む。夜の久遠館は、進めば進むほど人のための建物ではなくなっていった。客室の襖は固く閉ざされ、壁の古い照明はところどころ切れている。床板は一歩ごとに低く鳴り、まるで足元から誰かが小さく呻いているようだった。
透は、真壁の背中を見ながら歩いた。
真壁の右手には懐中電灯。左手には赤い紐のついた鈴。
柳田は鍵束を握っている。
笑は透のすぐ横を歩き、指先で透の袖をつまんでいた。
さっきまでは、透、悟、力、笑の四人だった。
今は、透、笑、真壁、柳田の四人。
同じ四人なのに、まるで違う。
透はそのことを考えないようにした。考えると、力の声や悟の顔が頭の中に浮かんでくる。
――おまえが鬼やで。
力のスマホから聞こえた声。
あれは本当に力だったのか。
それとも、力の声を使った別の何かだったのか。
分からない。
分からないことばかりだった。
「ここから先です」
真壁が足を止めた。
廊下の先に、ガラス戸があった。古い木枠にはめ込まれた透明なガラス。外は真っ暗で、戸の向こうには渡り廊下の影だけが見える。ところどころに置かれた足元灯が、淡い橙色の光を落としていた。
その向こうに、離れがある。
そこは、宗一郎が自ら命を絶った場所だと、真壁は言っていた。
悠真が一度も遊んでもらえなかった父親の、最後の部屋。
久遠館の中でも、最も開けてはいけない場所。
「寒い」
笑が小さく言った。
確かに、空気が冷たかった。
夏の夜とは思えない。山の涼しさとも違う。もっと湿っていて、肌の内側へ入り込んでくるような冷たさだった。
柳田が鍵束から一本の鍵を選んだ。
黒ずんだ古い鍵だった。
「この鍵は、いつから柳田さんが持っているんですか」
透が訊いた。
「美沙さんが亡くなる前です」
柳田は鍵を見つめたまま答えた。
「美沙さんが?」
「ええ。あの方は、自分が亡くなる少し前に、私にこれを預けました」
「どうしてですか」
柳田は少しだけ目を伏せた。
「『あの部屋を、簡単に開けさせないでください』と」
「誰に?」
「誰にも」
それだけ言って、柳田は鍵を差し込んだ。
古い鍵穴が、ぎ、と鳴った。
音が大きすぎる気がした。
久遠館全体が、その音を聞いているようだった。
鍵が回る。
ガラス戸が開いた。
外の空気が流れ込む。
渡り廊下は、想像していたよりも長かった。
両側は低い手すりだけで、外に開けている。下には池が広がっていた。月は雲に隠れているが、水面だけは黒い布のように光っている。蓮の葉が、風もないのにわずかに揺れていた。
透は池を見ないようにした。
さっき窓の外で見た、赤いビー玉の光を思い出したくなかった。
「足元に気をつけてください」
真壁が言った。
四人は渡り廊下を進んだ。
歩くたびに、手首の鈴が小さく鳴る。
ちりん。
ちりん。
その音が、夜の水面へ落ちていく。
半分ほど進んだときだった。
池の方から、声がした。
「おとうさん」
笑が立ち止まりかけた。
透は袖を引かれて、一緒に止まりそうになる。
真壁が振り返らずに言った。
「止まらないでください」
声は続いた。
「おとうさん、そっちじゃないよ」
子どもの声だった。
「こっち」
ぽちゃん。
透は見ないようにしていた。
だが、視界の端で赤い光が浮かぶのが見えた。
池の上。
蓮の葉の間。
赤いビー玉が一つ、浮いている。
水に沈むはずのビー玉が、浮いている。
「見ないで」
笑が震える声で言った。
「透、見たらあかん」
「見てへん」
嘘だった。
見ていた。
そして、赤いビー玉の向こうに、小さな白い手が水面から出ているのも見えた。
子どもの手。
手招きしている。
こっち。
こっち。
真壁が鈴を鳴らした。
ちりん。
池の赤い光が消えた。
水面は、ただの黒に戻った。
「急ぎましょう」
柳田の声は硬かった。
渡り廊下を渡りきると、離れの玄関があった。
小さな建物だった。
本館の豪華さとは違い、ひっそりとしている。数寄屋造りの上品な建物だが、今は長く使われていない空気がこもっていた。格子戸の隙間には埃が溜まり、軒先には蜘蛛の巣がかかっている。
柳田が別の鍵を取り出した。
今度の鍵は、さっきよりも細い。
「ここも施錠されているんですね」
透が言った。
「ええ」
「誰も入っていないんですか」
「少なくとも、私たちは」
柳田の言葉に、透は引っかかった。
「私たちは?」
柳田は答えなかった。
代わりに鍵を回した。
格子戸が開いた。
離れの中は暗かった。
真壁の懐中電灯の光が、玄関の床を照らす。小さな土間。古い草履。壁に掛けられた竹の花入れ。枯れたままになった一輪の花。
空気が重い。
建物の中に、時間そのものが腐って溜まっているようだった。
「ここで、宗一郎さんが」
笑は言いかけて、やめた。
真壁がうなずいた。
「奥の書斎です」
四人は靴を脱ぎ、廊下へ上がった。
離れの床板は、本館よりもさらに冷たかった。足元から体温が吸われていく。壁には古い写真が一枚だけ掛かっていた。
透は懐中電灯の光に照らされたその写真を見た。
家族写真だった。
旅館の庭で撮られている。
中央に、背の高い男。
その横に、着物姿の女性。
二人の間に、小さな男の子。
男は厳しい顔をしていた。
笑っていない。
女性は微笑んでいるが、どこか疲れているようにも見える。
男の子だけが、こちらに向かって大きく笑っていた。
「悠真くん……」
笑が呟いた。
写真の中の男の子は、怖くなかった。
ただの子どもだった。
頬が少し丸く、目が大きい。片手には赤いビー玉が握られている。こちらに見せるように、小さな白い手を胸の前に出していた。
その笑顔を見た瞬間、透の胸が詰まった。
廊下を走る足音。
おとうさん、あそぼ。
みいつけた。
それらの声の向こうに、この子がいた。
確かに生きていた子が。
「かわいい子やったんですね」
笑が言った。
「ええ」
柳田が小さく答えた。
「あの子は、本当に」
その先は続かなかった。
真壁は写真を見ないようにしている。
いや、見られないのかもしれない。
透は写真の男、宗一郎を見た。
厳しそうな顔。
妻に暴力を振るった父。
息子と一度も遊ばなかった父。
横領や不祥事の噂を流され、自ら命を絶った父。
悪い人間だったのだろうか。
そう思う。
だが、写真の中で、宗一郎の左手は、悠真の肩に触れていた。
ほんの少し。
遠慮するように。
慣れていないように。
だが、確かに触れていた。
「この写真」
透は言った。
「宗一郎さん、悠真くんの肩に手を置いてますね」
真壁が初めて写真を見た。
その目が、わずかに揺れた。
「本当ですね」
「知らなかったんですか」
「この写真は、長く見ていませんでした」
真壁の声はかすれていた。
「宗一郎氏は、悠真くんに触れることすらしなかったと、私は思っていました」
「でも、触れてる」
笑が言った。
「不器用やっただけ、なんかな」
その言葉に、柳田が少し顔を歪めた。
「不器用という言葉で済ませてよいことではありません」
「……はい」
笑はすぐにうなずいた。
「分かってます。でも」
笑は写真を見た。
「悠真くんは、そう思いたかったんちゃうかなって」
誰も答えなかった。
廊下の奥で、木が鳴った。
ぎい。
透たちは同時に振り返った。
奥に、閉じられた襖があった。
他の襖よりも少し重そうな、黒い縁の襖。
「書斎です」
柳田が言った。
鍵束から、最後の一本を選ぶ。
その鍵だけ、赤い紐が結ばれていた。
「美沙さんが預けた鍵です」
柳田は襖の横の小さな錠前に鍵を差し込んだ。
手が震えていた。
真壁が手を添えようとしたが、柳田は首を振った。
「私が開けます」
鍵が回った。
かちり。
音がした瞬間、離れの中の空気がさらに冷えた。
襖が開く。
真壁の懐中電灯が中を照らした。
書斎は、驚くほど整っていた。
低い机。壁一面の書棚。古い帳簿。硯箱。万年筆。畳の上に敷かれた座布団。奥には小さな床の間があり、そこに枯れた花が置かれている。
まるで、主が少し席を外しただけのようだった。
だが、その整い方が不自然だった。
長年閉ざされていた部屋にしては、埃が少ない。
誰かが手入れしている。
あるいは。
時間が、この部屋だけ止まっている。
透はそんなことを思った。
「宗一郎氏は、この部屋で亡くなりました」
真壁が言った。
笑が透の袖を強く握った。
「どこで……」
透は訊きかけて、やめた。
知る必要があるのか分からなかった。
柳田が机の前に座った。
「美沙さんは、この部屋を閉じる前、ここで長い時間を過ごしました」
「何をしていたんですか」
透が訊いた。
「分かりません。ただ、この部屋から出てきたとき、美沙さんは私に鍵を渡しました。そして言いました」
柳田は机の引き出しに手をかけた。
「『あの人の最後の言葉を、誰にも汚させたくない』と」
引き出しが開いた。
中には、古い封筒が入っていた。
白い封筒。
表には何も書かれていない。
だが、裏側には赤い糸が巻かれていた。
透は息を飲んだ。
お守りと同じ赤い糸。
「これが」
柳田の声が震えた。
「宗一郎氏の遺書です」
真壁が一歩近づいた。
「残っていたのか」
「ええ」
柳田は真壁を見た。
「私は、あなたにも見せませんでした」
「なぜ」
「あなたは、自分を責めすぎるからです」
真壁は何も言わなかった。
柳田は封筒を透たちの前に置いた。
「開けてもいいんですか」
笑が訊いた。
「本来なら、私たちが開けるべきではありません」
柳田は言った。
「でも今夜、あの子があなたたちをここへ呼んだのだとしたら、それはこの遺書を読ませるためかもしれません」
「悠真くんが?」
「あるいは、美沙さんが」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
美沙。
これまで、母親は語られる存在だった。
暴力を受けた妻。
息子を愛した母。
夫の後を追った女性。
だが、彼女にも意思があった。
この鍵を柳田に託し、遺書を守らせた。
そして今、その遺書が目の前にある。
透は封筒を見た。
赤い糸は固く結ばれている。
真壁に渡されたお守りと同じ感覚があった。
「これ、開けたら何か起きませんか」
透が言った。
真壁は鈴を握りしめた。
「起きるかもしれません」
「じゃあ」
「ですが、読まなければ進めません」
そのとき、部屋の外から声がした。
「読んで」
子どもの声ではなかった。
女性の声だった。
細く、疲れた、けれど優しい声。
柳田の顔色が変わった。
「美沙さん……」
笑が震えた。
真壁は静かに目を閉じた。
透は襖の方を見た。
廊下には誰もいない。
だが、今の声は確かに聞こえた。
読んで。
それは命令ではなかった。お願いだった。
柳田が封筒の赤い糸をほどいた。
指先が震えている。
糸は、不思議なほど簡単にほどけた。
封筒の中から、一枚の便箋が出てきた。
古い紙に万年筆で書かれた文字があった。
達筆だが、ところどころ乱れている。
柳田が読み上げようとしたが、声が出なかった。
真壁も動けない。
透は便箋を見た。
「僕が読みます」
自分で言ってから、怖くなった。
だが、もう引けなかった。
透は便箋を受け取った。
紙は冷たかった。
まるで、長い間誰にも触れられなかったものの冷たさだった。
透は読み始めた。
「美沙へ。悠真へ」
その名前を口にした瞬間、部屋の中の空気が震えた。
「私は、間違えた」
透の声が、自分の声ではないように聞こえた。
「旅館を守ることが、家族を守ることだと思っていた。客を迎え、従業員を食わせ、借金を返し、久遠の名を世に残すことが、おまえたちのためになると信じていた」
笑は黙って聞いていた。
柳田は目を伏せている。
真壁は拳を握っていた。
「だが、結局私は何も守れなかった。美沙、おまえを傷つけた。悠真、おまえの声を聞かなかった。遊ぼうと言われるたび、あとでと言った。そのあとでが、もう来ないことを、私は知っていたのに」
透は一度、言葉に詰まった。
その一文が、胸に刺さった。
そのあとでが、もう来ないことを、私は知っていたのに。
宗一郎は、知らなかったわけではない。
分かっていた。
自分が約束を守らないことを。
息子を待たせていることを。
それでも、変われなかった。
透は続きを読んだ。
「私は、おまえと遊ぶのが怖かった。どう笑えばいいのか、どう抱きしめればいいのか、分からなかった。私も私の父にそうされたことがなかったからだ。だから仕事へ逃げた。忙しいふりをして、おまえの前から逃げた」
笑が小さく息を飲んだ。
「それは言い訳にもならない。ただ、謝りたい。すまない。美沙、すまない。悠真、すまない」
部屋のどこかで、ぱた、と音がした。
小さな足音。
透は読み続けた。
「噂のことは、私にも分からない。私が犯した罪はある。だが、横領も、不正取引も、私の知らないところで形を変え、膨らんでいった。誰が何のために流したのか、今はもう追う力もない」
黒瀬。
透の頭にその名前が浮かんだ。
「もし、私が死んだ後、久遠館が誰かに奪われるなら、それは私の弱さのせいだ。だが、悠真だけは巻き込まないでほしい。あの子には何の罪もない」
柳田が顔を覆った。
真壁は目を見開いた。
「悠真へ」
透は読んだ。
「お父さんは、おまえと一度だけでも遊べばよかった。池のそばでビー玉を転がすだけでもよかった。かくれんぼで、おまえを見つけるだけでもよかった。おまえが笑う顔を、もっと見ればよかった」
便箋の文字が、そこで大きく乱れていた。
透は息を整えた。
「もし次に会えるなら、そのときは、必ず見つける」
その瞬間、廊下の奥で子どもの声がした。
「ほんとう?」
全員が凍りついた。
透は便箋を握ったまま、顔を上げた。
襖の向こう。
廊下の暗がり。
そこに、小さな影が立っていた。
白い寝巻きに小さな体。
悠真。
写真の中の男の子と同じ輪郭。
顔は暗くて見えない。
「おとうさん、ほんとうにみつけてくれるの?」
声は泣いていた。
怒っているのではない。
脅しているのでもない。
ただ、長い間待ち続けた子どもの声だった。
笑が泣きそうな顔をした。
透は動けなかった。
真壁が鈴を鳴らそうとした。
その瞬間、影が言った。
「ならさないで」
真壁の手が止まった。
「それ、きらい」
悠真の影は、廊下の奥へ一歩下がった。
「おとうさん、かくれんぼ、まだおわってないよ」
そして、別の声がした。
力の声だった。
「透」
続いて、悟の声。
「早く来いよ」
二つの声は、離れのさらに奥から聞こえた。
この書斎の先。
宗一郎が死んだ部屋の、さらに向こう。
「どこにいるの」
笑が思わず言った。
悠真の影が、笑の方を向いた。
「いったら、かくれんぼにならないよ」
声が少しだけ笑った。
次の瞬間、書斎の灯りがついた。
誰もスイッチには触れていない。
古い電球が、じじじ、と音を立てて淡く光った。
明かりに照らされて、廊下の影は消えた。
悠真も消えた。
だが、机の上には、さっきまでなかったものが置かれていた。
赤いビー玉。
その横に、小さな紙切れ。
透は紙切れを手に取った。
子どもの字だった。
たどたどしい、鉛筆の字。
そこには、こう書かれていた。
――おとうさんへ
ぼくをみつけてください。
透は紙を握りしめた。
その裏にも、何か書いてあった。
――おにさんは、あとひとり。
笑が震えた声で言った。
「あとひとりって……」
透は答えられなかった。
分かっていた。
力が消えた。
悟が消えた。
男は、あと一人。
透だけだった。
そのとき、離れの奥で襖が開く音がした。
すう、と。
ゆっくり。
誰かが、次の部屋を開けた。
真壁が低く言った。
「始まってしまいました」
「何がですか」
透は訊いた。
真壁は答えた。
「最後のかくれんぼです」
廊下の奥から、子どもの声が響いた。
「じゅう、かぞえて」
透の口が、勝手に動きそうになった。
いーち。
そう言いそうになるのを、必死で噛み殺した。
笑が透の手を強く握った。
真壁が鈴を鳴らした。
ちりん。
そして離れの奥から、力と悟の声が重なって聞こえた。
「透」
「見つけてくれ」
透は目を閉じた。
怖い。
怖くてたまらない。
それでも、目を開けた。
「行く」
自分の声だった。
今度こそ、自分の声だった。
透は宗一郎の遺書を胸元にしまった。
そして、離れの奥へ向かって歩き出した。




