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みいつけた  作者: 紙とペン


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7/9

 離れへ向かう。

 真壁がそう言ったとき、透はすぐに立ち上がれなかった。

 行かなければならないことは分かっていた。力と悟を見つけるためには、今夜のうちに動くしかない。朝を待てば助かるという保証はどこにもない。むしろ、あの子どもの声が「今夜のうちに」と真壁に言わせたような気さえした。

 けれど、体が動かない。

 怖いのだ。

 自分の中にある恐怖が、はっきりと形を持っていた。喉の奥に硬いものが詰まり、胸のあたりが冷たくなる。手首に巻いた鈴つきの赤い紐が、皮膚に触れているだけで痛いように感じる。

 自分は漫画の主人公でも、探偵でも、勇敢な人間でもない。

 ただの中学生だ。

 怪談を面白がって、旅行気分でここへ来た。

 そして友達が二人消えた。

 こんなことに、自分たちだけで立ち向かえるはずがない。

「少し、待ってください」

 透は言った。

 真壁が振り返る。

「どうしました」

「柳田さんにも、話を聞きたいです」

 真壁の表情がわずかに固くなった。

 それを見て、透は自分の判断が間違っていなかったと感じた。

「今は時間がありません」

「分かっています。でも、真壁さんだけの話で離れに行くのは危ないと思います」

「私を疑っているのですか」

「はい」

 透は正直に答えた。

 笑が透を見た。

 驚いた顔だったが、止めはしなかった。

 真壁は黙っていた。

「真壁さんは、悠真くんがいた施設の施設長だったことを隠していました。久遠館を横取りしたかもしれない男のことも、こちらが訊くまで言わなかった。まだ何か隠していますよね」

 真壁は目を伏せた。

「隠していることはあります」

 あっさりと認めた。

 そのことが、かえって不気味だった。

「ですが、それを今すべて話すことが、皆さまを救うことにつながるとは限りません」

「それを決めるのは真壁さんじゃありません」

 透の声は震えていた。

 それでも、言った。

「僕たちは、もう巻き込まれてます。何も知らないまま動く方が危ない」

 真壁は長い息を吐いた。

 疲れ切った老人のようだった。

「柳田に、何を聞くつもりですか」

「真壁さんが語らなかったことです」

「彼女が知っているとは限りません」

「知っているから、真壁さんは嫌なんじゃないですか」

 また沈黙が流れた。

 廊下の外で、木が軋む音がした。

 

 ぎい。

 

 誰かが床板を踏んだようにも聞こえた。

 笑が透の袖をつかんだ。

「透」

「大丈夫」

 透は自分に言い聞かせるようにそう言った。

 ここで引いたら駄目だと思った。

 この旅館には、幽霊だけではなく、大人たちの嘘も棲んでいる。

 そして、幽霊よりも人間の嘘の方が、きっと根が深い。

「分かりました」

 真壁は言った。

「柳田を呼びましょう」

 真壁は立ち上がり、襖を開けた。

 廊下は静かだった。

 さっきまでの足音も、子どもの声も、ビー玉の音もない。あまりにも静かで、逆に耳が痛くなる。

「ここを動かないでください」

 真壁はそう言い残して廊下へ出た。

 透と笑は部屋に残された。

 二人きりになると、怖さが少し違う形になった。

 真壁がいるときは、真壁を疑いながらも、どこかで頼っていた。大人がいる。その事実が、薄い壁のように恐怖を遮っていた。

 その壁がなくなると、久遠館の夜は一気に近づいてきた。

 笑は座卓の前に座り込んだ。

「透、すごいな」

「何が」

「あんなふうに真壁さんに言えるの」

「怖いからやで」

「怖いから?」

「怖いから、知らないまま行きたくないんや」

 透は力のスマホを見た。

 電源は落ちている。

 何度ボタンを押しても、もう反応しなかった。

 あの動画の中で、力の声が言っていた。

 

 おまえが鬼やで。

 

 透は自分の手首の鈴を見た。

 

 ちりん。

 

 少し動いただけで鳴る。

 鬼。

 見つける役。

 悠真は、誰かに見つけてほしいのか。

 それとも、誰かを見つけて連れていきたいのか。

「なあ、透」

 笑が小さく言った。

「私、力のことも悟のことも助けたい」

「うん」

「でも、本音言うと、透まで消えたらどうしようって、そればっかり考えてる」

 透は笑を見た。

 笑は俯いていた。

「男の子と遊びたがるって、真壁さん言ってたやん。透も男やん。次、透やったらどうしようって」

「僕も考えたよ」

「やんな」

「うん」

「それでも行くん?」

 透はすぐには答えられなかった。

 行く、と簡単に言えるほど強くはない。

 行かない、と言えるほど薄情にもなれない。

 しばらく考えてから、透は言った。

「笑が止めたら、たぶん行かれへん」

「え?」

「僕一人なら無理やと思う。怖すぎる。でも、笑が一緒に来てくれるなら、行ける気がするわ」

 笑は顔を上げた。

「それ、私に責任押しつけてない?」

「ちょっとな」

「最低やな」

 笑は少しだけ笑った。

 泣いた後の、弱い笑顔だった。

「でも、ええよ。私も一人やったら無理やし」

 二人は少しだけ黙った。

 力と悟がいないだけで、部屋はこんなにも広い。

 さっきまで四人で食事をした場所なのに、今はまるで別の部屋のようだった。

 そのとき、襖の向こうから足音が聞こえた。

 ゆっくり近づいてくる。

 大人の足音。

 真壁だ。

 そう思ったが、透は油断しなかった。

 この館では、声も姿も信じきれない。

「どなたですか」

 透は訊いた。

 足音が止まった。

「柳田です」

 低く、かすれた女性の声。

 次いで、真壁の声がした。

「私もおります」

 透は襖を開けた。

 真壁と柳田が立っていた。

 柳田は先ほどと同じ紺色の作務衣姿だったが、表情は夕食のときよりも硬かった。顔色が悪い。目の下に影がある。

「お話があると伺いました」

 柳田はそう言って、部屋に入った。

 真壁は襖の近くに座った。

 柳田は座卓を挟んで透たちの向かいに正座した。

「何をお聞きになりたいのでしょうか」

 柳田が言った。

 その声は、真壁よりもずっと直接的だった。

 愛想はなく、嘘をつくのが苦手そうな声だった。

「久遠館のことです」

 透は言った。

「真壁さんが話していないことを聞きたいです」

 柳田は真壁を見た。

「どこまで話したんですか」

「悠真くんのことは」

 真壁が答えた。

「施設のことも、少し」

「そうですか」

 柳田は小さく息を吐いた。

「では、もう隠しても仕方ありませんね」

 真壁は何も言わなかった。

 柳田は透たちに向き直った。

「真壁は、悪い人ではありません」

 それは、真壁をかばう言葉だった。

 だが、透には分かった。

 その言葉の後には、必ず逆の言葉が続く。

「ですが、真壁は自分を許していません」

「悠真くんの失踪のことでですか」

「はい」

 柳田はうなずいた。

「悠真くんが施設から消えた夜、当直だったのは真壁でした」

 透は真壁を見た。

 真壁は目を閉じている。

「悠真くんは、その日の夕方から落ち着きがなかったそうです。何度も玄関へ行き、誰かを待っていた。真壁が訊くと、『おじさんがくる』と答えたそうです」

「おじさん?」

 笑が訊いた。

「久遠館を手に入れた男ですか」

「当時はまだ、完全には手に入れていませんでした。ただ、久遠館の債権や土地の話に関わっていた人間です」

「名前は?」

 透が訊いた。

 柳田は真壁を見た。

 真壁は小さくうなずいた。

「黒瀬という男です」

 柳田は言った。

「黒瀬隆文。町の外から来た実業家でした。観光開発だの地域再生だの、口では立派なことを言っていましたが、要するに久遠館の土地と温泉権が欲しかったのでしょう」

 黒瀬。

 初めて出てきた名前だった。

 透はその名前を心の中で繰り返した。

 久遠宗一郎。

 美沙。

 悠真。

 真壁。

 柳田。

 そして黒瀬。

 少しずつ、人間関係の輪郭が見えてくる。

 だが、見えれば見えるほど、怖さは増していく。

「黒瀬は悠真くんに近づいていたんですか」

「ええ」

 柳田の声が硬くなった。

「父親を亡くしたばかりの子どもに、大人の男が優しくする。遊ぼうと言う。お菓子を渡す。ビー玉を渡す。悠真くんは、すぐになついたそうです」

「最低や」

 笑が低く言った。

「そうですね」

 柳田は否定しなかった。

「黒瀬が本当に悠真くんを利用しようとしていたのか、それとも少しは情があったのか、私には分かりません。ただ、悠真くんにとっては、父親の代わりでした」

 父親の代わり。

 その言葉は重かった。

 悠真は実の父親に遊んでもらえなかった。

 その父親は死んだ。

 母親も死んだ。

 そして現れた、父親に似た男。

 遊ぼうと約束してくれる男。

 その男が、もし久遠館を奪おうとした張本人なら。

 悠真の中で、愛情と憎しみは分けられなかっただろう。

「黒瀬はその日、施設に来る予定だったんですか」

 透が訊いた。

「いいえ」

 柳田は首を振った。

「正式な予定はありませんでした。けれど悠真くんは、来ると言い張ったそうです。『おじさんが、むかえにくる』と」

「迎えに?」

 笑の声が震えた。

「どこへ連れていくつもりだったんですか」

「久遠館です」

 柳田は言った。

「悠真くんは、久遠館に帰りたがっていました」

「でも、施設の子どもを勝手に連れ出すなんてできないですよね」

「普通はできません」

「じゃあ、黒瀬は来なかった?」

「来ていないことになっています」

 柳田の言い方が引っかかった。

「ことになっている?」

「記録上は、来ていません」

「本当は?」

 柳田は唇を結んだ。

「真壁さんは、その夜、施設の門の外で黒い車を見たそうです」

 真壁は黙っていた。

「黒瀬の車ですか」

「おそらく」

「警察には?」

「言いました。ですが、証拠はありませんでした。監視カメラも今ほど多くない時代です。車を見たというだけでは、どうにもならなかった」

「黒瀬は否定したんですか」

「ええ。自分はその夜、町にはいなかったと」

「アリバイは?」

「ありました」

「作ったんですね」

 透が言うと、柳田は少しだけ驚いた顔をした。

「あなた、本当に中学生ですか?」

「そうです。ただ、アリバイを作ったと考えるしか話が合わないと思っただけです」

 透は自分でも少し驚いていた。

 怖いのは確かだが、話を聞くほど頭が回り始めていた。

 目の前の怪異を何とか理解したい。

 それが幽霊でも、人間でも、両方でもいい。

 筋道が見えれば、怖さに呑まれずに済む気がした。

「黒瀬は、久遠館を手に入れたんですか」

「一時的には」

 柳田が答えた。

「宗一郎氏の死後、久遠家にはこの久遠館を建てたときの借金が残りました。美沙さんも亡くなり、悠真くんは施設へ。権利関係は複雑になり、黒瀬はそこへ入り込んだ」

「じゃあ今の主は黒瀬なんですか」

「いいえ」

 柳田は首を振った。

「黒瀬は長く持てませんでした」

「怪奇現象で?」

「それもあります。黒瀬が久遠館を改装しようとした頃から、事故が続きました。作業員が階段から落ちる。図面が消える。夜、重機のエンジンが勝手にかかる。池に赤いビー玉が浮かぶ」

 笑が肩を震わせた。

「でも、それだけではありません」

 柳田は続けた。

「黒瀬自身が、おかしくなっていったそうです」

「おかしく?」

「夜中に、子どもの声がすると言うようになった。寝ていると布団の中に小さな手が入ってくる。廊下で『おとうさん』と呼ばれる。鏡を見ると、自分の後ろに六歳くらいの男の子が立っている」

 透は想像したくなかった。

 それでも、頭の中に浮かんでしまう。

 鏡の中。

 大人の男の背後に立つ、白い寝巻きの男の子。

 おとうさん。

 あそぼ。

「黒瀬は、久遠館を手放しました。その後、町を離れました」

「死んだんですか」

 悟なら、そう訊いたかもしれない。

 だが、今訊いたのは透だった。

 柳田は首を横に振った。

「生きているはずです」

「どこに?」

「分かりません。少なくとも、この町からはいなくなりました」

「じゃあ、まだ真相は分かってないんですね」

「ええ」

 柳田は真壁を見た。

「真壁さんは、その後、施設を辞めました」

 真壁の肩がわずかに動いた。

「なぜですか」

 透が訊いた。

 答えたのは柳田だった。

「悠真くんを守れなかったからです」

 部屋が静まり返った。

「真壁さんは、自分のせいだと思っています。あの夜、もっと注意していれば。悠真くんの言葉を、ただの子どもの思い込みだと決めつけなければ。黒い車を見たとき、すぐに追いかけていれば。そう思い続けています」

「それで久遠館に?」

「はい。黒瀬が手放した後、この館は誰も引き取りませんでした。取り壊しの話も出ましたが、事故が続いて進まない。町の人も、ここを恐れるようになった。真壁さんは、私財を投じて久遠館を引き取りました」

「悠真くんのために?」

「それだけではありません」

 柳田の声は厳しかった。

「自分を罰するためでもあります」

 真壁は黙っていた。

 その沈黙が、認めているように見えた。

 透は真壁を見た。

 この人は、久遠館を守っている。

 けれど同時に、久遠館に閉じ込められている。

 悠真の幽霊と同じように。

 罪悪感という、目に見えない鎖で。

「柳田さんは、どうしてここに?」

 笑が訊いた。

 柳田は少しだけ目を伏せた。

「私は昔、久遠館で働いていました」

「昔?」

「宗一郎氏の時代です。若い頃、仲居としてここにいました」

「じゃあ、悠真くんのことも」

「知っています」

 柳田の声が少し柔らかくなった。

「あの子は、よく厨房へ来ました。母親に隠れて、甘い卵焼きをつまみに来るんです。私が見つけると、口に手を当てて、ないしょね、と言う」

 柳田の表情が、初めて人間らしく緩んだ。

 だが、その緩みはすぐに消えた。

「ただ、私たちは見て見ぬふりをしていました」

「何をですか」

 笑が訊いた。

「宗一郎氏が、美沙さんに手を上げることを」

 空気が冷えた。

「誰も止めなかったんですか」

「止められませんでした」

 柳田は言った。

 言い訳ではなく、後悔に似た口調だった。

「宗一郎氏は、この館そのものでした。彼に逆らえば、ここでは働けない。家族を養えない。皆、分かっていて黙っていた。私も同じです」

「悠真くんは、それを見てた」

「はい」

「助けられたかもしれないのに」

 笑の声には怒りがあった。

 柳田は頭を下げた。

「その通りです」

 笑はそれ以上言えなくなった。

 透も黙っていた。

 大人は、いつも理由を持っている。

 仕事がある。

 生活がある。

 立場がある。

 自分だけでは変えられない。

 そういう理由だ。

 それは嘘ではないのだろう。

 けれど、その理由の陰で、子どもは傷つく。

 悠真は、きっと大人たちを見ていた。

 誰も母親を助けないことを。

 誰も父親に逆らわないことを。

 誰も自分と本気で遊んでくれないことを。

「悠真くんは」

 柳田が言った。

「あの子も、悪い子ではありませんでした」

 その言葉は、これまで何度も聞いた気がした。

 悪い子ではない。

 寂しかっただけ。

 遊びたかっただけ。

 だが、その子が今、力と悟を連れていった。

 悪意がないから許されるのか。

 子どもだから仕方ないのか。

 透には分からなかった。

「でも、今の悠真くんは危険です」

 柳田は続けた。

「真壁さんは、まだあの子を救えると思っています。でも私は、そう簡単ではないと思っています」

「柳田」

 真壁が初めて口を挟んだ。

「いいえ、言います」

 柳田は真壁を見た。

「あなたは優しすぎます。あの子が寂しかったことも、傷ついていたことも事実です。でも、あの子はもう、生きていた頃の悠真くんではありません」

 真壁は何も言わなかった。

「この館に残っているものは、悠真くんの寂しさだけではない。宗一郎氏の後悔、美沙さんの絶望、黒瀬への憎しみ、私たち従業員の罪悪感。そういうものが全部、この館には染み込んでしまっています」

 柳田の声は震えていた。

「だから、今聞こえる子どもの声が、本当に悠真くんだけのものなのか、私には分かりません」

 透は息を飲んだ。

 それは、考えていなかった。

 幽霊は悠真。

 そう決めつけていた。

 けれど、もし違うなら。

 悠真の形を借りた、別の何かがいるのなら。

「じゃあ、力と悟は」

 笑の声が震えた。

「助かるんですか」

 柳田はすぐには答えなかった。

「助けに行くしかありません」

 それは答えではなかった。

 だが、嘘でもなかった。

 真壁は静かに立ち上がった。

「時間がありません」

 今度は、透も引き止めなかった。

 必要なことは聞けたが、残された謎はまだ多かった。

 黒瀬や宗一郎の遺書、悠真の失踪の原因など真壁がまだ隠していることはあった。

 だが、それでも今は先へ進むしかなかった。

「柳田も来てくれるか」

 真壁が訊いた。

 柳田はうなずいた。

「もちろんです」

 柳田はそう言って、懐から古い鍵束を取り出した。

 いくつもの鍵が、銀色に鈍く光っている。

「離れへ行くなら、私が必要です」

「鍵ですか」

 透が訊いた。

「ええ」

 柳田は鍵束を握った。

「宗一郎氏の部屋は、今も閉じられています」

「誰が閉じたんですか」

 透が訊くと、柳田は短く答えた。

「美沙さんです」

 その名前が出た瞬間、窓の外で何かが揺れた。

 風ではない。

 池の方から、かすかな音がした。

 

 ぽちゃん。

 

 水面に何かが落ちる音。

 全員が窓を見た。

 暗いガラスの向こうに、池は見えない。

 けれど音は続いた。

 

 ぽちゃん。

 

 ぽちゃん。

 

 何かが一つずつ、水に投げ込まれている。

 柳田が窓に近づき、障子を少し開けた。

 外の闇が流れ込んできた。

 池の方に、赤い光がいくつも浮かんでいた。

 赤いビー玉だった。

 水面に浮かぶはずのないビー玉が、蓮の葉の間でぼんやり光っている。

 

 一つ。

 二つ。

 三つ。


 そして、その向こう。

 池のほとりに、小さな人影が立っていた。

 白い寝巻きの男の子。

 その隣に、もう一人。

 背の高い影。

 力か、悟か。

 暗くて分からない。

 男の子は、こちらを見上げていた。

 そして、口を動かした。

 声は聞こえなかった。

 けれど、透には何と言ったのか分かった。

 

 ――はやく。

 

 次の瞬間、池の赤い光が一斉に消えた。

 部屋はまた、静けさに沈んだ。

 柳田は障子を閉めた。

 真壁は鈴を握りしめている。

 透は立ち上がった。

 笑も立ち上がった。

 もう、行くしかない。

 離れへ。宗一郎の部屋へ。

 悠真が父親を待ち続けている場所へ。

 柳田の鍵束が、かすかに鳴った。

 

 ちゃり。

 

 その音に重なるように、廊下の奥から子どもの声がした。

「おとうさん、まだ?」

 透は息を呑んだ。

 そして、初めてその声から逃げずに、廊下の方を見た。

「行こう」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 笑に。

 真壁に。

 柳田に。

 消えた二人に。

 それとも、見つけてほしくて泣いている、あの子に。

 四人は部屋を出た。

 久遠館の夜は、さらに深くなっていた。

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