六
力が消えた後、誰もすぐには動けなかった。
廊下には、割れたスマホだけが落ちていた。
画面には録画中を示す赤い点が残っている。ひび割れたガラスの向こうで、黒い映像が揺れていた。音声だけが生きているのか、スピーカーから小さな雑音が漏れている。
ざあ、ざあ。
風の音にも、水の音にも聞こえた。
あるいは、誰かが暗闇の中で息をしている音のようにも聞こえた。
「力……?」
笑が小さく呼んだ。
返事はなかった。
呼んではいけない。
さっき真壁はそう言った。名前を呼ばれても返事をするな、と。
けれど、こちらから呼ぶことも危ないのかどうかは分からない。分からないからこそ、透は笑の肩に手を置いた。
「今は、やめよう」
笑は唇を噛んだ。
「でも、力が」
「分かってる」
「分かってへん」
笑の声が震えた。
「分かってたら、止められへんやん。探しに行かなあかんやん。今、あいつ一人やねんで」
透は何も言えなかった。
笑の言うことは正しい。
力は一人で消えた。どこにいるのか分からない。怖がっているかもしれない。怪我をしているかもしれない。助けを求めているかもしれない。
それでも、今すぐ暗闇の奥へ飛び込むことが正しいとは思えなかった。
ただ走れば助けられるというのなら、とっくに走っている。
けれど、ここではそうではない。
久遠館では、見えているものと聞こえているものとを、そのまま信じられない。
「真壁さん」
透は言った。
「力はどこへ行ったんですか」
真壁は遊戯室の前に立ち尽くしていた。
懐中電灯の光は畳の上の赤いビー玉を照らしている。数えきれないほどのビー玉は、さっきまで一斉に転がっていたのが嘘のように静止していた。
その部屋の奥に、悟の姿はもうなかった。
力だけではない。
悟も、消えていた。
「分かりません」
真壁は答えた。
その答えに、透の中で何かが切れかけた。
「また分からないんですか」
「透」
笑が止めるように言った。
だが、透は続けた。
「さっきから、真壁さんは危ないって言うだけです。行くな、開けるな、返事するな。でも、何が起きるのかは言わない。どうすれば助かるのかも言わない」
真壁は何も言わなかった。
「本当に知らないんですか。それとも、知ってるけど言えないんですか」
廊下の空気が重くなる。
笑は透と真壁を交互に見ていた。
真壁は少しの間、黙っていた。
そして、落ちているスマホに視線を落とした。
「まずは、その記録を確認しましょう」
「記録?」
「力さんが撮影していたのでしょう」
真壁はかがみ、スマホを拾おうとした。
「待ってください」
透は反射的に言った。
真壁の手が止まる。
「それは力のスマホです」
「ええ」
「勝手に触らないでください」
真壁は透を見た。
表情はいつものように静かだった。
だが、目の奥に疲れが見えていた。
「では、あなたが」
透はうなずいた。
廊下に膝をつき、力のスマホを拾った。画面のひびが指に引っかかる。ケースの角が少し欠けていた。
録画はまだ続いていた。
透は停止ボタンを押した。
画面に、保存中の表示が出る。
それを待つ数秒が、異様に長く感じられた。
「部屋へ戻りましょう」
真壁が言った。
「ここに長くいるべきではありません」
「力は?」
笑が言った。
「力を置いて戻るんですか」
「探すために戻るのです」
「どういうことですか」
「むやみに歩けば、こちらが見つける前に、向こうに見つけられます」
真壁の言葉に、笑は黙った。
向こう。
それが悠真のことなのか、この館そのもののことなのか、透には分からなかった。
三人は来た廊下を戻った。
さっきまでよりも、廊下はさらに長く感じられた。床板を踏むたび、手首の鈴が鳴る。
ちりん。
ちりん。
その音だけが、自分たちがまだここにいる証拠のようだった。
透は何度も後ろを振り返りたくなった。
だが振り返らなかった。
振り返れば、何かがいる。
そんな気がした。
部屋へ戻ると、常夜灯は元通り点いていた。
さっき消えたはずなのに。
誰もそのことを口にしなかった。
布団は乱れ、座卓はずれていた。枕元に置かれていたはずのお守りは、三つだけ残っている。四つ目はない。
切れたお守りは、真壁が拾った。
けれど、それが誰のものだったのかは、まだ分からない。
透は部屋の中央に座った。
笑は透の隣に座る。
真壁は襖の近くに正座した。
「動画を見ます」
透は言った。
自分に言い聞かせるためでもあった。
見たくはない。
だが、見なければならない。
力が消えた瞬間、何が起きたのか。
悟は本当にそこにいたのか。
遊戯室の奥に見えた悟らしき姿は何だったのか。
少しでも手がかりが欲しかった。
透はスマホを操作し、最新の動画を開いた。
再生ボタンを押す。
画面は、最初から暗かった。
光がゆれ、長い廊下が映され、次に真壁の背中、透と笑の腕。
力がスマホを手に持っていたせいで、映像は不安定だった。
音声に、力の息遣いが入っている。
『さとるー』
動画の中で、力が小さく呼んでいた。
その声を聞いた瞬間、笑の目から涙が落ちた。
透は画面から目を逸らさなかった。
動画の中で、廊下の奥から悟の声がする。
『ちから、こっち』
力の手が揺れる。
画面が真壁の横顔を映す。
真壁が首を横に振っている。
『返事をしてはいけません』
次に映ったのは、遊戯室の襖だった。
古びた襖。
爪で引っかいたような傷。
力の息が荒くなる。
襖が開く。
懐中電灯の光が中へ入る。
赤いビー玉。
無数のビー玉。
その奥に、膝を抱えた人影。
悟に見える。
少なくとも、その場で見た透には悟に見えた。
だが、動画では違った。
「止めて」
笑が言った。
透は一時停止した。
遊戯室の奥。
壊れた木馬の横に座っている人物。
顔は伏せられている。
服装は悟に似ている。
体格も悟と変わらない。
けれど、輪郭が妙にぼやけていた。
まるで、そこだけ映像が滲んでいるようだった。
「これ、悟か?」
透は言った。
笑は答えられなかった。
真壁は画面を見つめている。
「真壁さん」
透は言った。
「これ、悟に見えますか」
「……見えます」
「でも、はっきりしてない」
「はい」
「実際に見たときは、僕には悟に見えました」
「私にも、そう見えました」
真壁の答えは静かだった。
透はその言い方に違和感を覚えた。
悟だった、ではない。
悟に見えた。
真壁は、目で見たものを断言しない。
それは慎重だからなのか。
それとも、過去にも似たことがあったからなのか。
「続けます」
透は再生を再開した。
動画の中で、奥の人影が顔を上げる。
その瞬間、画面全体にノイズが走った。
ざざっ。
顔が見えず、声だけが入る。
『遅い』
それは悟の声に聞こえた。
だが、少し違う。
音が歪んでいる。
高い声と低い声が重なっているようだった。
『ずっと待ってたのに』
笑が両手で口元を押さえた。
動画の中で、真壁が鈴を鳴らす。
ちりん。
その直後、画面の端に何かが映った。
「今の」
透は巻き戻した。
もう一度見る。
画面の右端。
遊戯室の入口のすぐ横。
一瞬だけ、小さな手が映っていた。
白い子どもの手。
襖の陰から出て、すぐに引っ込む。
「いる」
笑が震えた。
「ここにいる」
透はもう一度再生した。
今度は画面を凝視する。
小さな手。
確かに映っている。
だが、その手が出ている場所はおかしかった。
遊戯室の中ではない。
廊下側。
つまり、透たちのすぐ近く。
あのとき、悠真は遊戯室の奥にいたのではない。
すぐそばにいた。
透は背中に汗が流れるのを感じた。
動画は続く。
『それ、きらい』
幼い声。
真壁の顔が強張る。
『おじいちゃん、またじゃまするの?』
ここで、透は動画を止めた。
真壁を見る。
「おじいちゃん」
透は言った。
「悠真くんは、あなたをそう呼んだ」
真壁はすぐには答えなかった。
「聞き間違いではありません」
透は続けた。
「動画にも入っています」
真壁は目を伏せた。
笑も真壁を見ている。
「真壁さん」
笑が言った。
「あなた、悠真くんとどういう関係なんですか」
部屋の外で、風が鳴った。
窓が小さく震える。
真壁は長い間、黙っていた。
そして、ようやく言った。
「私は、悠真くんの祖父ではありません」
「じゃあ、何で」
「そう呼ばれていた時期がありました」
「施設で?」
透が訊いた。
真壁の目がわずかに揺れた。
それが答えだった。
「やっぱり」
透は小さく言った。
「あなたは、悠真くんがいた施設の人なんですね」
笑が息を飲んだ。
真壁は否定しなかった。
「……かつて、児童養護施設で働いておりました」
「職員ですか」
「施設長でした」
その言葉は、静かに落ちた。
透は拳を握った。
やはり隠していた。
自分のことを旅館の主や大資産家と言い、町を守るために久遠館を続けていると
真壁はそう説明していた。
だが本当は、悠真が消えた後の人生に深く関わっていた人物だった。
「どうして最初から言わなかったんですか」
透の声は硬くなった。
「それを話せば、皆さまは私の話を信用しなくなると思いました」
「隠した方が信用できません」
「その通りです」
真壁は深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
笑は黙っていた。
透も、すぐには言葉が出なかった。
謝られても、力と悟は戻らない。
それに、真壁が何をどこまで隠しているのか、まだ分からない。
「悠真くんは、私がいた施設に来ました」
真壁は話し始めた。
「父を失い、母を失い、親戚からも距離を置かれ、久遠という名前ごと世間から避けられていました。彼はまだ七歳でしたが、あの子は、泣きませんでした」
「泣かなかった?」
「はい。最初の数日、彼は一度も泣きませんでした。怒りもしませんでした。食事もほとんど食べず、夜も眠らず、ただ窓の外を見ていました」
真壁の声は、先ほどの昔話よりも明らかに重かった。
これは聞いた話ではない。
見た話だ。
真壁自身の記憶なのだ。
「ある日、私は彼にビー玉を渡しました。赤いビー玉です。昔ながらの、ガラスの中に白い筋が入ったものです」
透は座卓の上を見た。
ビー玉はない。
だが、あるような気がした。
赤い光が、まだ部屋のどこかに残っているようだった。
「あの子は、それをとても気に入りました。少しずつ他の子どもたちと遊ぶようにもなりました。特にかくれんぼが好きでした」
「だから、おじいちゃん?」
笑が訊いた。
「私は当時、今よりは見た目も若かったのですが、子どもたちからはそう呼ばれることがありました。悠真くんも、いつの間にか私をそう呼ぶようになりました」
「それで、悠真くんはどうして失踪したんですか」
透は訊いた。
真壁の表情が硬くなった。
「その日は、夏祭りの前日でした」
「夏祭り?」
「町の小さな祭りです。施設の子どもたちも楽しみにしていました。悠真くんも、行きたがっていた」
「行けなかったんですか」
「はい」
「どうして」
真壁は答えに詰まった。
その沈黙に、透はまた嫌なものを感じた。
真壁は何かを選んでいる。
どこまで話すかを。
「悠真くんは、ある男に会いたがっていました」
「男?」
「父親に似た男です」
笑が眉をひそめた。
「どういうことですか」
「施設の行事に協力していた男性がいました。地元の有力者で、寄付もしてくださっていた。悠真くんは、その人をとても慕っていました」
「父親代わりみたいに?」
「そうです」
真壁の声がかすれた。
「その男性は、悠真くんと遊ぶ約束をしました。祭りの前日に、ビー玉で遊ぼうと。けれど、その人は来なかった」
透は胸の奥が重くなるのを感じた。
あとで。
また同じだ。
父親に言われ続けた言葉。
そして今度は、父親に似た男にも約束を破られた。
「悠真くんは、その日、施設から姿を消しました」
「その男を探しに行ったんですか」
「そうかもしれません」
「その男は誰ですか」
真壁は黙った。
「真壁さん」
透は強く言った。
「力と悟が消えてるんです。隠さないでください」
真壁の手が膝の上で震えた。
「その男は、後に久遠館の権利を取得した人物です」
透は息を止めた。
「つまり、それって」
「前から久遠館を欲しがっていた男です」
笑の顔色が変わった。
「じゃあ、その人が、久遠さんの悪い噂を流したんですか」
「確証はありません」
「でも、疑ってるんですね」
「はい」
真壁は初めて、はっきりとうなずいた。
「宗一郎氏が妻に暴力を振るっていたことは、おそらく事実です。彼は決して良い父、良い夫ではありませんでした。けれど、横領や不正の話には、不自然な点が多かった」
「旅館を奪うために、噂を流した」
透が言った。
「可能性があります」
「悠真くんは、それを知っていたんですか」
「分かりません。ただ、子どもは大人が思うより、よく見ています」
真壁は窓の方を見た。
暗いガラスに、くたびれた横顔が映っている。
「悠真くんは、その男性を慕っていた。同時に、憎んでいたのかもしれません。父に似た人。遊ぶと約束してくれた人。けれど、父の旅館を奪ったかもしれない人」
「ぐちゃぐちゃですね」
笑が小さく言った。
「はい」
真壁はうなずいた。
「本当のことは、いつもぐちゃぐちゃです」
その言葉を聞いて、透は悟の言葉を思い出した。
話がきれいすぎる。
本当のことは、もっとぐちゃぐちゃしてるやろ。
悟は正しかった。
少なくとも、そこまでは。
「でも」
透は言った。
「その話と、今の僕たちに何の関係があるんですか。どうして悠真くんは、力や悟を連れて行くんですか」
真壁は透を見た。
「悠真くんは、男の人と遊びたがります」
部屋の空気が冷えた。
「父親と遊べなかったから?」
「それもあるでしょう」
「それだけじゃない?」
「父に似た人に、もう一度約束を守ってほしいのだと思います」
透は言葉を失った。
父親。
父親に似た男。
男子中学生三人。
透、悟、力。
そのうち二人が消えた。
残っている男は、自分だけ。
その事実に気づいた瞬間、透は足元から冷たくなった。
笑も同じことに気づいたらしい。
「透……」
笑が透の腕をつかんだ。
「大丈夫」
透は言った。
大丈夫なはずはなかった。
それでも、そう言うしかなかった。
そのとき、力のスマホが勝手に再生を再開した。
誰も触れていない。
画面が暗いまま、音声だけが流れる。
ざあ、ざあ。
雑音の奥に、力の声が聞こえた。
『おーい』
笑が立ち上がりかけた。
透が止める。
スマホの中で、力が笑っていた。
『こっち、めっちゃ広いで』
「力?」
笑が声を出しかけて、口を押さえた。
力の声は続く。
『悟もおる。大丈夫や。透、笑、早く来いよ』
透はスマホを見つめた。
画面は真っ暗なままだ。
映像はない。
声だけ。
確かに力の声だ。けれど、何かが違う。
力はそんな言い方をしない。
笑を危ない場所へ呼ぶとき、あんなに軽く誘わない。
あれは力の声を使っているだけだ。
そう分かっているのに、胸の奥が揺れた。
本当に力だったら。
助けを求めていたら。
悟もそこにいるなら。
『なあ、透』
スマホの中の力が言った。
『おまえが鬼やで』
その瞬間、画面に映像が戻った。
暗闇の中に、廊下が映っている。
古い襖と赤いビー玉。
そして、遠くに立つ二つの人影。
一つは力のように見えた。
もう一つは悟のように見えた。
二人は廊下の奥で、こちらに背を向けている。
画面の奥から、子どもの声がした。
『じゅう、かぞえて』
透の手首の鈴が、ひとりでに鳴った。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
真壁が叫んだ。
「見てはいけない!」
だが、遅かった。
透は画面を見ていた。
スマホの中の廊下の奥で、力と悟らしき二つの影が同時に振り返った。
その顔は、どちらも真っ黒に塗りつぶされていた。
ただ、口だけが白く笑っていた。
『もういいよ』
動画が止まった。
スマホの電源が落ちる。
部屋は再び静まり返った。
透の手首の鈴だけが、まだ震えていた。
ちりん。
ちりん。
笑が泣きながら言った。
「もう嫌や……」
真壁は目を閉じた。
そして、低い声で言った。
「今夜のうちに、見つけなければなりません」
「力と悟をですか」
「はい」
「見つけられなかったら?」
透が訊くと、真壁は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
透は力のスマホを握った。
ひび割れた画面は冷たかった。
その冷たさの向こうで、まだ子どもの声が残っているような気がした。
おとうさん。
あそぼ。
じゅう、かぞえて。
透はゆっくり息を吸った。
怖い。逃げたい。
でも、逃げられない。
このまま朝を待っても、きっと何も解決しない。
力も悟も戻ってこない。
悠真も、誰にも見つけてもらえない。
「行きます」
透は言った。
笑が透を見た。
「透」
「探しに行く」
「私も行く」
「危ないで」
「一人で残る方が無理」
笑の目は赤かった。
けれど、その奥には決意があった。
怖がっている。
泣いている。
それでも、一緒に行くと言っている。
透はうなずいた。
真壁は二人を見た。
「今から向かう場所は、離れです」
その言葉に、部屋の空気がまた重くなった。
撮影禁止であり、真壁が、何度も危険だと言った場所。
「そこに、何があるんですか」
透が訊いた。
真壁は静かに答えた。
「宗一郎氏の部屋です」
風はなかったのに、窓の外で、池の水面が揺れた。
その波紋は、まるで誰かが暗い水の上でビー玉を転がしたように、丸く、赤く、広がっていくように見えた。




