四
その夜、四人はしばらく眠れなかった。
当然だった。
襖の下から転がり込んできた赤いビー玉は、座卓の上に置かれている。誰も触ろうとしなかった。
触りたくなかった。
けれど畳の上に転がしたままにしておくのも嫌だったので、力が割り箸でつまむようにして座卓へ移した。
それは、子どもの玩具にすぎないはずだった。
赤いガラス玉の中に、白い筋が一本。
その白い筋が、見る角度によって形を変える。指のようにも見えたし、口元のようにも見えた。ときには、丸まった小さな背中のようにも見えた。
「これ、どうする?」
力が言った。
「真壁さんに渡す?」
笑が答えた。
「さっき渡したやん」
悟が言った。
「また戻ってきたで」
「じゃあ、もう渡しても意味ないってことやん」
「意味ないからって、ここに置いとくん?」
笑はビー玉から目を逸らした。
「嫌やろ、こんなん」
「嫌やな」
力は素直に認めた。
透は座卓の隅に置かれた四つのお守りを見ていた。
夕食の後、真壁が布団を敷きに来るまで、四人はお守りをそれぞれ手元に持っていた。けれど布団が敷かれた後、真壁に言われた通り、枕元に置くことにした。
四組の布団は、部屋に横一列ではなく、二組ずつ向かい合わせに敷かれていた。真壁は「お好きなところで」と言ったが、四人は何となく決めかねた。
「女子一人やし、笑は奥な」
力が言った。
「奥の方が怖いやん」
「じゃあ真ん中」
「真ん中ってどこ」
結局、窓側に笑、その隣に透。反対側に力、その隣に悟という形になった。
四つのお守りは、それぞれの枕元に置かれた。
その中のどれか一つに、問題があるのかもしれない。
けれど、誰のものなのか分からない。
透は自分のお守りを手に取った。
封筒は破れていない。
糸もほどけていない。
ただ、触れるたびに、少し湿っているような気がした。赤い糸だけが、汗でも水でもない何かを吸っているように感じる。
「なあ」
力が小声で言った。
「これ、やっぱ撮った方がええよな?」
「何を?」
笑が即座に警戒した。
「部屋の中や。寝てる間に何か起こるかもしれんやん。スマホ立てかけて、ずっと録画しとく」
「嫌や」
「何で」
「寝顔撮られるの嫌やし、もしほんまに何か映ったらもっと嫌やから」
「何も映らんかったら安心できるで」
「映ったら?」
「バズる」
「最悪」
笑は本気で怒っていた。
力は困ったように透を見た。
「透は?」
「僕も、やめた方がええと思う」
「何でや」
「真壁さん、さっき娯楽じゃないって言うてた。たぶん、面白半分で撮るのはよくないと思う」
「面白半分じゃない。記録や」
「半分以上、面白がってるやろ」
悟が言った。
力は言い返せなかった。
悟は布団の上にあぐらをかいて、腕を組んでいた。怖がっていないように見える。けれど、いつもの余裕とは少し違った。機嫌が悪そうだった。
「悟は怖くないん?」
笑が訊いた。
「怖いよ」
悟はあっさり言った。
意外な答えだった。
力も透も、少し驚いて悟を見た。
「何?」
「いや、おまえも怖いんやと思って」
力が言った。
「怖いやろ、普通に。聞こえたし、見たし」
「じゃあ何でそんな冷静なん」
「騒いでも変わらんから」
悟はそう言って、枕元のお守りを見た。
「でも、変やと思う」
「何が?」
透が訊いた。
「悠真って子が幽霊やとして、何で今さら俺らに出てくるんやろ」
「子どもが来たからやろ?」
力が言った。
「真壁さんも言ってたやん。歓迎されてるって」
「歓迎って言葉が変やねん」
悟は眉をひそめた。
「真壁さんは俺らを怖がらせたくないんか、怖がらせたいんか、どっちやねん」
透も同じことを考えていた。
真壁は危険を避けろと言う。お守りを持てと言う。夜更かしするなと言う。
けれど、久遠館の話をした。
悠真の名前を出した。
父親、母親、失踪、怪奇現象。
聞かせる必要があったのだろうか。
もちろん力が訊いたからだ。悟も話を求めた。だが、真壁はもっと簡単に済ませることもできたはずだ。
それなのに、あの人はこの久遠館に関する話を詳しく話した。
まるで、知ってほしいかのように。
いや。探ってほしいかのように。
「真壁さん、何かしてほしいんかもな」
透は言った。
「何かって?」
笑が訊いた。
「分からない。でも、ただ泊まって帰ってほしいだけじゃない気がする」
「それ、嫌やな」
力が顔をしかめた。
「大人が中学生に何かさせようとしてるってこと?」
「そこまでは分からない」
「でも、そうやったら普通に危ないやろ」
悟が言った。
「幽霊より人間の方が怖いってやつ?」
「やめて」
笑が枕を抱えた。
「もう何も信じられへんくなる」
沈黙が落ちた。
窓の外は暗い。池の水面は見えない。山の夜は深く、ガラスの向こうに黒い壁があるようだった。時々、遠くで虫の声が聞こえる。けれどそれも、久遠館の中までは届ききらないようであった。
旅館の中は、やはり静かだった。大きな建物なのに、人の気配がない。
真壁と柳田はどこにいるのだろう。
厨房か、従業員室か、それともこの広い館のどこか別の部屋か。
透は廊下に耳を澄ませた。
何も聞こえない。
足音も、声も、ビー玉の音も。
「もう寝よ」
笑が言った。
「寝れる?」
力が訊いた。
「寝るしかないやん。起きてても怖いだけやし」
「それはそう」
四人は電気を消すかどうかで少しもめた。
笑は当然つけたままを希望した。力もそれに賛成した。悟は「どっちでも」と言った。透も、内心ではつけておきたかった。
結局、部屋の明かりは小さな常夜灯だけ残すことになった。
主灯を消すと、和室の輪郭が曖昧になった。
座卓。襖。床の間。窓。
そのどれもが、昼間より少し遠くにあるように見える。
透は布団に入った。
体は疲れている。けれど頭は冴えていた。
今日起こったことを順番に思い出す。
バスの窓を叩く音。
赤いビー玉。
玄関で見た小さな影。
お守り。
廊下から聞こえた「みいつけた」。
夕食後の真壁の話。
悠真。
六歳の男の子。
父親に一度も遊んでもらえなかった子。
母親を慰めようとしていた子。
両親を失い、施設に引き取られ、そして消えた子。
おとうさん、あそぼ。
あの声を思い出すと、怖さとは別の感情が胸の奥に沈んだ。
かわいそうだ。
そう思った。
けれど、それだけで済ませていいのか分からなかった。
かわいそうな子どもだからといって、何をしても許されるわけではない。
怖いものは怖い。
その二つの気持ちが、透の中で並んでいた。
「透」
小さな声がした。
笑だった。
「起きてる?」
「起きてるで」
「やんな」
「うん」
「私、ちょっと後悔してる」
「来たこと?」
「うん」
笑は布団の中で、こちらに背中を向けていた。顔は見えない。
「でも、来んかったらよかったって思ってるわけでもない」
「どういうこと?」
「分からん。怖いけど、悠真くんの話聞いたら、帰りたいだけではなくなった」
透は笑の背中を見た。
笑は怖がりだ。
でも、ただ怖がって終わる人間ではない。
怖いものの向こうに誰かがいると分かったら、その誰かを放っておけない。
「笑は優しいな」
透が言うと、笑は少しだけ黙った。
「優しいんかな」
「うん」
「でもやっぱり怖いだけなんかも。怖いから、かわいそうって思ってないと耐えられへんのかもしれん」
「それでも、思わないよりはいいと思う」
「透は?」
「僕も怖い」
「ちゃう。悠真くんのこと」
透は少し考えた。
「見つけてほしいんやと思う」
「うん」
「でも、見つけたらどうなるんか分からへん」
笑は返事をしなかった。
その代わり、小さく布団を握る音がした。
しばらくして、力の寝息が聞こえ始めた。
「寝るの早」
笑が小声で言った。
「すごいな」
透も思わず笑いそうになった。
こんな状況でも眠れる力は、ある意味では強い。
悟は起きているのか眠っているのか分からなかった。反対側の布団で、こちらに背を向けている。常夜灯の薄い明かりの中で、その肩の輪郭だけが見えた。
透は目を閉じた。
眠れないと思っていた。
けれど、いつの間にか意識が薄れていった。
疲れていたのだろう。
怖さよりも、体の重さが勝った。
夢を見た。
久遠館の廊下を歩いている夢だった。
廊下は昼間よりも長かった。
どこまでも続いていた。
左右には襖が並んでいる。どの襖も少しずつ開いていて、その隙間から真っ暗な部屋が見えた。
透は裸足だった。足の裏に床板の冷たさを感じる。
前方で、子どもの笑い声がした。
高く、細く、楽しそうな声。
それを追いかけて、透は歩いた。
やがて、廊下の突き当たりに小さな男の子が立っているのが見えた。
後ろ姿だった。
白い寝巻きのようなものを着ている。
髪は柔らかそうで、首筋が細い。
透は声をかけようとした。
けれど声が出なかった。
男の子は、廊下の突き当たりにある古い襖の前で止まっていた。
そして、こちらを振り返らないまま言った。
「かくれんぼしよう」
透は首を振ろうとした。
嫌だ。
そう言いたかった。
けれど体が動かなかった。
「ぼくが隠れるから」
男の子は言った。
「見つけてね」
襖が、ひとりでに開いた。
その向こうは真っ暗だった。
男の子は中へ入っていく。
透は追いかけたくなかった。
なのに足が前へ出た。
一歩。
また一歩。
襖の前まで来たとき、男の子の声が奥から聞こえた。
「十、数えて」
透の口が、勝手に動いた。
「いーち」
自分の声ではなかった。
「にー」
低い声だった。
大人の男の声。
「さーん」
透は怖くなった。
これは自分ではない。
自分の口から、誰か別の声が出ている。
「しーい」
男の子が暗闇の中で笑った。
「ごーお」
やめろ。
「ろーく」
数えたくない。
「しーち」
誰か、止めてくれ。
「はーち」
透は必死に目を閉じた。
「きゅーう」
そして。
「じゅう」
その瞬間、暗闇の奥から声がした。
「もういいよ」
透は目を覚ました。
布団の中だった。
常夜灯がついている。
和室。
座卓。
襖。
窓。
夢だ。
そう思った。
全身に汗をかいていた。喉が渇いている。心臓が速い。
透はゆっくり体を起こした。
部屋は静かだった。
笑は布団の中で丸くなっている。
力は口を開けて眠っている。
悟は――。
悟の布団が空だった。
透はしばらく、それを理解できなかった。
「悟?」
透は小さく呼んだ。
返事はない。
もう一度、少し大きく呼ぶ。
「悟」
笑が目を覚ました。
「……何?」
「悟がおらん」
笑は一瞬で起き上がった。
「え?」
力もその声で目を覚ました。
「何や……」
「悟がおらへん」
力は寝ぼけた顔のまま悟の布団を見た。
そして、表情が変わった。
「まさか、トイレちゃうん?」
「分からない」
透は悟の枕元を見た。
お守りはあった。
白い封筒。
赤い糸。
そこに置かれている。
けれど、その横に、もう一つ別のものが置かれていた。
赤いビー玉。
座卓の上に置いていたはずのビー玉が、悟の枕元に移動していた。
「何で……」
笑が震えた。
「誰か動かした?」
力が訊いた。
「僕は触ってへん」
「私も」
「俺も」
三人は同時に黙った。
悟がいない。
ビー玉が悟の枕元にある。
それだけなら、悟が自分で持って出た後、戻したのかもしれない。
いや、戻しているなら悟もいるはずだ。
透は立ち上がった。
「探そう」
「え、行くん?」
笑が言った。
「行くしかない」
「真壁さん呼ぼ」
「先に部屋の近くを見るだけやったら大丈夫ちゃうか?」
「一人で行かんといて」
「三人で行こう」
力は懐中電灯を手に取った。
「俺も行く」
笑は迷っていたが、結局立ち上がった。
「置いていかれる方が無理やわ」
三人は廊下に出た。
夜の久遠館は、昼間とは別の建物だった。
廊下は長く、暗い。
ところどころに小さな明かりがついているが、その明かりは床を照らすだけで、天井や壁の上の方は黒く沈んでいる。
床板は冷たかった。
透は自分が夢の中と同じように裸足でいることに気づいた。慌てて部屋へ戻り、草履を履いた。力と笑も同じように草履を履く。
「さとるー」
力が声を抑えて呼んだ。
返事はない。
「悟」
透も呼んだ。
廊下の奥で、何かが動いた気がした。
力が懐中電灯を向ける。
何もない。
ただ、廊下の先が右へ曲がっている。
その先が、奥の廊下だった。
真壁が行くなと言った場所。
「え、あっち?」
笑が言った。
透は答えなかった。
そのとき、廊下の奥から声がした。
「もういいよ」
透の体が固まった。
夢の中で聞いた声と同じだった。
子どもの声。
かくれんぼの声。
「今の……」
力が言った。
「聞こえた」
笑の声は泣きそうだった。
透は奥の廊下を見つめた。
暗い。
その暗がりの向こうから、今度は別の声が聞こえた。
悟の声だった。
「透」
小さく、遠い声。
「こっち」
笑が首を横に振った。
「嫌や。絶対あかん」
力も動けずにいた。
透は拳を握った。
怖い。
行きたくない。
けれど、悟が呼んでいる。
本当に悟なのかは分からない。
それでも、あの声を無視して部屋へ戻ることはできなかった。
「真壁さんを呼ぼう」
透は言った。
「でも、悟が」
「三人だけで行くのは危ない」
力はうなずいた。
「俺、呼んでくるわ」
「一人で行かんといて」
笑が言った。
「じゃあ全員で戻ろう」
三人は部屋へ戻ろうとした。
その瞬間。
廊下の奥から、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
小さな裸足の足音。
子どもが走ってくる。
速い。
近い。
ぱたぱたぱたぱた…
「走れ!」
力が叫んだ。
三人は部屋へ向かって走った。
草履が脱げそうになる。笑が転びかけ、透が腕をつかむ。力が襖を開ける。三人は転がるように部屋へ入った。
力が襖を閉める。
その直後、襖の向こうで、足音が止まった。
三人は息を殺した。
急に静寂に包まれたかと思った瞬間、襖の下の隙間から、何かが見えた。
白い足だった。
小さな子どもの足。
裸足だ。
それが、襖の向こうに立っている。
笑は声を出さずに泣いていた。
力は口を押さえている。
透は動けなかった。
小さな足は、しばらくそこにあった。
そして、襖の向こうから声がした。
「みいつけた」
次の瞬間、部屋の中の常夜灯が消えた。
完全な闇。
笑が悲鳴を上げた。
力が何かにぶつかる音がした。
透は手探りでスマホを探した。
だが、座卓の上に置いたはずのスマホがない。
暗闇の中で、ころん、と音がした。
ビー玉が転がる音。
部屋の中のすぐ近く。
ころん。
ころん。
それは透の足元で止まった。
暗闇の中なのに、赤いビー玉だけがうっすらと光っていた。
そして、その光の向こうに、小さな顔が浮かんだ。
男の子。
白い寝巻き。
濡れたような髪。
年は六歳くらい。
その子は透を見て、にっこり笑った。
「つぎは、だあれ?」
透は声を出せなかった。
そのとき、部屋の外から真壁の声がした。
「開けてはいけません!」
襖が、外側から強く叩かれた。
「皆さま、絶対に返事をしてはいけません!」
男の子の顔が、笑ったまま歪んだ。
そして、透たちではない誰かの声で言った。
「おとうさん」
暗闇の中で、四つのお守りのうち一つが、ぷつりと音を立てた。
赤い糸が、切れた音だった。




