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みいつけた  作者: 紙とペン


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3/7

 夕食は十八時ちょうどに運ばれてきた。

 それまでの二時間ほど、四人は部屋からほとんど出なかった。正確には、一度だけ力が廊下へ出ようとしたが、笑が本気で止めた。

「今行く意味ある?」

「いや、館内探索的な」

「夕食前に行かんでいいやん」

「でも明るいうちの方が安全やろ」

「明るいうちでも怖いから嫌やねん」

「じゃあ笑は部屋で待ってたら?」

「それはもっと嫌」

 笑はそう言って、座布団を抱え込んだ。

 力は不満そうだったが、結局それ以上は言わなかった。力は騒がしくて無茶をするように見えるが、笑が本当に怖がっているときには強引に進めない。そういうところがある。

 悟は窓際に座り、池を見ていた。

 透は座卓の上に置いたお守りを見ていた。

 さっき、真壁が確認した四つのお守り。

 結局、どれが怪しかったのかは分からなかった。真壁の手が最後の一つで止まったことだけは覚えている。けれど、それが誰のものだったのか、どうしても思い出せない。

 並べた順番。

 取った順番。

 真壁が持ち上げた順番。

 頭の中で何度も再生しようとしたが、途中から映像がぼやける。

 それが気持ち悪かった。

 人間の記憶なんて曖昧だ。

 そう言ってしまえばそれまでだ。

 けれど、今の曖昧さは、ただ忘れたというより、誰かに上から指でこすられて消されたような感じがした。

 夕方になると、池の水面は黒くなった。

 昼間は山の緑を映していた水が、今は空の色を吸い込んでいる。蓮の葉は動かない。風もない。それなのに、ときどき小さな波紋だけが広がった。

 小石を投げたような波紋。

 誰かが指先で水面をつついたような波紋。

 透はそれを見るたびに、赤いビー玉の音を思い出した。

 

 ころん。

 ころん。

 

 あの音は、まだ耳の奥に残っている。

「なあ」

 悟が突然言った。

「この池、落ちたら危ないな」

「何で急に?」

 力が訊いた。

「いや、深そうやから」

「露天風呂も閉鎖。離れも禁止。池も危ない。危ないもんだらけやな」

 力はそう言って笑おうとしたが、笑いきれなかった。

 そのとき、襖の外から声がした。

「お夕食をお持ちしました」

 真壁の声だった。

 四人は顔を見合わせた。

 返事をしたのは笑だった。

「はい。お願いします」

 襖が静かに開いた。

 真壁と、もう一人の女性が入ってきた。

 女性は五十代くらいだろうか。髪を後ろでひとつに結び、紺色の作務衣を着ている。無表情に近い顔だったが、冷たい印象ではなかった。疲れている、という方が近い。

「仲居の柳田でございます」

 真壁が紹介した。

 柳田は小さく頭を下げた。

「ごゆっくりどうぞ」

 その声は低く、かすれていた。

 夕食は想像以上に豪華だった。

 山菜の小鉢、川魚の塩焼き、陶板焼き、天ぷら、茶碗蒸し、地元の味噌を使った鍋。中学生にはもったいないほど丁寧に作られている。

「めっちゃうまそう」

 力の目が輝いた。

「すごい……」

 笑も思わず声を漏らした。

 悟は黙って料理を見ていた。

「こんなにしてもらっていいんですか」

 透が訊くと、真壁は穏やかに微笑んだ。

「久遠館にお越しいただいたお客様ですから」

「でも、宿泊モニターで、ほとんど無料なのに」

「お客様はお客様です」

 真壁はそう言った。

 その言葉には、旅館の主としての誇りのようなものがあった。今は客が来ない旅館でも、この人にとっては、まだここは客を迎える場所なのだ。

 透は少しだけ申し訳ない気持ちになった。

 怪奇現象を面白がって来た自分たちが、急に子どもっぽく思えた。

 真壁と柳田は、手際よく料理を並べていった。

 その途中で、力が訊いた。

「あの、真壁さん」

「はい」

「さっきの子どもの声って、やっぱり噂の幽霊なんですか」

 笑が力を睨んだ。

「食事前に聞くことちゃうやろ」

「いや、気になるやん」

「気にはなるけど」

 真壁は料理を並べる手を止めなかった。

 柳田だけが、一瞬、顔を上げた。

 その目が、透には何かを恐れているように見えた。

「食後に、お話しいたしましょう」

 真壁は言った。

「この館にまつわる話を」

「今じゃ駄目ですか?」

 悟が訊いた。

「食事が冷めてしまいます」

「怖い話を聞きながら食べるのも、悪くないと思いますけど」

「悟」

 透は思わず止めた。

 悟は肩をすくめた。

「ごめん」

 真壁は何も言わず、最後に土瓶蒸しを置いた。

「では、後ほど」

 真壁と柳田は部屋を出て行った。

 襖が閉じると、力がすぐに箸を取った。

「さ、食べよか。冷めたらもったいないしな」

「切り替え早っ」

 笑が呆れた。

「怖いもんは怖い。飯は飯や」

「それはそうやな」

 力が食べ始めると、部屋の空気が少しだけ緩んだ。

 食事は本当に美味しかった。

 川魚は皮が香ばしく、身が柔らかかった。天ぷらは軽く、鍋の味噌は甘みがあって深い。笑は最初こそ緊張していたが、途中から感動してしまっていた。

「これ、普通にSNSで広めたら人来るんちゃう?」

 笑が言った。

「料理めっちゃおいしいし、建物もきれいやし」

「怪奇現象つきやけどな」

 力が言った。

「それも逆に売りになるやろ」

「ほんまに出たら売りにしたらあかんやろ」

「でもさ、今どき幽霊旅館って話題性あるで」

「軽いなあ」

 笑は苦笑した。

 透は二人の会話を聞きながら、真壁の言葉を思い出していた。

 子どもは、寂しがりですから。

 あの言葉は、ただ怖がらせるためのものではなかった気がする。

 そこには、知っている人の重さがあった。

 食事の途中で、悟がふと箸を止めた。

「どうした?」

 透が訊く。

「いや」

 悟は鍋の湯気を見ていた。

「何か、懐かしい匂いがする」

「味噌?」

「たぶん」

「家で食べたことある味?」

「分からん」

 悟はそう言って、また食べ始めた。

 透はその横顔を見た。

 悟が何かを懐かしいと言うのは珍しかった。悟は昔の話をあまりしない。小学校の頃の話でも、家族の話でも、自分からはほとんど出さない。

 けれど今の言葉には、嘘がなかった。

 本人にも理由が分からないまま、口から出てしまったようだった。

 夕食を終える頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 池はもう見えない。

 ただ、窓ガラスに部屋の中が映っている。

 座卓を囲む四人とすっかり空になった皿たち、壁際の荷物、床の間の山百合。

 その全てが、ガラスの向こうでもう一度繰り返されている。

 透は窓に映った自分たちを見ていた。

 その中に、ふと、もう一人いるような気がした。

 四人の後ろ。

 床の間のそば。小さな影。

 透が振り返るが、また誰もいない。

「また?」

 笑が小声で言った。

「何でもない」

「今の顔、何でもなくない。今日何回も後ろ振り返っておかしいで」

「見間違いやと思う」

「見間違いって何を」

 透は答えなかった。

 答えたくなかった。

 言葉にした瞬間、それが本当になるような気がしたからだった。

 やがて、真壁が戻ってきた。

 柳田は一緒ではなかった。

 真壁は食器を片づける前に、入り口のところで正座した。

「お食事は、お口に合いましたでしょうか」

「めちゃくちゃおいしかったです」

 力が即答した。

「ありがとうございます」

 真壁は深く頭を下げた。

 その仕草は美しかった。

 古い旅館の、古くからある礼儀。

 それが形だけではなく、体に染み込んでいるように見えた。

「それで」

 悟が言った。

「話してくれるんですよね。この旅館のこと」

 笑が少し身を固くした。

 透も背筋を伸ばした。

 力はスマホに手を伸ばしかけたが、真壁が静かに言った。

「録音や撮影は、ご遠慮いただけますか」

「え、駄目ですか」

「この話は、娯楽ではありませんので」

 力は気まずそうにスマホを置いた。

「すみません」

「いえ」

 真壁は首を振った。

「皆さまに悪気がないことは分かっております」

 真壁は少しだけ目を伏せた。

 そして、ゆっくりと話し始めた。

「この久遠館は、かつて、この町で最も大きな旅館でした。今では想像しづらいかもしれませんが、休日には多くのお客様で賑わい、廊下には子どもたちの足音が響いていました」

 真壁の声は静かだった。

けれど、その静けさの奥には、かすかな熱があった。

「当時の経営者は、久遠宗一郎という男でした。大変厳しい人でしたが、旅館経営の才覚はありました。久遠館を大きくしたのは、間違いなく彼です」

「もしかしてその人が、幽霊の子のお父さんですか?」

 笑が訊いた。

「はい」

 真壁はうなずいた。

「宗一郎には妻と、一人息子がいました。息子の名は、悠真」

 その名前が出た瞬間、部屋の空気がわずかに動いた。

 透はそう感じた。

 悠真。

 名前があった。

 「子どもの幽霊」ではなく、「悠真」という名前が。

 その名前を聞いただけで、噂の中の存在が少し人間に近づいた気がした。

「悠真くんは、当時六歳でした。体が弱く、あまり外で遊ぶことはできませんでしたが、人懐っこい子だったと聞いています」

「聞いています?」

 悟が言った。

「真壁さんは、直接は知らないんですか」

 真壁はわずかに沈黙した。

「知っています」

 短い答えだった。

 それ以上は説明しなかった。

 透はそこに引っかかった。

 知っているのか。

 聞いているのか。

 どちらなのか。

 真壁の話し方は丁寧だったが、ところどころで言葉の選び方が不自然だった。

「悠真くんは、父親に遊んでもらいたがっていました」

 真壁は続けた。

「ですが、宗一郎はいつも忙しかった。朝から晩まで旅館の仕事に追われ、従業員を叱り、取引先と会い、客を迎え、帳簿を見ていた。旅館のために生きているような男でした」

「子どもとは遊ばなかったんですか」

 透が訊いた。

「一度も」

 真壁は答えた。

 その言葉は鋭かった。

 一度も。

 六歳にもなる息子と、一度も遊ばなかった父親。

 透はその意味を考えた。

 忙しいから遊べない日はある。疲れている日もある。父親にも事情はあるだろう。

 けれど、一度も、というのはどういうことだろう。

 たった一度、将棋でも、ビー玉でも、かくれんぼでも、池の周りを歩くだけでもよかったはずだ。

 それすらしなかった。

「悠真くんは、何度も父親を誘ったそうです。『お父さん、遊ぼう』と。ですが宗一郎は、いつも同じように答えました」

 真壁はそこで一度、息を吸った。

「あとで」

 誰も何も言わなかった。

「その『あとで』は、一度も来ませんでした」

 笑が膝の上で手を握った。

 力は視線を落とした。

 悟だけが、真壁を見ていた。

「母親は?」

 悟が訊いた。

「お母さんは遊んでくれたんですか」

「母親は美沙という人で、とても優しい方でした。悠真くんのことを深く愛していた。しかし、彼女もまた苦しんでいました」

 真壁の声が少し低くなった。

「宗一郎は、家庭では厳しすぎる男でした。妻に手を上げることも度々あったといいます」

 笑が小さく顔をしかめた。

「悠真くんは、それを見ていたんですか」

「はい」

「六歳で?」

「はい」

 透は言葉を失った。

 六歳といえば幼稚園か、小学校に上がったばかりの年齢である。

 父親に遊んでもらえないだけではない。母親が傷つけられているのを見ていた。止められるはずもない。けれど、止めたかったはずだ。

「悠真くんは、母親を慰めようとしていたそうです。泣いている母親のそばに座り、小さな手で背中を撫でた。『僕がいるから大丈夫』と、何度も言ったそうです」

 笑が鼻をすすった。

 力は黙っていた。

 悟も、今度は何も言わなかった。

 真壁は続けた。

「そんなある日、久遠館に関する噂が町に広がりました。宗一郎が妻に暴力を振るっている。旅館の金を横領した。不正な取引をしている。客や従業員をだましている。そういった話です」

「それは本当だったんですか?」

 透が訊いた。

 真壁はすぐには答えなかった。

 その沈黙が透の疑問を浮かびあがらせた。

 暴力については、真壁は先ほど「手を上げることもあった」と言った。

 だが、横領や不正については、今、「噂」と言った。

 全部を同じように語っているが、事実と噂が混ざっている。

「分かりません」

 真壁は言った。

「当時の資料は多くは残っていません。関係者も、すでに亡くなった方が多い。ただ、その噂が広がってから、久遠館の評判が大きく落ちたことは確かです」

「客が来なくなった」

 悟が言った。

「ええ」

「それで父親は?」

「追い詰められました」

 真壁の表情は変わらなかった。

「そして、ある夜、自ら命を絶ちました」

 部屋の空気がさらに重くなった。

 窓の外は池が見えない暗闇になっている。

「場所は、この館ですか」

 力が訊いた。

 真壁はうなずいた。

「離れです」

 離れ。撮影禁止の場所。

 立ち入り禁止の場所。

 四人は同時にその言葉を意識した。

「だから離れに行くなって」

 力が小さく言った。

「そうです」

 真壁は短く答えた。

「宗一郎は、遺書を残していました」

「何て書いてあったんですか」

 笑が訊いた。

「妻と息子に、すまない、と」

 それだけだった。

 たったそれだけ。

 透はその言葉をどう受け止めればいいのか分からなかった。

 すまない。あまりに短い。

 けれど、短いからこそ本心だったのかもしれない。

 長く言い訳を書くこともできたはずだ。自分は悪くない、噂のせいだ、町のせいだ、従業員のせいだと。けれど、最後に残したのが「すまない」だけだったのなら、そこには何かがあるはずだ。

 後悔や謝罪、あるいは、伝えきれなかった愛情。

「でも」

 悟が言った。

「死んでから謝っても遅いやろ」

 その言葉は冷たかった。

 だが、間違ってはいなかった。

 笑は何か言いかけて、やめた。

 真壁は悟を責めなかった。

「その通りです」

 真壁は静かに言った。

「人は、間に合わなくなってから気づくことがあります」

 その言い方が、なぜか真壁自身の話のように聞こえた。

「宗一郎の死後、久遠館の経営はさらに悪化しました。美沙さんは心を病み、一年後、夫の後を追うように亡くなりました」

「自殺、ですか」

 透が訊いた。

「はい」

 笑は俯き、力は何も言えなかった。

 悟は窓の外を見た。

「悠真くんは?」

 透は訊いた。

「そのとき、悠真くんは七歳でした」

 真壁の声が少しだけ揺れた。

 本当に少しだけ。

 だが、透には分かった。

 ここからが、真壁にとって一番話しづらい部分なのだ。

「両親を失った悠真くんは、児童養護施設に引き取られました」

「親戚はいなかったんですか」

「いたようですが、久遠家に関わることを避けたのでしょう。世間の目もありましたから」

「ひどい」

 笑が小さく言った。

「ええ」

 真壁は否定しなかった。

「施設での悠真くんは、最初はとても静かでした。泣きもせず、怒りもせず、ただ窓の外を見ていた。けれど、同じ年頃の子どもたちが遊んでいるのを見ると、少しずつ輪に入るようになった」

「よかったやん」

 力が言った。

「そうですね」

 真壁はかすかに微笑んだ。

「彼は遊ぶことが好きでした。かくれんぼ、鬼ごっこ、ビー玉、折り紙。特に、誰かに見つけてもらう遊びが好きだった」

 透の背中に、冷たいものが走った。

 

 みいつけた。

 

 廊下の奥から聞こえた声。

 あれは、ただ脅かすための声ではなかったのかもしれない。

 見つけてほしい。

 そういう意味だったのかもしれない。

「けれど、ある日、悠真くんは施設から姿を消しました」

 真壁は言った。

「山へ入ったのか、川へ落ちたのか、誰かに連れ去られたのか。いくら捜しても見つからなかった。警察も動きました。町の人も捜しました。それでも、彼は見つからなかった」

「死体も?」

 悟が訊いた。

「見つかっていません」

 その言葉が、部屋の中に残った。

 死体が見つかっていない。

 つまり、悠真という少年は、死んだことすら確定していない。

 それなのに、久遠館ではその子の幽霊が出ると言われている。

「悠真くんが消えてからです」

 真壁は続けた。

「久遠館で、奇妙なことが起こるようになったのは」

 廊下の足音や子どもの笑い声、消える荷物、勝手に開く襖、池に浮かぶ赤いビー玉。

 取り壊しのたびに起こる事故。

 真壁はそれらを淡々と語った。

 その語り口は、怪談を話すものではなかった。

 報告書を読み上げるようだった。

 だからこそ、余計に怖かった。

「取り壊しの話が出るたび、何かが起こりました。工事関係者の転落、重機の故障、原因不明の停電、突然の火災報知器の作動。幸い、命を落とした方はいません。しかし、それ以上進める者もいませんでした」

「悠真くんが邪魔してるんですか」

 力が訊いた。

「そう考える方もいます」

「真壁さんは?」

 透が訊いた。

「私は」

 真壁は少しだけ目を伏せた。

「この館に、まだ帰りたい人がいるのだと思っています」

 透はその言葉の意味を考えた。

 帰りたい人。

 それは悠真のことだろうか。

 それとも、父親の宗一郎か。

 母親の美沙か。

 あるいは。

 真壁自身のことなのか。

「でも、帰りたいなら、どうして客を怖がらせるんですか」

 笑が言った。

「人が来なくなったら、余計に寂しいやん」

 真壁は笑を見た。

 その目は少し優しかった。

「子どもは、寂しいと、時に困ったことをします」

「だからって」

「分かっています」

 真壁は静かに言った。

「分かっているつもりです」

 その言い方は、また少し不自然だった。

 分かっています、ではない。

 分かっているつもりです。

 自分にも言い聞かせているようだった。

「皆さまにお渡ししたお守りは、その子から皆さまを守るためのものです」

「その子って、悠真くんですか」

 透が訊いた。

 真壁は答えなかった。

「同時に、その子を傷つけないためのものでもあります」

「傷つけない?」

 悟が言った。

「幽霊を?」

「はい」

 真壁は悟を見た。

「怖がるだけなら、誰でもできます。ですが、怖がるだけでは、何も終わりません」

 悟は黙った。

 真壁は四人を見渡した。

「皆さまは、まだ子どもです。だからこそ、この館に歓迎されたのかもしれません」

「子どもだから?」

 笑が言った。

「悠真くんと、歳が近いからですか」

「それもあるでしょう」

「他には?」

 真壁は答えなかった。

 代わりに、ゆっくりと立ち上がった。

「長くなりました。お布団をご用意いたします」

「待ってください」

 透は思わず言った。

 真壁が振り返る。

「真壁さんは、どうしてこの旅館を続けているんですか」

 その質問に、力も笑も悟も、透を見た。

 透自身も、なぜ今それを訊いたのか分からなかった。

 ただ気になった。

 久遠館にはほとんど客が来ない。怪奇現象の噂がある。取り壊そうとしても事故が起こる。維持するだけで金がかかる。

 それなのに、真壁はここを守っている。

 まるで、罰を受け続けるように。

 真壁はしばらく黙っていた。

「この町には、守らなければならないものがあります」

「町のためですか」

「それもあります」

「それだけですか」

 透が重ねて訊くと、真壁の表情が初めてわずかに崩れ、何かに耐えかねたような疲れた顔を覗かせた。

 だが、それは一瞬で消えた。

「夜が深くなる前に、お休みください」

 真壁は答えずに言った。

「この館では、夜更かしはおすすめしません」

 それだけ言って、真壁は部屋を出て行った。

 残された四人は、しばらく誰も口を開かなかった。

 やがて力が、わざと明るく言った。

「……めっちゃ怖いやん」

「うん」

 笑が素直にうなずいた。

「普通に帰りたい」

「今から?」

「無理やけど」

「まあ、明日になったら笑い話やろ」

 力はそう言ったが、声は弱かった。

 悟は窓際に立ち、外を見ていた。

「悟?」

 透が呼ぶ。

「何?」

「悟はどう思う?」

「何が」

「今の話」

 悟は少し考えた。

「話がきれいすぎる」

 透は驚いた。

 自分が感じていた違和感を、悟も同じように感じていた。

「きれいすぎる?」

 笑が訊いた。

「父親は厳しくて、母親はかわいそうで、子どもは寂しくて、消えてから幽霊になった。分かりやすいやん」

「分かりやすかったらあかんの?」

「本当のことって、もっとぐちゃぐちゃしてるやろ」

 悟は窓から離れた。

「真壁さんのあの様子やと、何か隠してるのは確実や」

 透は言った。悟が透を見た。

「何を?」

「分からない。でも、話の中に噂と事実が混ざってる」

「たとえば?」

「父親が暴力を振るっていたことは、事実みたいに言ってた。でも、横領とか不祥事は噂って言ってた。なのに、その二つが同じ重さで語られてる」

「なるほどな」

 悟は小さくうなずいた。

「透、そういうとこだけは鋭いな」

「だけって何や」

「褒めてる」

「褒めてない」

 笑が少し笑った。

 その笑いで、部屋の空気がほんの少しだけ軽くなった。

 だが、その軽さは長く続かなかった。

 廊下から、足音が聞こえた。

 

 ぱた。

 

 ぱた。

 

 裸足の足音。

 小さな子どもが、廊下を歩いているような音だった。

 四人は一斉に襖を見た。

 足音は、部屋の前で止まった。

 そして、襖の向こうから、声がした。

「おとうさん」

 笑が両手で口を押さえた。

 力は動けなかった。

 悟の顔から表情が消えた。

 透は喉が乾くのを感じた。

 声は、また聞こえた。

「おとうさん、あそぼ」

 襖の下の隙間から、赤いものが転がり込んできた。

 ビー玉だった。

 赤いビー玉。

 それは座卓の脚に当たって止まった。

 

 ころん。

 

 部屋の中に、その小さな音だけが残った。

 透はビー玉を見つめた。

 真壁はさっき、確かにビー玉を持って行ったはずだった。

 袖の中にしまった。それなのに、またここにある。

 誰も触れなかった。

 誰も声を出せなかった。

 やがて廊下の向こうで、遠ざかる足音がした。

 

 ぱた。

 

 ぱた。

 ぱた。

 

 それは奥の廊下へ向かっていった。真壁が行くなと言った場所へ。

 力が震える声で言った。

「……なあ」

「何?」

 悟が答えた。

「今の声さ」

「うん」

「俺らのこと、誰かと間違えてへん?」

 透は答えられなかった。

 けれど、同じことを考えていた。

 おとうさん、あそぼ。

 あの子は、父親を探している。

 遊んでくれる誰かを探している。

 それが、もし、この四人の中の誰かだったら。

 透は自分のお守りを握った。

 赤い糸が、また少し湿っている気がした。

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