三
夕食は十八時ちょうどに運ばれてきた。
それまでの二時間ほど、四人は部屋からほとんど出なかった。正確には、一度だけ力が廊下へ出ようとしたが、笑が本気で止めた。
「今行く意味ある?」
「いや、館内探索的な」
「夕食前に行かんでいいやん」
「でも明るいうちの方が安全やろ」
「明るいうちでも怖いから嫌やねん」
「じゃあ笑は部屋で待ってたら?」
「それはもっと嫌」
笑はそう言って、座布団を抱え込んだ。
力は不満そうだったが、結局それ以上は言わなかった。力は騒がしくて無茶をするように見えるが、笑が本当に怖がっているときには強引に進めない。そういうところがある。
悟は窓際に座り、池を見ていた。
透は座卓の上に置いたお守りを見ていた。
さっき、真壁が確認した四つのお守り。
結局、どれが怪しかったのかは分からなかった。真壁の手が最後の一つで止まったことだけは覚えている。けれど、それが誰のものだったのか、どうしても思い出せない。
並べた順番。
取った順番。
真壁が持ち上げた順番。
頭の中で何度も再生しようとしたが、途中から映像がぼやける。
それが気持ち悪かった。
人間の記憶なんて曖昧だ。
そう言ってしまえばそれまでだ。
けれど、今の曖昧さは、ただ忘れたというより、誰かに上から指でこすられて消されたような感じがした。
夕方になると、池の水面は黒くなった。
昼間は山の緑を映していた水が、今は空の色を吸い込んでいる。蓮の葉は動かない。風もない。それなのに、ときどき小さな波紋だけが広がった。
小石を投げたような波紋。
誰かが指先で水面をつついたような波紋。
透はそれを見るたびに、赤いビー玉の音を思い出した。
ころん。
ころん。
あの音は、まだ耳の奥に残っている。
「なあ」
悟が突然言った。
「この池、落ちたら危ないな」
「何で急に?」
力が訊いた。
「いや、深そうやから」
「露天風呂も閉鎖。離れも禁止。池も危ない。危ないもんだらけやな」
力はそう言って笑おうとしたが、笑いきれなかった。
そのとき、襖の外から声がした。
「お夕食をお持ちしました」
真壁の声だった。
四人は顔を見合わせた。
返事をしたのは笑だった。
「はい。お願いします」
襖が静かに開いた。
真壁と、もう一人の女性が入ってきた。
女性は五十代くらいだろうか。髪を後ろでひとつに結び、紺色の作務衣を着ている。無表情に近い顔だったが、冷たい印象ではなかった。疲れている、という方が近い。
「仲居の柳田でございます」
真壁が紹介した。
柳田は小さく頭を下げた。
「ごゆっくりどうぞ」
その声は低く、かすれていた。
夕食は想像以上に豪華だった。
山菜の小鉢、川魚の塩焼き、陶板焼き、天ぷら、茶碗蒸し、地元の味噌を使った鍋。中学生にはもったいないほど丁寧に作られている。
「めっちゃうまそう」
力の目が輝いた。
「すごい……」
笑も思わず声を漏らした。
悟は黙って料理を見ていた。
「こんなにしてもらっていいんですか」
透が訊くと、真壁は穏やかに微笑んだ。
「久遠館にお越しいただいたお客様ですから」
「でも、宿泊モニターで、ほとんど無料なのに」
「お客様はお客様です」
真壁はそう言った。
その言葉には、旅館の主としての誇りのようなものがあった。今は客が来ない旅館でも、この人にとっては、まだここは客を迎える場所なのだ。
透は少しだけ申し訳ない気持ちになった。
怪奇現象を面白がって来た自分たちが、急に子どもっぽく思えた。
真壁と柳田は、手際よく料理を並べていった。
その途中で、力が訊いた。
「あの、真壁さん」
「はい」
「さっきの子どもの声って、やっぱり噂の幽霊なんですか」
笑が力を睨んだ。
「食事前に聞くことちゃうやろ」
「いや、気になるやん」
「気にはなるけど」
真壁は料理を並べる手を止めなかった。
柳田だけが、一瞬、顔を上げた。
その目が、透には何かを恐れているように見えた。
「食後に、お話しいたしましょう」
真壁は言った。
「この館にまつわる話を」
「今じゃ駄目ですか?」
悟が訊いた。
「食事が冷めてしまいます」
「怖い話を聞きながら食べるのも、悪くないと思いますけど」
「悟」
透は思わず止めた。
悟は肩をすくめた。
「ごめん」
真壁は何も言わず、最後に土瓶蒸しを置いた。
「では、後ほど」
真壁と柳田は部屋を出て行った。
襖が閉じると、力がすぐに箸を取った。
「さ、食べよか。冷めたらもったいないしな」
「切り替え早っ」
笑が呆れた。
「怖いもんは怖い。飯は飯や」
「それはそうやな」
力が食べ始めると、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
食事は本当に美味しかった。
川魚は皮が香ばしく、身が柔らかかった。天ぷらは軽く、鍋の味噌は甘みがあって深い。笑は最初こそ緊張していたが、途中から感動してしまっていた。
「これ、普通にSNSで広めたら人来るんちゃう?」
笑が言った。
「料理めっちゃおいしいし、建物もきれいやし」
「怪奇現象つきやけどな」
力が言った。
「それも逆に売りになるやろ」
「ほんまに出たら売りにしたらあかんやろ」
「でもさ、今どき幽霊旅館って話題性あるで」
「軽いなあ」
笑は苦笑した。
透は二人の会話を聞きながら、真壁の言葉を思い出していた。
子どもは、寂しがりですから。
あの言葉は、ただ怖がらせるためのものではなかった気がする。
そこには、知っている人の重さがあった。
食事の途中で、悟がふと箸を止めた。
「どうした?」
透が訊く。
「いや」
悟は鍋の湯気を見ていた。
「何か、懐かしい匂いがする」
「味噌?」
「たぶん」
「家で食べたことある味?」
「分からん」
悟はそう言って、また食べ始めた。
透はその横顔を見た。
悟が何かを懐かしいと言うのは珍しかった。悟は昔の話をあまりしない。小学校の頃の話でも、家族の話でも、自分からはほとんど出さない。
けれど今の言葉には、嘘がなかった。
本人にも理由が分からないまま、口から出てしまったようだった。
夕食を終える頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
池はもう見えない。
ただ、窓ガラスに部屋の中が映っている。
座卓を囲む四人とすっかり空になった皿たち、壁際の荷物、床の間の山百合。
その全てが、ガラスの向こうでもう一度繰り返されている。
透は窓に映った自分たちを見ていた。
その中に、ふと、もう一人いるような気がした。
四人の後ろ。
床の間のそば。小さな影。
透が振り返るが、また誰もいない。
「また?」
笑が小声で言った。
「何でもない」
「今の顔、何でもなくない。今日何回も後ろ振り返っておかしいで」
「見間違いやと思う」
「見間違いって何を」
透は答えなかった。
答えたくなかった。
言葉にした瞬間、それが本当になるような気がしたからだった。
やがて、真壁が戻ってきた。
柳田は一緒ではなかった。
真壁は食器を片づける前に、入り口のところで正座した。
「お食事は、お口に合いましたでしょうか」
「めちゃくちゃおいしかったです」
力が即答した。
「ありがとうございます」
真壁は深く頭を下げた。
その仕草は美しかった。
古い旅館の、古くからある礼儀。
それが形だけではなく、体に染み込んでいるように見えた。
「それで」
悟が言った。
「話してくれるんですよね。この旅館のこと」
笑が少し身を固くした。
透も背筋を伸ばした。
力はスマホに手を伸ばしかけたが、真壁が静かに言った。
「録音や撮影は、ご遠慮いただけますか」
「え、駄目ですか」
「この話は、娯楽ではありませんので」
力は気まずそうにスマホを置いた。
「すみません」
「いえ」
真壁は首を振った。
「皆さまに悪気がないことは分かっております」
真壁は少しだけ目を伏せた。
そして、ゆっくりと話し始めた。
「この久遠館は、かつて、この町で最も大きな旅館でした。今では想像しづらいかもしれませんが、休日には多くのお客様で賑わい、廊下には子どもたちの足音が響いていました」
真壁の声は静かだった。
けれど、その静けさの奥には、かすかな熱があった。
「当時の経営者は、久遠宗一郎という男でした。大変厳しい人でしたが、旅館経営の才覚はありました。久遠館を大きくしたのは、間違いなく彼です」
「もしかしてその人が、幽霊の子のお父さんですか?」
笑が訊いた。
「はい」
真壁はうなずいた。
「宗一郎には妻と、一人息子がいました。息子の名は、悠真」
その名前が出た瞬間、部屋の空気がわずかに動いた。
透はそう感じた。
悠真。
名前があった。
「子どもの幽霊」ではなく、「悠真」という名前が。
その名前を聞いただけで、噂の中の存在が少し人間に近づいた気がした。
「悠真くんは、当時六歳でした。体が弱く、あまり外で遊ぶことはできませんでしたが、人懐っこい子だったと聞いています」
「聞いています?」
悟が言った。
「真壁さんは、直接は知らないんですか」
真壁はわずかに沈黙した。
「知っています」
短い答えだった。
それ以上は説明しなかった。
透はそこに引っかかった。
知っているのか。
聞いているのか。
どちらなのか。
真壁の話し方は丁寧だったが、ところどころで言葉の選び方が不自然だった。
「悠真くんは、父親に遊んでもらいたがっていました」
真壁は続けた。
「ですが、宗一郎はいつも忙しかった。朝から晩まで旅館の仕事に追われ、従業員を叱り、取引先と会い、客を迎え、帳簿を見ていた。旅館のために生きているような男でした」
「子どもとは遊ばなかったんですか」
透が訊いた。
「一度も」
真壁は答えた。
その言葉は鋭かった。
一度も。
六歳にもなる息子と、一度も遊ばなかった父親。
透はその意味を考えた。
忙しいから遊べない日はある。疲れている日もある。父親にも事情はあるだろう。
けれど、一度も、というのはどういうことだろう。
たった一度、将棋でも、ビー玉でも、かくれんぼでも、池の周りを歩くだけでもよかったはずだ。
それすらしなかった。
「悠真くんは、何度も父親を誘ったそうです。『お父さん、遊ぼう』と。ですが宗一郎は、いつも同じように答えました」
真壁はそこで一度、息を吸った。
「あとで」
誰も何も言わなかった。
「その『あとで』は、一度も来ませんでした」
笑が膝の上で手を握った。
力は視線を落とした。
悟だけが、真壁を見ていた。
「母親は?」
悟が訊いた。
「お母さんは遊んでくれたんですか」
「母親は美沙という人で、とても優しい方でした。悠真くんのことを深く愛していた。しかし、彼女もまた苦しんでいました」
真壁の声が少し低くなった。
「宗一郎は、家庭では厳しすぎる男でした。妻に手を上げることも度々あったといいます」
笑が小さく顔をしかめた。
「悠真くんは、それを見ていたんですか」
「はい」
「六歳で?」
「はい」
透は言葉を失った。
六歳といえば幼稚園か、小学校に上がったばかりの年齢である。
父親に遊んでもらえないだけではない。母親が傷つけられているのを見ていた。止められるはずもない。けれど、止めたかったはずだ。
「悠真くんは、母親を慰めようとしていたそうです。泣いている母親のそばに座り、小さな手で背中を撫でた。『僕がいるから大丈夫』と、何度も言ったそうです」
笑が鼻をすすった。
力は黙っていた。
悟も、今度は何も言わなかった。
真壁は続けた。
「そんなある日、久遠館に関する噂が町に広がりました。宗一郎が妻に暴力を振るっている。旅館の金を横領した。不正な取引をしている。客や従業員をだましている。そういった話です」
「それは本当だったんですか?」
透が訊いた。
真壁はすぐには答えなかった。
その沈黙が透の疑問を浮かびあがらせた。
暴力については、真壁は先ほど「手を上げることもあった」と言った。
だが、横領や不正については、今、「噂」と言った。
全部を同じように語っているが、事実と噂が混ざっている。
「分かりません」
真壁は言った。
「当時の資料は多くは残っていません。関係者も、すでに亡くなった方が多い。ただ、その噂が広がってから、久遠館の評判が大きく落ちたことは確かです」
「客が来なくなった」
悟が言った。
「ええ」
「それで父親は?」
「追い詰められました」
真壁の表情は変わらなかった。
「そして、ある夜、自ら命を絶ちました」
部屋の空気がさらに重くなった。
窓の外は池が見えない暗闇になっている。
「場所は、この館ですか」
力が訊いた。
真壁はうなずいた。
「離れです」
離れ。撮影禁止の場所。
立ち入り禁止の場所。
四人は同時にその言葉を意識した。
「だから離れに行くなって」
力が小さく言った。
「そうです」
真壁は短く答えた。
「宗一郎は、遺書を残していました」
「何て書いてあったんですか」
笑が訊いた。
「妻と息子に、すまない、と」
それだけだった。
たったそれだけ。
透はその言葉をどう受け止めればいいのか分からなかった。
すまない。あまりに短い。
けれど、短いからこそ本心だったのかもしれない。
長く言い訳を書くこともできたはずだ。自分は悪くない、噂のせいだ、町のせいだ、従業員のせいだと。けれど、最後に残したのが「すまない」だけだったのなら、そこには何かがあるはずだ。
後悔や謝罪、あるいは、伝えきれなかった愛情。
「でも」
悟が言った。
「死んでから謝っても遅いやろ」
その言葉は冷たかった。
だが、間違ってはいなかった。
笑は何か言いかけて、やめた。
真壁は悟を責めなかった。
「その通りです」
真壁は静かに言った。
「人は、間に合わなくなってから気づくことがあります」
その言い方が、なぜか真壁自身の話のように聞こえた。
「宗一郎の死後、久遠館の経営はさらに悪化しました。美沙さんは心を病み、一年後、夫の後を追うように亡くなりました」
「自殺、ですか」
透が訊いた。
「はい」
笑は俯き、力は何も言えなかった。
悟は窓の外を見た。
「悠真くんは?」
透は訊いた。
「そのとき、悠真くんは七歳でした」
真壁の声が少しだけ揺れた。
本当に少しだけ。
だが、透には分かった。
ここからが、真壁にとって一番話しづらい部分なのだ。
「両親を失った悠真くんは、児童養護施設に引き取られました」
「親戚はいなかったんですか」
「いたようですが、久遠家に関わることを避けたのでしょう。世間の目もありましたから」
「ひどい」
笑が小さく言った。
「ええ」
真壁は否定しなかった。
「施設での悠真くんは、最初はとても静かでした。泣きもせず、怒りもせず、ただ窓の外を見ていた。けれど、同じ年頃の子どもたちが遊んでいるのを見ると、少しずつ輪に入るようになった」
「よかったやん」
力が言った。
「そうですね」
真壁はかすかに微笑んだ。
「彼は遊ぶことが好きでした。かくれんぼ、鬼ごっこ、ビー玉、折り紙。特に、誰かに見つけてもらう遊びが好きだった」
透の背中に、冷たいものが走った。
みいつけた。
廊下の奥から聞こえた声。
あれは、ただ脅かすための声ではなかったのかもしれない。
見つけてほしい。
そういう意味だったのかもしれない。
「けれど、ある日、悠真くんは施設から姿を消しました」
真壁は言った。
「山へ入ったのか、川へ落ちたのか、誰かに連れ去られたのか。いくら捜しても見つからなかった。警察も動きました。町の人も捜しました。それでも、彼は見つからなかった」
「死体も?」
悟が訊いた。
「見つかっていません」
その言葉が、部屋の中に残った。
死体が見つかっていない。
つまり、悠真という少年は、死んだことすら確定していない。
それなのに、久遠館ではその子の幽霊が出ると言われている。
「悠真くんが消えてからです」
真壁は続けた。
「久遠館で、奇妙なことが起こるようになったのは」
廊下の足音や子どもの笑い声、消える荷物、勝手に開く襖、池に浮かぶ赤いビー玉。
取り壊しのたびに起こる事故。
真壁はそれらを淡々と語った。
その語り口は、怪談を話すものではなかった。
報告書を読み上げるようだった。
だからこそ、余計に怖かった。
「取り壊しの話が出るたび、何かが起こりました。工事関係者の転落、重機の故障、原因不明の停電、突然の火災報知器の作動。幸い、命を落とした方はいません。しかし、それ以上進める者もいませんでした」
「悠真くんが邪魔してるんですか」
力が訊いた。
「そう考える方もいます」
「真壁さんは?」
透が訊いた。
「私は」
真壁は少しだけ目を伏せた。
「この館に、まだ帰りたい人がいるのだと思っています」
透はその言葉の意味を考えた。
帰りたい人。
それは悠真のことだろうか。
それとも、父親の宗一郎か。
母親の美沙か。
あるいは。
真壁自身のことなのか。
「でも、帰りたいなら、どうして客を怖がらせるんですか」
笑が言った。
「人が来なくなったら、余計に寂しいやん」
真壁は笑を見た。
その目は少し優しかった。
「子どもは、寂しいと、時に困ったことをします」
「だからって」
「分かっています」
真壁は静かに言った。
「分かっているつもりです」
その言い方は、また少し不自然だった。
分かっています、ではない。
分かっているつもりです。
自分にも言い聞かせているようだった。
「皆さまにお渡ししたお守りは、その子から皆さまを守るためのものです」
「その子って、悠真くんですか」
透が訊いた。
真壁は答えなかった。
「同時に、その子を傷つけないためのものでもあります」
「傷つけない?」
悟が言った。
「幽霊を?」
「はい」
真壁は悟を見た。
「怖がるだけなら、誰でもできます。ですが、怖がるだけでは、何も終わりません」
悟は黙った。
真壁は四人を見渡した。
「皆さまは、まだ子どもです。だからこそ、この館に歓迎されたのかもしれません」
「子どもだから?」
笑が言った。
「悠真くんと、歳が近いからですか」
「それもあるでしょう」
「他には?」
真壁は答えなかった。
代わりに、ゆっくりと立ち上がった。
「長くなりました。お布団をご用意いたします」
「待ってください」
透は思わず言った。
真壁が振り返る。
「真壁さんは、どうしてこの旅館を続けているんですか」
その質問に、力も笑も悟も、透を見た。
透自身も、なぜ今それを訊いたのか分からなかった。
ただ気になった。
久遠館にはほとんど客が来ない。怪奇現象の噂がある。取り壊そうとしても事故が起こる。維持するだけで金がかかる。
それなのに、真壁はここを守っている。
まるで、罰を受け続けるように。
真壁はしばらく黙っていた。
「この町には、守らなければならないものがあります」
「町のためですか」
「それもあります」
「それだけですか」
透が重ねて訊くと、真壁の表情が初めてわずかに崩れ、何かに耐えかねたような疲れた顔を覗かせた。
だが、それは一瞬で消えた。
「夜が深くなる前に、お休みください」
真壁は答えずに言った。
「この館では、夜更かしはおすすめしません」
それだけ言って、真壁は部屋を出て行った。
残された四人は、しばらく誰も口を開かなかった。
やがて力が、わざと明るく言った。
「……めっちゃ怖いやん」
「うん」
笑が素直にうなずいた。
「普通に帰りたい」
「今から?」
「無理やけど」
「まあ、明日になったら笑い話やろ」
力はそう言ったが、声は弱かった。
悟は窓際に立ち、外を見ていた。
「悟?」
透が呼ぶ。
「何?」
「悟はどう思う?」
「何が」
「今の話」
悟は少し考えた。
「話がきれいすぎる」
透は驚いた。
自分が感じていた違和感を、悟も同じように感じていた。
「きれいすぎる?」
笑が訊いた。
「父親は厳しくて、母親はかわいそうで、子どもは寂しくて、消えてから幽霊になった。分かりやすいやん」
「分かりやすかったらあかんの?」
「本当のことって、もっとぐちゃぐちゃしてるやろ」
悟は窓から離れた。
「真壁さんのあの様子やと、何か隠してるのは確実や」
透は言った。悟が透を見た。
「何を?」
「分からない。でも、話の中に噂と事実が混ざってる」
「たとえば?」
「父親が暴力を振るっていたことは、事実みたいに言ってた。でも、横領とか不祥事は噂って言ってた。なのに、その二つが同じ重さで語られてる」
「なるほどな」
悟は小さくうなずいた。
「透、そういうとこだけは鋭いな」
「だけって何や」
「褒めてる」
「褒めてない」
笑が少し笑った。
その笑いで、部屋の空気がほんの少しだけ軽くなった。
だが、その軽さは長く続かなかった。
廊下から、足音が聞こえた。
ぱた。
ぱた。
裸足の足音。
小さな子どもが、廊下を歩いているような音だった。
四人は一斉に襖を見た。
足音は、部屋の前で止まった。
そして、襖の向こうから、声がした。
「おとうさん」
笑が両手で口を押さえた。
力は動けなかった。
悟の顔から表情が消えた。
透は喉が乾くのを感じた。
声は、また聞こえた。
「おとうさん、あそぼ」
襖の下の隙間から、赤いものが転がり込んできた。
ビー玉だった。
赤いビー玉。
それは座卓の脚に当たって止まった。
ころん。
部屋の中に、その小さな音だけが残った。
透はビー玉を見つめた。
真壁はさっき、確かにビー玉を持って行ったはずだった。
袖の中にしまった。それなのに、またここにある。
誰も触れなかった。
誰も声を出せなかった。
やがて廊下の向こうで、遠ざかる足音がした。
ぱた。
ぱた。
ぱた。
それは奥の廊下へ向かっていった。真壁が行くなと言った場所へ。
力が震える声で言った。
「……なあ」
「何?」
悟が答えた。
「今の声さ」
「うん」
「俺らのこと、誰かと間違えてへん?」
透は答えられなかった。
けれど、同じことを考えていた。
おとうさん、あそぼ。
あの子は、父親を探している。
遊んでくれる誰かを探している。
それが、もし、この四人の中の誰かだったら。
透は自分のお守りを握った。
赤い糸が、また少し湿っている気がした。




