二
久遠館の玄関に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
外はあれほど暑かったのに、中は妙に冷えていた。冷房が効いている、という涼しさではない。古い木と畳と水気が混じった匂いの奥に、長い間閉じ込められていた夜のようなものがある。そういう冷たさだった。
透は無意識に肩をすくめた。
玄関は広かった。
正面には大きな上がり框があり、その向こうに黒光りする廊下が続いている。天井は高く、梁は太い。壁には古い旅館らしく、季節の花を描いた掛け軸や、いつ撮られたのか分からない白黒写真が飾られていた。
写真の中では、大勢の客が笑っていた。
浴衣姿の家族連れ。宴会場に並ぶ男たち。池のそばで傘を差す女性。玄関前で撮られた集合写真。どの写真にも、人の気配が濃く残っている。
今の久遠館には、その気配だけが残っていた。
人はいない。音もない。
ただ、写真の中の笑顔だけが、過去からこちらを見ている。
「すげえ……」
力が素直に声を漏らした。
「思ってたより、ちゃんと高級旅館してるやん」
「ちゃんとって何や」
笑が小声で言った。
「いや、もっとボロボロかと思ってた。廃墟みたいな」
「廃墟に泊まれるわけないやろ」
「でも、幽霊出そうな雰囲気はあるな」
力はスマホを取り出し、玄関を撮ろうとした。
そのとき、真壁が静かに言った。
「館内の撮影は、基本的には構いません」
「あ、ほんまですか」
力の顔が明るくなった。
「ただし、一部だけ撮影をご遠慮いただいている場所があります」
「一部?」
「後ほどご説明いたします」
真壁はそれ以上言わなかった。
その言い方が、透には引っかかった。
撮影禁止の場所があること自体は不思議ではない。旅館なら従業員用の部屋や機械室もあるだろう。けれど真壁の口調には、ただの規則を説明するものとは違う重たさがあった。
まるで、そこへ近づくこと自体を避けてほしいと言っているようだった。
「こちらで靴をお脱ぎください」
真壁は四人に客用の草履を並べた。
透たちは靴を脱ぎ、上がり框を越えた。
床板が、ぎい、と小さく鳴った。
それだけの音が、玄関全体に響いた。
笑がそっと透の袖をつまんだ。
「今の、ただの床の音やんな?」
「そうやと思うけど」
「そうやと思うって何?」
「古い建物やし、それくらいの音が鳴ってもおかしくないんちゃうかなと」
「そうやんな」
笑は自分に言い聞かせるようにうなずいた。
笑は怖がりだ。
けれど、怖いものが嫌いなわけではない。むしろ怖い話を自分から聞きたがる。ただし、聞き終わった後で必ず後悔する。夜にトイレへ行けなくなるくせに、怪談動画を最後まで見てしまう。そういう面倒なところがある。
透は笑のそういうところを、嫌いではなかった。
悟は何も言わず、廊下の奥を見ていた。
力はさっそくスマホを構えながら歩いている。
「うわ、廊下長っ。これ夜に歩いたら絶対怖いやつや」
「力さん」
真壁が振り返った。
「はい?」
「夜間、奥の廊下にはお一人で行かれませんように」
力の笑顔が、少し固まった。
「……それは、危ないからですか?」
「ええ」
真壁は微笑んだ。
「古い建物ですから。段差もございますし、明かりの届きにくい場所もあります」
「なるほど」
力はそう言ったが、明らかに納得していなかった。
透も同じだった。
段差や暗さを理由にするなら、「奥の廊下」と限定する必要はない。久遠館全体が古いのだから、どこも危ないはずだ。
それでも真壁は、奥の廊下と言った。
廊下を進むにつれて、館内の広さが分かってきた。
久遠館は外から見た以上に大きかった。玄関から伸びる廊下はいくつかの棟につながっており、途中に中庭や渡り廊下がある。窓の外には大きな池が見えた。池の水面には蓮の葉が浮かび、その向こうに離れの建物が並んでいる。
すべてが美しかった。それなのに、どこか沈んでいた。
手入れはされている。埃もほとんどない。床は磨かれ、庭の草も刈られている。だが、客の声がしないだけで、旅館というものはこんなにも寂しく見えるのかと透は思った。
笑い声も、足音も、食器の触れ合う音もない。
人が楽しむために作られた場所から人が消えると、建物そのものが何かを失ったように見える。
「今日、他のお客さんはいないんですか?」
笑が訊いた。
「ええ。皆さまだけです」
真壁は答えた。
「貸し切りやん」
力が少し嬉しそうに言った。
「いいのかな、私たちだけで」
笑は逆に不安そうだった。
「お気になさらず。今の久遠館では、そう珍しいことではありません」
真壁の声には、寂しさも自嘲もなかった。
ただ、事実を言っているだけだった。それがかえって痛々しかった。
「こちらのお部屋をお使いください」
真壁が案内したのは、池に面した大きな和室だった。
襖を開けると、畳の匂いがふわりと立った。十二畳ほどの主室に、次の間がついている。床の間には山百合が生けられ、低い座卓の上には茶菓子が置かれていた。窓の外には池が広がり、その向こうに山の緑が迫っている。
「うわ、広っ」
力が荷物を置いた。
「四人でここ使っていいんですか?」
透が訊くと、真壁はうなずいた。
「もちろんです。お布団は夕食後にご用意いたします。お風呂は大浴場をご利用いただけますが、露天風呂は現在閉鎖しております」
「露天風呂、閉鎖なんですか?」
笑が少し残念そうに言った。
「安全確認が済んでおりませんので」
また危険という理由かと透は思った。
この旅館では、都合の悪いことがすべて危険という言葉に隠される。
そんな気がした。
「それから」
真壁は袖の中から、小さな白い封筒を四つ取り出した。
封筒は和紙でできていた。表には何も書かれていない。ただ、口の部分が赤い糸で結ばれている。
「皆さまに、こちらをお渡ししておきます」
「何ですか?」
悟が訊いた。
「お守りです」
真壁は四つの封筒を座卓の上に並べた。
「久遠館では、昔からお子様のお客様にお渡ししていたものです。どうか、お持ちください」
「お札みたいなやつですか?」
力が言った。
「そのようなものです」
「開けてもいいですか?」
悟が封筒に手を伸ばしかけると、真壁の表情が一瞬だけ変わった。
本当に一瞬だったが、透には分かった。
「開けないでください」
真壁の声は静かだが、その静かさに似合わない焦りが漏れていた。
悟の手が止まる。
「……開けたら駄目なんですか?」
「はい」
「中、何が入ってるんです?」
「小さな護符です」
「じゃあ見てもよくないですか?」
悟は少し笑っていた。
いつもの、相手の反応を試すような笑い方だった。
透は嫌な予感がした。
悟はこういうとき、わざと境界線を踏む。相手が本気で止めるかどうかを確かめるために。
「悟」
透が名前を呼んだ。
悟は肩をすくめた。
「冗談やん」
「冗談でも、やめとけよ」
力も珍しく真面目な声を出した。
笑は封筒を見つめたまま、何も言わなかった。
真壁は悟から視線を外し、四人全員に向かって言った。
「この封は、決して解かないでください。破らないでください。失くさないでください。そして今夜、お休みになるときには、枕元に置いてください」
「何か意味があるんですか?」
透が訊いた。
真壁は少し間を置いた。
「子どもは、寂しがりですから」
答えになっていなかった。
だが、その一言で、部屋の空気が変わった。
笑が小さく息を飲む。
力がスマホを下ろす。
悟だけが、ふっと短く笑った。
「幽霊の子どもが、寂しがってるってことですか」
真壁は答えなかった。
ただ、障子の向こうの池を見た。
水面に、白い雲が映っている。風がないのに、その雲が小さく揺れた。
「夕食は十八時にお持ちします。それまではご自由にお過ごしください。ただし、先ほど申し上げた通り、奥の廊下と離れには入らないようお願いいたします」
「離れも?」
力がすぐに反応した。
「はい」
「撮影禁止の場所って、そこですか?」
「そうです」
「理由は?」
「古く、危険ですので」
またその言葉だった。
真壁は深く頭を下げた。
「では、ごゆっくり」
襖が閉じられた。
真壁の足音が廊下を遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなってから、力が口を開いた。
「絶対なんかあるやん」
「あるな」
悟が言った。
「奥の廊下と離れ。もう答え出てもうてるやん」
「行く気?」
笑の声が鋭くなった。
「今すぐとは言ってない」
「夜に行く気やん」
「行くなら夜やろ」
「最悪」
笑は本気で嫌そうだった。
透は座卓の上の封筒を見ていた。
四つのお守り。
どれも同じように見える。
白い和紙。赤い糸。何も書かれていない表面。
「誰がどれとる?」
力が訊いた。
「どれでも一緒やろ」
悟が言った。
「そうやな。じゃあ適当に取ろか」
力が一つ取った。
笑も恐る恐る一つ取った。
悟が手近なものを取った。
透も残った一つを取った。
透は自分の手元のお守りを見た。きれいに赤い糸は結ばれており、和紙も破れてはいない。
少なくとも、自分のものは。
「みんな、もう一回見せて」
透は言った。
「何で?」
力が言う。
「さっき、一つだけちょっと変やった気がする」
「変って?」
「糸の結び目が乱れてたような気がする」
「怖いこと言わんといて」
笑が自分のお守りを両手で包むように持った。
「真壁さんがあんだけ真剣に言うくらいやから、今お守りになんかおかしいところがないか、もう一回だけ確認しとこ。開けるんじゃなくて見るだけやから問題ないやろ。」
力は自分のお守りを座卓に置いた。
笑も置いた。
悟も少し遅れて置いた。
透も置いた。
四つのお守りが、また座卓に並んだ。
だが、どれも同じように見えた。
赤い糸は結ばれている。
封筒は白い。
破れてもいない。
「どれ?」
悟が訊いた。
「……どれも一緒やな」
「気のせいやろ」
「そうかもやな」
「透は考えすぎやねん」
悟はそう言って、自分のお守りを取り戻した。
力も笑も、それぞれのお守りを手に取った。
透も最後の一つを取った。
不思議だった。たしかに、ひとつだけ乱れて見えたはずなのに。
今は、どれも同じに見える。
見間違いだったのだろうか。
それとも、誰かがすり替えたのだろうか。
いや、そんな暇はなかった。
透は自分の考えを打ち消した。
ここに着いてから、何でも怪しく見えているだけだ。
そう思おうとした。
そのときだった。
ころん。
どこかで小さな音がした。
四人が同時に黙った。
ころん。
何かが転がる音。
畳の上ではない。
廊下だ。襖の向こう。
「……何?」
笑が小声で言った。
力がスマホを構える。
透は襖を見た。
障子紙の向こうに、細い影が映った。
床に近い位置。
丸いものが、ゆっくり転がっている。
ころん。
ころん。
その影は襖の前で止まった。
「開けるぞ」
力が言った。
「待って」
笑が止めた。
「でも、何かある」
「あるから怖いんやろ」
「開けない方が怖いやろ」
力が襖に手をかけた。
透は止めなかった。
悟も黙って見ていた。
襖が開く。
廊下には誰もいなかった。
ただ、床の上に、赤いビー玉が一つ転がっていた。
バスの中で見つけたものと、同じものだった。
「これ……」
笑が声を震わせた。
「バスのやつ?」
「そう見える」
透が答えた。
「誰が持ってた?」
「悟が拾ってたやろ?」
力が訊いた。
「あのあと力が見たいって言うたから渡したはずやぞ。お前どっかで落としたとか?」
「え、そうやったか?」
バスの中で、悟が拾った。
それは透も覚えている。
けれどその後、宿に着き、真壁に挨拶し、玄関を上がり、この部屋へ案内されるまでの間に、そのビー玉を誰が持っていたのか。
透には分からなかった。
悟が持っていたような気もする。
力が面白がって受け取ったような気もする。
笑が「気持ち悪いからしまって」と言ったような気もする。
記憶が曖昧だった。
その曖昧さが、気持ち悪かった。
「誰か、持ってた?」
笑が訊いた。
「わからん」
力が言った。
「俺は持ってへんで」
悟も言った。
「透は?」
「僕でもない」
四人は廊下のビー玉を見つめた。
赤いガラス玉。
中に白い筋が入っている。
その白い筋が、透には小さな指のように見えた。
硝子の内側から、誰かが外へ出ようとしているような、そんな白い指に。
「触らん方がいい」
笑が言った。
「でも、このまま置いとく方が嫌やろ」
力がそう言って、ビー玉に手を伸ばした。
その瞬間、廊下の奥から声がした。
「みいつけた」
小さな男の子の声だった。
笑が短く悲鳴を上げた。
力の手が止まった。
悟が顔を上げた。
透は動けなかった。
声は確かに聞こえた。
廊下の奥から、真壁が一人で行くなと言った方角から。
誰もいないはずの場所から。
「今の……」
笑の声は震えていた。
「聞こえたよな?」
力が言った。
「聞こえた」
透は答えた。
悟は黙っていた。
「悟?」
透が呼ぶと、悟はようやく口を開いた。
「聞こえた」
その声はいつもの悟のものだった。
少し低く、少し不機嫌そうで、怖がっていることを隠そうとしている声だった。
透一人の聞き間違いではない。全員が聞いた。
その事実が、安心であると同時に、より恐ろしかった。
力はスマホを確認した。
「……撮れてへん」
「撮ったらあかんって」
笑が怒った。
「いや、証拠になるやろ」
「証拠とか言ってる場合じゃないやん」
「じゃあどうするん?」
「真壁さん呼ぼ」
笑が即答した。
「いや、呼ぶ前にちょっとだけ廊下見に――」
「行かへん」
透は言った。
自分でも驚くほど強い声だった。
三人が透を見た。
「今は行かない方がいい」
「何で?」
力が訊いた。
「分からない。でも、向こうから誘ってる気がする」
「誘ってる?」
笑が小さく繰り返した。
透は廊下の奥を見た。
暗い。
日中なのに、廊下の奥だけが夕方を通り越して夜になっているようだった。
そこから何かがこちらを見ている。
見ているだけではない。待っている。
誰かが来るのを。
誰かが遊びに来てくれるのを。
そんな気配がした。
「真壁さんを呼ぼう」
透はもう一度言った。
今度は誰も反対しなかった。
力が廊下に出る。
ビー玉には触らなかった。
「すみませーん」
力の声が廊下に響いた。
「真壁さーん」
返事はない。
久遠館の中は静まり返っていた。
人がいないだけではない。
建物そのものが息を止めているようだった。
「真壁さーん!」
もう一度、力が呼んだ。
すると、遠くから足音が聞こえた。
ゆっくりとした足音。
真壁が廊下の角から現れた。
「どうされましたか」
何事もなかったような顔だった。
力がビー玉を指さした。
「これが、勝手に転がってきて。それで、声が」
「声?」
真壁はビー玉を見た。
その表情が、ほんの少しだけ曇った。
けれどすぐに元の穏やかな顔に戻った。
「どのような声でしたか」
「子どもの声です」
透が答えた。
「みいつけた、って」
真壁は黙った。
その沈黙は、否定ではなかった。
知らない、という沈黙でもなかった。
知っている。そういう沈黙だった。
「……そうですか」
真壁は低く言った。
「やはり、皆さまは歓迎されているようです」
「歓迎?」
笑が信じられないという顔をした。
「今のが?」
「ええ」
真壁は廊下のビー玉を拾い上げた。
その手つきは慣れていた。
まるで、何度も同じものを拾ったことがあるようだった。
「この館では、時々こういうことがございます」
「時々って」
力が言った。
「普通にあるんですか?」
「普通ではありません」
真壁は静かに答えた。
「ですが、珍しくもありません」
笑が透の近くに寄った。
悟は腕を組み、真壁を見ていた。
「さっきの声は、誰なんですか」
悟が訊いた。
真壁はすぐには答えなかった。
廊下の奥へ目を向けた。
その視線は、ただ暗がりを見ているものではなかった。
誰かの姿を探しているようだった。
「この館には、昔、小さなお子様がいらっしゃいました」
真壁は言った。
「この久遠館の跡取り息子です」
「その子が、幽霊になったんですか?」
力が訊いた。
「そう噂されています」
「噂?」
「私がそう決めつけることはできませんので」
真壁はビー玉を袖の中にしまった。
「ただ、ひとつだけお願いがあります」
真壁の声が、少し硬くなった。
「先ほどお渡ししたお守りは、必ずお持ちください。今夜お休みになるときには、枕元に置いてください。そして、絶対に封を解かないでください」
「もし、赤い糸が乱れてるくらいやったらどうですか?」
透は思わず訊いていた。
真壁の目が透を見た。
「それはどの封筒ですか?」
「そう見えたものがあった気がしただけです」
「どなたのものですか」
「分かりません」
透は正直に答えた。
「一度、座卓に並べたら、どれか分からなくなりました」
真壁は四人の顔を順に見た。
力。
笑。
悟。
透。
それぞれの手元にある白い封筒を見た。
「確認いたしましょう」
真壁は言った。
「皆さま、お守りをこちらへ」
四人はお守りを座卓に置いた。
真壁は一つずつ手に取った。
赤い糸。
白い封筒。
角。
結び目。
透は真壁の指先を見つめた。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
真壁の手が、最後の一つで止まった。
ほんの一瞬。
けれど確かに止まった。
「何かありましたか?」
透が訊いた。
真壁は顔を上げた。
「いいえ」
そう言って、四つのお守りを元通りに並べた。
「どれも問題ありません」
その言葉は、嘘のように聞こえた。
だが、どこが嘘なのか、透には分からなかった。
「では、私は夕食の準備がございますので」
真壁は立ち上がった。
「どうか、奥の廊下には近づかないように」
そう言い残して、真壁は部屋を出て行った。
襖が閉まり、足音が遠ざかる。
四人はしばらく黙っていた。
「なあ」
力が言った。
「今の、絶対最後のやつで止まったよな」
「止まった」
透は答えた。
「でも、最後の封筒で誰のやつやった?」
笑が訊いた。
誰も答えられなかった。
真壁は一つずつ確認していたが、確認しているときに順番が入れ替わり、最後に確認したお守りが、誰のものだったのか分からなかった。
「気持ち悪いな」
悟が言った。
その言葉は、四人全員の気持ちだった。
気持ち悪い。
怖い、よりも先にそれだった。
何かが起きている。
けれど、何が起きているのか分からない。
誰かが嘘をついているのかもしれない。
けれど、誰が嘘をついているのか分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
この旅館にいる子どもの幽霊とやらは、僕たちを歓迎している。
透は自分のお守りを手に取った。
赤い糸は、きちんと結ばれていた。
だが、その結び目が、さっきより少しだけ固く締まっているように見えた。
触ると、指先にかすかな湿り気があった。
赤い糸が湿っていた。
汗かと思った。自分の手が汗ばんでいるだけだと。
けれど違った。
透の指先にはうっすらと赤い色がついていた。
血のような色だった。
窓の外で、池の水面が揺れた。風はなかった。
それなのに、蓮の葉の間を、小さな波紋が走っていた。
まるで、見えない誰かが、水面に小石を投げて遊んでいるように。
ころん。
またどこか遠くで、ビー玉の転がる音がした。
今度は誰も、襖を開けようとはしなかった。




