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みいつけた  作者: 紙とペン


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15/16

十五

 夜明け前の久遠館は、静かだった。

 あれほど鳴り続けていたビー玉の音も、子どもの足音も、誰かの泣き声も、もう聞こえなかった。

 離れの奥の間には、白い光の名残だけがあった。

 畳の上に置かれた赤いビー玉。

 それだけが、今起きたことが夢ではなかった証拠のように、静かに光っていた。

 透はしばらく動けなかった。

 悠真も、宗一郎も、美沙もいない。

 さっきまでそこにいたはずなのに。

 確かに声を聞いたはずなのに。

 悠真が「ただいま」と言った瞬間、長い間この館に張りついていた何かが、ふっとほどけ、消えてしまった。

 許された、というのとは少し違う。

 すべてが解決した、というのも違う。

 ただ、帰る場所がなかった子どもに、ようやく帰る場所ができた。

 それだけだった。

 けれど、それだけで十分なのかもしれなかった。

「終わったんか」

 力が小さく言った。

 その声は、まだ少し震えていた。

 誰もすぐには答えなかった。

 終わった、と口にした途端、またどこかでビー玉が転がり始めそうで怖かった。

 悟は畳の上に座り込んでいた。

 顔色は悪い。目の下には深い影がある。

 透が近づくと、悟は顔を上げた。

「なんや?」

「大丈夫?」

「大丈夫に見える?」

「見えへんな」

「じゃあ訊くなや」

 その返しがあまりにも悟らしくて、透は少し笑った。

 笑も涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、ふっと笑った。

 力は大きく息を吐いた。

「戻ってきたな、悟」

「上から目線で話すのやめろや」

「ええやん。俺はおまえの命の恩人やからな」

「意味分からん」

「床下から逃げてくるときに俺が赤い紐引っ張らへんかったら、今頃おまえはぺしゃんこやって意味や」

「そんなわけないやろ。みんな自分の足で頑張って走ったから助かっただけや。」

「なんやと!」

 力と悟がいつものように口喧嘩を始めた様子を見て、笑は安心したようにまた泣いた。

「みなさんお怪我はございませんでしょうか」

 真壁が透たちの心配をした。

「あんだけ元気に喧嘩できるくらいなんで、大丈夫です」

 透は真壁に答えた。

 真壁は最初に会ったときとはまるで違っていた。

 背筋の伸びた、どこか底の読めない旅館の主ではない。今は、疲れ切ってはいるが、長く抱えていた罪をようやく誰かの前に置き、解放された人間であった。

 柳田も同じだった。

 彼女は畳の上に残されたビー玉を拾おうとして、途中で手を止めた。

「触っても、よろしいのでしょうか」

 誰に訊いたのか分からなかった。

 真壁にも、透たちにも、もういない悠真にも聞いているようだった。

 すると、部屋の外から小さな音がした。

 

 ころん。

 

 全員が振り返った。

 だが、誰もいなかった。

 廊下に、赤いビー玉が一つ転がっていた。

 それはゆっくりと奥の間へ入り、畳の上のビー玉のそばで止まった。

 

 ころん。

 

 まるで、いいよ、と言うように。

 柳田は涙をこぼした。

「ありがとうございます」

 そう言って、畳の上のビー玉をそっと拾った。

 その手は震えていたが、もう恐怖だけではなかった。

「このビー玉は、悠真坊ちゃんのものです。あの子の遺骨と一緒に、きちんと納めます」

 遺骨。

 その言葉で、透は現実に戻された。

 そうだ。

 終わったからといって、すべてが消えるわけではない。

 床下には悠真の骨がある。黒瀬の骨もある。

 偽造書類も、手紙も、日記の破片のこともある。

 警察に届けなければならない。

 久遠館の過去は、公にしなければならない。

 悠真は帰るべきところに帰ることできた。

 しかし、生きている人間の仕事は、ここから始まるのだ。

「警察に連絡しましょう」

 透が言った。

 真壁はうなずいた。

「黒瀬のことも、久遠館の噂のことも全部」

 真壁は少しだけ苦しそうに目を伏せた。

 だが、今度は逃げなかった。

「すべて話します」

 柳田も頷いた。

「私も証言します。昔、見て見ぬふりをしたことも」

「柳田さん」

「もう遅いかもしれません」

 柳田は言った。

「でも、遅いからといって、何もしない理由にはなりません」

 柳田の言う通り、みんな遅すぎたのかもしれない。

 宗一郎も、美沙も、真壁も、柳田も。

 そして、透たちも。

 それでも、今からできることはある。

 遅すぎたとしても、今やらなければならないことがある。

 力がスマホを取り出そうとして、割れていることを思い出した。

「あ、俺のスマホ……」

 画面はひび割れ、電源は落ちたままだった。

「終わった」

 力は真顔で言った。

「修理代えぐいわ」

 笑が泣き笑いになった。

「この状況で最初にそれ?」

「大事やろ。俺の全財産みたいなもんやぞ」

「命助かっただけでええやん」

「命とスマホは別や」

 悟がぼそっと言った。

「おまえ、あの動画が残ってたらバズるとか思ってたやろ」

「なんでわかってん」

「最低やな」

「でももう電源入らんし、バズらんわ」

「そこを残念がるな」

 四人の会話が戻ってきた。

 本当に戻ってきたのだと、透は思った。

 怖かった。

 死ぬほど怖かった。

 けれど今、四人で言い合っている。

 それが、あまりにもありがたかった。

 真壁と柳田は、そんな四人を黙って見ていた。

 その目には、少しだけ救われたような色があった。


 やがて、離れを出ることになった。

 奥の間を出る前に、透はもう一度振り返った。

 白い部屋。

 鏡台。

 赤い金魚の折り紙。

 畳の上に残った、かすかな光。

 そこに三人の姿はない。

 けれど、もう空っぽではなかった。

 誰かが長い旅を終えた後の部屋。

 そんなふうに見えた。

 渡り廊下へ出ると、空が少しだけ明るくなり始めていた。

 山の稜線の向こうが、青くほどけている。

 池の水面には、夜の黒がまだ残っていたが、その上に朝の薄い光が広がっていた。

 蓮の葉の間に、赤いビー玉は浮かんでいない。

 小さな手も見えない。

 ただ、水面が静かに揺れているだけだった。

「朝や」

 笑が呟いた。

「ほんまやな」

 力が大きく伸びをした。

「生きて朝迎えるって、すごいな」

「急に人生語るな」

 悟が言った。

「いや、マジで思ったんや」

「分かるで」

 透が頷いた。

 夜が明けることが、こんなにもありがたいと思ったのは初めてだった。

 本館へ戻ると、空気が変わっていた。

 同じ廊下、同じ襖、同じ古い梁であるはずなのに、昨夜まであった重さが感じられない。

 もちろん古い旅館であることに変わりはなく、寂しさも残っている。長く客の来なかった場所特有の静けさもある。

 けれど、閉じ込められている感じがなかった。

 久遠館は、ようやく息をしているように見えた。

 玄関近くまで戻ったとき、柳田が足を止めた。

 壁に掛けられた古い写真を見ている。

 大勢の客が笑う写真。

 家族連れ、宴会、池のほとり。

 その一枚の端に、小さな男の子が写っていた。

 悠真だった。

 写真の中の悠真は、こちらに向かってビー玉を見せている。

 昨日見たときには気づかなかった。

「こんな写真、ありましたか」

 笑が小声で訊いた。

 真壁は写真を見つめたまま答えた。

「いいえ」

「じゃあ」

「今、戻ってきたのでしょう」

 真壁の声は穏やかだった。

 写真の中の悠真は笑っていた。

 隣には美沙がいる。

 少し離れて、宗一郎が立っている。

 宗一郎は相変わらずぎこちない顔をしている。

 けれど、その片手は悠真の肩に置かれていた。

 今度は遠慮がちではなく、しっかりと。

 透は胸の奥が熱くなった。

「ちゃんと、家族写真やな」

 力が言った。

 誰も茶化さなかった。

 

 それからの時間は、現実的だった。

 朝六時を過ぎ、山間部でも電波が少し戻った。

 真壁は警察に連絡した。

 最初は「古い旅館の床下から人骨が見つかった」という説明だった。警察は半信半疑のようだったが、黒瀬のものと思われる遺留品や書類があると聞くと、すぐに来ることになった。

 観光協会にも連絡が入った。

 笑の叔母から何度も電話がかかってきた。

 笑は何をどう説明すればいいのか分からず、ただ「生きてる」「みんな生きてるって」「でも、ちょっと大変やねん」と繰り返していた。

 それを聞いた力が横から言った。

「ちょっとちゃうかったやろ」

「じゃあ何て言えばええん?」

「めちゃくちゃ大変」

「そんなこと言ったら余計心配するやん」

「もう心配させてるやろ」

 悟は畳に寝転がりながら天井を見ていた。

 疲れ切っているようだった。

 透はその隣に座った。

「大丈夫か?」

「それ、今日何回目や」

「分からへん」

「大丈夫じゃないけど、生きてるで」

「うん」

「俺、憑りつかれてたとき、何か変なこと言ってたか?」

 透は少し迷った。

 悟は目だけをこちらへ向けた。

「言えよ」

「悠真くんみたいな声を出してたときあった」

「やっぱり」

「覚えてる?」

「少しだけ」

 悟は天井を見た。

「自分の中に誰かがいる感じやった。いや、誰かというより、感情かな。寂しいとか、腹立つとか、待ってたとか、そういうのが勝手に膨らむ感じ」

 透は黙って聞いていた。

「たぶん、俺の中にも似たようなんがあったせいやな」

「お父さんのこと?」

 悟は少しだけ笑った。

「聞いてたんか」

「そら聞こえてたやろ、あの距離やったら」

「まあ、そうやな」

 悟は目を閉じた。

「俺の父親、生きてるけど、家にほとんどおらへん。別に暴力とかはない。金も入れてる。だから、文句言ったらあかん感じがする。でも、約束は守らんやつや」

「そうやったんやな」

「俺はそれを、どうでもいいって思ってた」

「うん」

「でも、どうでもよくなかったんやな」

 悟の声は淡々としていた。

 けれど、それはいつもの冷たさではなかった。

 ようやく自分の中の何かを認めた人の声だった。

「帰ったら、父親と話すん?」

 透が訊くと、悟は嫌そうに顔をしかめた。

「いきなり重いこと聞くなよ」

「ごめん」

「でも、まあ」

 悟は少し考えた。

「一回くらいは言うかもな。約束守れって」

「いいと思う」

「おまえに言われんでもな」

 その言い方がいつもの悟で、透は少し安心した。

 警察が来たのは、七時半を過ぎた頃だった。

 それから久遠館は現場確認や事情聴取、床下の確認などで慌ただしくなった。

 人骨らしきものが二か所から見つかったことで、警察官たちの表情も変わっていった。

 もちろん、幽霊の話をそのまま信じる人はいなかった。

 透たちも、すべては話せなかった。

 赤いビー玉が勝手に転がったことや悠真が現れたこと。

 宗一郎や美沙の声を聞いたこと。

 黒瀬の影と対峙したこと。

 それらをそのまま言えば、疲労と恐怖による錯覚として処理されるだろう。

 それでも、他に証拠はあった。

 悠真の日記。

 破られたページ。

 黒瀬の偽造書類。

 黒瀬のメモ。

 宗一郎の遺書。

 それらだけで十分だった。

 少なくとも、久遠館で何が起きていたのかを調べ直すには。

 それから、観光協会の人や保護者たちも到着した。

 笑の母親は、笑を見るなり泣きながら抱きしめた。

 力の父親は、力の首の痕を見て顔色を変えた。

 悟の母親は、悟の手を握ったまま何度も謝っていた。

 透の両親も来た。

 母は透を抱きしめた。

 父は何も言わず、透の頭に手を置いた。

 その手の重さに、透はなぜか泣きそうになった。

 父親の手。

 悠真が生きている間に欲しかったものだ。

 宗一郎が伸ばせなかったもの。

 透はその手を、今まで当たり前のものだと思っていた。

 しかし、当たり前ではないと、今ならそう思える。

 当たり前に誰かが帰ってくること。

 名前を呼ばれること。

 ただいまと言えること。

 それらは全部、奇跡のようなものなのかもしれなかった。

 久遠館を出る前、透たちはもう一度玄関前に立った。

 真壁と柳田が見送りに出てきた。

 二人とも、ひどく疲れていた。

 だが、表情は昨夜よりもずっと穏やかだった。

「本当に、ありがとうございました」

 真壁は深く頭を下げた。

「皆さまには、危険な目に遭わせてしまいました。謝って済むことではありません」

「ほんまやで」

 悟が言った。

 力が小声で「おい」と止めようとしたが、悟は続けた。

「でも、謝るなら俺らだけじゃなくて、悠真くんにも、ちゃんと謝ってあげてください」

 真壁は顔を上げた。

「はい」

「あと、自分を罰するために旅館続けるのは、もうやめた方がいいと思います」

 真壁は驚いたように悟を見た。

 悟は少し気まずそうに目を逸らした。

「知らんけど」

 その最後の一言が、あまりにも悟らしかった。

 笑が言った。

「私も、久遠館はなくならんといてほしいです」

 真壁は笑を見た。

「怖かったです。ほんまに怖かった。でも、料理もおいしかったし、建物もきれいやし、そもそも悠真くんたちの家やし」

 笑は少し言葉を探した。

「ここ、呪われた旅館ってだけで終わったら、悲しすぎると思うんです」

 力がうなずいた。

「俺もそう思うわ。ちゃんと発信とかしたら、来たい人おると思うで。もちろん、変な心霊スポット扱いはあかんけど」

「何言うてんねん。おまえが一番しそうやったやろ」

 悟が言った。

「俺は成長したんや」

「一晩で?」

「人は一晩で変わることもある」

「軽いなぁ」

 透は真壁を見た。

「久遠館のこと、僕たちがSNSで発信します」

「発信ですか?」

「はい。怖い噂としてじゃなくて、ちゃんとした旅館として。ここであったことを全部は書けないですけど、来てよかったと思ったことは書けます」

 真壁は黙っていた。

 その目に、わずかに涙が浮かんでいた。

 玄関の奥で、ころん、と小さな音がした。

 赤いビー玉が一つ、上がり框の近くに転がってきた。

 誰も悲鳴を上げなかった。

 ビー玉は、透たちの前で止まった。

 朝の光を受けて、きれいに輝いている。

 力が笑った。

「これってもしかして、書いてええってことちゃうの?」

 笑も笑った。

 悟は腕を組んだ。

「ほんまか?発信したらまた怖がらすぞってことちゃうか?」

 透はビー玉を見た。

 その中の白い筋が、ほんの一瞬、小さく手を振ったように見えた。

 見間違いかもしれない。

 でも、それでよかった。

 透たちは久遠館を出た。

 バス停へ向かう道で、四人はしばらく無言だった。

 山の緑は、昨日よりも明るく見えた。

 セミが鳴いている。

 夏の朝だった。

 昨日と同じ夏なのに、透にはまるで別の季節のように思えた。

「なあ」

 力が言った。

「この話、誰か信じると思う?」

「信じへんやろ」

 悟が即答した。

「やっぱり?」

「幽霊出て、床下で骨見つけて、家族が成仏しましたって言っても、普通は疲れて幻覚見たと思われる」

「まあそうやな」

 笑が言った。

「でも、全部ほんまやもんな」

「うん」

 透はうなずいた。

「全部は書けへんけど、伝えたいことは書けると思う」

「何を書くん?」

 笑が訊いた。

 透は少し考えた。

「久遠館は、怖い噂があったけど、怖いだけの場所じゃないってこと」

「うん」

「それに、名前を忘れられた子がいたってこと」

「あ、そうか」

「その子は、本当は誰かと遊びたかっただけかもしれないってこと」

 力が空を見上げた。

「それ、ええな」

 悟が言った。

「でも、心霊スポットとして人が押し寄せたら嫌やな」

「そこはちゃんと書く」

 透は言った。

「ふざけ半分で行く場所じゃない。でも、いい旅館だって」

「料理うまかったしな」

 力が言った。

「そこ大事やな」

 笑も頷いた。

「あと、真壁さんと柳田さんのことも、悪く書きたくない」

「でも、隠してたことはある」

 悟が言った。

「うん。だから、全部美談にはしない」

 透は言った。

「怖いことも、悪いことも、取り返しがつかないこともあった。でも、それでも終わり方を変えることはできるかもしれない。そういう話にしたい」

 悟は透を見た。

「おまえ、作家みたいなこと言うな」

「そう?」

「うん、やっぱり眼鏡かけてるだけのことあるわ」

「かけてへん」

 力が笑った。

「でもほんまに書くよ」

 透は言った。

 バスが来た。

 昨日と同じ、白と緑の古い路線バスだった。

 扉が開く。

 四人は乗り込んだ。

 席に座ると、久遠館の屋根が窓の向こうに見えた。

 黒い瓦屋根。

 山に抱かれるようにして建つ、古い旅館。

 昨日見たときは、眠っている屋敷のようだった。

 今は違う。

 長い夢から覚めた家のように見えた。

 バスが動き出す。

 久遠館が少しずつ遠ざかる。

 その玄関前に、小さな影が立っているように見えた。

 白い服の男の子。

 隣に、父と母。

 三人で並んでいる。

 男の子が手を振った。

 透は窓越しに、小さく手を振り返した。

「何してんの?」

 笑が訊いた。

「何でもない」

「またそれ?」

 悟が窓の外を見た。

 力も身を乗り出す。

 けれど、もう影は見えなかった。

 ただ、朝の光に包まれた久遠館があるだけだった。

 夏の空は、恐ろしいほど青かった。

 あの夜の黒さが嘘のように。

 透はリュックの中からスマホを取り出した。

 電波が戻っていた。

 メモアプリを開く。

 最初の一行に、何を書けばいいのか迷った。

 怖い話として始めるべきか。

 旅館の紹介として始めるべきか。

 それとも、悠真の名前から始めるべきか。

 それに、その先に続く言葉も、まだまとまっていない。

 でも、書ける気がした。

 自分たちが見たこと。

 怖かったこと。

 見つけたこと。

 帰ってきたこと。

 そして、あの子が最後に言った言葉。


 ただいま。


 バスは山道を下っていく。

 窓の外で、夏の光が流れていた。

 透はスマホを握りしめた。

 物語は終わった。

 けれど、伝えることは、まだ終わっていなかった。

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