十五
夜明け前の久遠館は、静かだった。
あれほど鳴り続けていたビー玉の音も、子どもの足音も、誰かの泣き声も、もう聞こえなかった。
離れの奥の間には、白い光の名残だけがあった。
畳の上に置かれた赤いビー玉。
それだけが、今起きたことが夢ではなかった証拠のように、静かに光っていた。
透はしばらく動けなかった。
悠真も、宗一郎も、美沙もいない。
さっきまでそこにいたはずなのに。
確かに声を聞いたはずなのに。
悠真が「ただいま」と言った瞬間、長い間この館に張りついていた何かが、ふっとほどけ、消えてしまった。
許された、というのとは少し違う。
すべてが解決した、というのも違う。
ただ、帰る場所がなかった子どもに、ようやく帰る場所ができた。
それだけだった。
けれど、それだけで十分なのかもしれなかった。
「終わったんか」
力が小さく言った。
その声は、まだ少し震えていた。
誰もすぐには答えなかった。
終わった、と口にした途端、またどこかでビー玉が転がり始めそうで怖かった。
悟は畳の上に座り込んでいた。
顔色は悪い。目の下には深い影がある。
透が近づくと、悟は顔を上げた。
「なんや?」
「大丈夫?」
「大丈夫に見える?」
「見えへんな」
「じゃあ訊くなや」
その返しがあまりにも悟らしくて、透は少し笑った。
笑も涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、ふっと笑った。
力は大きく息を吐いた。
「戻ってきたな、悟」
「上から目線で話すのやめろや」
「ええやん。俺はおまえの命の恩人やからな」
「意味分からん」
「床下から逃げてくるときに俺が赤い紐引っ張らへんかったら、今頃おまえはぺしゃんこやって意味や」
「そんなわけないやろ。みんな自分の足で頑張って走ったから助かっただけや。」
「なんやと!」
力と悟がいつものように口喧嘩を始めた様子を見て、笑は安心したようにまた泣いた。
「みなさんお怪我はございませんでしょうか」
真壁が透たちの心配をした。
「あんだけ元気に喧嘩できるくらいなんで、大丈夫です」
透は真壁に答えた。
真壁は最初に会ったときとはまるで違っていた。
背筋の伸びた、どこか底の読めない旅館の主ではない。今は、疲れ切ってはいるが、長く抱えていた罪をようやく誰かの前に置き、解放された人間であった。
柳田も同じだった。
彼女は畳の上に残されたビー玉を拾おうとして、途中で手を止めた。
「触っても、よろしいのでしょうか」
誰に訊いたのか分からなかった。
真壁にも、透たちにも、もういない悠真にも聞いているようだった。
すると、部屋の外から小さな音がした。
ころん。
全員が振り返った。
だが、誰もいなかった。
廊下に、赤いビー玉が一つ転がっていた。
それはゆっくりと奥の間へ入り、畳の上のビー玉のそばで止まった。
ころん。
まるで、いいよ、と言うように。
柳田は涙をこぼした。
「ありがとうございます」
そう言って、畳の上のビー玉をそっと拾った。
その手は震えていたが、もう恐怖だけではなかった。
「このビー玉は、悠真坊ちゃんのものです。あの子の遺骨と一緒に、きちんと納めます」
遺骨。
その言葉で、透は現実に戻された。
そうだ。
終わったからといって、すべてが消えるわけではない。
床下には悠真の骨がある。黒瀬の骨もある。
偽造書類も、手紙も、日記の破片のこともある。
警察に届けなければならない。
久遠館の過去は、公にしなければならない。
悠真は帰るべきところに帰ることできた。
しかし、生きている人間の仕事は、ここから始まるのだ。
「警察に連絡しましょう」
透が言った。
真壁はうなずいた。
「黒瀬のことも、久遠館の噂のことも全部」
真壁は少しだけ苦しそうに目を伏せた。
だが、今度は逃げなかった。
「すべて話します」
柳田も頷いた。
「私も証言します。昔、見て見ぬふりをしたことも」
「柳田さん」
「もう遅いかもしれません」
柳田は言った。
「でも、遅いからといって、何もしない理由にはなりません」
柳田の言う通り、みんな遅すぎたのかもしれない。
宗一郎も、美沙も、真壁も、柳田も。
そして、透たちも。
それでも、今からできることはある。
遅すぎたとしても、今やらなければならないことがある。
力がスマホを取り出そうとして、割れていることを思い出した。
「あ、俺のスマホ……」
画面はひび割れ、電源は落ちたままだった。
「終わった」
力は真顔で言った。
「修理代えぐいわ」
笑が泣き笑いになった。
「この状況で最初にそれ?」
「大事やろ。俺の全財産みたいなもんやぞ」
「命助かっただけでええやん」
「命とスマホは別や」
悟がぼそっと言った。
「おまえ、あの動画が残ってたらバズるとか思ってたやろ」
「なんでわかってん」
「最低やな」
「でももう電源入らんし、バズらんわ」
「そこを残念がるな」
四人の会話が戻ってきた。
本当に戻ってきたのだと、透は思った。
怖かった。
死ぬほど怖かった。
けれど今、四人で言い合っている。
それが、あまりにもありがたかった。
真壁と柳田は、そんな四人を黙って見ていた。
その目には、少しだけ救われたような色があった。
やがて、離れを出ることになった。
奥の間を出る前に、透はもう一度振り返った。
白い部屋。
鏡台。
赤い金魚の折り紙。
畳の上に残った、かすかな光。
そこに三人の姿はない。
けれど、もう空っぽではなかった。
誰かが長い旅を終えた後の部屋。
そんなふうに見えた。
渡り廊下へ出ると、空が少しだけ明るくなり始めていた。
山の稜線の向こうが、青くほどけている。
池の水面には、夜の黒がまだ残っていたが、その上に朝の薄い光が広がっていた。
蓮の葉の間に、赤いビー玉は浮かんでいない。
小さな手も見えない。
ただ、水面が静かに揺れているだけだった。
「朝や」
笑が呟いた。
「ほんまやな」
力が大きく伸びをした。
「生きて朝迎えるって、すごいな」
「急に人生語るな」
悟が言った。
「いや、マジで思ったんや」
「分かるで」
透が頷いた。
夜が明けることが、こんなにもありがたいと思ったのは初めてだった。
本館へ戻ると、空気が変わっていた。
同じ廊下、同じ襖、同じ古い梁であるはずなのに、昨夜まであった重さが感じられない。
もちろん古い旅館であることに変わりはなく、寂しさも残っている。長く客の来なかった場所特有の静けさもある。
けれど、閉じ込められている感じがなかった。
久遠館は、ようやく息をしているように見えた。
玄関近くまで戻ったとき、柳田が足を止めた。
壁に掛けられた古い写真を見ている。
大勢の客が笑う写真。
家族連れ、宴会、池のほとり。
その一枚の端に、小さな男の子が写っていた。
悠真だった。
写真の中の悠真は、こちらに向かってビー玉を見せている。
昨日見たときには気づかなかった。
「こんな写真、ありましたか」
笑が小声で訊いた。
真壁は写真を見つめたまま答えた。
「いいえ」
「じゃあ」
「今、戻ってきたのでしょう」
真壁の声は穏やかだった。
写真の中の悠真は笑っていた。
隣には美沙がいる。
少し離れて、宗一郎が立っている。
宗一郎は相変わらずぎこちない顔をしている。
けれど、その片手は悠真の肩に置かれていた。
今度は遠慮がちではなく、しっかりと。
透は胸の奥が熱くなった。
「ちゃんと、家族写真やな」
力が言った。
誰も茶化さなかった。
それからの時間は、現実的だった。
朝六時を過ぎ、山間部でも電波が少し戻った。
真壁は警察に連絡した。
最初は「古い旅館の床下から人骨が見つかった」という説明だった。警察は半信半疑のようだったが、黒瀬のものと思われる遺留品や書類があると聞くと、すぐに来ることになった。
観光協会にも連絡が入った。
笑の叔母から何度も電話がかかってきた。
笑は何をどう説明すればいいのか分からず、ただ「生きてる」「みんな生きてるって」「でも、ちょっと大変やねん」と繰り返していた。
それを聞いた力が横から言った。
「ちょっとちゃうかったやろ」
「じゃあ何て言えばええん?」
「めちゃくちゃ大変」
「そんなこと言ったら余計心配するやん」
「もう心配させてるやろ」
悟は畳に寝転がりながら天井を見ていた。
疲れ切っているようだった。
透はその隣に座った。
「大丈夫か?」
「それ、今日何回目や」
「分からへん」
「大丈夫じゃないけど、生きてるで」
「うん」
「俺、憑りつかれてたとき、何か変なこと言ってたか?」
透は少し迷った。
悟は目だけをこちらへ向けた。
「言えよ」
「悠真くんみたいな声を出してたときあった」
「やっぱり」
「覚えてる?」
「少しだけ」
悟は天井を見た。
「自分の中に誰かがいる感じやった。いや、誰かというより、感情かな。寂しいとか、腹立つとか、待ってたとか、そういうのが勝手に膨らむ感じ」
透は黙って聞いていた。
「たぶん、俺の中にも似たようなんがあったせいやな」
「お父さんのこと?」
悟は少しだけ笑った。
「聞いてたんか」
「そら聞こえてたやろ、あの距離やったら」
「まあ、そうやな」
悟は目を閉じた。
「俺の父親、生きてるけど、家にほとんどおらへん。別に暴力とかはない。金も入れてる。だから、文句言ったらあかん感じがする。でも、約束は守らんやつや」
「そうやったんやな」
「俺はそれを、どうでもいいって思ってた」
「うん」
「でも、どうでもよくなかったんやな」
悟の声は淡々としていた。
けれど、それはいつもの冷たさではなかった。
ようやく自分の中の何かを認めた人の声だった。
「帰ったら、父親と話すん?」
透が訊くと、悟は嫌そうに顔をしかめた。
「いきなり重いこと聞くなよ」
「ごめん」
「でも、まあ」
悟は少し考えた。
「一回くらいは言うかもな。約束守れって」
「いいと思う」
「おまえに言われんでもな」
その言い方がいつもの悟で、透は少し安心した。
警察が来たのは、七時半を過ぎた頃だった。
それから久遠館は現場確認や事情聴取、床下の確認などで慌ただしくなった。
人骨らしきものが二か所から見つかったことで、警察官たちの表情も変わっていった。
もちろん、幽霊の話をそのまま信じる人はいなかった。
透たちも、すべては話せなかった。
赤いビー玉が勝手に転がったことや悠真が現れたこと。
宗一郎や美沙の声を聞いたこと。
黒瀬の影と対峙したこと。
それらをそのまま言えば、疲労と恐怖による錯覚として処理されるだろう。
それでも、他に証拠はあった。
悠真の日記。
破られたページ。
黒瀬の偽造書類。
黒瀬のメモ。
宗一郎の遺書。
それらだけで十分だった。
少なくとも、久遠館で何が起きていたのかを調べ直すには。
それから、観光協会の人や保護者たちも到着した。
笑の母親は、笑を見るなり泣きながら抱きしめた。
力の父親は、力の首の痕を見て顔色を変えた。
悟の母親は、悟の手を握ったまま何度も謝っていた。
透の両親も来た。
母は透を抱きしめた。
父は何も言わず、透の頭に手を置いた。
その手の重さに、透はなぜか泣きそうになった。
父親の手。
悠真が生きている間に欲しかったものだ。
宗一郎が伸ばせなかったもの。
透はその手を、今まで当たり前のものだと思っていた。
しかし、当たり前ではないと、今ならそう思える。
当たり前に誰かが帰ってくること。
名前を呼ばれること。
ただいまと言えること。
それらは全部、奇跡のようなものなのかもしれなかった。
久遠館を出る前、透たちはもう一度玄関前に立った。
真壁と柳田が見送りに出てきた。
二人とも、ひどく疲れていた。
だが、表情は昨夜よりもずっと穏やかだった。
「本当に、ありがとうございました」
真壁は深く頭を下げた。
「皆さまには、危険な目に遭わせてしまいました。謝って済むことではありません」
「ほんまやで」
悟が言った。
力が小声で「おい」と止めようとしたが、悟は続けた。
「でも、謝るなら俺らだけじゃなくて、悠真くんにも、ちゃんと謝ってあげてください」
真壁は顔を上げた。
「はい」
「あと、自分を罰するために旅館続けるのは、もうやめた方がいいと思います」
真壁は驚いたように悟を見た。
悟は少し気まずそうに目を逸らした。
「知らんけど」
その最後の一言が、あまりにも悟らしかった。
笑が言った。
「私も、久遠館はなくならんといてほしいです」
真壁は笑を見た。
「怖かったです。ほんまに怖かった。でも、料理もおいしかったし、建物もきれいやし、そもそも悠真くんたちの家やし」
笑は少し言葉を探した。
「ここ、呪われた旅館ってだけで終わったら、悲しすぎると思うんです」
力がうなずいた。
「俺もそう思うわ。ちゃんと発信とかしたら、来たい人おると思うで。もちろん、変な心霊スポット扱いはあかんけど」
「何言うてんねん。おまえが一番しそうやったやろ」
悟が言った。
「俺は成長したんや」
「一晩で?」
「人は一晩で変わることもある」
「軽いなぁ」
透は真壁を見た。
「久遠館のこと、僕たちがSNSで発信します」
「発信ですか?」
「はい。怖い噂としてじゃなくて、ちゃんとした旅館として。ここであったことを全部は書けないですけど、来てよかったと思ったことは書けます」
真壁は黙っていた。
その目に、わずかに涙が浮かんでいた。
玄関の奥で、ころん、と小さな音がした。
赤いビー玉が一つ、上がり框の近くに転がってきた。
誰も悲鳴を上げなかった。
ビー玉は、透たちの前で止まった。
朝の光を受けて、きれいに輝いている。
力が笑った。
「これってもしかして、書いてええってことちゃうの?」
笑も笑った。
悟は腕を組んだ。
「ほんまか?発信したらまた怖がらすぞってことちゃうか?」
透はビー玉を見た。
その中の白い筋が、ほんの一瞬、小さく手を振ったように見えた。
見間違いかもしれない。
でも、それでよかった。
透たちは久遠館を出た。
バス停へ向かう道で、四人はしばらく無言だった。
山の緑は、昨日よりも明るく見えた。
セミが鳴いている。
夏の朝だった。
昨日と同じ夏なのに、透にはまるで別の季節のように思えた。
「なあ」
力が言った。
「この話、誰か信じると思う?」
「信じへんやろ」
悟が即答した。
「やっぱり?」
「幽霊出て、床下で骨見つけて、家族が成仏しましたって言っても、普通は疲れて幻覚見たと思われる」
「まあそうやな」
笑が言った。
「でも、全部ほんまやもんな」
「うん」
透はうなずいた。
「全部は書けへんけど、伝えたいことは書けると思う」
「何を書くん?」
笑が訊いた。
透は少し考えた。
「久遠館は、怖い噂があったけど、怖いだけの場所じゃないってこと」
「うん」
「それに、名前を忘れられた子がいたってこと」
「あ、そうか」
「その子は、本当は誰かと遊びたかっただけかもしれないってこと」
力が空を見上げた。
「それ、ええな」
悟が言った。
「でも、心霊スポットとして人が押し寄せたら嫌やな」
「そこはちゃんと書く」
透は言った。
「ふざけ半分で行く場所じゃない。でも、いい旅館だって」
「料理うまかったしな」
力が言った。
「そこ大事やな」
笑も頷いた。
「あと、真壁さんと柳田さんのことも、悪く書きたくない」
「でも、隠してたことはある」
悟が言った。
「うん。だから、全部美談にはしない」
透は言った。
「怖いことも、悪いことも、取り返しがつかないこともあった。でも、それでも終わり方を変えることはできるかもしれない。そういう話にしたい」
悟は透を見た。
「おまえ、作家みたいなこと言うな」
「そう?」
「うん、やっぱり眼鏡かけてるだけのことあるわ」
「かけてへん」
力が笑った。
「でもほんまに書くよ」
透は言った。
バスが来た。
昨日と同じ、白と緑の古い路線バスだった。
扉が開く。
四人は乗り込んだ。
席に座ると、久遠館の屋根が窓の向こうに見えた。
黒い瓦屋根。
山に抱かれるようにして建つ、古い旅館。
昨日見たときは、眠っている屋敷のようだった。
今は違う。
長い夢から覚めた家のように見えた。
バスが動き出す。
久遠館が少しずつ遠ざかる。
その玄関前に、小さな影が立っているように見えた。
白い服の男の子。
隣に、父と母。
三人で並んでいる。
男の子が手を振った。
透は窓越しに、小さく手を振り返した。
「何してんの?」
笑が訊いた。
「何でもない」
「またそれ?」
悟が窓の外を見た。
力も身を乗り出す。
けれど、もう影は見えなかった。
ただ、朝の光に包まれた久遠館があるだけだった。
夏の空は、恐ろしいほど青かった。
あの夜の黒さが嘘のように。
透はリュックの中からスマホを取り出した。
電波が戻っていた。
メモアプリを開く。
最初の一行に、何を書けばいいのか迷った。
怖い話として始めるべきか。
旅館の紹介として始めるべきか。
それとも、悠真の名前から始めるべきか。
それに、その先に続く言葉も、まだまとまっていない。
でも、書ける気がした。
自分たちが見たこと。
怖かったこと。
見つけたこと。
帰ってきたこと。
そして、あの子が最後に言った言葉。
ただいま。
バスは山道を下っていく。
窓の外で、夏の光が流れていた。
透はスマホを握りしめた。
物語は終わった。
けれど、伝えることは、まだ終わっていなかった。




