十六
夏休みが終わる三日前、透はようやくその文章を投稿した。
久遠館から帰ってきてから、何度も書き直した。
最初は、怖かったことばかりを書こうとした。
赤いビー玉。
夜の廊下。
床下の声。
白い寝巻きの男の子。
破れていたお守り。
消えた友達。
見つからなかった子ども。
それだけでも、きっと読まれたと思う。
けれど、途中で手が止まった。
それでは、ただの怪談になってしまう。
久遠館は怖かった。
それは間違いない。
けれど、怖いだけの場所ではなかった。
あそこには、誰にも見つけてもらえなかった子がいた。
名前を忘れられ、「子どもの幽霊」と呼ばれるようになった男の子がいた。
父を待ち、母を呼び、真壁を恨み、黒瀬を憎み、それでも誰かと遊びたがっていた子がいた。
だから透は、文章の最初をこうした。
みんなに、伝えたいことがある。
そこから、少しずつ書いた。
夏休みに、友達四人で久遠館へ行ったこと。
そこが昔は大人気の旅館だったこと。
今は客が少ないけれど、料理が本当においしかったこと。
建物も庭も美しく、丁寧に守られていたこと。
そして、噂があったこと。
子どもの幽霊が出る、という噂。
透は、すべてをそのまま書いたわけではない。
警察の捜査に関わることは伏せた。
黒瀬の名前も書かなかった。
床下で見つかったものについても、詳しくは触れなかった。
それでも、悠真のことは書いた。
かつて久遠館に、悠真という男の子がいたこと。
父親に一度も遊んでもらえなかったこと。
母親を慰めようとしていたこと。
両親を失い、施設へ行き、そして長い間見つけてもらえなかったこと。
誰かを怖がらせたかったのではなく、本当は誰かに自分を見つけてほしかったのかもしれないこと。
その文章を書きながら、透は何度も泣きそうになった。
泣きそうになるたび、手が止まった。
でも、なんとか最後まで書いた。
悠真が最後に「ただいま」と言えたこと。
久遠館は、ただ呪われた旅館ではないこと。
怖い噂だけで終わらせてはいけない場所だと思ったこと。
そして、最後にこう書いた。
久遠館には、もう怖いだけの噂はいらないと思う。
あそこは、誰かが帰りたかった場所だった。
誰かに来てほしかった場所だった。
だから、もし行くなら、ふざけ半分ではなく、ちゃんと泊まってほしい。
料理を食べて、庭を見て、静かな廊下を歩いてほしい。
そして、もし赤いビー玉を見つけたら、怖がるだけじゃなくて、こう思ってほしい。
ああ、あの子は遊びたかったんだな、と。
投稿する前、透は三人に文章を送った。
最初に返事をしたのは力だった。
『めっちゃええやん。俺のスマホ壊れたことも書いといて』
透は笑った。
次に笑から返事が来た。
『泣いた。悠真くんのこと、ちゃんと書いてくれてありがとう。でも怖いところは怖すぎるから、ちょっとだけ柔らかくした方がいいかも』
最後に悟から返事が来た。
『悪くない。でも、俺のことを最後の最後まで幽霊に憑りつかれてて、役に立たへんかったへたれみたいに書くな』
透は三人の返事を読んで、少しだけ文章を直した。
そして、投稿ボタンを押した。
最初は、ほとんど反応がなかった。
数分経って、笑がいいねを押した。
次に力がリポストした。
『ここマジで怖かった。でも料理うまい。行ってよかった』
悟は何もしていないように見えた。
けれど数時間後、透の投稿に短い返信をしていた。
『怖い場所ではあった。でも、忘れたらあかん場所やと思う』
それが、悟らしくてよかった。
その夜、投稿は少しずつ広がった。
最初は同級生の間で。
次に、地元の人たちへ。
久遠館を知っている大人たちが、昔の思い出を書き始めた。
『子どもの頃、祖父母に連れて行ってもらった』
『池の鯉に餌をあげた記憶がある』
『料理が本当においしかった』
『昔はにぎやかな旅館だった』
『怖い噂しか知らなかったけど、今度行ってみたい』
中には、悠真のことを覚えているという人もいた。
『小さい頃、久遠館の男の子と遊んだことがある気がします。色白の可愛らしい子ですよね?』
その投稿を読んだとき、透はしばらく画面を見つめていた。
悠真は、完全に忘れられていたわけではなかった。
誰かの記憶の中に、ちゃんといた。
数日後、久遠館の公式アカウントが更新された。
投稿したのは、たぶん真壁だった。
『久遠館は、しばらく休館いたします。館内の調査と整備を行い、改めて皆さまをお迎えできるよう努めてまいります』
その下に、一枚の写真が添えられていた。
玄関前の写真だった。
打ち水をされた石畳。
古い木の看板。
そして看板の下に、小さな赤いビー玉が一つ置かれている。
説明はなかった。
けれど透には、それだけで十分だった。
秋になる頃、久遠館は再開した。
最初は週末だけ。
一日数組だけ。
心霊スポットとしてではなく、古い温泉旅館として。
真壁は、旅館の紹介文を変えた。
そこにはこう書かれていた。
久遠館は、長い間、静かな時間を過ごしてまいりました。
この場所には、楽しい記憶も、悲しい記憶も残っています。
私たちはそのどちらも忘れず、訪れていただける方を丁寧にお迎えいたします。
その文章を読んで、透は何度もうなずいた。
それでいいと思った。
怖かったことをなかったことにしない。
悲しかったことを美談にしない。
でも、それだけで終わらせない。
それが、久遠館に必要なことなのだと思った。
冬の少し前、透たち四人はもう一度久遠館へ行った。
真壁は玄関で深く頭を下げて迎えてくれた。
柳田は夕食を運んできて、笑に「少し背が伸びましたか」と言った。
笑は照れていた。
力は新しいスマホで料理を撮りまくった。
悟は「撮りすぎや」と言いながら、結局自分も少し撮っていた。
透は、池のそばへ行った。
蓮の葉はもうほとんど枯れていた。
水面は静かだった。
赤いビー玉は浮かんでいない。
子どもの声も聞こえない。
けれど、寂しい感じはしなかった。
透は池のほとりにしゃがんだ。
ポケットから、小さな赤いビー玉を取り出す。
久遠館を出る朝、玄関に転がってきたものだ。
真壁が「よろしければ、持っていてください」と言ってくれた。
透はそれを池に投げようとして、やめた。
これは捨てるものではない。
忘れないためのものだ。
透はビー玉をポケットに戻した。
「透」
後ろから笑の声がした。
振り返ると、三人が立っていた。
力、悟、笑。
「何してんの?」
笑が訊いた。
「何でもない」
「そればっかりやな」
力が言った。
「写真撮ろや」
「ここで?」
「ここで」
四人は池の前に並んだ。
力がスマホを伸ばす。
画面の中に、四人の顔が映る。
透。
悟。
力。
笑。
その後ろに、久遠館の屋根。静かな池。秋の山。
力がシャッターを押す直前、透は画面の端に何かを見た。
小さな男の子。
白い服。
赤いビー玉を持っている。
その隣に、父と母らしき影。
三人は池の向こうで、こちらを見ていた。
男の子は笑っていた。
怖くない。
寂しくもない。
ただ、友達に手を振る子どもの顔だった。
シャッター音が鳴った。
写真を確認すると、そこに三人の姿はなかった。
ただ、四人の後ろの水面に、小さな赤い光が一つだけ映っていた。
「何これ」
力が言った。
「反射?」
悟が画面を覗く。
「レンズフレアやろ。力ちゃんと撮れや」
「うるさいな、何回撮ってもええやろこんなもん」
笑が笑った。
透も笑った。
その日の夜、透は最後にもう一度だけ投稿した。
投稿してから、透はスマホを伏せた。
障子の向こうから、池の水音が聞こえる。
部屋の中には、四人分の布団が敷かれている。
力はもう寝ている。
悟はまだスマホを見ている。
笑は窓の外を見ている。
透は天井を見上げた。
そのとき、廊下の向こうから、小さな音がした。
ころん。
ビー玉の転がる音。
透は体を起こした。
笑も振り返った。
悟もスマホから目を離した。
力だけは寝ていた。
ころん。
もう一度。
廊下の方を見る。
襖の下の隙間から、赤いビー玉が一つだけ転がり込んできた。
それは部屋の中央で止まった。
誰も悲鳴を上げなかった。
誰も逃げなかった。
笑が小さく笑った。
「遊びに来たんかな」
悟が言った。
「夜中はやめてほしいな」
透はビー玉を見た。
その中の白い筋が、ほんの少しだけ揺れたような気がした。
まるで、小さな手がこちらに向かって振られているように。
透は静かに言った。
「おかえり」
すると、どこか遠くで、子どもの笑い声がした。
今度は、怖くなかった。
ただ、嬉しそうだった。
久遠館の夜は、静かに更けていく。
もう誰かを閉じ込めるための夜ではなかった。
夏に、久遠館という旅館で怖い思いをしたんやけど、また冬にも来てもうた。
今の久遠館は料理も景色も人もより一層素敵になってます。
ふざけ半分ではなく、大切に泊まりに来てほしい。
そうしたら、あの子も少しだけ一緒に遊んでくれるかもやな。




