十三
床下のさらに奥から、呻く声がした。
「……出してくれ」
それは、今まで聞いてきたどの声とも違っていた。
悠真の幼い、純粋な声ではない。
大人の男の声だった。
床下の土と似た、乾いて、冷たく、土の中から染み出し、蠢いているような声。
「出してくれ……」
笑が透の腕を掴んだ。
「今の、何?」
透は答えられなかった。
真壁も、柳田も、動けずにいた。
悠真だけが、床下の奥を指差している。白い小さな指。その先に、赤いビー玉が一列に並んでいた。
ころん。
ころん。
ビー玉たちは、意思を持っているように奥へ転がっていく。
やがてビー玉たちは低い木の壁に当たった。
その木の壁は、最初はただの基礎板であるかに見えた。だが、懐中電灯を向けると、板の一部だけが周囲の木の素材よりも新しく、ほのかに色褪せている程度であった。
後から塞がれた場所だ。
透はそう思った。
「黒瀬は町を出たって言いましたよね」
透は真壁に訊いた。
真壁は乾いた唇を動かした。
「……そう聞いていました」
「誰から?」
「警察からも、町の者からも。黒瀬は久遠館を手放した後、町を離れたと」
「本当に本人を見た人は?」
真壁は答えられなかった。
柳田が低い声で言った。
「当時、黒瀬は多くの恨みを買っていました。久遠館の件だけではありません。土地、借金、開発計画。あの男が消えても、惜しむ人間はいないように思います」
「それって、誰も探さなかっただけなんちゃう?」
笑が言った。
柳田は目を伏せた。
「そうかもしれません」
透は赤いビー玉の列を見た。
久遠館の人々は、悠真を見つけられなかった。
それだけではない。
黒瀬をもまた、見つけられていなかっただけなのかもしれない。
いや、黒瀬は悠真とは違う。
黒瀬は見つけようとされなかった。
見つけられなかったものがこの館に残るのだとしたら、黒瀬もまた、ここに残っているのではないか。
怒りと恐怖と罪を抱えたまま。
「……出してくれ」
また声がした。
板の向こうからだった。
力が外から叫んだ。
「何か聞こえたぞ! 大丈夫なんか!」
赤い紐が強く引かれる。
透は紐を握り返した。
三度ではない。
まだ戻る必要はないと伝えるため一度だけ引っ張った。
「開けるんですか?」
笑の言った声は震えていた。
「開けへんと、終わらへんと思う」
透は答えた。
「でも、黒瀬が本当にそこにいるんやったら……」
「生きているはずはありません」
真壁が言った。
その声は硬かった。
「何十年も前の話です」
「じゃあ、今の声は何ですか」
透が訊く。
真壁は答えない。
その沈黙の中で、悠真がぽつりと言った。
「くろせのおじさん、ずっと、かくれてるよ」
「悠真くんが隠したの?」
笑が訊いた。
悠真は首を横に振った。
「ぼくじゃない」
「じゃあ誰が?」
悠真は床下の奥を見た。
「おとうさん」
その言葉で、空気が変わった。
死んだはずである宗一郎が黒瀬を隠した?
そんなはずはない。
宗一郎は黒瀬が久遠館を手に入れる前に亡くなっている。少なくとも、真壁たちの話ではそうだった。
「順番が合わへん」
透は呟いた。
「宗一郎さんが亡くなった後に、黒瀬は久遠館へ入り込んだんですよね」
「はい」
真壁が答えた。
「なら、宗一郎さんが黒瀬を隠すことはできない」
「そうです」
「でも悠真くんは、おとうさんって言うた」
透は床下の奥を見た。
赤いビー玉の光がゆらゆら揺れている。
「悠真くん」
透は言った。
「お父さんって、本当に宗一郎さんのこと?」
悠真は答えなかった。
白い寝巻きの裾が、闇の中で揺れている。
透は続けた。
「黒瀬のことを、お父さんみたいに思ってた?」
悠真の顔が歪んだ。
怒ったようにも、泣きそうにも見えた。
「ちがう」
悠真は強く言った。
「くろせのおじさんは、おとうさんじゃない。でも」
悠真は俯いた。
「おとうさんみたいだった」
その言葉は小さかった。
小さすぎて、床下の土に吸い込まれそうだった。
「わらってくれた。ゆうまってよんでくれた。あそぼうっていってくれた」
笑が唇を噛んだ。
「でも、うそだった」
悠真の声が低くなる。
「みんな、うそだった」
透は理解し始めていた。
宗一郎だけではない。
黒瀬も、悠真にとって父の影だった。
自分の名前を呼んで、遊んでくれるかもしれない人。
待っていれば迎えに来てくれるかもしれないと思わせてくれる人だった。
だからこそ、裏切られたときの傷は幼い心には深かった。
父に遊んでもらえなかった悲しみと黒瀬に利用された怒りが、悠真の中で重なってしまっている。
「お父さんが隠したっていうのは」
透は慎重に言った。
「悠真くんの中で、お父さんと黒瀬が混ざってるってことかな?」
真壁が透を見た。
柳田も。
悠真は何も言わなかった。
ただ、赤いビー玉を握りしめている。
その沈黙は、否定ではなかった。
「黒瀬の隠し場所を見つけよう」
透は言った。
「それで、悠真くんも悟も帰れるかもしれない」
悟は透に支えられながら、ぼんやりしていた。
完全には戻っていない。
目の焦点が合うときもあれば、ふっとどこか遠くを見るときもある。さっきからほとんど喋っていない。
その悟が、小さく言った。
「開けるな」
全員が悟を見た。
「今、何て?」
笑が訊いた。
悟は顔を上げたが、目が暗い。
「開けたら、出てくるんや」
「何が?」
透が訊く。
悟は答えなかった。
代わりに、悠真が笑った。
泣いた後の顔のまま、口だけで笑った。
「おじさんだよ」
板の向こうから、どん、と音がした。
誰かが内側から叩いたような音だった。
笑が悲鳴を飲み込んだ。
真壁が鈴を鳴らす。
ちりん。
だが、板の向こうの声は止まらなかった。
「出してくれ……」
どん。
「私は悪くない」
どん。
「違う、違うんだ」
声は少しずつはっきりしてきた。
何十年も土の奥に沈んでいた言葉が、空気に触れて蘇っていくようだった。
「子どもが勝手に……」
柳田の顔が険しくなった。
「黒瀬……」
その声には、長い年月を越えた怒りがあった。
透は木の板を調べた。
釘で打ち付けられている。
古い釘だった。錆びていて、力を入れれば外せそうだった。
「ここを開ける道具はありますか?」
透が訊くと、柳田が腰の鍵束の横から小さな金属製のへらのようなものを取り出した。
「古い鍵を開けるときに使うものです」
「貸してください」
「板の向こうには黒瀬がいるようで危険です。注意してください」
「分かってます」
透はそれを受け取ったが手が震えていた。
怖い。
開けたくない。
けれど、開けないままでは終われない。
透が釘に手をかけると、板の向こうの声が変わった。
「やめろ」
出してくれと言っていた声が、今度はそう言った。
「やめろ。見るな」
笑が震えた声で言った。
「勝手やな」
その言葉に、透は一瞬だけ笑いそうになった。
本当にそうだ。
出してくれと言えば、見るなと言い、また助けろと言い、最後には知られるのは嫌だと言う。
大人たちはいつも、都合がいい。
悠真は見つけてもらえなかったのに。
黒瀬は、自分の罪だけは見つけられたくないのだ。
透は釘を外した。
一つ、また一つ
板が少し浮く。
内側から、腐った空気が漏れ出した。
土と黴と、古い水の匂い。
笑が顔を背けた。
柳田が袖で口を覆う。
真壁は鈴を握ったまま動かない。
最後の釘を外すと、板はゆっくりと倒れた。
その奥に、小さな空間があった。
人が一人、身を縮めれば入れるほどの空間。
そこに、骨があった。
大人の骨だった。
小さな骨ではない。
悠真のものとは違う。
膝を抱えるようにして座った姿勢のまま、白く乾いた骨が残っている。骨のそばには、錆びた腕時計と、黒ずんだ革靴。そして、朽ちかけた鞄があった。
鞄の留め具には、「T.K」と刻まれていた。黒瀬隆文の頭文字だろう。
柳田が低く息を吐いた。
「本当に……ここに……」
真壁は言葉を失っていた。
黒瀬は町を出ていなかった。
何十年もここにいた。
悠真と同じ床下で、悠真のすぐ近くに。
誰にも見つけられずに。
「どうして」
笑が言った。
「誰が黒瀬をここに?」
透は骨の周りを照らした。
鞄の横に、紙の束があった。
湿気で傷んでいるが、何枚かは読めそうだった。
「書類があります」
透は慎重に取り出した。
久遠館の土地と誓約書や温泉権、借入金の類いであった。
そして、久遠宗一郎の署名が書かれた書類がある。
「これは?」
透は呟いた。
柳田が紙を見て、顔色を変えた。
「これは、宗一郎様の字ではありません」
「分かるんですか?」
「長く旅館で働いていました。宗一郎様の筆跡は何度も見ています。間違うはずはありません」
真壁も書類を見た。
「黒瀬が、宗一郎氏の名前で書類を作った……?」
「旅館を奪うために偽造したってこと?」
笑が言った。
透は鞄の中をさらに調べた。
中には、小型の録音機のようなものもあった。古いICレコーダーではなく、もっと旧式のカセットレコーダー。壊れている。テープも切れていた。
そして、封筒が一つ。
その封筒には、子どもの字で書かれていた。
くろせのおじさんへ
透は息を飲んだ。
悠真の黒瀬に宛てた手紙だった。
封は開いており、中には一枚の紙が入っていた。
透は読んだ。
あした、ほんとうにきてくれますか。
ぼくは、びーだまをもってまっています。
おとうさんのへやにはいっていいですか。
おじさんは、おとうさんみたいに、あとでっていわないでください。
笑が泣きそうな顔になった。
透は紙を裏返した。
そこには、大人の字で何かが書かれていた。
乱暴な筆跡であり、おそらく黒瀬のものだろう。
子どもが見た
子どもは埋める
書類は床下へ一時保管
久遠館取得後に回収
笑が口元を押さえた。
「埋めるって……」
柳田が震える声で言った。
「あの男……本当に……」
真壁は床に手をついた。
怒りなのか、後悔なのか、絶望なのか分からない表情だった。
「私は、何も分かっていなかった」
真壁は呟いた。
「悠真くんが、黒瀬を追って久遠館へ来たのだと思っていた。けれど、黒瀬が悠真くんをここへ呼んだのか」
「呼んで、利用しようと思ったんや」
透は言った。
「悠真くんにお父さんの部屋を開けさせようとした。子どもなら誰にも怪しまれないから」
「しかし、見られた」
柳田が言った。
「偽造書類を」
透はうなずいた。
「だから黒瀬は、悠真くんをこの床下に閉じ込めた」
「でもなんで黒瀬までここに?」
笑が言った。
答えたのは、悠真だった。
「おじさん、ぼくをとじこめたあとに、またかえってきた」
悠真は骨のそばに立っていた。
小さな顔に、感情がなかった。
「たすけてくれるのかなとおもったけど、ぼくを、もっとおくにかくそうとした」
透は顔を歪ませながら聞いた。
「それで?」
悠真は、赤いビー玉を見た。
「おとうさんが、おこった」
その瞬間、離れ全体が軋んだ。
ぎし。
ぎし。
柱が鳴る。
床下の土が震える。
悟が小さく呻いた。
「来る」
透が悟を見る。
「何が?」
悟は目を閉じ、苦しそうに言った。
「父親や」
その言葉と同時に、床下の奥から低い息遣いが聞こえた。
黒瀬の声ではない。
悠真でもない。
姿は見えないが、声だけは聞こえる。
「ゆうま」
低い声。
夢の中で、透の口から出たあの声に似ていた。
大人の男の声。
「ゆうま」
悠真が震えた。
「おとうさん……?」
笑が透の手を握った。
真壁は鈴を鳴らそうとしたが、柳田が止めた。
「待ってください」
「しかし」
「今は、鳴らしてはいけない気がします」
床下の闇から、声が近づいてくる。
宗一郎の声。
後悔と怒りが混ざった声。
「ゆうま」
悠真は一歩、闇へ向かった。
透は反射的に止めようとした。
だが、その前に悟が動いた。
ふらつきながら立ち上がり、悠真の前に立った。
「行くな。行ったらあかん」
悠真が悟を見上げる。
「なんで、おとうさんがよんでるんだよ?」
「お父さんの顔見たんか?声だけやったら、それは、おまえがそう聞きたいだけかもしれへんやろ」
悟の声は震えていた。
「俺もな、父親を求めて、なんでもかんでも父親に結びつけてまうおまえの気持ち、分かるで」
透は悟を見た。
悟は今まで、父親の話をしなかった。
だが今、初めてその影が見えた。
「俺の父親も、約束守らんかった」
悟は笑っていなかった。
「誕生日にでっかいケーキ買って帰るからなって言うて、その日は結局帰ってこんかった。運動会で元気に走ってる姿見に行くからなって言うて、けえへんかった。今度うまい飯食いに行こやって言うて、まだ連れて行ってもらってない。だから俺は、最初から期待してないふりをするようになったんや」
床下が静かになった。
悠真は悟を見ている。
「期待したら、けえへんかったとききついやろ。だから俺は、何でもええ、どうでもいいって顔をして生きるようになった。怖い話も、幽霊も、大人も、全部信じてないふりをした」
悟は拳を握った。
「でもな、本当は待ってたんや。おまえのその死んでからも父親を待ってる姿見て、耐えられへんようになってる自分の気持ちに気づいたんや。」
その一言で、透は胸を突かれた。
悟が選ばれた理由は、男だったからだけではない。
悟も悠真と同じように、父に待たされた子だったからだ。
「俺とおまえは似てる。約束を簡単に破られる人生を通らされてきた身や。自分からそんな境遇望んだわけちゃうのにな。だから、おまえの気持ちはよう分かる」
悟は悠真に言った。
「でも、おまえはなんか間違えてる気がする。おまえの目の前にはまだ父親はおらんぞ。今おまえを呼んでる声はほんまにお父さんなんか?自分が勝手に思い込んでるだけちゃうか」
悠真の目から涙が落ちた。
「ちがう、あれはぼくのおとうさんのこえ」
宗一郎の声が、また闇の奥から呼んでいる。
「ゆうま」
だが、その声は優しいだけではないように聞こえた。
怒りと言うべきなのか、闇の中に引きずっていくような声だった
もし悠真がそこへ行けば、救われるのか。
それとも、さらに深い闇へ連れて行かれるのか。
分からない。
そのとき、笑が一歩前へ出た。
「悠真くん」
今度は真壁も止めなかった。
「お父さんに会いたいよな」
悠真は笑を見る。
「うん」
「でも、悟の言う通りやと私も思うねん。あっちにいる声が、本当に悠真くんを迎えに来たお父さんかどうか、まだ分からへんで。」
「ううん、おとうさんだよ」
悠真は俯き、目から涙を溢しながらも答えた。
「悠真くん、悟の言葉を信じてあげてほしい。悟ってな普段何考えてるかようわからんし、めっちゃ不愛想なときもあるから分かりにくいやつやけど、人が悩んでるときとか困ってるときには絶対冗談言うたり、適当なこと言うたりせえへん。真剣に話聞いてくれるねん。それで私何回も悟に救われたことあるねん。」
「もっと上手に褒めんかい。なんやねん分かりにくいって」
と言う悟の耳は赤かった。
「私も、お母さんが怒ってるときとか、ほんまの気持ち分からへんことある。大人って、何考えてるか分からん。でも、今の声は、私が聞いてもちょっと怖い」
笑の声は優しかった。
怖がっているのに、逃げていなかった。
悠真は俯いた。
「こんな約束守らんお父さん嫌いやわとか、うちのお母さんいつも怒ってるからめんどいわとか思うときもある。でも悠真くんが感じてるように、おらへんくなったら急に寂しくなるし、会いたくなる。でも好きや、でも嫌いになりきられへん。それが親のことを愛してるってことなんやと思う」
笑は涙をこぼした。
彼女は震えながら、それでも悠真を見ていた。
悠真は泣いていた。
悟も泣いていた。
透も、胸の奥が熱くなった。
宗一郎の声がまたした。
「ゆうま」
今度は、少し遠くなっていた。
「悠真くん」
透は言った。
「お父さんの本当の声、もう君は聞いてるはずやで」
「ほんとうのこえ?いつ?」
透は胸元の遺書を見せた。
「僕がこれ読んだとき、君も一緒に聞いてくれてたはずや」
悠真は遺書を見つめた。
透は言った。
「ここには、君を見つけたいって書いてある。遊べばよかったって書いてある。謝りたいって書いてある。お父さんの悠真くんを思うほんまの気持ちは全部ここにあるで」
悠真は宗一郎の遺書に近づいた。
一歩。
また一歩。
そのたびに、床下の奥の声が遠ざかっていく。
「ゆうま」
「ゆうま」
「ゆうま」
何度も呼ぶ。
だが、悠真はもう振り返らなかった。宗一郎の遺書に小さな白い手で触れようとしたその瞬間、別の男の声が響いた。
「違う!」
大人の男の声だった。
「私は悪くない! あの子が勝手に見たんだ! あの子が騒いだから!」
黒瀬の骨が動いたように見えた。
笑が悲鳴を上げる。
骨のそばに、黒いシミのような人の影が立ち上がった。
顔はなく、ただ口だけが裂けるように開いている。
「久遠館は、私のものになるはずだった!」
真壁が鈴を鳴らした。
ちりん。
だが、黒い影は消えなかった。それどころか、影のその黒さが増していった。
「宗一郎が悪い! あの男が弱かったから! 妻も子も守れなかったから! 私は機会を使っただけだ!」
柳田が怒鳴った。
「黙りなさい!」
その声に、全員が驚いた。
柳田の体は震え、目には怒りが燃えていた。
「あなたがあの子を利用した。あなたが久遠館を壊した。あなたが、あの子をここに隠した!」
「証拠はないぞ」
黒い影が笑った。
「誰も見ていない」
透は手の中の書類を掲げた。
「あります」
黒い影が止まった。
「偽造書類。黒瀬さんの鞄。悠真くんの手紙。あなたのメモ。全部あります」
「子どもが」
黒瀬の声が歪んだ。
「子どもが、何を」
「ぼく、みたよ」
悠真は言った。
「おじさんが、うそついたの、みたよ」
「黙れ」
「ぼく、おじさんに、だめっていった」
「黙れ!」
「おじさんが、ぼくをかくした」
黒い影が大きく膨らんだ。
床下全体が揺れる。
赤いビー玉が激しく転がり始める。
真壁が叫んだ。
「戻りましょう! ここは崩れます!」
力が外から赤い紐を引く。
強く。何度も。
透は悟を支えた。
「帰るで!」
悟がうなずく。
笑が悠真に手を伸ばした。
「悠真くんもはやく!」
笑が叫んだが、悠真はじっと黒い影を見ていた。
逃げない。
黒瀬の影が、悠真に覆いかぶさろうとしていた。
「おまえさえいなければ!」
その瞬間、床下の奥から、別の声がした。
低く、静かで、今度は怒りではない声。
「悠真」
悠真が振り返った。
透も振り返る。
闇の中に、男の影が立っていた。
背の高い男の陰だった。
顔ははっきり見えないが、写真で見た宗一郎の輪郭に似ていた。
その影は、黒瀬ではなく、悠真だけを見ていた。
「悠真」
もう一度、呼んだ。
悠真の顔がくしゃりと歪んだ。
「おとうさん……?」
男の影は、ゆっくりと手を伸ばした。
不器用に。
どう抱きしめればいいのか分からない人のように。
けれど確かに、息子へ向かって手を伸ばしていた。
「遅くなって、すまない」
その言葉を聞いた瞬間、悠真は声を上げて泣いた。
黒瀬の影が叫んだ。
床下が崩れ始める。
真壁が透たちを押した。
「今です! 戻って!」
透が悟を引く。
笑は泣きながら走った。
柳田が書類を抱える。
赤い紐が外から強く引かれる。
土と埃が降る。
ビー玉が滝のように転がる。
透たちは必死に出口へ向かった。
背後で、黒瀬の声が叫んでいた。
「私は悪くない!」
それに重なるように、宗一郎の声が静かに言った。
「おまえではない」
黒瀬の叫びが止まった。
「私が見つけるべきだった」
床下が大きく揺れた。
透は出口の光を見た。
力の手が伸びている。
「早く!」
透は笑を押し出した。
続いて悟。
柳田。
真壁。
最後に透が這い出ようとしたとき、背後から悠真の声がした。
「とおる」
透は振り返った。
悠真が立っていた。
その隣に、宗一郎の影がいる。
黒瀬の影はもうほとんど見えない。ただ、床下の奥で黒いシミが蠢いているだけだった。
「みつけてくれて、ありがとう」
悠真は言った。
透は何か言おうとした。
だが、言葉が出なかった。
悠真は少しだけ笑った。
初めて見る、子どもらしい笑顔だった。
「でも、まだ」
透の胸がざわついた。
「まだ、何?」
悠真は首を傾げた。
「おかあさんが、いない」
その瞬間、物置の外から女性の悲鳴が聞こえた。
柳田のものではない。
笑のものでもない。
もっと細く、古く、悲しい声。
美沙の声。
「悠真!」
離れ全体が震えた。
透は出口へ引きずり出された。
床下の扉が閉まる。
直後、扉の内側から無数のビー玉がぶつかる音がした。
ばらばらばらばら、と。
まるで大雨のように。
透は畳の上に転がった。
力が覆いかぶさるようにして引っ張ってくれていた。
笑は悟を抱えるようにして泣いていた。
悟は意識を失っているが、息はあった。
真壁は床に手をつき、肩で息をしている。
柳田は書類を抱きしめ、顔面蒼白だった。
床下の扉は、もう動かなかった。
その向こうで、悠真の声が遠く響いた。
「おかあさん」
透は顔を上げた。
まだ終わっていない。
父は現れた。
黒瀬の罪も暴いた。
悟も連れ戻した。
悠真の骨も見つけた。
それでも、まだ終わっていない。
母、美沙。
彼女の絶望が、まだ久遠館に残っている。
透は震える手で畳を掴んだ。
まだかくれんぼは終わっていない。




