十一
物置の床に、赤いビー玉が一つだけ残っていた。
床下の扉の前だった。
ころん、と最後に鳴った音は、もう消えているはずなのに、透の耳の奥ではまだ転がり続けていた。古い布団の山も、埃をかぶった木箱も、天井近くを走る梁も、みな息を殺してそれを聞いているようだった。
力は壁にもたれて座っていた。肩で息をしている。首元には、小さな手で掴まれたような赤い痕が残っていた。
笑はその痕を見て、何か言おうとした。けれど言えなかった。代わりに、自分の膝の上で両手を握りしめた。
真壁は床下の扉を見つめていた。
鈴を握った手が、わずかに震えている。あの鈴の音は、さっきまで確かに何かを遠ざけていた。けれど今は、握っている本人の方が、鈴にすがっているように見えた。
柳田は、透が床下から持ち帰った紙片を両手で持っていた。
破られた日記の続き。
そこには、七歳の子どもの字で書かれていた。
おとうさん、みつけて。
柳田の目は、その一文から離れなかった。
「夜明けまでに、って」
透は言った。
自分の声が、思ったより乾いていた。
「さっき、そう言いましたよね」
真壁はすぐには答えなかった。
物置の隅で、古い木箱が小さく軋んだ。中に何かがいるわけではない。ただ、古い木が夜の湿気を吸って鳴っただけだ。そう思いたかった。
「どうして夜明けなんですか」
真壁の視線が、ほんの少しだけ透から逸れた。
まただ、と透は思った。
この人は、何かを訊かれるたび、まず黙る。答えられないのではない。答える言葉を選んでいる。言うことと言わないことを、今もまだ分けている。
「真壁さん」
笑が言った。
声は小さかったが、まっすぐだった。
「もう、隠さんといてください」
真壁は笑を見た。
「私ら、もう十分巻き込まれてます。悟も、力も、透も。私も。だから、今さら守るために言わないとか、そういうのはもうやめてください」
力が壁にもたれたまま、低く言った。
「ほんまそれや。俺、もう一回消えるのはごめんやで」
いつもの冗談みたいに聞こえるはずの言い方だった。
でも、笑えなかった。
真壁は鈴を握り直した。
ちり、と鳴った。
鳴らすつもりはなかったのだろう。小さすぎる音だった。
「悠真くんが施設から消えた夜も、明け方に近い時刻でした」
やっと、真壁が話し始めた。
「姿が見えなくなったのは、夜の八時頃です。最初は、またどこかに隠れているのだと思いました。あの子は、かくれんぼが好きでしたから」
真壁は床下の扉を見た。
透には、その目が扉ではなく、もっと昔の場所を見ているように思えた。
「夕食の時間になっても出てこない。呼んでも返事をしない。私は、怒りました。皆に心配をかけていると。早く出てきなさいと」
その声には、今さらどうにもならない後悔が滲んでいた。
「本当に隠れていただけなら、それでよかったのです」
誰も口を挟まなかった。
笑は唇を噛んでいた。
柳田は紙片を握ったまま、目を伏せている。
「一時間経っても、二時間経っても見つかりませんでした。そこでようやく警察に届けた。町の人にも連絡した。山も川も、空き家も探しました」
「久遠館は?」
透が訊いた。
「夜明け前に来ました」
真壁は答えた。
「悠真くんが、ここへ帰りたがっていたからです。ですが、私は中へ入れませんでした」
「黒瀬がいたからですか」
透が言うと、真壁は静かにうなずいた。
「当時、この館の管理は黒瀬の手に移りかけていました。鍵も替えられていた。彼は言いました。悠真くんは来ていない、と」
笑が、短く息を吸った。
「嘘や」
その声は、ほとんど怒りだった。
柳田が紙片を見た。
「この日記が本当なら、黒瀬はここにいました。悠真くんは床下で、黒瀬を見ている」
力が床を拳で叩いた。
どん、と鈍い音がした。
「何でそんな奴が逃げてんねん」
誰も答えられなかった。
悪い大人は、さっさと逃げる。そして、残された子どもや、見て見ぬふりをした大人たちだけが、長い時間を背負う。
「夜が明けると、何もかも静かになりました」
真壁は言った。
「足音も、声も、捜す人たちの気配も。朝の光の中では、すべてが現実に戻ってしまう。けれど、悠真くんだけが戻らなかった」
鈴がまた、小さく鳴った。
「だから、夜明けまでなんですね」
透は言った。
真壁はうなずいた。
「この館で起こることは、夜明け前に最も強くなります。そして夜が明けると、何事もなかったように鎮まる。けれど、失われたものが必ず戻るわけではありません」
「悟も?」
笑の声が震えた。
真壁は答えなかった。
けれど、答えなかったことが答えだった。
透はスマホを見た。
画面の時計は三時四十二分を示していた。
夜明けまで、残り一時間半ほど。
その数字を見た瞬間、時間が急に形を持った。追いかけてくるものになった。壁の染みも、積まれた布団も、床下の暗闇も、すべてがこちらを急かしているようだった。
力が立ち上がろうとしたが、すぐに膝が崩れた。
「くそ……」
柳田が支えた。
「無理です」
「無理とか言ってる場合ちゃうやろ」
「あなたが倒れたら、助ける人が増えるだけです」
柳田の声は厳しかった。
力は言い返そうとしたが、言葉が出なかった。悔しさだけが顔に残った。
そのときだった。
透は、床の上に白いものが落ちていることに気づいた。
最初は紙くずかと思った。
けれど違った。
白い封筒。
赤い糸。
いや、糸は切れていた。
お守りだった。
破れている。
物置の床に、いつの間にか落ちていた。
「これ……」
透が呟くと、全員の視線がそこへ集まった。
真壁の顔色が変わった。
「触らないでください」
透は伸ばしかけた手を止めた。
封筒の口は、少し開いている。中から薄い紙の端が覗いていた。見ようとしなくても、そこに何かが書かれていることが分かる。
「これ、誰のですか」
透は訊いた。
誰も答えない。
何度も同じ問いに戻ってくる。
誰の札が破れていたのか。
誰が持っていたのか。
誰が、開けたのか。
最初からだったのか。
途中からなのか。
「この中には」
真壁が言った。
「皆さまの名前が入っています」
「名前?」
笑が顔を上げた。
柳田がうなずいた。
「宿泊者名簿をもとに、到着前に書き入れました。名前を封じるためです。呼ばれても、連れていかれないように」
名前を封じる。
透はその言葉を頭の中で繰り返した。
名前は、その人を見つけるためのものだ。
だから悠真は、自分の名前を呼ばれて嬉しかった。
しかしこの館では、名前を呼ばれることが危ない。
名前が外に出る。
見つかる。
連れていかれる。
透は唇が乾くのを感じた。
「じゃあ、このお守りの中を見れば、誰の名前が外に出たのかが分かる」
「そうです」
「でも、見るなと」
「直接見てはいけません」
真壁は床に落ちたお守りを見つめたまま言った。
「名を見ることは、名を呼ぶことに近い。ここでは、そういうことが起こります」
「でも、知らないままじゃ動けません」
透が言うと、真壁はしばらく黙ったあと、破れたお守りを見つめながら言った。
「直接見てはいけないというだけで、方法はあります」
「方法?」
透が言った。
「鏡です」
真壁がうなずいた。
「名前を直接読むのではなく、鏡に映して確認します。安全ではありませんが、直接見るよりはましです」
「鏡なんかあるんですか」
力が訊いた。
柳田が物置の端を照らした。
そこに、古い姿見が立てかけられていた。
布がかけられている。
「宗一郎氏の寝室にあったものです」
柳田が言った。
「美沙さんが嫌がって、ここへ移しました」
透は喉が渇くのを感じた。
真壁は姿見の布を外した。古い鏡面が現れる。
少し曇っているが、人の姿は映る。
ただ、映った物置は、実際の物置よりも暗く見えた。
鏡の中の空気だけが、夜の暗闇に沈んでいるようだった。
真壁は破れたお守りを、鏡の前に置いた。
直接見ないように、透たちは少し横から鏡を覗く。
白い封筒。
切れた赤い糸。
封筒の中から、薄い紙が覗いている。
柳田が紙を少しだけ引き出した。
鏡の中に、墨の文字が映る。
透は目を凝らした。
笑が小さく息を飲んだ。
「これ……」
鏡の中の文字が、ゆらりと揺れた。
まるで水面に映った文字のように。
真壁が低く言った。
「読めますか」
透は読もうとした。
だが、その瞬間、鏡の中に小さな手が映った。
白い手。
鏡の向こうから伸びてきて、紙を隠す。
笑が悲鳴を上げた。
力が鏡から飛び退く。
真壁が鈴を鳴らす。
ちりん。
手は消えた。
紙が見えた。
そこに書かれていた名前は、
悟。
物置の中が、完全に静まり返った。
破れた札の持ち主は、悟だった。
合理的で、怖いものを怖がらないふりをして、いつも一歩引いたところから見ていた友達。
その名前が、封の外に出ていた。
最初からなのか、途中からなのか。
悠真が破ったのか、悟自身がしたのか。
「なんで」
笑が言った。
「いつ破れたん?」
真壁は答えられなかった。
柳田も。
力は床下の扉を睨んでいた。
「あいつ、最初から狙われてたんか」
透は座卓の上に並べられたときの四つのお守りを思い出した。
ひとつだけ、結び目が乱れていたように見えた。
透が確認したときには、どれも同じに見えた。
だが、破れていたのは悟のものだった。
では、なぜ悟だったのか。
父親に似ていたから。男だったから。
それだけでは、きっとない。
何か理由がある。
悟が選ばれた理由が。
すると床下の扉の向こうから、悟の声がした。
「はやく」
扉の向こうで、何かが爪を立てる音がした。
かり。
かり。
「こっち、寒い」
悟の声だった。
でも、違う。
悟なら、そんな言い方はしない。
助けてほしいときほど、悟は平気なふりをするはずだ。
寒い、なんて素直に言わない。
透はそう思った。
「やっぱり違う」
透は言った。
「今のは、悟じゃない」
扉の向こうが静かになった。
そして。
くすくす。
子どもの笑い声。
「ばれた」
力が歯を食いしばった。
「くそ、ふざけんなよ……」
笑は涙を拭った。
その顔には、もうただの恐怖だけではなく、怒りがあった。
「行こう」
透は言った。
自分の声が、今度は揺れなかった。
真壁は新しい赤い紐を取り出した。鈴はついていないが、さっきより長く、丈夫な紐だった。
「俺も行く」
力が言った。
「無理です」
柳田が即座に止めた。
「またそれか」
力は苛立った。
「友達があそこにおるんやぞ。俺だけ戻ってきて、あいつがまだあそこにおるんやぞ。待っとけって、そんな無理な話あるか!」
その声は物置の低い天井にぶつかって落ちた。
誰も、すぐには言い返せなかった。
笑が力の前に座った。
「力は、ここで紐を持ってて」
「それ、待ってろってことやろ」
「違う」
笑は首を振った。
「私らを戻して。さっき、透が私を先に出してくれた。でも、今度は中から出られるとは限らへん。外から引っ張る人がいる。力がいてくれたら、戻れる気がする」
力は笑を見た。
悔しそうだった。怒ってもいた。
でも、笑の言葉を否定できない顔だった。
「絶対、引っ張るからな」
「うん」
「何かあったらすぐ合図しろよ。」
「する」
笑は答えた。
それから力は透を見た。
「透」
その呼び方に、透は一瞬だけ戸惑った。
「悟を連れて帰れ」
「うん」
「絶対やぞ」
「絶対や、約束する」
真壁が透と笑の手首に、赤い紐を結んだ。
柳田も自分の手首に紐を巻く。
真壁は鈴を握った。
「私も参ります」
「真壁さんも?」
透が訊くと、真壁は床下の扉を見た。
「悠真くんに、言わなければならないことがあります」
柳田が鍵束を腰に結び直した。
「私も行きます」
「危険ですよ」
真壁が言った。
柳田は短く笑った。
初めて見る笑い方だった。
「今さら何を言いますか」
その言葉に、真壁は何も返せなかった。
透は床下の扉の前にしゃがんだ。
赤いビー玉が、また一つ置かれている。
赤い。
小さな目のように、こちらを見ている。
透はそれを拾わなかった。
ただ、扉に手をかけた。
床下から冷たい空気が流れ出す。
その奥で、悟の声がした。
「透」
次に、悠真の声が重なった。
「みつけて」
透は答えなかった。
胸元の宗一郎の遺書に、そっと触れた。
見つける。
見つけて、元いたところに帰る。
それが最後のかくれんぼの、本当の終わらせ方だ。
透は床下へ入っていった。




