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みいつけた  作者: 紙とペン


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11/16

十一

 物置の床に、赤いビー玉が一つだけ残っていた。

 床下の扉の前だった。

 ころん、と最後に鳴った音は、もう消えているはずなのに、透の耳の奥ではまだ転がり続けていた。古い布団の山も、埃をかぶった木箱も、天井近くを走る梁も、みな息を殺してそれを聞いているようだった。

 力は壁にもたれて座っていた。肩で息をしている。首元には、小さな手で掴まれたような赤い痕が残っていた。

 笑はその痕を見て、何か言おうとした。けれど言えなかった。代わりに、自分の膝の上で両手を握りしめた。

 真壁は床下の扉を見つめていた。

 鈴を握った手が、わずかに震えている。あの鈴の音は、さっきまで確かに何かを遠ざけていた。けれど今は、握っている本人の方が、鈴にすがっているように見えた。

 柳田は、透が床下から持ち帰った紙片を両手で持っていた。

 破られた日記の続き。

 そこには、七歳の子どもの字で書かれていた。

 

 おとうさん、みつけて。

 

 柳田の目は、その一文から離れなかった。

「夜明けまでに、って」

 透は言った。

 自分の声が、思ったより乾いていた。

「さっき、そう言いましたよね」

 真壁はすぐには答えなかった。

 物置の隅で、古い木箱が小さく軋んだ。中に何かがいるわけではない。ただ、古い木が夜の湿気を吸って鳴っただけだ。そう思いたかった。

「どうして夜明けなんですか」

 真壁の視線が、ほんの少しだけ透から逸れた。

 まただ、と透は思った。

 この人は、何かを訊かれるたび、まず黙る。答えられないのではない。答える言葉を選んでいる。言うことと言わないことを、今もまだ分けている。

「真壁さん」

 笑が言った。

 声は小さかったが、まっすぐだった。

「もう、隠さんといてください」

 真壁は笑を見た。

「私ら、もう十分巻き込まれてます。悟も、力も、透も。私も。だから、今さら守るために言わないとか、そういうのはもうやめてください」

 力が壁にもたれたまま、低く言った。

「ほんまそれや。俺、もう一回消えるのはごめんやで」

 いつもの冗談みたいに聞こえるはずの言い方だった。

 でも、笑えなかった。

 真壁は鈴を握り直した。

 ちり、と鳴った。

 鳴らすつもりはなかったのだろう。小さすぎる音だった。

「悠真くんが施設から消えた夜も、明け方に近い時刻でした」

 やっと、真壁が話し始めた。

「姿が見えなくなったのは、夜の八時頃です。最初は、またどこかに隠れているのだと思いました。あの子は、かくれんぼが好きでしたから」

 真壁は床下の扉を見た。

 透には、その目が扉ではなく、もっと昔の場所を見ているように思えた。

「夕食の時間になっても出てこない。呼んでも返事をしない。私は、怒りました。皆に心配をかけていると。早く出てきなさいと」

 その声には、今さらどうにもならない後悔が滲んでいた。

「本当に隠れていただけなら、それでよかったのです」

 誰も口を挟まなかった。

 笑は唇を噛んでいた。

 柳田は紙片を握ったまま、目を伏せている。

「一時間経っても、二時間経っても見つかりませんでした。そこでようやく警察に届けた。町の人にも連絡した。山も川も、空き家も探しました」

「久遠館は?」

 透が訊いた。

「夜明け前に来ました」

 真壁は答えた。

「悠真くんが、ここへ帰りたがっていたからです。ですが、私は中へ入れませんでした」

「黒瀬がいたからですか」

 透が言うと、真壁は静かにうなずいた。

「当時、この館の管理は黒瀬の手に移りかけていました。鍵も替えられていた。彼は言いました。悠真くんは来ていない、と」

 笑が、短く息を吸った。

「嘘や」

 その声は、ほとんど怒りだった。

 柳田が紙片を見た。

「この日記が本当なら、黒瀬はここにいました。悠真くんは床下で、黒瀬を見ている」

 力が床を拳で叩いた。

 どん、と鈍い音がした。

「何でそんな奴が逃げてんねん」

 誰も答えられなかった。

 悪い大人は、さっさと逃げる。そして、残された子どもや、見て見ぬふりをした大人たちだけが、長い時間を背負う。

「夜が明けると、何もかも静かになりました」

 真壁は言った。

「足音も、声も、捜す人たちの気配も。朝の光の中では、すべてが現実に戻ってしまう。けれど、悠真くんだけが戻らなかった」

 鈴がまた、小さく鳴った。

「だから、夜明けまでなんですね」

 透は言った。

 真壁はうなずいた。

「この館で起こることは、夜明け前に最も強くなります。そして夜が明けると、何事もなかったように鎮まる。けれど、失われたものが必ず戻るわけではありません」

「悟も?」

 笑の声が震えた。

 真壁は答えなかった。

 けれど、答えなかったことが答えだった。

 透はスマホを見た。

 画面の時計は三時四十二分を示していた。

 夜明けまで、残り一時間半ほど。

 その数字を見た瞬間、時間が急に形を持った。追いかけてくるものになった。壁の染みも、積まれた布団も、床下の暗闇も、すべてがこちらを急かしているようだった。

 力が立ち上がろうとしたが、すぐに膝が崩れた。

「くそ……」

 柳田が支えた。

「無理です」

「無理とか言ってる場合ちゃうやろ」

「あなたが倒れたら、助ける人が増えるだけです」

 柳田の声は厳しかった。

 力は言い返そうとしたが、言葉が出なかった。悔しさだけが顔に残った。

 そのときだった。

 透は、床の上に白いものが落ちていることに気づいた。

 最初は紙くずかと思った。

 けれど違った。

 白い封筒。

 赤い糸。

 いや、糸は切れていた。

 お守りだった。

 破れている。

 物置の床に、いつの間にか落ちていた。

「これ……」

 透が呟くと、全員の視線がそこへ集まった。

 真壁の顔色が変わった。

「触らないでください」

 透は伸ばしかけた手を止めた。

 封筒の口は、少し開いている。中から薄い紙の端が覗いていた。見ようとしなくても、そこに何かが書かれていることが分かる。

「これ、誰のですか」

 透は訊いた。

 誰も答えない。

 何度も同じ問いに戻ってくる。

 誰の札が破れていたのか。

 誰が持っていたのか。

 誰が、開けたのか。

 最初からだったのか。

 途中からなのか。

「この中には」

 真壁が言った。

「皆さまの名前が入っています」

「名前?」

 笑が顔を上げた。

 柳田がうなずいた。

「宿泊者名簿をもとに、到着前に書き入れました。名前を封じるためです。呼ばれても、連れていかれないように」

 名前を封じる。

 透はその言葉を頭の中で繰り返した。

 名前は、その人を見つけるためのものだ。

 だから悠真は、自分の名前を呼ばれて嬉しかった。

 しかしこの館では、名前を呼ばれることが危ない。

 名前が外に出る。

 見つかる。

 連れていかれる。

 透は唇が乾くのを感じた。

「じゃあ、このお守りの中を見れば、誰の名前が外に出たのかが分かる」

「そうです」

「でも、見るなと」

「直接見てはいけません」

 真壁は床に落ちたお守りを見つめたまま言った。

「名を見ることは、名を呼ぶことに近い。ここでは、そういうことが起こります」

「でも、知らないままじゃ動けません」

 透が言うと、真壁はしばらく黙ったあと、破れたお守りを見つめながら言った。

「直接見てはいけないというだけで、方法はあります」

「方法?」

透が言った。

「鏡です」

 真壁がうなずいた。

「名前を直接読むのではなく、鏡に映して確認します。安全ではありませんが、直接見るよりはましです」

「鏡なんかあるんですか」

 力が訊いた。

 柳田が物置の端を照らした。

 そこに、古い姿見が立てかけられていた。

 布がかけられている。

「宗一郎氏の寝室にあったものです」

 柳田が言った。

「美沙さんが嫌がって、ここへ移しました」

 透は喉が渇くのを感じた。

 真壁は姿見の布を外した。古い鏡面が現れる。

 少し曇っているが、人の姿は映る。

 ただ、映った物置は、実際の物置よりも暗く見えた。

 鏡の中の空気だけが、夜の暗闇に沈んでいるようだった。

 真壁は破れたお守りを、鏡の前に置いた。

 直接見ないように、透たちは少し横から鏡を覗く。

 白い封筒。

 切れた赤い糸。

 封筒の中から、薄い紙が覗いている。

 柳田が紙を少しだけ引き出した。

 鏡の中に、墨の文字が映る。

 透は目を凝らした。

 笑が小さく息を飲んだ。

「これ……」

 鏡の中の文字が、ゆらりと揺れた。

 まるで水面に映った文字のように。

 真壁が低く言った。

「読めますか」

 透は読もうとした。

 だが、その瞬間、鏡の中に小さな手が映った。

 白い手。

 鏡の向こうから伸びてきて、紙を隠す。

 笑が悲鳴を上げた。

 力が鏡から飛び退く。

 真壁が鈴を鳴らす。

 

 ちりん。

 

 手は消えた。

 紙が見えた。

 そこに書かれていた名前は、

 

 悟。

 

 物置の中が、完全に静まり返った。

 破れた札の持ち主は、悟だった。

 合理的で、怖いものを怖がらないふりをして、いつも一歩引いたところから見ていた友達。

 その名前が、封の外に出ていた。

 最初からなのか、途中からなのか。

 悠真が破ったのか、悟自身がしたのか。

「なんで」

 笑が言った。

「いつ破れたん?」

 真壁は答えられなかった。

 柳田も。

 力は床下の扉を睨んでいた。

「あいつ、最初から狙われてたんか」

 透は座卓の上に並べられたときの四つのお守りを思い出した。

 ひとつだけ、結び目が乱れていたように見えた。

 透が確認したときには、どれも同じに見えた。

 だが、破れていたのは悟のものだった。

 では、なぜ悟だったのか。

 父親に似ていたから。男だったから。

 それだけでは、きっとない。

 何か理由がある。

 悟が選ばれた理由が。

 すると床下の扉の向こうから、悟の声がした。


「はやく」


 扉の向こうで、何かが爪を立てる音がした。


 かり。

 かり。


「こっち、寒い」


 悟の声だった。

 でも、違う。

 悟なら、そんな言い方はしない。

 助けてほしいときほど、悟は平気なふりをするはずだ。

 寒い、なんて素直に言わない。

 透はそう思った。

「やっぱり違う」

 透は言った。

「今のは、悟じゃない」

 扉の向こうが静かになった。

 そして。

 

 くすくす。

 

 子どもの笑い声。


「ばれた」


 力が歯を食いしばった。

「くそ、ふざけんなよ……」

 笑は涙を拭った。

 その顔には、もうただの恐怖だけではなく、怒りがあった。

「行こう」

 透は言った。

 自分の声が、今度は揺れなかった。

 真壁は新しい赤い紐を取り出した。鈴はついていないが、さっきより長く、丈夫な紐だった。

「俺も行く」

 力が言った。

「無理です」

 柳田が即座に止めた。

「またそれか」

 力は苛立った。

「友達があそこにおるんやぞ。俺だけ戻ってきて、あいつがまだあそこにおるんやぞ。待っとけって、そんな無理な話あるか!」

 その声は物置の低い天井にぶつかって落ちた。

 誰も、すぐには言い返せなかった。

 笑が力の前に座った。

「力は、ここで紐を持ってて」

「それ、待ってろってことやろ」

「違う」

 笑は首を振った。

「私らを戻して。さっき、透が私を先に出してくれた。でも、今度は中から出られるとは限らへん。外から引っ張る人がいる。力がいてくれたら、戻れる気がする」

 力は笑を見た。

 悔しそうだった。怒ってもいた。

 でも、笑の言葉を否定できない顔だった。

「絶対、引っ張るからな」

「うん」

「何かあったらすぐ合図しろよ。」

「する」

 笑は答えた。

 それから力は透を見た。

「透」

 その呼び方に、透は一瞬だけ戸惑った。

「悟を連れて帰れ」

「うん」

「絶対やぞ」

「絶対や、約束する」

 真壁が透と笑の手首に、赤い紐を結んだ。

 柳田も自分の手首に紐を巻く。

 真壁は鈴を握った。

「私も参ります」

「真壁さんも?」

 透が訊くと、真壁は床下の扉を見た。

「悠真くんに、言わなければならないことがあります」

 柳田が鍵束を腰に結び直した。

「私も行きます」

「危険ですよ」

 真壁が言った。

 柳田は短く笑った。

 初めて見る笑い方だった。

「今さら何を言いますか」

 その言葉に、真壁は何も返せなかった。

 透は床下の扉の前にしゃがんだ。

 赤いビー玉が、また一つ置かれている。

 赤い。

 小さな目のように、こちらを見ている。

 透はそれを拾わなかった。

 ただ、扉に手をかけた。

 床下から冷たい空気が流れ出す。

 その奥で、悟の声がした。


「透」


 次に、悠真の声が重なった。


「みつけて」


 透は答えなかった。

 胸元の宗一郎の遺書に、そっと触れた。

 見つける。

 見つけて、元いたところに帰る。

 それが最後のかくれんぼの、本当の終わらせ方だ。

 透は床下へ入っていった。

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