十
床下へ続く小さな扉は、物置の一番奥にあった。
大人なら四つん這いにならないと通れないほど低い。木枠は古く、角は黒ずんでいる。普段は布団や座布団の山に隠れていて、知らなければ気づかない場所だった。
扉の前には、赤いビー玉が一つ置かれている。
それは、まるで案内板のようだった。
ここだよ。
ここにいるよ。
そう言っているように。
「悟……」
透は小さく呼びかけそうになり、口を閉じた。
名前を呼ぶな。
返事をするな。
何度も言われているのに、こういうとき人は名前を呼びたくなる。
名前を呼べば、その人が帰ってくるような気がするからだ。
力は布団の上に座り込んでいた。
顔色は悪いが、意識はある。腕や足を動かせるし、どこかに怪我をしている様子もなかった。ただ、首のあたりに赤い痕がついていた。
小さな手で掴まれたような痕だった。
「痛む?」
笑が訊いた。
「いや、そこまでや」
力は首をさすった。
「でも、何かに引っ張られた感覚は覚えてる。暗くなって、足元がなくなって、気づいたら布団の中におった」
「床が抜けたとか?」
透が訊く。
「分からん。落ちた感じはあった。でも、怪我してへんのが変やねん」
「誰か見たか?」
「見てへん」
力は顔をしかめた。
「でも、声は聞こえた」
「誰の?」
「悟や」
透は扉を見た。
その向こうから、今もかすかな気配がある。
「悟が、何て?」
笑が訊いた。
力は少し迷ってから答えた。
「こっちは楽しいで、って」
笑の顔が強張った。
「悟がそんなこと言う?」
「言わんな」
力はすぐに言った。
「だから違うって思ったんやけど、でも声は悟やった」
その言葉が、物置の中に重く落ちた。
声は本人のもの。
けれど、中身が違う。
そんなことが本当にあるのだろうか。
いや、ここではもう、あるのだろう。
真壁は扉の前にしゃがみ込んだ。
「この下へ入るのは危険です」
「でも悟の声がしました」
透は言った。
「分かっています」
「なら行くしかない」
「私が行きます」
真壁が言った。
透は首を横に振った。
「たぶん、それじゃ駄目です」
「なぜですか」
「悠真くんは、僕に鬼をやらせたいんやと思います。僕が見つけないと終わらない」
自分で言いながら、透は嫌な汗をかいた。
鬼。
見つける役。
それはただの遊びのはずだった。
でも今は、罰のように聞こえる。
「透が一人で行くなら、私も行く」
笑が言った。
「狭いで」
「だから何?」
「危ないって」
「もう何しても危ないやん」
笑は透を睨んだ。
「力は見つかった。でも悟はまだやろ。ここで透だけ行かせて、透まで消えたら、私ほんまに無理やから」
透は何も言えなかった。
笑は怖がっている。
それでも引かない。
さっき力を見つけたとき、笑は泣きながら笑った。その顔が、透の頭に残っていた。
笑は、怖くても人を見捨てない。
そういう強さを持っている。
「俺も行く」
力が言った。
「無理やろ」
笑が即座に言った。
「今ふらふらやん」
「行ける」
「行けへん」
「でも悟が」
「力はここにいといてや」
透が言った。
力は不満そうに透を見た。
「何でや」
「一人は外にいた方がええと思う。僕と笑が入った後、何かあったら真壁さんたちと一緒に引っ張り出してほしいねん」
「……それ、俺に待ってろってことやん」
「うん」
「嫌やな」
力は悔しそうに拳を握り、立ち上がろうとしたが、ふらついた。
柳田が支える。
「無理をしてはいけません」
「分かってます」
力は小さく舌打ちした。
「絶対戻ってこいよ」
透はうなずいた。
「戻る」
「笑も」
「分かってる」
笑は強く答えた。
真壁は懐からもう一本、赤い紐を取り出した。
今度は鈴ではなく、小さな木札がついている。
「これを持ってください」
「何ですか」
透が受け取ると、木札には墨で何かが書かれていた。
古い字で読みにくい。
「迷わないための印です」
真壁は言った。
「床下は複雑ではありません。ですが、この館では道が道のままとは限らない」
「どういうことですか」
「まっすぐ進んだはずなのに元に戻る。右へ曲がったのに左から声がする。昔から、そういうことがありました」
真壁は透の手首に赤い紐を結んだ。
「私たちは、ここで紐の端を持ちます。異変があれば引きます。あなたたちも、危ないと思ったら三度強く引いてください」
「分かりました」
笑にも同じ赤い紐が結ばれた。
手首の鈴とは別に、命綱のように。
「悟を見つけても、すぐに触れてはいけません」
真壁は言った。
「でも、悟が倒れてたら」
「まず声をかけてください。ただし、名前ではなく」
「じゃあ何て呼ぶんですか」
真壁は答えに詰まった。
名前を呼ぶな。
でも名前以外で友達を呼ぶのは難しい。
笑が小さく言った。
「『帰ろう』でええんちゃう」
透は笑を見た。
「名前じゃなくても、その人に届く言葉ってあるやろ」
帰ろう。
それは、今の悟に一番必要な言葉かもしれない。
「そうする」
透はうなずいた。
真壁が扉を開けた。
ぎい、と木が軋む。
床下から、冷たい空気が流れ出した。
湿った土の匂い。
古い木材の匂い。
それに混じって、かすかに甘い匂いがした。
祭りの綿菓子のような、古い飴のような匂い。
子どもの匂い。
そう思った瞬間、透はぞっとした。
「行こう」
透は言った。
笑がうなずく。
二人は扉をくぐった。
床下は低かった。
膝と手をついて進むしかない。土は乾いているようで、ところどころ湿っていた。木の柱が何本も立ち、梁が頭上を走っている。真壁の懐中電灯を借りていたが、光は奥まで届かない。
後ろで、扉の前にいる力の声がした。
「大丈夫か?」
透は答えかけて、止まった。
返事をしていいのか。
今の力は、本当に力なのか。
迷った。
すると、後ろから赤い紐が一度だけ引かれた。
合図。
真壁たちが外にいる。
透は紐を軽く引き返した。
声ではなく、合図で返した。
「賢いな」
笑が小声で言った。
「怖いだけや」
「それでもええわ」
二人は進んだ。
床下は思ったより広い。
いや、広く感じるだけなのかもしれない。
懐中電灯の光が届く範囲には、柱と土と配管しかない。けれど少し進むと、壁際に古いものが置かれているのが見えた。
壊れた椅子。
割れた行灯。
使われなくなった食器。
古い木箱。
旅館の歴史からこぼれ落ちたものたちが、ここに押し込められていた。
「こんなとこに隠されたら、絶対見つからへん」
笑が言った。
「かくれんぼには向いてるな」
「嫌なこと言わんといて」
そのとき、前方で音がした。
ころん。
ビー玉の音。
懐中電灯を向ける。
土の上に、赤いビー玉が一つあった。
さっきまでなかったはずなのに。
それは、奥へ進む方向を示すように置かれていた。
「道しるべやな」
透が言った。
「罠かもしれへんで」
「でも、進むしかないやろ」
「うん」
二人はビー玉の方へ進んだ。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
赤いビー玉は、点々と続いている。
その列を追ううちに、透は奇妙なことに気づいた。
床下の構造が変わっている。
さっきまでまっすぐ進んでいたはずなのに、いつの間にか右へ曲がっていた。柱の並びも違う。天井が少し高くなった気がする。
後ろを振り返る。
扉の光は見えなかった。
赤い紐だけが、暗闇の中へ伸びている。
それがなければ、もう戻れない。
「透」
笑の声が低くなった。
「これ、絶対おかしい」
「うん」
「戻る?」
透は前を見た。
赤いビー玉の列は、さらに奥へ続いている。
そしてその奥から、声がした。
「帰ろう」
透と笑は同時に止まった。
今の声は、透の声だった。
透自身が言おうとしていた言葉。
それが、奥から聞こえた。
「帰ろう」
もう一度。
今度は笑の声だった。
笑が口を押さえた。
「私、言ってない」
「分かってる」
「気持ち悪い」
その声は、奥へ進むほど近くなる。
「帰ろう」
力の声。
「帰ろう」
悟の声。
「かえろう」
そして、子どもの声。
いくつもの声が、同じ言葉を繰り返している。
かえろう。
かえろう。
かえろう。
透は耳を塞ぎたくなった。
「もう戻りたいわ」
笑が言った。
「でも、悟もいるかもしれない」
「分かってる」
二人はさらに進んだ。
やがて、床下の奥に小さな空間が見えた。
そこだけ天井が高くなっている。大人がしゃがめば何とか座れるほどの空間。壁には木の板が貼られていて、床には古い畳が一枚敷かれていた。
隠し部屋。
透はそう思った。
そこに、悟がいた。
壁にもたれるように座っている。
顔は伏せている。
服も、体格も、間違いなく悟だった。
透は息を飲んだ。
「悟……」
名前を呼びそうになり、止めた。
笑が透の袖を引いた。
「帰ろう、って言うんやろ」
透はうなずいた。
そして、悟に向かって言った。
「帰ろう」
悟は動かなかった。
「帰ろう。みんな待ってる」
悟の肩が、ぴくりと動いた。
透の心臓が跳ねる。
「帰ろう。力も見つかった。笑もいる。僕もいる」
悟がゆっくり顔を上げた。
顔色は悪い。
唇が乾いている。
額には汗がにじんでいた。
だが、目は悟のものだった。
少なくとも、透にはそう見えた。
「透……?」
悟の声だった。
弱い。
いつもの皮肉っぽさはない。
「迎えに来た」
透は言った。
悟はぼんやりと笑った。
「遅い」
その言葉に、透の背筋が冷たくなった。
遊戯室で聞いた言葉。
遅い。ずっと待ってたのに。
あのときと同じ。
だが、今の悟はそのことに気づいていないようだった。
「どこか痛い?」
笑が訊いた。
悟は笑を見た。
「分からん」
「立てる?」
「たぶん」
透は手を伸ばしかけた。
だが、真壁の言葉を思い出す。
悟を見つけても、すぐに触れるな。
透は手を止めた。
悟がそれに気づいた。
「何?」
「いや」
「怖い?」
悟が言った。
その声には、少しだけいつもの調子が戻っていた。
「僕が?」
「うん、怖い」
透は正直に言った。
「でも、助けたい」
悟はしばらく透を見ていた。
そして、小さく言った。
「俺、何かした?」
「覚えてへん?」
「途中から記憶がない」
「どこまで覚えてる?」
悟は目を閉じた。
「部屋で寝てた。声が聞こえた」
「誰の?」
「父親の声」
透は息を止めた。
笑も固まった。
「父親?」
「俺の父親ちゃう」
悟は眉をひそめた。
「でも、父親って感じの声やった。低くて、怒ってるみたいで、でも泣きそうで」
「何て言ってた?」
「見つける、って」
透は胸元の宗一郎の遺書を思い出した。
もし次に会えるなら、そのときは、必ず見つける。
「それで?」
「気づいたら廊下におった。奥の方に、男の子が立ってた」
「悠真くん?」
「たぶん」
「その子が連れてきた?」
「分からん」
悟は頭を押さえた。
「男の子は泣いてた。でも笑ってた。おかしいやろ。泣きながら笑ってた」
笑が小さく言った。
「悲しかったんやと思う」
悟は笑を見た。
「たぶん、そう」
それから悟は、床下の奥を見た。
「あそこに、何かある」
透は懐中電灯を向けた。
隠し部屋の奥。
木箱が一つ置かれていた。
小さな箱。
蓋は半分開いている。
その中から、紙の端が見えていた。
「日記の続きかもしれない」
透は言った。
笑が息を飲む。
「破られてたページ?」
「たぶん」
透は箱に近づいた。
悟から目を離すのは怖かったが、笑が悟を見ていてくれた。
箱の中には、破られたノートのページが数枚入っていた。
子どもの字。おそらく悠真の字だろう。
透はその一枚を取った。
そこには、こう書かれていた。
くろせのおじさんは、こなかった。
でも、こえがした。
おとうさんのへやのしたから。
おとうさんが、ぼくをよんだ。
透は読み上げるのをためらった。
笑が「続けて」と目で言った。
透は続けた。
ゆうま。
ゆうま。
みつける。
そうきこえた。
ぼくは、したにいった。
床下。まさに今、自分たちがいる場所だ。
悠真もここへ来た。
父親に呼ばれたと思って。
透は次の紙を読んだ。
そこに、くろせのおじさんがいた。
おとうさんじゃなかった。
おじさんは、ぼくに、だまっててねっていった。
ぼくは、こわかった。
笑が口元を押さえた。
悟の顔も強張った。
黒瀬は、床下にいた。
なぜ。何をしていた。
透は次の紙を取った。
おじさんは、はこをもってた。
おとうさんのかみを、もってた。
ぼくのいえのものを、もっていくって。
ぼくは、だめっていった。
宗一郎の紙とは遺書か、帳簿か、久遠館の権利に関わる書類か。
透には分からなかった。
だが、黒瀬は何かを盗もうとしていた。
あるいは、隠そうとしていた。
次の紙。
字が大きく乱れていた。
おじさんが、おこった。
ぼくは、かくれた。
おじさんは、みつけた。
くびがいたかった。
こえがでなかった。
透は息が止まりそうになった。
笑は震えていた。
悟が低く言った。
「黒瀬が……」
透は最後の紙を見た。
そこには、たった一文だけ書かれていた。
おとうさん、みつけて。
その下には、赤い丸がいくつも描かれていた。
ビー玉。
いや、助けを呼ぶ印。
透は紙を握った。
悠真は、失踪したのではなかった。
自分から消えたのではなかった。
黒瀬に見つかり、声を奪われた。
そして、おそらく。この床下で。
「悠真くんは、ここで死んだの?」
笑が震える声で言った。
誰も答えられなかった。
そのとき、床下のさらに奥から声がした。
「ちがうよ」
子どもの声。
透は懐中電灯を向けた。
暗闇の中に、悠真が立っていた。
白い寝巻き。
裸足。
小さな手に、赤いビー玉を握っている。
「ぼくは、まだ」
悠真は首を傾げた。
「みつかってないよ」
その言葉の意味を考えるより早く、悟が立ち上がった。
ふらつきながら。
そして、悠真の方へ歩こうとした。
「悟!」
透は思わず叫んだ。
名前を呼んでしまった。
その瞬間、悠真が笑った。
悟の体がぴたりと止まった。
笑が悲鳴を上げる。
悟がゆっくり振り返った。
その目は、さっきまでとは違っていた。
暗い。
深い。
子どもの目でも、大人の目でもない。
たくさんの寂しさが混ざって、底なしになったような目だった。
「よんだ?」
悟の口が動いた。
声は悟のものだった。
だが、言葉は悠真のものだった。
「ぼくのこと、よんだ?」
透は動けなかった。
笑が透の腕を掴む。
奥の暗闇で、悠真の影が薄くなっていく。
代わりに、悟の口元がゆっくり笑った。
「みいつけた」
その瞬間、透の手首の赤い紐が、強く引かれた。
外からの合図。
真壁たちが何かに気づいた。
だが、透は動けなかった。
目の前で、悟が笑っている。
友達の顔で。
友達ではない誰かの笑い方で。
「透」
笑が叫んだ。
「逃げるで!」
笑が透の腕を引き、透はようやく体を動かした。
悟が一歩近づく。
床下の空間に、赤いビー玉が一斉に転がり始めた。
ころん。
ころん。
ころん。
その音の中で、悟の声が重なった。
「まーだだよ」
透は振り返らずに進んだ。
赤い紐が外へ続いている。
その紐だけを頼りに、笑と一緒に床下を戻る。
後ろから、悟の声が追ってくる。
「かくれんぼは」
ころん。
ころん。
「みつけたら」
ころん。
ころん。
「おわりじゃないよ」
透は歯を食いしばった。
出口の光が見えた。
真壁の手が伸びている。
柳田の声が聞こえる。
「早く!」
透は笑を先に押し出した。
続いて自分も扉をくぐる。
その直後、床下の奥から悟の声がした。
「こんどは、ぼくがおに」
扉が、内側から勢いよく閉まった。
真壁が鈴を鳴らす。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
音が物置に響き渡る。
力が透の肩を掴んだ。
「悟は?」
透は答えられなかった。
笑は床に座り込み、震えていた。
透は手の中の紙片を見た。
破られた日記の続き。
そこには、悠真の最後の願いが残っていた。
おとうさん、みつけて。
透はゆっくり顔を上げた。
悟はまだ床下にいる。
けれど今、あの中にいるのは本当に悟だけなのか。
それとも、悠真なのか。
あるいは、悠真の寂しさに引き寄せられた、もっと別のものなのか。
真壁が低く言った。
「もう、時間がありません」
「どういう意味ですか」
透が訊いた。
真壁は床下の扉を見つめたまま答えた。
「夜明けまでに悟くんを連れ戻せなければ、あの子は戻れなくなります」
「悟が?」
「はい」
真壁は続けた。
「そして、おそらく悠真くんも」
物置の中で、赤いビー玉が一つだけ転がった。
ころん。
それは扉の前で止まった。
まるで、もう一度開けろと言うように。




