表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第三音楽室の調律  作者: naomikoryo


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/4

3.不協和音の旋律

 扉は、(きし)むような低い音を立てて開いた。

 中から、カビと(ほこり)が混じった、(よど)んだ空気が流れ出してくる。

 懐中電灯の光が、暗闇を切り()き、室内の様子を少しずつ明らかにしていく。


 そこは、時が止まった場所だった。


 壁際には、白い布を(かぶ)せられた楽器が、墓標(ぼひょう)のように並んでいる。

 ティンパニ、コントラバス、チェロ…。

 そのどれもが、静かに死んでいるように見えた。

 壁に飾られた、ベートーヴェンやモーツァルトの肖像画(しょうぞうが)は、その目を厳しく閉ざし、私たちのような侵入者を拒絶(きょぜつ)しているかのようだ。


 そして、部屋の中央に、それはあった。


 一台の、黒々としたグランドピアノ。

 月明かりを浴びて、その巨体はぬらりとした光を放っている。

 まるで、この部屋の主のように、威圧的(いあつてき)な存在感で鎮座(ちんざ)していた。


「…誰も、いないね」


 健太が、安堵(あんど)の息を漏らす。

 だが、その安堵は早すぎた。


 バタンッ!!


 突然、背後で扉が大きな音を立てて閉まった。

 風など、どこにも吹いていなかったのに。


「きゃあ!」


 陽子が悲鳴を上げ、健太がドアノブに飛びつく。

「だ、ダメだ!開かない!」


 ガチャガチャと虚しくノブが回る音だけが、室内に響く。

 私たちは、閉じ込められたのだ。


 パニックに(おちい)りかけた、その時だった。


 ポーン…


 静寂(せいじゃく)(やぶ)り、ピアノの鍵盤(けんばん)が一つ、鳴った。

 それは、か細く、しかし()んだ音だった。

 まるで、誰かがそっと指で触れたかのような。


 私たちは、息を飲んでピアノを見た。

 誰も、触れてなどいない。


 ポロロン…


 今度は、いくつかの鍵盤が同時に鳴らされる。

 不協和音(ふきょうわおん)

 聞く者の神経を逆撫(さかな)でするような、不快(ふかい)な響き。


「おい…なんだよ、これ…」


 健太の声が震えている。

 陽子は、私の腕を強く(つか)んでいた。

 その指先が、氷のように冷たい。


 そして、演奏が始まった。


 それは、曲とは呼べない代物(しろもの)だった。

 高音と低音が入り乱れ、鍵盤をめちゃくちゃに叩きつけているかのような、狂気(きょうき)に満ちた旋律(せんりつ)

 悲鳴のようでもあり、嘲笑(ちょうしょう)のようでもあった。

 それは、この部屋に染み付いた、絶望と怨念(おんねん)の記憶そのものが音になったかのようだった。


「耳を(ふさ)いで!」


 私が叫ぶ。

 だが、その音は物理的な鼓膜(こまく)だけでなく、(たましい)を直接揺さぶってくる。

 頭の芯が(しび)れ、吐き気がこみ上げてきた。


 カタ、カタ、カタ、カタ…


 ピアノの演奏に重なるように、新たな音が加わった。

 ピアノの上に置かれていた、古い木製のメトロノーム。

 その振り子が、ひとりでに左右に揺れ始めたのだ。

 最初はゆっくりと、しかし、徐々にそのテンポを速めていく。


 カタカタカタカタカタカタ…!


 狂ったピアノの旋律と、性急(せいきゅう)なメトロノームのリズムが、私たちの理性を少しずつ削り取っていく。


「いやああああっ!」


 ついに、陽子が絶叫し、再び扉に体当たりを始めた。

 だが、扉はびくともしない。


 その時、私は見てしまった。

 壁に飾られた肖像画。

 ベートーヴェンが、モーツァルトが、バッハが…その描かれた瞳を、一斉(いっせい)に私たちに向けていたのだ。

 その目は、憎悪(ぞうお)と、そして()えに満ちていた。


「見るな!壁を見るな!」


 私は叫んだが、もう遅かった。

 健太もそれに気づき、腰を抜かして床にへたり込んでしまった。


 ピアノの演奏が、最高潮(さいこうちょう)に達する。

 まるで、百本の指が同時に鍵盤を叩きつけているかのような、耳をつんざく轟音(ごうおん)


 そして。


 プツン。


 全ての音が、唐突(とうとつ)に止んだ。

 懐中電灯の光も、月明かりも消え、完全な暗闇が訪れた。

 音も、光も、何もかもが存在しない、絶対的な無。


「…健太?陽子?」


 私は、暗闇に向かって呼びかけた。

 返事はない。

 ただ、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。


 その、静寂の中で。


「…み…さ…き…」


 すぐ耳元で、囁く声がした。

 健太の声だ。

 だが、その声は、まるで水底(みずぞこ)から響いてくるかのように、くぐもって冷たかった。


「健太、どこに…」


 言いかけた私の足首を、何かが掴んだ。

 氷のように冷たい、骨張(ほねば)った指。


「うわあああああああああっ!!」


 健太の絶叫(ぜっきょう)が、暗闇を引き裂いた。

 それは、痛みと恐怖が極限まで凝縮(ぎょうしゅく)された、人間が発するとは思えない叫びだった。


 ズル…ズルルル…


 何かが、健太の体を床の上で引きずっていく音。

 彼の悲鳴が、少しずつ遠ざかっていく。


「健太っ!」


 陽子が叫び、手探(てさぐ)りで私を見つけ、腕を引いた。

「逃げるよ!早く!」


 パニックの中で、我々は必死に扉を探した。

 壁に体を打ち付け、爪を立てながら、出口を求める。

 その間も、健太の断末魔(だんまつま)の叫びと、不気味な引きずる音は、暗闇の奥で続いていた。


 ガチャン。


 奇跡的に、陽子の手がドアノブを見つけた。

 そして、なぜか今度は、あっさりと扉が開いたのだ。


 外の、月明かりに照らされた廊下が見える。

 我々は、もつれるようにして廊下に転がり出た。


「健太を…助けないと…!」


 私が振り返り、暗闇の音楽室に向かって叫ぶ。

 だが、陽子は私の腕を(つか)んで離さなかった。


「ダメ!もう手遅れよ!」


 彼女の顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。

 その目は、私が今まで見たこともないような、純粋な恐怖に染まっていた。


 音楽室の暗闇の奥から、健太の叫び声は、もう聞こえなくなっていた。

 代わりに聞こえてきたのは、


 ポーン…


 という、満足げな、ピアノの最後の響きだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ