3.不協和音の旋律
扉は、軋むような低い音を立てて開いた。
中から、カビと埃が混じった、澱んだ空気が流れ出してくる。
懐中電灯の光が、暗闇を切り裂き、室内の様子を少しずつ明らかにしていく。
そこは、時が止まった場所だった。
壁際には、白い布を被せられた楽器が、墓標のように並んでいる。
ティンパニ、コントラバス、チェロ…。
そのどれもが、静かに死んでいるように見えた。
壁に飾られた、ベートーヴェンやモーツァルトの肖像画は、その目を厳しく閉ざし、私たちのような侵入者を拒絶しているかのようだ。
そして、部屋の中央に、それはあった。
一台の、黒々としたグランドピアノ。
月明かりを浴びて、その巨体はぬらりとした光を放っている。
まるで、この部屋の主のように、威圧的な存在感で鎮座していた。
「…誰も、いないね」
健太が、安堵の息を漏らす。
だが、その安堵は早すぎた。
バタンッ!!
突然、背後で扉が大きな音を立てて閉まった。
風など、どこにも吹いていなかったのに。
「きゃあ!」
陽子が悲鳴を上げ、健太がドアノブに飛びつく。
「だ、ダメだ!開かない!」
ガチャガチャと虚しくノブが回る音だけが、室内に響く。
私たちは、閉じ込められたのだ。
パニックに陥りかけた、その時だった。
ポーン…
静寂を破り、ピアノの鍵盤が一つ、鳴った。
それは、か細く、しかし澄んだ音だった。
まるで、誰かがそっと指で触れたかのような。
私たちは、息を飲んでピアノを見た。
誰も、触れてなどいない。
ポロロン…
今度は、いくつかの鍵盤が同時に鳴らされる。
不協和音。
聞く者の神経を逆撫でするような、不快な響き。
「おい…なんだよ、これ…」
健太の声が震えている。
陽子は、私の腕を強く掴んでいた。
その指先が、氷のように冷たい。
そして、演奏が始まった。
それは、曲とは呼べない代物だった。
高音と低音が入り乱れ、鍵盤をめちゃくちゃに叩きつけているかのような、狂気に満ちた旋律。
悲鳴のようでもあり、嘲笑のようでもあった。
それは、この部屋に染み付いた、絶望と怨念の記憶そのものが音になったかのようだった。
「耳を塞いで!」
私が叫ぶ。
だが、その音は物理的な鼓膜だけでなく、魂を直接揺さぶってくる。
頭の芯が痺れ、吐き気がこみ上げてきた。
カタ、カタ、カタ、カタ…
ピアノの演奏に重なるように、新たな音が加わった。
ピアノの上に置かれていた、古い木製のメトロノーム。
その振り子が、ひとりでに左右に揺れ始めたのだ。
最初はゆっくりと、しかし、徐々にそのテンポを速めていく。
カタカタカタカタカタカタ…!
狂ったピアノの旋律と、性急なメトロノームのリズムが、私たちの理性を少しずつ削り取っていく。
「いやああああっ!」
ついに、陽子が絶叫し、再び扉に体当たりを始めた。
だが、扉はびくともしない。
その時、私は見てしまった。
壁に飾られた肖像画。
ベートーヴェンが、モーツァルトが、バッハが…その描かれた瞳を、一斉に私たちに向けていたのだ。
その目は、憎悪と、そして飢えに満ちていた。
「見るな!壁を見るな!」
私は叫んだが、もう遅かった。
健太もそれに気づき、腰を抜かして床にへたり込んでしまった。
ピアノの演奏が、最高潮に達する。
まるで、百本の指が同時に鍵盤を叩きつけているかのような、耳をつんざく轟音。
そして。
プツン。
全ての音が、唐突に止んだ。
懐中電灯の光も、月明かりも消え、完全な暗闇が訪れた。
音も、光も、何もかもが存在しない、絶対的な無。
「…健太?陽子?」
私は、暗闇に向かって呼びかけた。
返事はない。
ただ、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
その、静寂の中で。
「…み…さ…き…」
すぐ耳元で、囁く声がした。
健太の声だ。
だが、その声は、まるで水底から響いてくるかのように、くぐもって冷たかった。
「健太、どこに…」
言いかけた私の足首を、何かが掴んだ。
氷のように冷たい、骨張った指。
「うわあああああああああっ!!」
健太の絶叫が、暗闇を引き裂いた。
それは、痛みと恐怖が極限まで凝縮された、人間が発するとは思えない叫びだった。
ズル…ズルルル…
何かが、健太の体を床の上で引きずっていく音。
彼の悲鳴が、少しずつ遠ざかっていく。
「健太っ!」
陽子が叫び、手探りで私を見つけ、腕を引いた。
「逃げるよ!早く!」
パニックの中で、我々は必死に扉を探した。
壁に体を打ち付け、爪を立てながら、出口を求める。
その間も、健太の断末魔の叫びと、不気味な引きずる音は、暗闇の奥で続いていた。
ガチャン。
奇跡的に、陽子の手がドアノブを見つけた。
そして、なぜか今度は、あっさりと扉が開いたのだ。
外の、月明かりに照らされた廊下が見える。
我々は、もつれるようにして廊下に転がり出た。
「健太を…助けないと…!」
私が振り返り、暗闇の音楽室に向かって叫ぶ。
だが、陽子は私の腕を掴んで離さなかった。
「ダメ!もう手遅れよ!」
彼女の顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
その目は、私が今まで見たこともないような、純粋な恐怖に染まっていた。
音楽室の暗闇の奥から、健太の叫び声は、もう聞こえなくなっていた。
代わりに聞こえてきたのは、
ポーン…
という、満足げな、ピアノの最後の響きだけだった。




