4.残響
私たちがどうやって校舎から脱出したのか、あまり覚えていない。
ただ、無我夢中で走り、校門を飛び出したことだけは確かだ。
後ろを振り返る勇気は、なかった。
翌日、健太は行方不明になった。
学校は、大騒ぎになった。
警察が来て、我々も事情聴取を受けた。
夜の学校に忍び込んだことは、こっぴどく叱られた。
だが、第三音楽室で起きた、あの超常的な出来事を、信じてくれる大人はいなかった。
私たちは、恐怖のあまり健太を置き去りにして逃げ出した、薄情な友人だと見なされた。
警察の捜査でも、健太の痕跡は、旧校舎の入り口で途絶えていた。
第三音楽室の扉には、例の古い南京錠が、何事もなかったかのように固く掛けられていたという。
夏休みが来た。
しかし、その夏は、太陽の光さえもが色褪せて見えた。
|蝉の声は、健太の最後の叫び声のように聞こえた。
陽子は、あの夜以来、心を病んでしまった。
誰とも口を利かず、部屋に引きこもるようになったと、彼女の母親が泣きながら電話で教えてくれた。
そして、私は。
私は、音に呪われていた。
静かな場所にいると、どこからともなく、あの狂ったピアノの旋律が聞こえてくるのだ。
幻聴だと頭では分かっていても、その音は私の鼓膜を、そして魂を苛み続けた。
そして、メトロノームの音。
カチ、カチ、カチ…
それは、時計の秒針の音に重なって聞こえてくる。
振り向いても、そこには何もない。
だが、音だけが、私のすぐ側で、正確なリズムを刻み続けるのだ。
ある夜、自室のベッドで眠れずにいると、ふと、姿見に映った自分の姿に違和感を覚えた。
私の背後。
そこに、「誰か」が立っていた。
血の気を失い、青白い顔をした、健太だった。
彼は、びしょ濡れになった制服を着て、何も言わずに、ただ、悲しそうな目で私を見つめていた。
口を開こうとすると、その姿はすっと消える。
だが、彼が立っていた場所の床には、小さな水たまりが残されているのだった。
彼は、私に何かを伝えようとしているのだろうか。
それとも、私を「あちら側」へ誘おうとしているのだろうか。
今夜もまた、遠くからピアノの音が聞こえる。
それは、以前よりも少しずつ、はっきりと、そして近くで聞こえるようになってきている気がする。
そして、今。
コン、コン、コン…
私の部屋のドアが、ノックされている。
それは、単なるノックではなかった。
カチ、カチ、カチ…
まるで、メトロノームがリズムを刻むかのような、正確で、無機質な音。
私は、ベッドの上で身を固くした。
息を殺し、音の止むのを待つ。
だが、ノックは止まない。
それどころか、少しずつ、速く、そして強くなっていく。
カチカチカチカチ…!
ドンドンドンドン!!
ドアの向こうにいる「何か」が、焦れているのが分かる。
早く開けろ、と。早くこちらへ来い、と。
もう、逃げ場はない。
あの夜、我々は、第三音楽室の扉を開けてしまった。
そして、その扉は、もう二度と閉じることはないのだ。
私は、ゆっくりとベッドから降りた。
震える足で、一歩、また一歩と、ドアに向かって歩き出す。
あのピアノの調律は、まだ終わってはいなかったのだ。
そして、最後の音を奏でるための、最後の「鍵盤」は、
きっと、私なのだろう。




