2.静寂の侵入者
午後十時。
生温い夜気が、肌にまとわりつく。学園は完全な沈黙に支配され、昼間の喧騒が嘘のようだった。
我々は、体育館裏の茂みに身を潜め、最後の教師が車で帰路につくのを見届けた。
「…行ったわね」
私が囁くと、陽子が頷く。健太は、心臓の音が聞こえそうなほど、小刻みに震えていた。
用務員室の窓は、狙い通り、少しだけ開いていた。
斎藤さんの、不用心なのか、あるいは我々のような愚か者への罠なのか、判別のつかない習慣だ。
陽子がしなやかな身のこなしで窓枠に手をかけ、音もなく内部に侵入する。
すぐに、内側から鍵が開けられた。
「お待たせ」
用務員室は、油と埃の匂いがした。
壁にずらりと掛けられた鍵束の中から、我々は「旧校舎」と書かれたプレートが付いたものを選び出した。
鈍い金属の感触が、これから始まる冒険の、そして後戻りのできない儀式の始まりを告げているようだった。
旧校舎の廊下は、ひんやりとしていた。
コンクリートの床に、我々のスニーカーの音が吸い込まれていく。
窓から差し込む月明かりが、床のワックスを鈍く反射させ、長い影を幾本も作り出していた。
それはまるで、我々以外の「誰か」が、そこに潜んでいることを示唆しているかのようだった。
「…なんか、寒くない?」
健太が、自分の両腕をさすりながら言った。
夏だというのに、旧校舎の空気は妙に冷え切っている。
冷房など、とうの昔に壊れているはずなのに。
「気のせいよ。古い建物は、熱がこもりにくいの」
私は強がりを言ったが、自分でも背筋を何かが撫でるような悪寒を感じていた。
懐中電灯の光が、壁に貼られた古い習字や絵画を照らし出す。
どれも、何十年も前の生徒たちの作品だ。
その一つ一つに、今はもうどこにもいない子供たちの魂が宿っているような気がして、目を逸らした。
ギシッ…
突然、二階から床の軋む音がした。
我々は同時に足を止め、息を殺して天井を見上げる。
「…斎藤さん、かな?」
「いや、斎藤さんはもう帰ったはずよ。見回りに来る時間じゃない」
陽子が、声を潜めて否定する。
再び、静寂が戻る。
だが、一度意識してしまった「音」は、耳の奥でいつまでも反響し続けた。
私たちは、階段を慎重に上った。
手すりの冷たさが、汗ばんだ手のひらに不快だった。
二階の廊下は、一階よりもさらに暗く、空気が重い。
目的の第三音楽室は、この廊下の突き当たりにある。
その時だった。
カタカタカタ…!
すぐ横の教室から、何かが激しく揺れる音がした。
それは、スチール製のロッカーが、内側から誰かに揺さぶられているような音だった。
「ひっ…!」
健太が短い悲鳴を上げる。
陽子も私も、凍りついたように音のする教室の扉を見つめた。
懐中電灯の光が、すりガラスの向こうに揺れる影を映し出す。
人影…?いや、もっと不規則で、人間離れした動きに見えた。
音は数秒で止んだ。
後に残されたのは、我々の荒い息遣いだけだ。
「…見に行く?」
陽子が、挑戦的な目で私を見た。
私は、唾を飲み込んだ。
好奇心と恐怖が、天秤の上で激しく揺れ動く。
「…やめよう。目的は、音楽室よ」
私は、かろうじて理性を保った。
今、あの扉を開けてはいけない。
本能が、そう警告していた。
私たちは、足早にその場を離れた。
背後で、再び「カタ…」と小さな音がしたような気がしたが、もう振り返ることはできなかった。
突き当たりに、その扉はあった。
「第三音楽室」と書かれたプレートは、埃を被り、文字が掠れている。
そして、そのドアノブには、古びた、錆びついた南京錠がぶら下がっていた。
「…鍵、かかってるじゃない」
陽子が、がっかりしたように言った。
これで終わりか、と安堵する健太の顔が目に浮かぶ。
だが、私は何か違和感を覚えた。
私は、ゆっくりと南京錠に手を伸ばした。
そして、絶句した。
南京錠は、施錠されていなかったのだ。
ただ、掛け金に引っかかっているだけだった。
まるで、ついさっきまで誰かがここにいて、鍵を開けたままどこかへ行ったかのように。
あるいは、私たちを「招き入れる」ために。
ゴクリ、と喉が鳴る。
私は、陽子と健太の顔を見渡した。
二人の顔にも、期待と不安、そして抗いがたい誘惑の色が浮かんでいた。
もう、引き返せない。
私は、震える手で南京錠を外し、重い鉄の扉に手をかけた。




