1.夏の誘蛾灯
夏という季節は、生命を爛熟させる一方で、腐敗の匂いを色濃くする。
蝉時雨は断末魔の叫びにも似て、アスファルトを揺らす陽炎は、この世ならざるものたちの輪郭を曖昧に溶かす。
我々の母校、私立葉山学園もまた、そんな夏の魔力に取り憑かれた場所の一つだった。
創立八十年を超える歴史は、埃と共に数多の「物語」を澱のように溜め込み、生徒たちの間で密やかに語り継がれていた。
中でも最も有名なのが、「開かずの第三音楽室」の怪談だ。
曰く、深夜、誰もいないはずの旧校舎から、悲しげなピアノの旋律が聞こえてくる。
曰く、そのピアノを弾いているのは、かつてコンクールでの落選を苦に、音楽室で自ら命を絶った女子生徒の霊である。
曰く、その音色に誘われて音楽室の扉を開けてしまった者は、二度と戻ってはこれないのだ、と。
ありふれた学園の七不思議。
だが、ありふれているからこそ、それは普遍的な恐怖の形を保ち続ける。
そして、光に集まる夏の虫のように、その闇に惹きつけられる者もまた、必ず現れるのだ。
今年の「虫」は、高校二年生の佐伯美咲、私だった。
「本当にやるの?美咲」
終業式のざわめきが残る教室で、呆れたように言ったのは、クラスメイトの相川陽子だ。
彼女は、日焼けした腕を組み、私の手元にある旧校舎の見取り図を覗き込んだ。
「当たり前でしょ。夏休みの自由研究、これ以上のテーマはないわ」
「自由研究って…普通、もっと健全なものを選ぶでしょうが。金魚の観察とか、地域の歴史調査とか」
「地域の歴史調査よ。この学園の、ね」
私の隣で、気の弱い健太が青い顔で口を挟む。
「で、でも、あの音楽室は本当にやばいって…用務員の斎藤さんも言ってた。あそこだけは、絶対に近づくなって…」
斎藤さんは、この学園に四十年以上も勤めている古株の用務員だ。
皺だらけの顔には、学園の秘密が年輪のように刻まれている。
彼が言うのなら、それは単なる噂話では済まないのかもしれない。
だが、私の好奇心は、恐怖を凌駕していた。
いや、恐怖と好奇心は、同じコインの裏表なのだ。
「だから面白いんじゃない。大丈夫、ただの迷信よ。きっと、風の音がピアノ線に共鳴してるとか、そういう科学的なオチが待ってるわ」
私は根拠のない自信と共に、二人を焚きつけた。
計画はこうだ。
終業式の夜、学校に残り、皆が帰ったのを見計らって旧校舎に忍び込む。
用務員室から合鍵を拝借し、問題の第三音楽室へ。
そして、怪談の真相をその目で確かめるのだ。
陽子は、呆れながらも「あんたがそこまで言うなら付き合ってやらないこともないけど」と、スリルへの期待を隠しきれない様子だった。
健太は最後まで渋っていたが、私と陽子に丸め込まれ、結局、共犯者になることを承諾させられた。
今思えば、あの時、健太の臆病さに従っておけばよかったのだ。
だが、我々は知らなかった。
我々が踏み込もうとしている場所が、単なる怪談の舞台ではなく、今もなお「何か」が獲物を待ち続けている、飢えた捕食者の顎の中だということを。
その夜、三日月だけがぼんやりと校庭を照らす中、我々は運命の扉を開けた。




