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中国共産党第九期中央委員会第一回全体会議における講話 (一九六九年四月二十八日)

<解題> 原題は、「毛主席在中国共産党第九届中央委員会第一次全体会議上的講話」。訳出は、『中共研究』(前出)一九七〇年三月号掲載の写真版により、あわせて、『一九七〇年中共年報』(前出)に活字になおして収録されたものを参照した。


本講話は、表題のとおり、九全大会で選出された中央委員百七十名、同候補百九名が全員出席・列席して開催された。会議は中央委員会主席に毛沢東、同副主席に林彪を選出し、中央政治局常務委員会委員に毛沢東、林彪、陳伯達、周恩来、康生を選出した(陳伯達以下は、姓の筆画順による排列)。さらに中央政治局委員、同候補を選出した。この会議についての新聞公報は、毛沢東、林彪にかぎって、一段大きい活字の、しかもゴシック体を使用した。本講話において毛沢東はもっぱら団結をよびかけている。おそらく、これで(若干の矛盾はあるとしても)やっていけるという楽観的なみとおしを、もっていたのではないか。しかしながら、ここから、つぎの政治的葛藤がはじまったことを、このあとの林彪事件は示しているのである。


(録音による整理。本人の審閲を経ていない)


わたしの話は、あいも変わらぬきまり文句だ。みんなが知っているとおりで、なにも新しい話はない。どのみち、団結を重んじるのであって、団結の目的はより大きな勝利をたたかいとることだ。


いま、ソ連修正主義がわれわれを攻撃している。タス通信の放送、王明の資料、それに『コムニスト』の長ったらしい論文、そんなのが、われわれはもはやプロレタリアの党ではないといって、「小ブルジョア階級の党」とよんでいる。われわれが一元化をやるのは、以前の根拠地の時代にもどったのだといっている。後退したというわけだ。


一元化とはなにか? かれらにいわせれば、軍事・官僚体制だという。日本人のことばでは体制といい、ソ連のことばでは、「軍事官僚独裁」という。かれらは、われわれの名簿に軍人が少なくないのをみるや否や、これを「軍事」とよぶのだ。それに、「官僚」だとかもある。たぶん、わたしやら、恩来やら、康生やら、陳伯達やらのこういった「官僚」のことだ。要するに、きみらは、軍人でないものは、だれもかれも「官僚」系統に属するというわけだ。したがって、「軍事官僚独裁」とよぶのだ。


こういったいいぐさは、わたしのみるところでは、ひとさまに、いわせておけばいい! いいたいように、いわせておけ。だが、あちらには特色があって、あちらはわれわれを罵るのに、ブルジョア階級の政党とはいわずに、「小ブルジョア階級の政党」とよぶ。ところで、われわれは、といえば、あちらをブルジョア階級の独裁だ、ブルジョア独裁を復活させるのだ、というのである。


われわれが勝利を重んじるなら、プロレタリア階級の指導のもとに全国の広汎な人民大衆を団結して勝利をたたかいとることを保証しなければならない。社会主義革命は、継続しなければならない。この革命は、若干のことがまだし終っていず、現在まだ継続してやらなければならない。たとえば、闘、批、改を重んじていることである。若干年をすぎれば、またもや革命をおこなうかもしれない。


われわれ古参同志の数人は、工場である期間、みてきた。これからも機会があれば、下りていって、みてくるよう希望する。そのうえ、それぞれの工場にかかわりのある問題を研究しなければならない。


どうやら、プロレタリア文化大革命は、やらないではすまされなかった。われわれのこの基礎は強固ではない。わたしの観察によると、全体ともいわないし、絶対多数ともいわないが、おそらく多くのかなり大きな工場において、指導権は真正のマルクス主義者になく、労働者大衆の手中にない。以前に工場を指導したもののなかに、いい人間がいなかったのではない。いい人間いた。党委員会書記、副書記、委員、どれにも、いい人間いた。支部書記にいい人間いた。しかし、その人間は、以前、劉少奇のあの路線にくっついてあるき、つまるところは、物質刺激だとか、利潤優先だとかをやり、プロレタリア政治を提唱せず、奨励金だとか、等々をやった。いまや、若干の工場では、かれらを解放した。三結合の指導に参加している。若干の工場では、まだそうなっていない。


しかし工場のなかには、たしかに悪人がいる。たとえば、二七工場、つまり長辛店鉄道機関車車両修理工場だが、指示は大工場だ。労働者は八千人、家族もいれて何万人もいる。以前、国民党の支部が九つあり、三民主義青年団は、三つの機構をおいていた。べつに、特務機構とかが八つあった。このことの内容は、もちろん分析する必要がある。そのころは、国民党といったシロモノに加入しなければ、やっていけなかったからだ! 若干のものは古参労働者となっている。古参労働者はおいだせとでもいうのか? それもいかん。軽いものと重いものを区分すべきだ。若干のものは、国民党の帳簿上の党員で、しかたなく加入したのだ。面接して話をしておけば、それでよい。若干のものは、なにかの責任者をやっていた。多数のものは、深い入りした連中、悪事をはたらいた連中、悪事をはたらかなかった連中、区分しなければならない。区分しなければならない。告白すれば寛大、抵抗すれば厳刑、である。もし、現在のところりっぱに自己批判しているなら、そのものは仕事をやらせなければならない。もちろん、指導工作をやらせるのではない。こういった人間仕事をやらせないとすれば、家にいてどうする? その子供たちをどうする? そのうえ、古参労働者は一般には技術があるのだ。技術が、それほどすぐれていないものも、なかにはいるが。


わたしが、このような例をあげたのは、革命が終わっていないことを説明するためである。したがって、全中央の同志は、中央委員候補をふくめて、どうか諸君、注意してもらいたい。細心すぎるほどに、工作をする必要がある。このことにたいしては、細心すぎるほどでなければならない。おおざっぱでは、ダメだ。おおざっぱにやると、よく失敗する。一部の地方では、やたらと逮捕したが、これはよくない。やたらと逮捕して、逮捕したあげくにどうするのだ? そいつはひとを殺してもいけない、火を放けてもいけない、毒をいれてもいけない。わたしはいっておくが、この数力条にふれないかぎり、逮捕するな。走資派のあやまりをおかしたものにいたっては、なおさら逮捕するな。工場内では、仕事をやらせ、大衆運動に参加させよ。ひとさまがあやまりをおかしたといっても、どのみち、過去におかしたか、あるいは国民党に参加したか、あるいはいくらかの悪事をはたらいたか、あるいは、最近のある時期にあやまりをおかした、つまりいわゆる走資派が、だ。かれらを大衆といっしょにしてやれ。もし、かれらを大衆といっしょにしてやらないなら、それはよくない。一部のものは二年間閉じこめられていた。「牛小屋」のなかに閉じこめられて、世界の事情を知らない。出てきて、きいてみると、話が合わない。あいも変わらず、二年まえの話だ。二年間、生活から遊離していたのだ。こういった人間には、援助が必要だ。学習班を設けたうえ、歴史を話してやるのだ。二年間の文化大革命の歴史過程を話してやるのだ。その人間の頭をすこしずつ、ハッキリ醒ましてやるのだ。


団結するのは、ひとつの目標、すなわち、プロレタリア独裁を強固にするためであって、ひとつひとつの工場、農村、機関、学校に根をおろさなければならない。はじめは、全面的にやりだすな。やりだしてもよいが、やりだしただけで、あと、ほっておくな。やりだして半年か、あるいはもっと長くなると、もうだれも面倒みないようなことをするな。ひとつひとつの工場、ひとつひとつの学校、ひとつひとつの機関、という具合にして経験を総括しなければならない。それで、林彪同志の報告のなかで、ひとつひとつの工場、ひとつひとつの学校、ひとつひとつの公社、ひとつひとつの党支部、ひとつひとつの団支部、団を整す問題も提起している。


そのほか、以前にものべたことがある。すなわち、戦争に備えなければならない、ということである。どの年であれ、われわれは戦争に備えなければならない。そういうと質問する人間がいるものだ。相手がやってこなかったら、どうするのですか? 相手がこようが、こまいが、われわれは備えるべきである。手榴弾を製造することまで、中央に資材を要求してはいけない。手榴弾など、どこででも製造できる。各省で製造できる。小銃、軽火器など、各省で製造できる。これは、物質面の備えである。しかし、重要なことは、精神面で備えることだ。精神面の備えとは、戦争に備える精神をもつということだ。われわれ中央委員会ばかりではない、人民全体のあいだの大多数にこの精神の備えをもたせなければならない。わたしがここでのでていることには、独裁の対象、地、富、反、悪、といった連中を含まない。なぜなら、ああいった連中は、帝国主義、修正主義が攻め込んでくるのをごじょうに喜ぶからだ。攻め込んでくれれば、この世界は翻身する、自分も翻身するだろうと考える。まだつぎそういった一条を備えておく必要がある。社会主義革命の過程において、そういった命を革する必要がある。


ひとさまが攻め込んできても、われわれは打ってでることはしない。われわれは、打ってでないのである。わたしはいっておくが、挑発にのってはならない。おいでください、といわれても、いってはいけない。だが、攻め込んできたとしようか。相手になるのか、小さく攻めてくるのか、大きく攻めてくるのかをみる。小さく攻めてくるなら、国境付近でたたかう。大きく攻めてくるなら、わたしの主張としては、いくらか場所をあけてやる。中国というところは、小さくないのだ。うまい汁が吸えなければ、わたしのみるところでは、なかへはいってこない。全世界に、われわれの戦争は、道理もあり、有利でもあることを眼あたりにみせてやる。はいってきたら、わたしのみるところでは、比較的に有利だ。道理があるばかりか、しかも有利で、攻めやすい。相手を人民の包囲するなかへ陥しいれる。飛行機、戦車、装甲車とかいう類のものをいたっては、いまやいたるところでの経験が証明するように、対処できる。


勝利するためには、人間がいくらか多くなければならない。そうではないかね? 各方面の人間、あなたたちがどちらのお山の大将であるにせよ、あるいは省、あるいは北方、南方の人間であるにせよ、より多くの人間と団結したほうがいいか、それとも、より少ない人間と団結したほうがいいか? どうあっても、より多くの人間と団結したほうがいい。


一部の人間の意見は、かならずしもわれわれと一致するとはきまっていない。だが、敵対関係ではない。わたしは信じていないのだが、具体的に例をあげると、楊得志と王效禹は敵対関係だとかいう。きみら二人の関係は、敵対関係かね、それとも人民内部の関係かね? わたしのみるところでは、人民内部の口喧嘩だ。中央にもいくらか官僚主義があるから、あまりきみにかまっていなかったし、きみらを中央に提起して討論してもらおうとは、しなかった。山東はかくも大きな省だから、人民内部矛盾だ。この機会に、きみら話しあったらよい。どうだね? わたしのみるところでは、華東にもこの人民内部の問題がある。それに山西があるが、これも人民内部だ。きみにあちらの派を支持し、おれはこちらの派を支持するだとしても、なんだって、そんなにわめきちらすのだ、なんになるのだ! それに雲南、貴州、四川の問題がある。各地とも、多かれ少なかれ、若干の問題があるというだけのことだ。それだと、昨年、一昨年に比較してずっとよい。


きみ、神のこの同志は、許世友というのではないか? 一昨年、われわれが上海にいたときは、たいへんだったな。七、八、九の三カ月。現在では、どうみても日を送るのがラクになったではないか! わたしがいうのは、全体の局面のことだ。例の、南京で、「紅総」がつっ走ったことも、工作をおこなった結果、やはり合作したではないか。ひとつは、「八・二七」、ひとつは「紅総」、やっぱり合作したではないか。


わたしはいうが、主要な問題は、やはりわれわれの工作である。以前、つぎのことばをいったものではないか? 地方の問題は軍隊にあり、軍隊の問題は工作にある、と。生死をかけた冤仇ではないのだから、どうして、そこまでやる必要がある? 個人の恩怨をとりあげたところで、帳面につけてあることは、そんなに多くはない。要するに、わたしのみるところでは、どれもこれも、前世に冤なく今世に仇なし、ひとつところに顔をあわせて、若干の意見がくいちがったのだ。ひとがなにをかをやった、自分を批判したとか、自分に反対したとかで、自分のほうも反撃して、そこで矛盾が発生したのだ。自分反対する人間が、悪人だとはきまっていない。北京でいつも、打倒せよといわれる人物のひとりは、謝富治という男だ。のちにかれがとった方針は、つぎのようなものだった。およそかれを打倒しようとする団体については、かれは、きみらはどうということもない、といってやる。だが、かれを擁護するものについては、みんないいとはきまっていないとみるのだ。したがって、わたしが話すことは、あいも変わらぬ、きまり文句だ。つまるところは、団結してより大きな勝利をたたかいとろう、だ。このなかには、具体的な内容がある。なにをするか、どんな具体的な勝利か。どのような団結法か。


わたしは、過去においてあやまりをおかした若干の古参同志を信じる。はじめに大きな名簿があった。三十数名だ。われわれは、ひとり残らず政治局委員に選出するのがよい、と考えた。あとになって、だれかが小さな名簿を提出した。十数名だ。あまりに小さすぎると感じた。大多数は、中間派で、(笑声)この大きな名簿にも、小さな名簿にも反対し、二十数人の小くらいの名簿を主張した。そうなると代表を選ばなければならないではないか。中央委員候補が正式の中央委員よりも政治水準において、工作能力において、徳、才、資の各方面において劣っているというのではない。そういった問題ではない。そこには不公平がある。ひとがどんなに公平だといっても、わたしのみるところでは、そんなに公平ではないし、そんなに公明正大ではない。


諸君は慎重かつ用心ぶかくなければならない。中央委員候補であれ、中央委員であれ、政治局委員であれ、すべて慎重かつ用心ぶかくなければならない。頭に血がのぼっても、所以を忘れるようなことになってはいけない。マルクスいらい、功労の大小をくらべて目クジラたてることなど、しなかったものだ。きみは共産党員である。人民大衆全体のなかのおよそ比較的に自覚した一部分の人間であり、プロレタリア階級のなかの、比較的にいっそう自覚した一部分の人間である。したがって、わたしは、つぎのようなスローガンに賛成する。「一に苦しみを怕れず、二に死を怕れず」というのである。そして、つぎのようなスローガンに賛成しない。「功労なくとも苦労あり、苦労なくとも疲労あり」。(笑声)このスローガンは、「一に苦しみを怕れず、二に死を怕れず」とは対立しているのである。


みたまえ。われわれは、過去において、どれだけの人間を死なせたか。われわれ、現在、生存しているこれらの古参同志は、幸運にも生き残った人間であり、偶然に生き残ってきたのだ。


皮定均同志。きみのあの鄂豫皖のときにはどれだけの人数だったか? そのどれだけ残っているか? あのときは人数が多かったものだな。いま生存しているものは、あんなに多くはない。あのころ、江西ソヴィエト区、井岡山ソヴィエト区、湘東北、閩西、湘鄂西、陝北で、戦争へてひじょうに多くの犠牲を出した。老人で残っているものは、多くない。これを、「一に苦しみを怕れず、二に死を怕れず」というのである。長い年月、われわれには給料などというものはなかった、八級賃金制もきめてなかった。食事に規定量があっただけで、油三銭、塩五銭といったものだ。米一斤半というと、こいつはたいしたものだった。お菜はどうしたか? 大軍の過ぐるところ、どうして、いたるところでお菜を入手できるわけがある?


いまや、都市にはいっている。都市にはいったこのことは、いいことだ。都市にはいらなければ、蔣介石がこれらの場所をひとり占めにしているだろう。だがまた、都市にはいったのは、わるいことだ。これによって、われわれの党は、そんなにもよくなくなった。したがって、一部の外国人、新聞記者はいっている。われわれのこの党は再建されつつあるのだ。と。いまや、われわれは、しんも、つぎのようなスローガンを提起している。整党、建党、といっている。事実としては再建が必要なのだ。どの支部も、あらためて大衆のなかで整頓をおこなわなければならない。大衆を経て、数人の党員だけでなく、党外の大衆が会議に参加し、討論に参加する必要がある。個別の、どうしようもない人間については、脱退するように勧める。そうではないかね? 党章が規定している、規律上の処分を実施しなければならない。そうではないか? これは、しなければならない。かならず、しなければならない。だが、慎重な方法をとらなければならない。これは、しなければならない。かならず、しなければならない。だが、慎重な方法をとらなければならない。


今回の全国代表大会は、みたところ、かなりかりっぱな進行ぶりだった。わたしのみるところによれば、団結の大会、勝利の大会としての実をあげた。われわれは、公報を出す方法をとった。いまや、外国人はわれわれのニュースを拾おうとしても拾えないので、(笑声)われわれが秘密会議をひらいたといっている。われわれは、公開でもあれば、秘密でもある。北京のあれらの記者は、わたしのみるところでは、あまりパッとしない。たぶん、われわれは、われわれのなかにまぎれこんだ叛徒、特務とほぼ同程度には、かれらを封じじめることができたのだ。以前には、会議をひらくたびに、たちまち情報がもれ、紅衛兵小新聞がすぐ掲載した。王(力)、関(鋒)、戚(本禹)、楊(成武)、余(立金)、傅(崇碧)が舞台からひきさがったあと、中央の消息は、かれらは知らないようになった。 だいたい、いいだろう。では、散会!(長時間の熱烈な拍手) (竹内 実訳)


(1)王明の資料 ここでいう王明の資料とは、王明の論文、「中国――文化革命か、反革命的クーデターか」を指している(訳訳は、刀江書院編集部編訳『毛沢東の政治的背景』刀江書院、一九六九年、所収)。同論文は、S・シュラムによると、『カナディアン・トリビューン』紙の一九六九年三月十九日号ではじめて掲載され、そのご、モスクワでパンフレットとして出版されたという。『カナディアン・トリビューン』は、カナダ共産党の機関紙である。王明は、八全大会で中央委員に選出されたが、おそらく当時からモスクワに在中であった。一九七三年いにモスクワで死亡。

(2)三結合 工場における「三結合」は、革命的労働者、幹部、技術者の結合をいう。

(3)告白すれば寛大、抵抗すれば厳刑 原文は、「坦白從寛、抗拒從厳」。反革命鎮圧、三反、五反など、否定面をえぐりだす社会運動のさいのスローガンである。

(4)「小屋」 監獄をいう俗語ようである。地域住民の批判集会などに犯人をひきだしやすいよう、分散して設けられている簡便なものを指すのではないかとおもわれる。

(5)林彪同志の報告 九全大会で、林彪は政治報告をおこなったが、十全大会で、周恩来は、これは毛沢東がみずから主宰して起草したものであり、林彪はただ読みあげたにすぎないとのべている。

(6)「翻身」 ねがえりなどして、体をひっくりかえすことをいった。それが、中国革命、とりわけ農村における土地革命のなかで、貧農・雇農が地主を打倒して、土地の主人になることに転用された。この用語を、こんどは、地主たちが使って、ふた再び自分たちの天下がくるだろうと考えている、というのである。

(7) 楊得志と王效禹 楊得志は、十七歳で毛沢東の「秋收暴動」に参加。一九六七年、山東省革命委員会第一副主任、済南軍区司令員、九全大会では、中央委員に選出された。王效禹は、もと青島市副市長であったが、文革にさいして抬頭、一九六七年、山東省革命委員会が成立するとその主任となり、あわせて済南軍区政治委員。九全大会で中央委員に選出されたが、まもなく失脚、楊得志が山東省革命委員会主任となり、王效禹は革命委員会の工作が停滞している責任を問われ、一九六八年、北京によびつけられて、周恩来、江青、康生らから批判をうけたが、そのさい、山東軍区と対立していることも非難された。

(8) 許世友「長征」のさい、張国燾のひきいる第四方面軍に属し、副軍長であった。延安で張国燾批判をはじめると、これに抵抗、武器をもって集団的に脱走をはかったが失敗。文革がはじまったときは、中共華東局書記、国防部副部長、南京軍区司令員であったが、文革に積極性を示さず、労働者が二派にわかれて激突しても中立の態度をとった。一九六七年七月、九月、二にわたって北京に召喚され、ようやく態度をかえた。六八年、江蘇省革命委員会が成立、主任となった。九全大会では、中央委員、政治局員。

(9) 七、八、九の三カ月 一九六七年七月には、「武漢事件」が発生、武漢に中央文革小組の指示をもたした謝富治と王力が、武漢の造反組織「百万雄師」に逮捕され、王力は暴行を受けた。当時、中国の各地で武闘が激化し、毛沢東はこの状況を「全国的な大乱」と呼んだ。毛沢東が、「われわれが上海にいたとき」というのは、あるいは「武漢事件」処理のために、許世友を上海までよびせたのかもしれない。

(10) 「紅総」 南京で対立した労働者の組織としては、中共江蘇省委員会に支持された、「江蘇工人造反司令部」と中央文革小組に支持された「江蘇省工人紅色造反司令部」とがあった。「紅総」というのは、どちらの略称としてもびったりしないが、後者があるいは「総司令部」と称していたことがあって、その称号のなかもしれない。「八・二七」は不詳。「安徽八二七」という労働者造反組織はあるが、南京で活躍した。 とかどうか、わからない。 (11) 謝富治 七二頁訳注(62)参照。九全大会で中央委員、政治局員。

(12) 徳、才、資 人格、才能、資格。

(13) 皮定均 貧農出身、十九歳から労働赤軍に身を投じ、第四方面軍の兵士として鄂豫皖(湖北、河南、安徽の各省にまたがる)根拠地でたたかった。文革当時、福州軍区副司令員、一九六八年、福建省革命委員会副主任。九全大会で、中央委員。

(14) 建党 省、特別市、自治区クラスの中国共産党委員会は、一九七〇年十二月から七一年八月にかけて再建された。



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