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七千人大会における講話 (一九六二年一月三十日)  毛沢東

<解題> 原題は「在拡大的中央工作会議上的講話」、『万歳』丁本所収、『文選』にも所収。『万歳』宇本に「民主集中制」の部分のみ所収。表題は訳者が付したもの。


一九五九年後半から六〇年、六一年は解放後の中国にとって最大の危機であった。大躍進政策の「メクラ指揮」による混乱にくわえて、三年連続の大自然災害のため深刻な食糧不足に追いこまれた。そのうえ、六〇年夏のソ連の経済・技術援助うちきりが追いうちをかけるかたちとなった。この危機にあって中国共産党は、六一年六月、北京で中央工作会議を開き、人民公社整頓の六十条を決め、さらに半年後の六二年一月、七千人の第一線幹部を集めて拡大中央工作会議(いわゆる七千人大会)を開き、五八~六一年の大実験の総括をおこなった。毛沢東は、ここで一方で自己批判しつつ、他方、実験は欠陥にもかかわらず成果が主要であることを確認せよ、といい、民主集中制による全人民の団結を呼びかけている。


同志のみなさん。これからいくつかの意見を話したい(熱烈な拍手)。全部で六つあるが、中心は民主集中制の問題で、同時にいくつかのその他の問題にもふれたい。


第一は、この会議のやりかたである。


この拡大中央工作会議には、七千人あまり出席している。この会議の開会にあたり、×××〔劉少奇〕同志ほか数人の同志が、報告草案を準備した。この草案はまだ中央政治局で討論していない。 そこでわたしは中央政治局会議で討論せずに、大会に参加した同志たちにただちに配り、みなさんから批評・意見を出してもらうよう提案した。同志のみなさん、みなさんのなかには、各方面・各地方の人がおられる。各省・専区・県の委員会の人、企業の党委員会の人、中央各部門の人がおられる。みなさんの多くは現場によりちかく、われわれ、つまり中央の常務委員会・政治局・書記局の同志とくらべて情況・問題を、よりはっきり理解しているはずだ。さらに、みなさんはさまざまの異なる職場にいるので、さまざまの角度から問題を提起できる。だからこそ、みなさんから意見を出してもらいたい。報告草案を配るや、はたして議論紛々、中央が提起した基本方針のほかに、 たくさんの意見が出された。その後、××〔少奇〕同志を主査として二十一人の起草委員会を組織し、ここで各中央局の責任者が参加し、八日間の討論を経て、文書による報告の第二稿をまとめた。文書による報告の第二稿は、中央が七千余人の議論を集中した結果であるというべきである。 みなさんが意見を出さなかったら、この第二稿は書きあげられなかっただろう。


一、第二の部分に大きな修正があるのは、みなさんのおかげである。第二稿の評判がいい。みんなが、よくなったと認めているそうだが、この方法を採用せず、通常の会議の開きかた、つまりまず報告をやり、それから討論し、挙手で採決するというのでは、こううまくはできなかったであろう。


これは会議の開きかたの問題だ。まず報告の草稿を配り、出席者の意見を求め、修正をくわえ、 それから報告をする。報告するときは棒読みするのでなく、いくつかの補充意見をくわえたり、解釈をくわえる。こうすれば、より民主的になり、各方面の智恵を集中でき、さまざまの異なる見方をくらべることができて、会議はより活発になる。われわれのこの会議は十二年の工作経験、とりわけここ四年来の工作経験を総括するもので、問題が多く、意見も多いはずであり、この方法がふさわしい。あらゆる会議にこの方法を採用できるだろうか? 否である。この方法には十分な時間が必要だ。わが人民代表大会の会議は、ときにはこの方法を採用できる。省・専区・県の委員会の同志のみなさんが、こんご会議を開くときに、もし条件があれば、この方法を採用したらよい。むろんみなさんの工作は忙しく、一般的には会議に長い時間をかけることはできないだろうが、条件が許せばやってみたらいい。


これはどんな方法であろうか? 民主集中制の方法、大衆路線の方法である。まず民主であり、 つぎに集中する。大衆のなかから、大衆のなかへ、であり、指導部と大衆を結合させる。これがわたしの話の第一点である。


第二は、民主集中制の問題。


わが一部の同志は、マルクス、レーニンの説いた民主集中制をまだ理解していないようだ。一部の同志は、もう長いこと革命をやってきた。「三八」式であれ、ナントカ式であれ、共産党員として何十年もやってきた。それなのにまだこの問題がわからない。かれらは大衆をおそれ、大衆が話をするのをおそれ、大衆の批判をおそれている。マルクス・レーニン主義者が大衆をおそれるという道理がどこにあるだろうか? 誤りが生まれると、自分では口にせず、また、大衆が口にするのをおそれる。こわがればこわがるほどユウレイが出る。わたしは、こわがるべきではないとおもう。こわいものなんてあるだろうか? われわれのとるべき態度は、真理を堅持し、誤りをそのつど正すことだ。われわれの工作における是と非の問題、正しさと誤りの問題は、人民内部の矛盾に属する。人民内部の矛盾を解決するには、悪罵もゲンコツも使えず、まして刀や銃を使うことはできない。討論の方法、道理を説く方法、批判・自己批判の方法だけを用いることができる。一言でいえば、民主の方法であり、大衆に話をさせる方法である。


党内・党外を問わず、十分民主的な生活が必要だ。つまり民主集中制をまじめに実行しなければならない。問題をほんとうにぶちまけて、大衆に話をさせる。たとえ自分にたいする悪口でもみんなにしゃべらせる必要がある。悪口をいわれたところで、せいぜい自分が、失脚し、その工作ができなくなり、下級機関へ格下げになるか、べつのところへ配転になるか、である。それがどうしてできないのか? 人はどうして出世はできても、格下げはできないのか? どうして、ここで工作することはできても、他のところではできないのか? この格下げあるいは配転は、それが正しいものであろうと、まちがったものであろうと、みな有益だとわたしはおもう。革命の意志を鍛練でき、多くの新鮮な情況を調査・研究でき、有益な知識を増やせるからである。わたし自身にもこの経験があり、たいへん有益だった。ウソだというのなら、試してみたらいい。司馬遷はこういったことがある。「文王は拘禁されて周易を演べ、仲尼は厄せられて『春秋』をつくる 。屈原は放逐されて『離騒』を賦し、左丘は失明して『国語』あり。孫子は足を刖(き)られて兵法を修列す。不韋は蜀に遷せられ、『呂覧』を世に伝う。韓非は秦に囚われて、『説難』『孤憤』あり。詩三百篇、大部分は聖賢の発憤してつくりしものなり」。


この数句のうち、文王が周易を演べ、孔子が『春秋』をつくったというのは、けっきょく事実なのかどうか。いまでは疑う人もあるが、われわれはそれにかかわらなくてよい。専門家に研究してもらおう。ただ司馬遷はこう信じていた。文王の拘禁、仲尼の厄は事実である、と。司馬遷のいうこれらの事情は、左丘の失明の例をのぞけば、ほかはみな当時の上級指導者がかれらにたいして誤った処理をしたものである。われわれも過去に一部の幹部にたいして誤った扱いをした。これらの人びとについては、まったく誤った扱いかたをしたのも、部分的に誤った扱いかたをしたのも、具体的情況にもとづいて再審査・原判決の訂正をすべきである。ただ、一般的にいえば、このまちがった扱いによって格下げ・配転になったことは、かれらの革命の意志にとっては鍛練であり、人民大衆のなかから多くの新知識を吸収できる。わたしはつぎのことを言明しておきたい。幹部や同志、あるいはいかなる人にたいしてであれ、古代の人が文王を拘禁し、孔子を厄し、屈原を放逐し、孫臏のヒザの骨をとったように、シロ・クロをつけずまちがった扱いをしていい、と提唱しているのではない。わたしは、こうするよう提唱しているのではなく、それに反対しているのだ。 しは、人類史の各段階には、このようにまちがった扱いをした事実がいつもあった、といっているにすぎない。階級社会では、この事実はたいへん多いが、社会主義社会においても免れがたい。正しい路線によって指導された時期であれ、まちがった路線によって指導された時期であれ、これは免れがたい。ただ、ちがいがある。正しい路線によって指導された時期には、誤りを発見するとすぐ再審査・訂正し、かれらに謝罪し、かれらが心気一転、新規まきなおしをやれるようにできる。まちがった路線が指導する時期には、これができず、正しい路線を代表する人びとが、のちに民主集中制の方法で誤りを正すことができるだけだ。自分で誤りをおかしたときは、同志たちの批判と上級の判断を経て、正しく処理する。そのために格下げ・配転になる人があったとしても、それが誤りを改め、新しい知識を身につけるのにプラスであることは、いうまでもない。


いま一部の同志は、大衆が討論をくりひろげるのをおそれ、かれらが指導機関・指導者にたいして異なる意見を提起するのをおそれている。問題を討論しはじめるや否や大衆の積極性をおさえ、 みんなに話をさせない。この態度は非常によくない。民主集中制はわが党規約・憲法にあるのに、 実行しないのだ。同志のみなさん、われわれは革命をやるのだ。ほんとうに誤りをおかしたら、この誤りは党の事業に不利なのだから、人民大衆と同志たちの意見を求め、自己批判をすべきである。この自己批判は、ときには何度も必要であり、一回ではみんなが満足しない。二回目でも不満なら、三回目をやり、みんなの不満がなくなるまで自己批判をつづけるべきである。一部の省委員会ではこうやっている。一部の省ではやや主動的で、みんなに話をさせている。はやいのは一九五九年に自己批判をはじめ、おそいのでも一九六一年にははじめた。一部の省委員会では迫られて自己批判をやった、河南、甘肃、青海などがそれだ。他の一部の省は、報告によると、いまようやく自己批判をはじめたらしい。主動的であれ・受動的であれ、はやかれ・おそかれ、誤りを直視し、 承認し・改める。大衆に批判してもらう、この態度をとることを歓迎すべきだ。


批判・自己批判は一つの方法だ。人民内部の矛盾を解決する方法であり、しかも唯一の方法である。これ以外に方法はない。ただ、十分民主的な生活がなく、民主集中制をほんとうに実行しなければ、批判・自己批判という方法を実行することはできない。


われわれには、いま多くの困難があるではないか。大衆に頼り、大衆と幹部の積極性をひきださなければ、困難を克服できない。だが、大衆と幹部に情況を説明せず、気心を通じず、かれらに意見をいわせるのでなければ、かれらはみなさんをおそれ、話をせず、かれらの積極性をひきだせない。わたしは一九五七年にこういったことがある。「集中があり、民主があり、紀律があり、統一的意志がある。一人一人の心がのびのびし、いきいき・活発となるような政治的局面をつくりだせ」と。党内外にこの政治的局面が必要だ。この政治的局面がなければ、大衆の積極性はひきだせない。困難を克服するには民主がなければダメで、むろん集中がなければなおさらダメだ。民主がなければ、集中はない。


民主がなければ、正しい集中はありえない。みんなの意見がくいちがい、統一した認識がなければ、集中制はうちたてられない。集中とはなにか? まず正しい意見を集中することだ。正しい意見の集中を基礎として、認識を統一し、政策を統一し、計画を統一し、指揮を統一し、行動を統一する。これを集中・統一という。みんなが問題を理解していなければ、意見があっても発表はなく、「気」があっても出てこない。この集中・統一は、どのようにしてうちたてられるのか? 民主がなければ、経験を正しく総括することはできない。民主がなければ、意見が大衆のなかからでてくることはなく、いい路線・方針・政策・方法を制定できない。わが指導機関が、路線・方針・ 政策・方法を制定するのは、いわば加工工場であるにすぎない。ご承知のように、工場では原料がなければ加工をおこなえず、十分な量と適当な質の原料がなければ、いい製品はできない。民主がなければ、下情を理解できず、情況がわからない。各方面の意見を十分集められず、上下の「気」が通じない。上級の指導機関が一面的に、あるいは真実ならざる資料に頼って、問題を決定するならば、主観主義を免れない。認識を統一し、行動を統一することはできず、ほんとうの集中は実現できない。われわれのこの会議の主要議題は、分散主義に反対し、集中・統一を強化することではなかったか? 民主を十分に発揚しないとしたら、この集中・統一はホンモノなのか、ニセモノなのか? 実があるのか、ないのか? 正しいのか、まちがっているのか? むろん、ニセモノであり、実がなく、まちがっている。


わが集中制は、民主を基礎としてうちたてられた集中制である。プロレタリアートの集中は、広汎な民主を基礎とした集中である。各級党委員会は集中指導をおこなう機関である。ただ、党委員会の指導は、集団指導であり、第一書記の個人独裁ではない。党委員会内部では民主集中制を実行すべきである。第一書記とその他の書記・委員との関係では、少数が多数にしたがう。中央の常務委員会あるいは政治局のばあい、よくこういうことがある。わたしの話が正しかろうが、まちがっていようが、みんなが賛成しなければ、わたしはしたがわなければならない。かれらが多数だからだ。いま一部の省・専区・県の委員会でもつぎのような情況があるとのことだ。すべての事柄が、第一書記がいえば、もうすんだことになってしまう。これはまちがいだ。一人がしゃべって、もうすんだことになるという道理がどこにあろう? わたしのいうのは重要問題のことであり、決議ができたあとの日常工作のことではない。重要な問題は、集団で討論し、異なる意見をまじめに聞け。複雑な情況・全面的でない意見にたいしては、まじめに分析し、事柄のいくつかの可能性を考えよ。情況のいくつかの側面――いいもの・わるいもの、順調なもの・困難なもの、やれるもの・やれないもの――を計算に入れよ。可能なかぎり、慎重・周到であれ。こうしなければ、個人独裁である。こういう第一書記は覇王(仁政なく、権力のみに頼る王)と呼ぶべきであって、民主集中制の"班長”ではない。むかし、項羽という人がいて西楚の覇王と呼ばれた。かれは他人の意見を聞くのがきらいだった。かれのところに范増がいて、入れ知恵したが、項羽はきかなかった。ほかに劉邦という人、つまり漢の高祖がいた。かれは自分とちがう意見をとり入れることが少しはできた。


酈食其というインテリが劉邦に会いにいった。はじめに「読書人」であり、儒家である、と知らせた。劉邦答えていわく、いまは戦争のさいちゅうなので、儒者には会わない、と。酈食其、怒って、門番にいわく、わたしは高陽の酔払いであって、儒者ではないと知らせよ、と。門番がそのとおり報告すると、劉邦は請じ入れよ、という。なかにはいると足を洗っていたが、あわただしく歓迎する。酈食其は、劉邦が儒者に会わないことにたいして心中怒っていたので、劉邦を批判していわく、あなたは、けっきょく天下をとりたいのかどうか? なぜ目上の人を無視するのか! 当時、酈食其は六十余歳であった。劉邦のほうが若かったので、目上の人と自称したわけだ。劉邦はこれを聞いて謝罪し、陳留県を奪うという酈食其の意見をただちに採用した。これは『史記』酈食其・朱健伝にみえる。劉邦は封建時代の歴史家から「度量が大きい」「諫言をよく聞く」といわれる英雄だ。劉邦と項羽は何年も戦をやり、けっきょく劉邦が勝ち、項羽が敗れた。これは偶然ではない。わが一部の第一書記は封建時代の劉邦にも及ばず、逆に項羽に似ている。これらの同志は改めないなら、最後には失脚するだろう。『覇王、美女との別れ』という芝居があったではないか? これらの同志が改めないなら、ある日「美女との別れ」を避けられないだろう。(笑)わたしはなぜこんなにこっぴどくいうのか? ちょっと皮肉をいうと、一部の同志が痛みを感じ、かれらがよく考えるからだ。二日ぐらい眠れないのがいちばんいい。よく眠れるのなら、わたしは不愉快だ、 かれらが痛みを感じていないからである。


わが一部の同志が反対派の意見に耳をかたむけることができず、だれも批判できないのは、まちがっている。この会議のあいだに、ある省では会がもともと活発だったのに、省委員会書記があらわれるや静まりかえって、みんなが話をしなくなった。この省委書記同志よ、そこにすわってなにをやるのか? なぜ自分の部屋で問題をよく考え、みんなに議論させないのか? ふだんからこういう雰囲気をつくっているので、あなたのまえでは話ができないのだ。あなたは顔を出さないほうがいい。誤りがあれば、自己批判をやり、みんなに話をしてもらい、批判してもらうべきだ。去年 〔一九六一年〕六月十二日、北京の中央工作会議の最後の日に、わたしはわたしの欠点・誤りを話した。同志たちに各省・各地方にそれを伝えるよう頼んだ。あとで多くの地方で伝えていないことを知った。わたしの誤りなら隠してもよいと考えたらしい。およそ中央がおかした誤りは、直接的にはわたしに責任があり、間接的にも一部の責任がある。わたしが中央の主席だからだ。わたしは他人に責任のがれをさせようとしているのではない。その他の一部の同志にも責任があるが、第一に責任を負うべきはわたしである。わが省・専区・県の委員会から地区・企業・公社の党委員会書記にいたるまで、第一書記であるからには、工作における一部の欠点・誤りにたいして、責任を負わねばならない。責任を負わず、責任を負うことをおそれ、人に話をさせず、虎の尻をなでてはならない。こういう態度の人は、一〇〇パーセント失敗する。人はかならずしゃべるものだ、あなたはほんとうに虎の尻をなでられないのか? ムリにもなでてやる、と。


わが国で、人民民主主義と党内民主主義、プロレタリア民主主義を十分に実行しなければ、ほんとうのプロレタリアートの集中制は不可能である。高度の民主主義がなければ、高度の集中はありえない。高度の集中がなければ、社会主義経済をうちたてられない。わが国が、社会主義経済をうちたてられなければ、どんな状況になるか? ユーゴスラヴィアのような国に変り、事実上のブルジョア国家に変る。プロレタリア独裁がブルジョア独裁に転化し、反動的ファッショ独裁に転化するだろう。これは十分警戒に値する問題であり、同志のみなさんによく考えてもらいたい。


民主集中制がなければ、プロレタリア独裁は強化できない。人民内部で民主主義を実行すること、人民の敵にたいして独裁を実行すること、この二側面は切り離せない。この二側面をむすびつけるのが、プロレタリア独裁・人民民主独裁である。われわれのスローガンは、「プロレタリアートの指導する、労農同盟を基礎とする人民民主独裁」である。プロレタリアートはどのように指導するのか? 共産党を通じてである。共産党はプロレタリアートの前衛部隊である。プロレタリアートは、社会主義革命・社会主義建設に賛成し・擁護し・参加するすべての階級・階層と団結する。反動階級あるいは反動階級の残りカスにたいしては独裁を実行する。わが国では、人が人を搾取する制度、地主階級・ブルジョアジーの経済的基礎はすでに消滅した。いまの反動階級はもはや過去のようにひどくはなくなった。たとえば、一九四九年に人民共和国を樹立したときのように、 一九五七年にブルジョア右派が狂気の進攻をしたときのように、ひどくはなくなった。だから、反動階級の残りカスというのだ。しかし、この残りカスを絶対に軽視してはならず、ひきつづき闘争しなければならない。くつがえされた反動階級は、なお復活を企んでいる。社会主義社会でも新しいブルジョア分子は生まれうる。社会主義の段階全体に、階級・階級闘争が存在する。この階級闘争は長期かつ複雑で、ときにはたいへんはげしい。わが独裁の道具は弱めてはならず、強化すべきである。わが公安部門は正しい同志の手に握られている。個々の地方では悪質分子の手に握られている可能性もある。一部の公安部門の同志は、大衆・党に頼らず、反革命粛清工作のなかで、党委員会指導下の大衆的粛清路線を実行せず、秘密工作、いわゆる専門的工作に頼っている。専門的工作は必要だし、反革命分子にたいして、内偵・聞き込みをやることはまったく必要である。しかし、 主要なのは、党委員会指導下の大衆路線の実行だ。とりわけ反動階級への独裁全体のなかでは、大衆・党に頼る必要がある。反動階級への独裁を実行するとは、すべての反動分子を全部消滅させるということではない。その階級を消滅させ、適当な方法でかれらを改造し、新しい人間に変えるのだ。広汎な人民民主主義がなければ、プロレタリア独裁は強化できず、政権は安定しない。民主がなければ、大衆を起ちあがらせなければ、大衆の監督がなければ、反動分子・悪質分子にたいして有効な独裁はできない。有効な改造はできず、かれらが撹乱をつづけ、かれらが復活する可能性もある。この問題は警戒すべきであり、同志たちによく考えてもらいたい。


第三、われわれはどの階級と連合し、どの階級を抑圧すべきなのか? これは根本的立場の問題である。労働者階級は農民階級・都市小ブルジョアジー・愛国的民族ブルジョアジーと連合すべきであり、まず連合しなければならないのは農民階級である。科学者・技術者・教授・作家・芸術家 ・俳優・医療工作者・新聞工作者などのインテリは、一つの階級ではなく、ブルジョアジーかプロレタリアートに附属しているものだ。インテリにたいして、革命的な部分とのみ団結することでよいだろうか? 否である。かれらが愛国的であるかぎり団結し、かれらに仕事をやらせなければならない。労働者・農民・都市小ブルジョア・愛国的インテリ・愛国的資本家・その他の愛国的人士 ―――これらの人が全人口の九五パーセント以上である。これらの人は、わが人民民主独裁のもとでは、人民の範囲に属する。人民内部では民主を実行しなければならない。


人民民主独裁が抑圧するのは、地主・富農・反革命分子・悪質分子・反共の右派分子である。反革命分子・悪質分子・反共の右派分子が代表する階級は、地主階級・反動的ブルジョアジーである。これらの階級・悪質分子は全人口のほぼ四、五パーセントである。これらの人はわれわれが改造を迫り、人民民主独裁をやる対象である。


われわれはどちらに立つのか? 全人口の九五パーセント以上を占める人民大衆の側か、それとも全人口の四、五パーセントの地主・富農・反革命分子・悪質分子・右派分子の側か? 人民大衆の側に立たなければならず、人民の敵の側に立ってはならない。これはマルクス・レーニン主義者たるものの根本的立場の問題である


国内では以上のとおりだが、国際的レベルでも同じである。各国人民、総人口の九〇パーセント以上の人民大衆は、すべて革命を必要としており、マルクス・レーニン主義を擁護する。かれらは修正主義を擁護するはずはなく、一部の人が一時的に擁護しても、やがてはそれを棄てるだろう。 かれらは一歩一歩目覚め、帝国主義・各国反動派に反対し、修正主義に反対するだろう。ほんとうのマルクス・レーニン主義者たるものは、世界人口の九〇パーセント以上の人民大衆の側に断固として立たなければならない。


第四、客観世界を認識する問題について


人間の客観世界にたいする認識は、必然の王国から自由の王国への飛躍であり、過程が必要だ。 たとえば中国で民主革命をどうやったのかをみると、一九二一年に党を創立してから一九四五年の党の第七回大会までの二十四年を経て、全党の認識がようやく完全に統一できたのである。そのあいだに全党レベルでの整風があった。一九四二年春から一九四五年夏まで三年半かけた。それはキメの細かい整風で、用いた方法は民主の方法であった。つまり、どの人が誤りをおかしたのであれ、 それを認識し、改めればそれでよかった。みんなはかれが認識し・改めるのを助けた。「失敗をいましめとし、病気を治す」「団結の願いから出発し、批判・闘争を経て是非を明らかにし、新しい基礎のうえに新しい団結を」「団結——批判—団結」―――この公式はこのとき生まれたものだ。あの整風は、全党の同志が認識を統一するのを助けた。当時、民主革命をいかにやるべきか、党の総路線・具体的政策をどう決めるべきか、という問題は、この時期に、とりわけ整風をやってから完全 に解決できたのだ。


党の創立から抗日戦争期のあいだに、北伐戦争、十年の土地革命戦争があった。われわれは二度の勝利・二度の失敗を経た。北伐戦争は勝ったが、一九二七年に革命は失敗にぶつかった。土地革命では大きな勝利をえて、紅軍は三十万人に発展したが、のちにふたたび挫折した。長征を経て、 この三十万人が二万人あまりに減り、陝西北部に着いてから一部を補充したが、それでも三万人にならなかった。つまり三十万人の十分の一にもならなかったのである。三十万人の軍隊と三万人足らずの軍隊と、けっきょくどちらが強かったであろうか? われわれはそのように挫折し、大きな苦しみをなめてから、鍛練され、経験をつみ、誤った路線を正し、正しい路線をとりもどした。三万人足らずの軍隊が過去の三十万人の軍隊よりも強いのは、そのためである。×××〔劉少奇〕が報告のなかでつぎのようにいっている。最近四年〔一九五八~六一年〕、われわれの路線は正しかった、成果が主要である、実際の工作のなかでいくらかの誤りをおかし、苦しみをなめ、経験をえた、こうしてわれわれはより強くなったのであり、より弱くなったのではない、と。情況はこのとおりである。民主革命期に、勝利・失敗・再勝利・再失敗を経て、二つを比較し、われわれは中国という客観世界をようやく認識したのである。抗日戦争前夜、抗日戦争期に、わたしはたとえば『中国革命戦争の戦略問題』『持久戦論』『新民主主義論』『”共産党人」発刊の辞』などの論文を書き、中央のために政策・戦略にかんする文献を起草したが、これは革命の経験を総括したものである。これらの論文・文献は、あのときようやく生まれえたのであって、それ以前には生まれえなかった。 というのは、風雨にさらされなければ、二つの勝利・二つの失敗を比較しなければ、十分な経験がなく、中国革命の法則を十分認識することができなかったからである。


中国という客観世界は、全体としていえば中国人が認識したもので、コミンテルンの中国問題担当の同志たちが認識したものではない。コミンテルンのこれらの同志は、中国社会・中国民族・中国革命を理解しないか、あまり理解しなかった。中国という客観世界にたいして、われわれ自身、 長いあいだ認識がはっきりしなかったのだ、いわんや外国の同志においてをや。


抗日戦争期に、われわれはようやく情況に合った党の総路線、ワンセットの具体的政策を制定できた。このとき、われわれはすでに二十年近く革命をやっていた。過去の多年にわたる革命工作には大きな盲目性があった。同志のだれかが、たとえば中央のだれか、あるいはわたし自身が、中国革命の法則にたいして、はじめたときから完全に認識していた、という人があったら、それはホラ吹きだ。われわれは信じてはならぬことを、胆に銘じるべきだ。そんなことはないのだ。過去に、 とりわけはじめのころ、われわれはひたすら革命をやったが、どのように革命するのか、なにを革命するのか、なにがさきでなにがあとなのか、つぎの段階でようやくやれるのはなになのか、かり長いあいだはっきりさせていなかった、あるいは、まったくはっきりさせてはいなかった。われわれ中国共産党員は、民主革命期に中国革命の法則を苦労して、しかし成功裡に認識した、とわたしがこの間の歴史を語る目的は、同志たちにつぎのことを理解してもらいたいからである。社会主義建設の法則を認識するには、過程が必要であること、つまり実践から出発し、経験なしから経験ありへ、より少ない経験からより多くの経験へ、社会主義建設という認識されざる必然の王国から、 盲目性を一歩一歩克服し、客観法則を認識し、自由をえて、認識のうえで飛躍があらわれ、自由の王国へいたる――という過程を、である。


社会主義建設にたいして、われわれはまだ経験が乏しい。わたしは、いくつもの国の兄弟党代表団とこの問題を話し合ったことがある。社会主義経済の建設にたいしてわれわれは経験がない、とわたしはいった。


この問題は一部の資本主義国の新聞記者とも話したことがある。そのうちの一人はアメリカ人でスノウである。かれは長いこと中国にきたがっていたので、一九六〇年にきてもらった。わたしはかれと話をし、こういった。「ご承知のように政治・軍事・階級闘争にたいしては、われわれは一連の経験・方針・政策・方法をもっているが、社会主義建設となると、これまでやったことがなく、経験がない。あなたは、十一年やったではありませんか、というかもしれない。たしかに十一年やったが、まだ知識・経験が乏しい。少しはできてきたとはいえ、まだ多くはない」と。スノウはわたしに中国の長期建設計画を話すよう求めた。わたしは「知らない」と答えた。かれは「あなたは慎重すぎる」といった。わたしはこう答えた。「慎重であるとかないとかの問題ではなく、わたしはほんとに知らないのだよ。経験がないものだから」。同志のみなさん、ほんとうに知らないのだ。われわれはたしかにまだ経験が少なく、そのような長期計画はない。一九六〇年はわれわれがいくつものカべにぶつかったときだった。一九六一年にわたしはモントゴメリと話をして同じ意見をのべた。かれは「五十年後には、中国はすごくなる」といった。かれのいった意味は、五十年後には、われわれは壮大になって、他国を「侵略」するかもしれない、五十年以内はまだないだろうが、というものだ。かれのこの見方は、一九六〇年にかれが中国にきたとき、わたしに語ったものである。わたしはこういった、「われわれはマルクス・レーニン主義者であり、わが国は社会主義国であって、資本主義国ではない。だから、百年、一万年経っても、他人を侵略しはしない。強大な社会主義経済を建設するには、中国では五十年ではダメで、百年あるいはもっと多くの時間が必要だろう。あなたがたの国で資本主義が発展したのも何百年もかかっている。十六世紀は中世だから数えないとして、十七世紀からいままでで三百六十年あまりだ。わが国で強大な社会主義経済を建設するには、わたしは百年あまりかかるとおもう」と。十七世紀はどんな時代であったか? 中国の明末清初である。さらに一世紀すぎて一八世紀前半が清朝乾隆時代である。『紅楼夢』の作者曹雪芹がその時代に生き、賈宝玉という封建制度に不満な作中人物が生まれた時代である。乾隆時代に中国では資本主義生産関係の萌芽が生まれたが、まだ封建社会であり、これが大観園の一群の作中人物のあらわれた社会的背景である。これ以前の十七世紀に、ヨーロッパの一部の国では資本主義が発展し、三百年あまりを経て、資本主義の生産力がいまのようになった。社会主義を資本主義とくらべると多くの優越性がある。わが国経済の発展は資本主義国とくらべてぐっとはやいだろう。しかし中国は人口が多く、基礎が薄く、経済がおくれているので、生産力を大きく発展させ、 世界でもっとも先進的な資本主義国に追いつき・追いこすためには百年あまりの時間がなければ、ダメだとおもう。数十年かもしれない。一部の人が想定しているように五十年でできるかもしれない。もしそうなら、感謝感激、雨あられだ! ただわたしは同志たちが困難をより大きく予想しておくよう、したがって、時間をより長く想定するようすすめたい。三百数十年かけて強大な資本主義経済を建設した。わが国では、五十年前後から百年前後かけて強大な社会主義経済を建設してどうしてわるいことがあろうか? いまから五十年、百年は世界の社会制度が徹底的に変化する偉大な時代であり、天地のくつがえる時代であり、過去のどんな時代ともくらべられない。このような時代にあって、われわれは過去の闘争形態と多くの点で異なる偉大な闘争をおこなう準備をしなければならない。この事業のために、マルクス・レーニン主義の普遍的真理を中国社会主義建設の具体的実践と、さらにこんごの世界革命の具体的現実と、できるかぎりうまくむすびつけ、実践のなかから闘争の客観的法則を一歩一歩認識しなければならない。盲目性のために多くの失敗・挫折に会い、そこから経験をえて、最後の勝利をえるよう準備しなければならない。この点から出発すれ時間を長く想定することには多くの長所があり、短く想定するとかえって有害である。


社会主義建設において、われわれにはまだ大きな盲目性がある。社会主義経済は、われわれにとってまだ多くの認識されざる面をもつ必然の王国である。わたし自身についていえば、経済建設工作の多くの問題がまだわからない。工業・商業はわたしはあまりわからない。農業は少しはわかるが、比較的わかるというだけで、やはりわかっていることは多くはない。農業をもっと多くわかるためには、土壌学・植物学・作物の栽培学・農業化学・農業機械などがわからなければならない。


さらに農業内部の各部門、たとえば食糧・綿花・搾油作物・麻・生糸・茶・製糖作物・野菜・煙草 ・果物・薬草・その他などがわからなければならず、そのうえ牧畜業・林業もある。わたしはソ連のウイリヤムス土壤学を信じている。ウイリヤムス土壌学のなかで、農業・林業・牧畜業の三結合を主張している。三結合が必要であり、さもないと農業に不利である、とわたしはおもう。これらの農業生産の問題はすべて、同志たちが工作の余暇をみてまじめに研究するようすすめたい。わたしもいくらか研究したいとおもう。ただ、いままでのところ、この方面のわたしの知識は少ない。


わたしがより注目してきたのは、制度面の問題、生産関係の方面の問題である。生産力の面となると、わたしの知識は少ない。社会主義建設は、全党的にみて、知識がひじょうに不十分である。われわれはこれから一定の時間内に、経験を蓄積し、学習に努力し、実践のなかでその認識を一歩一歩深め、その法則をはっきりさせるべきだ。かならず刻苦奮闘が必要であり、着実に調査・研究する必要がある。現場に腰をすえるには、生産大隊・生産隊へいき、工場・商店へいって腰をすえなければならない。調査・研究を、われわれはこれまでわりあいうまくやってきたが、都市に出てきてから、まじめにやらなくなった。一九六一年に改めて提起し、いまの情況はいくらか改善された。ただ、指導幹部、とりわけ高級指導幹部のあいだでは、一部の地方・部門・企業でまだその雰囲気ができていない。一部の省委員会書記はいまになってもまだ現場に腰をすえていない。省委員会書記がいかないでいて、どうして専区委員会・県委員会の書記をいかせることができよう。この現象はよくない、かならず改めなければならない。


中華人民共和国が成立してから現在まで十二年になるが、この十二年は前半の八年と後半の四年に分けられる。一九五〇年から五七年末が前半の八年であり、五八年から現在までが後半の四年である。この会議では、過去の工作の経験をひととおり総括したが、主要なのは、後半四年の経験であり、この総括は××× [劉少奇〕の報告に反映されている。われわれは各方面の具体的政策を制定したか、制定しつつあるか、これから制定するであろう。すでに制定したのは、たとえば農村工作六十条、工業企業七十条、高等教育六十条、科学研究工作四十条であり、これらの草案はすでに実行しているか、試みに実行している。これからも修正あるいは大修正があるかもしれない。いま制定しつつあるのは、たとえば商業工作条例である。これから制定するものとして、たとえば小中学教育条例がある。わが党・行政機関と大衆団体の工作にもいくつかの条例を制定すべきである。 軍隊ではすでにいくつかの条例を制定した。要するに、工業・農業・商業・教育・軍事・行政・党の七つの面の工作はうまく経験を総括すべきであり、情況に合ったワンセットの具体的方針・政策 ・方法を制定し、正しい軌道のうえを前進させなければならない。


総路線だけでは不十分であり、総路線の指導のもとで、工業・農業・商業・教育・軍事・行政・ 党の各方面で、情況に合った一連の具体的方針・政策・方法が必要であり、こうしてこそ大衆と幹部を説得し、これらを教材としてかれらを教育し、統一した認識・行動をもたせることができ、革命事業・建設事業の勝利をうることができる。さもなければ勝利をえられない。この点について、 われわれは抗日戦争期に深い認識をえた。当時、われわれはこうやって、幹部・大衆に民主革命期におけるワンセットの具体的方針・政策・方法について統一した認識を、したがって統一した行動をもたせ、当時の民主革命の事業で勝利をえたことは、みなさんご承知のとおりである。社会主義革命・社会主義建設期におけるはじめの数年の任務は、農村で封建的土地制度を改革し、つづいて農業集団化を実現し、都市では資本主義商工業の社会主義的改造を実現することであった。経済建設の面では、当時の任務は経済を回復させ、第一次五ヵ年計画〔一九五三~五七年〕を実現することであった。革命の面であれ、建設の面であれ、当時は客観情況に合った、しかも十分説得的な総路線があり、さらに総路線の指導下にワンセットの方針・政策・方法があったために、幹部・大衆を教育し、かれらの認識を統一し、工作もわりあいうまくやれた。これもみなさんご承知のとおりである。ただ、当時はこういう情況があった。経験がなかったので、経済建設の面ではソ連をそっくりマネるほかなく、とりわけ重工業の面では、ほとんどすべてソ連をマネしたため、自分の創造性は少なかった。これは当時はまったく必要であったが、同時に欠点もあった。創造性・独立自主の能力が乏しかった。これはむろん長期の計とすべきではなく、一九五八年から、自力更生を主とし、外国からの援助を従とする方針を確立した。一九五八年、党の第八回大会二次会議で、「意気込みを強め・高い目標をめざし、より多く・はやく・りっぱに・ムダなく社会主義を建設する」総路線を採択した。この年、人民公社をはじめ、大躍進のスローガンを提起した。社会主義建設の総路線を提起してからかなり長いあいだは、ワンセットの情況に合った具体的方針・政策・方法が間に合わず、規定できなかった。経験がまだ不足していたからだ。この情況のもとで、幹部・大衆はワンセットの教材を入手できず、系統的な政策教育をえられず、ほんとうに統一した認識・行動もできなかった。一定の時間を経て、いくつかのカベにぶつかり、プラス・マイナスの経験をえて、ようやくできるようになったのである。いまはよくなった。これらのものはできたか、いま、できっつある。こうして、われわれは社会主義革命・社会主義建設をよりうまくできるのだ。総路線の指導のもとで、ワンセットの具体的方針・政策・方法を制定するには、大衆のなかからという方法、 系統的・綿密な調査研究の方法を通じて、工作における成功・失敗の経験にたいして、歴史的な考察をくわえる。こうしてこそ客観のモノゴトに固有な、人びとが主観によって臆測したものではない法則をさぐりあて、情況に合った各種の条例を制定できる。これは重要であり、 に注意してほしい。


工業・農業・軍事・教育・商業・行政・党の七つの面では、党がすべてを指導する。党は工業・ 農業・商業・文化教育・軍隊・行政を指導しなければならない。わが党は一般的にいえば、たいへんよい。党員の出身は、主として労働者・貧しい農民である。わが大多数の幹部もよい。かれらは精を出して仕事をしている。ただ、わが党内になおいくつかの問題があり、わが党の情況がすべてよいと考えてはならないことを、みきわめなければならない。いま一千七百万あまりの党員がいるが、このうち八〇パーセントは建国以後、つまり五〇年代に入党したものである。建国以前に入党したのは二〇パーセントだけで、このうち、一九三○年以前つまり二〇年代に入党したのは、八年前の統計では八百人あまりだった。この数年に死んだ人もあるので、おそらくいまは七百人あまりに減っている。古い党員であれ、新しい党員であれ、とりわけ新しい党員のなかには、質・作風の不純な人がいる。かれらは個人主義者・官僚主義者・主観主義者であり、ひどいのは堕落分子である。一部の人は共産党の看板を掲げてはいるが、労働者階級でなくブルジョアジーの代表である。党内が純粋でないことをみきわめなければならない。さもないと損害を受けるだろう。


以上はわたしの話の第四点で、われわれの客観世界にたいする認識には過程が必要だということだ。はじめは認識していないか、不十分な認識であるが、実践のくり返しを経て、実践のなかから成果をうる。勝ったり、苦い経験をえたり、カべにぶつかったりして、成功・失敗の比較をしてこそ、完全な認識あるいはやや完全な認識に発展させうる。そのとき、われわれはより主動的・自由になり、より聡明な人に変る。自由とは必然を認識し、客観世界を改造することだ。必然を認識してこそ、人びとは自由な活動ができる。これは自由と必然との弁証法的法則である。必然というのは、客観的存在の法則性であり、それを認識しないうちは、われわれの行為はいつも自覚的でなく、盲目的である。このときわれわれは愚かものである。この数年、われわれはたくさんの愚かなことをやったではないか。


第五は国際共産主義運動の問題についてであるが、これは簡単に話そう。


中国であれ、世界各国であれ、要するに九〇パーセント以上の人はけっきょくマルクス・レーニン主義を擁護するであろう。世界の多くの人は、まだ社会民主党・修正主義・帝国主義・各国反動派にだまされていて、まだめざめていない。ただ、かれらは一歩一歩めざめてマルクス・レーニン主義を擁護するであろう。マルクス・レーニン主義という真理をこばむことはできない。人民大衆は革命を欲しており、世界革命はやがて勝利するであろう。革命を許さないことは、魯迅の書いた趙旦那・銭旦那というニセ毛唐が阿Qの革命を許さなかったように、かならず失敗する。


ソ連は第一の社会主義国で、ソ連共産党はレーニンのつくった党である。ソ連の党・国家の指導権はいま修正主義者に篡奪されているが、わたしは同志たちがつぎのことを断固信じるようすすめたい。ソ連の広汎な人民・広況な党員と幹部はいいのであって、革命を欲していること、修正主義の支配は長くはない、ということを。いまも、将来も、われわれは一生を通じて、われわれの子孫もソ連に学び、ソ連の経験を学ばなければならない。ソ連に学ばないと、誤りをおかすだろう。ソ連は修正主義者に支配されてしまったのに、それでも学ぶのか、と人は問うかもしれない。われわれの学ぶのは、ソ連のよい人・よい事であり、ソ連の党のよい経験である。ソ連のわるい人・わるい事・ソ連の修正主義者については、それを反面教師として、そこから教訓をくみとるべきである。


われわれはプロレタリア国際主義の団結の原則を永遠に堅持しなければならない。社会主義国・ 国際共産主義運動は、かならずマルクス・レーニン主義を基礎としてかたく団結しなければならない、とわれわれは一貫して主張してきた。


国際修正主義者は、たえずわれわれの悪口をいっている。われわれの態度は、悪口をいわせ、必要なときに、それにふさわしい回答をあたえるというものだ。わが党は人から悪口をいわれるのに慣れている。むかしのことはさておき、いまはどうか。国外では、帝国主義者・反動的民族主義者・修正主義者がわれわれの悪口をいっている。国内では、蔣介石・地主・富農・反革命分子・悪質分子・右派分子が悪口をいっている。むかしからこのように悪口をいってきたのだ・・・・・・われわれは孤立しているであろうか? わたしは孤立しているとはおもわない。この会には七千人あまりが出席しているが、七千人以上いるのに孤立しているといえるであろうか? 世界各国の人民大衆がすでにわれわれの側に立っており、これからも立つであろう。それでもわれわれは孤立するといえるのだろうか?


第六の、最後の点は、全党・全人民の団結である。


党内外の先進分子・積極分子を団結させ、中間分子を団結させ、それによってたちおくれ分子を導く。こうすれば党を健全化し、全人民を団結できる。この団結に依拠してこそ工作をうまくやり、 困難を克服し、中国をりっぱに建設できる。全党・全人民を団結させるというのは、無原則の団結ではない。共産党は「全人民の党」だという人があるが、われわれはそうは考えない。わが党はプロレタリア政党であり、プロレタリアートの先進部隊であり、マルクス・レーニン主義で武装された戦闘部隊である。われわれは総人口の九五パーセント以上を占める人民大衆の側に立つのであって、四、五パーセントの地主・富農・反革命分子・悪質分子・右派分子の側に立つのでは断じてない。国際的レベルでも同じであり、われわれはすべてのマルクス・レーニン主義者、すべての革命的同志、全人民と団結することを語るが、反共・反人民の帝国主義者・各国反動派との団結など断じて語らない。可能ならば、われわれはこれらの連中とも外交関係を樹立し、五原則を基礎として平和共存をやる。ただこれは、われわれと各国人民との団結とは異なる範疇に属するべつの事柄である。全党・全人民を団結させるには、民主を発揚し、人に話をさせなければならない。これは党内でも党外でも同じである。省・専区・県の委員会の同志は、現場に戻ったら、かならず人に話をさせなければならない。この席にいる同志も、いない同志も、そうしなければならない。党の指導部のメンバーはすべて民主を発揚し、人に話をさせなければならない。限界はなにか? 一つは党の紀律を守り、少数は多数に服し、全党が中央に服すること。もう一つは、秘密のグループを組織することを許さないこと。われわれは公然たる反対派を恐れないが、秘密の反対派を恐れる。この面と向かってはほんとうの話をせず、ウソや人をだます話ばかりで、ほんとうの目的は口にしない。規律に違反せず、秘密グループの活動をやるのでないかぎり、われわれはかれらが話をするのを許すべきであり、まちがったことをいっても処罰してはならない。まちがったことをいったら批判してよいが、道理を用いて説得しなければならない。説得しても聞きいれなかったらどうするか? かれに意見を保留させておく。党内外で、少数の人が意見を保留するのを許すことは有益である。まちがった意見をしばらく保留させておくと、かれはやがて改めるだろう。多くのばあい、少数派の意見がかえって正しい。史上このような事実はよくある。真理ははじめは多数派の手にあるのでなく、少数派の手にある。マルクス、エンゲルスの手に真理があっても、かれらははじめは少数派であった。レーニンは長いあいだ少数派であった。わが党にもこの経験があった。陳独秀の極左路線が支配した時期に、真理は指導機関の多数派の手にではなく、少数派の手にあった。史上、自然科学者、たとえばコペルニクス、ガリレオ、ダーウィンの学説は長いあいだ多数の人に承認されず、逆にまちがったものとみなされ、かれらは少数者であった。わが党が一九二一年に成立したとき、数十人の党員がいただけで少数者であったが、このうちの数人が真理を代表し、 中国の命運を代表したのだ。


逮捕・死刑の問題についてちょっと話そう。いまは革命が勝利してから十数年にしかならず、打倒された反動階級はまだ十分改造されていない。一部の人が反革命を企てているときであるから、少し逮捕し・死刑にすることは必要であり、さもないと民衆の憤りを静めることができず、人民による独裁を強化できない。だが、軽々しく逮捕してはならないし、まして軽々しく死刑にしてはならない。いくらかの悪人がいる、われわれの隊列にもぐりこんだ悪質分子・堕落変質分子が人民にまたがり、クソ・ショウベンを人民の顔にかけ、きわめて凶悪で、重大な法規違反をやっている。


これらは小さな蔣介石だ。これらは処理しなければならず、悪質なのは少し捕え、数人は死刑にしなければならない。このような人をまったく逮捕せず、死刑にしなければ人民の憤りを静められない。これが「逮捕せざるをえず、死刑にせざるをえず」ということだ。ただ、絶対にたくさん逮捕し、たくさん死刑にしてはならない。逮捕してもしなくてもいいもの、死刑にしてもしなくてもいいものは、逮捕・死刑をきっぱりやめる。潘漢年という男は、かつて上海市の副市長をつとめたことがあるが、過去に秘密裡に国民党に投降したC・C派の人物である。いまかれを拘禁しているが死刑にはしない。潘漢年のような男を死刑にすると、死刑にしないという戒めが破れ、類似のものをみな死刑にせざるをえなくなる。そのほか王実味のケースがある。かれは国民党の秘密スパイで、延安時代に『野百合の花』という文章を書いて、革命を攻撃し、共産党を中傷した。その後、かれを捕えて殺した。これは公安機関が行軍のあいだに独自に殺したもので、中央の決定によるのではない。これにたいしてわれわれはいつも批判し、殺すべきではなかったと考えている。かれらがスパイをやり、文章を書いてわれわれの悪口をいい、どうしても改めないとしても、かれを放っておき、労働させればすむのであって、殺したのはよくない。逮捕・死刑を少なくする必要がある。ちよっと動くとすぐ逮捕・死刑というのでは、人びとはおじけをふるい、話をしなくなる。この雰囲気のもとでは、民主がありえない。


帽子をやたらにかぶせる(レッテルを貼る)のもよくない。わが一部の同志は帽子で人を押えることに慣れている。かれらが口を開くとすぐ帽子が空一杯に飛び、人をおどかし話をしなくさせる。


むろん、帽子は必要であり、×××〔劉少奇〕の報告にもたくさんの帽子がある。「分散主義」というのも帽子ではないか。ただ、ちょっと動いたらすぐ帽子をかぶせるのはよくない。張三は分散主義、李四も分散主義というのでは、だれでもみな分散主義になってしまう。帽子はいちばんいいのは自分でかぶることで、もし似つかわしい帽子ならば、他人がぬがせないのがいい。自分で何回かぶっても、みんながその帽子に賛成しないなら、それをとりけす。こうしてこそすばらしい民主的雰囲気が生まれる。われわれが弁髪をつかまえず、帽子をかぶせず、棍棒でうたないことを提唱する目的は、人びとがこわがらず、勇敢に意見をいうようにさせるためである。


誤りをおかした人、人に話をさせない人にたいしては、善意をもって助ける態度をとる必要がある。誤りをおかしてはならない、誤りをおかしたらたいへんだ、誤りをおかしたらもう翻身できない――こういう雰囲気ではダメだ。人が誤りをおかしても、改めることをまごころから願い、たしかな自己批判をするならば、われわれは歓迎しなければならない。はじめの一、二回の自己批判では、過大な要求をしてはならず、点検がなお不徹底でもかまわない。かれにもう一度考えさせ、善意をもってかれを助ける。人には人の助けがいるものだ。誤りをおかした同志が誤りを認識するのを助けるべきである。もし人が心から自己批判し、誤りを改めることをのぞむならば、かれを許すべきであり、寛大な政策をとるべきである。かれの工作は成果が主要であり、能力もあるのなら、 ひきつづきそこで工作させてよい。


わたしはこの演説で一部の現象を批判し、一部の同志を批判した。だが、名指しではなく、張三、李四がだれであるかを指摘していないが、みなさんはおもいあたるふしがあろう。(笑声) の数年の工作における欠点・誤りは、第一に中央が負うべきであり、中央のなかではわたしがまず負うべきだ。第二は、省・市・自治区党委員会であり、第三は専区委員会レベル、第四が県委員会レベル、第五が企業・公社の党委員会ということになる。要するにだれもがそれぞれ責任がある。 同志のみなさん、みなさんは戻ったら、かならず民主集中制を健全にしなければならない。県委員会の同志が公社党委員会を指導して民主集中制を健全にするには、まず集団指導をうちたて、強化する必要がある。長期に固定した「請負い分担制」の指導方法をこれからは実行してはならない。 この方法では、党委員会書記と各委員がそれぞれの仕事をやるだけで、ほんとうの集団討論ができず、ほんとうの集団指導ができない。民主を発揚するには、みんなを啓発して批判させ、その批判に耳をかたむける必要がある。批判に耐えるためには、主動的に率先して自己批判すべきである。


なにかがあればすぐ点検する。一時間、多くても二時間、箱をひっくり返して出してみても、そんなに多いはずはない。みんなが不十分だと考えるなら、出してもらい、そのとおりであったら、わたしは受けいれる。人に話をさせるには、主動的なのがいいのか、受動的なのがいいのか? むろん主動的なのがいい。すでに受動的なところに追いこまれていたらどうするのか? 過去に民主的でなかったから、いま受動的なのであり、どうということはない。みんなに批判してもらったらいい。昼間はうさばらし、夜は芝居をみない、昼でも夜でもどうか批判してほしい。(拍手) このところわたしは坐ったまま、冷静に考えている。二晩、三晩は眠れなかった。よく考え、ふっきれたら心から点検書を書く。これでよいではないか? 要するに、人に話をさせても、天が落ちてきはしないし、自分が失脚するわけでもない。人に話をさせないとどうか? ある日失脚するのを免れない。


わたしのきょうの話は以上である。中心は民主集中制を実行する問題であり、党内外で民主を発揚する問題である。わたしは同志たちが、この問題をよく考えるよう提案したい。一部の同志にはまだ民主集中制の思想がなく、これからこの思想をうちたて、この問題を認識しはじめる必要がある。われわれが民主を十分に発揚するならば、党内外の広汎な大衆の積極性を動員し、総人口の九五パーセント以上の人民大衆を団結させることができる。これをやりとげれば、われわれの工作はますますよくなり、われわれの直面している困難はすみやかに克服でき、われわれの事業はもっと順調に発展するだろう。(熱烈な拍手)




(1) 「三八」式三とは、①しっかりした政治方針、②困難に耐え質素を旨とする作風、③機動性に富む戦略戦術である。八とは、団結・緊張・厳粛・活発の八字のこと。延安の抗日軍政大学の教育方針であり、 毛沢東の軍事思想のエッセンス。


(2) 司馬遷 以下の引用は『史記』太史公自序にみえる。


(3) 周文王 殷朝末期の人。姓は姫、名は昌。その父季歴と同じく殷の爵位を受け、姫昌は西伯を封ぜられる。臣服の地位に甘んぜず、殷商を打倒しようとして殷の紂王に囚禁された。


(4) 仲尼(孔子) 前五五二~前四七九年。中国古代の思想家。周王朝の同族である魯国の人。名は丘、あざ名は仲尼。中国封建社会の正統をなす儒教の創始者である。十全大会後、「批林批孔」運動のなかで、はげしい孔子批判がおこなわれている。現在の孔子の評価については、たとえば楊栄国『反動階級の「聖人」―孔子(北京外国語出版社、1974年)を参照。


(5) 屈原「成都会議における講話」の訳注(8)参照(七四頁)


(6) 左丘 周朝の著名な編年史『左伝』の作者。『左伝』は魯国の記録『春秋』の注釈書。


(7) 孫子 前五世紀の著名な兵法家。『孫子』十三篇を書いた。


(8)不韋(呂不韋) ? ~前二三五年。秦の丞相。もと陽翟の豪商。その著『呂氏春秋』は賓客の集録したものといわれる。


(9) 韓非 ? ~前二三三年。戦国時代最後の思想家。韓の国の公族出身。著書『韓非子』。


(10) 項羽前二三二~前二〇二年。秦末漢初の武将。


(11) 范增生没年不詳。秦末の人。楚の項羽に仕え、奇計を以て戦功をたて、鴻門の会では劉邦を刺そうとしてはたさず、のちに項羽と不和を生じて去った。


(12)劉邦 前二五六?~前一九五年。漢の高祖(在位前二○二~前一九五年)。漢帝国の建設者。


(13)酈食其 ?~前二○四年。漢初の功臣。陳留・高陽(河南省杞県西)の人


(14)北京の中央工作会議 このとき、「農村人民公社工作条例」(修正草案)がつくられた。


(15) 必然の王国から自由の王国へ エンゲルス『反デューリング論』第三篇第二章参照。


( 16) 抗日戦争期 一九三七年七月七日の芦溝橋事件から、一九四五年八月十五日の日本帝国主義の降伏まで。


(17) 北伐戦争 一九二六年七月、国民革命軍総司令蔣介石は軍閥勢力を駆逐して国民党の手による全国統一をおこなうために、第一次国共合作をテコとして広東から北上した。しかし労働運動・農民運動の高揚に恐怖を感じた蔣介石は、翌二七年四月十二日クーデターを発動し、左派を弾圧し、こうして国共合作は破れた。いわゆる国民革命あるいは大革命がこれであり、中国共産党は第一次国内革命戦争と呼ぶ。


(18) 土地革命戦争 第一次国共合作が一九二七年四月に破れて以来、三七年の抗日戦争の開始にともなう第二次国共合作までの約十年間、中国共産党は一方では、国民党の包囲討伐に反撃しつつ、他方で土地革命を通じて解放区を拡大した。


(19) 長征 蔣介石の第五次包囲討伐にたいして、第三次極左ひよりみ主義の指導下にあった瑞金の中央ソヴイエトが有効に反撃できず、解放区を放棄せざるをえなくなり、延安にいたるまで約二万五千里(一万三〇〇キロ)を走破した。出発時の約三十万の紅軍が最後には三万人足らずに減るというきびしい行軍であった。「長征は宣言書であり、宣伝隊であり、種まき機であった」(「日本帝国主義に反対する戦術について」『選集』第一巻)というのが毛沢東の意義づけである。


(20) 『中国革命戦争の戦略問題』 一九三六年十二月に、毛沢東は第二次国内革命戦争の経験を総括するために、当時陝西北部にあった紅軍大学で講演をおこなった。この講演をまとめたものが、この『戦略問題』である。『選集』第一卷所収。


(21) 『持久戦論』 一九三八年五月、毛沢東が延安の抗日戦争研究会でおこなった講演の記録。『選集』第二卷所収。


(22)『新民主主義論』 一九四○年一月に書かれた。四九年革命を理論づけた著作。『選集』第二卷所収。


(23)『"共産党人”発刊の辞』 一九三九年十月四日。『選集』第二卷所収。


(24) コミンテルンの中国問題担当の同志たち 中国共産党の成立はもともとコミンテルンの指導にもとづくものであり、その後一九四三年のコミンテルンの解散まで、中国共産党の闘争を指導したが、誤った指導がいく度もくり返された。陳独秀路線、李立三コース、王明路線などはいずれもコミンテルンの誤った指導と深くかかわっており、毛沢東路線は、これらのまちがった路線との対抗関係のなかで形成された。毛沢東がここでコミンテルンの同志としてだれを想定しているのか、かならずしも明らかではないが、ボイチンスキー、ボロディン、ミフ、クーシネン、ロイなどが有名である。


(25) スノウに一九六〇年にきてもらった エドガー・スノウが六〇年六月に訪中したときの報告は、『中国もう一つの世界』(邦訳、筑摩書房)である。しかし、当時の毛沢東とのインタビュー記録は、のちの六五年、七〇年のそれとちがって、スノウは直接引用してはいない。


(26) モントゴメリ 一八八七~。イギリスの軍人。戦後ドイツ占領のイギリス軍司令官、帰国して参謀総長(四六~四八年)、欧州統一軍設置にともない、アンゼンハワーのもとで副最高司令官(五一年)。


(27) 清朝乾隆時代 乾隆帝(一七一一~九九年)、在位一七三五~九五年。清朝の全盛時代。


(28) ウイリヤムス 一八六三~一九三九年。ソ連の土壌学者。『基礎土壌学と農業概論』において、「牧草圃輪作体系」の理論を展開し、ソ連農業建設の基礎理論を築いた。


(29) 農村工作六十条 中国研究所編『社会主義教育運動重要資料集』に所収。人民公社の性格・組織・運営の方法を六十条に分けて記したもの。


(30) 工業企業七十条 概要は Documents of the Chinese Communist Party Central Committee Sep. 1956-Apr. 1969 (Hong Kong, Union Research Institute. 1971)所収。文滙報・解放日報・支部生活編集部「根本的に対立する二つの経済建設路線」『北京周報』六七年三七号では、この七十条が、毛沢東の「鞍鋼憲法」に対抗して制定された、とされている。一部の条文しか知られていない。


(31) 高等教育六十条、科学研究工作四十条 ともに不詳。


(32) 商業工作条例 不詳


(33) 小中学教育条例 内容は発表されていない。なお China Quarterly, No.55. Jul. -Sep. 1973 所収の Susan Shirk 論文参照。


(34)潘漢年、元コミンテルン代表。1949年から1955年まで上海副市長。


(35)C・C派 四大家族のメンバーである陳果夫、陳立夫兄弟を中心とする秘密機関。C・Cには Central Clubの略称説、陳兄弟の頭文字説がある。藍衣社と並ぶテロ組織である。


(36) 王実味 当時、中共党員、延安の中央研究員で文芸翻訳などを担当し、『中国文化』の編集をしていた。


(37) 張三、李四 実際にこういう名前があるわけではない。太郎、花子ほどの意味。



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