八全大会第二回会議での講話 (一九五八年五月)
〔訳注] 八全大会第二回会議は、一九五八年五月五日から二三日にかけて開かれ、 千人余りの代表のほかに、中央各部門責任者、軍幹部、市・県・大都市区部、企業の党委員会書記が列席した。開催地については、北京とも成都とも言われる。 同会議は劉少奇の中央委員会の活動報告、鄧小平のモスクワ会議の報告、譚震林の農業発展要綱第二次修正草案の説明が、主要な議題であった。劉少奇報告は、 「おおいに意気込み、つねに高い目標をめざし、多く、速く、立派に、無駄なく社会主義を建設するという総路線」の宗遂を強調しており、八全大会第二回会議により、公式に急進政策が採用され、大躍進が開始されたわけである。劉少奇報告は、総路線の説明にあたり、「毛沢東同志の提唱にもとづいて」など、毛沢東に対する言及が非常に多くなっており、毛沢東の権威の回復を示している。
しかし、当時、この会議の開催を伝えた新聞報道は毛沢東の講話については、 「会議の期間中、毛沢東同志が講話を行った」と述べただけで(一九五八年五月二五日付『人民日報』)、その内容は、これまで明らかでなかった。
第一回目の講話 (一九五八年五月八日)
私は、妄信の除去について話したい。さきほど、ある同志が妄信の除去について話したが、わが一部の同志はひどく、これを恐れておる。中には大学教授を恐れている者もいる。整風以後、ゆっくりとではあるが、それほど恐れなくなっているか、または、恐れていても、それほどひどくはなくなっている。すでに大学教授としての招聘を受け入れた者もいる。私は新聞紙上で、柯慶施同志が復旦大学の招聘を受け入れ、教授になったことを読んだ。これは恐れないことの現われである。
ほかにも教授になる準備をしている者もいる。これは、ブルジョアジーの教授を恐れることについて述べたのである。プロレタリアートの教授も恐れるだろうか? 私の見るところでは、そういう人はいる。たとえば、マルクスを恐れることであり、彼はとても高い建物に住んでおり、何階ものはし子をかけなければ、そこまでは登れない。私は一生かかってもそこまで登れる望みはない。
私は、成都会議で、[次の様に〕話したものだ。恐れてはならぬ。なぜなら、マルクスも人間であり、目が二つ、手が二本、頭が一つであり、われわれとあまり差はないのだと。ただ、彼の頭のなかには、マルクス主義の一大堆積があるのだ。彼は少なからぬ書物を書いて、われわれに読ませてくれている。われわれは必ずしも全部読み終わる必要はない。
×××同志はいるかね?(答―います)。 君は読み終えたかね? 読み終えたら、君は階上に登ったことになるが、私は読み終えていないから、まだ階下にいる。われわれは彼の著作を読み終えていない。「だから〕、みな階下にいる連中だ。だが、恐れることはない。マルクスのものは、必ずしも全部、読み終える必要はない。一部の基本的なものを読めば、十分だ。
われわれがやったことは、マルクスを追い越しているのだ。レーニンが述べたり、行ったりしたことも、多くの点で、マルクスを追い越している。マルクスは十月革命はやらなかったが、レーニンはやった。だから、実際の面では、[マルクスを]追い越したのだ。
レーニンの時には、レーニンの時の条件があったのだ。マルクスは中国のような、大きな革命はやらなかった。「だから」、われわれの実践もやはりマルクスを追い越したのだ。実践のなかで理論が生まれるのだ。マルクスは革命をやったが、革命を完成しなかった。〔しかし]、われわれはやりとげた。こうした革命の実践がイデオロギ ーに反映して、理論となるのだ。
われわれの理論的水準は高くないし、現在は❲まだ]高くないが、恐れることはない。努力しさえすれば登ってゆくことができるのだ。階段はつくれるし、その上、なお、エレベーターもつくれる。やたらに卑下する必要はなく、 自分を見くびる必要はない。
私は常々、一部の同志と話しあうのだが、中国は帝国主義に百年余りも抑圧されてきた。 帝国主義が〔中国人は〕外国人には服従しなければならないといったたぐいのことを宣伝したため、外国に百年余りも服従してきた。おどしつけられ、何でも恐れてきた。〔その上]、封建主義が、孔子に服従しなければならないといったたぐいのことを宣伝し、どうしても自分は駄目なのだと思いこませてきた。孔子に対する態度から言えば、われわれがやはりいけなかったのだ。外国人に対する態度から言えば、アヘン戦争以来、われわれがいけなかったのだ。 われわれが外国人を恐れたのだ。
以前は孔子を恐れた。董老[董必武〕、あなたは孔子に服従したことはなかったですか? これは、どういうわけだろう? 当時は、「聖を非とすれば、法に違う」であった。聖人に反対することは、 憲法に違反することだった。外国人に対しては、私は駄目だと言い、孔子に対しては、私は駄目だという。これは、 どういうわけだろう?
私は、自分の周囲の、一部の同志にきいてみたことがある。われわれは天上に住んでいるのか、それとも地上に住んでいるのか、と。彼らはみんな頭を振って、天上ではなく、地上に住んでいる、と答えた。 私は、違う、われわれは天上に住んでいるのだ、と言った。地球の上からみれば、星の世界は天上にあるが、もし、 ほかの星の世界に人がいて、われわれを見れば、「われわれは〕天上にいるのではあるまいか? だから、私は、われわれは天上に住んでいるが、同時にまた地上にも住んでいるというのである。
中国人は神仙を好む。私が、彼らに、 われわれは神仙のうちにははいらないのかと、きいてみると、彼らは、はいらないと答えた。私は言った。それはちがう、神仙は天上に住んでいるものだ、われわれは地球上に住んでいるが、また天上にも住んでいるのだ、どうして神仙のうちにはいらないのか、もしほかの星の世界に人がいれば、彼らはわれわれを神仙だと考えるのではなかろうか、と。
〔さらに〕第三に、彼らに、こうきいてみた。中国人は外国人のうちにははいらないのか、と。彼らはいった。はいらない、外国人だけが外国人なのだ、と。私はいった。それはちがう。中国人も外国人とよばれるのだ。なぜなら、われわれは外国人 [外国人]を外国人 [洋人]だと考えるが、外国人も中国人をやはり、外国人〔洋人]だと考えないのか、と。ここに妄信思想があることを、以上のことは物語っているのだ。
ある種の微生物は細菌と呼ばれる。それは小さくはあるが、ある点からいえば、人よりもすごい。それは、妄信など問題とせず、大いに頑張り、高い目標を目指して、多く、速く、立派に、無駄なく、[前進し]、天も恐れず、地も恐れず、眼中に人無く、人をも喰おうとする。誰かれにおかまいなく、喰いこんで行こうとするのだ。たとえ、諸君に八〇キロの体重があっても、病気になれば、やはり細菌に喰われてしまう。細菌からみると、どんな人間もものの数ではない。
細菌の、こうした、天も恐れず、地も恐れない精神は、ある人たちよりもすごいではないか? 昔から、 大変多くの学者、発明家が新しい学派をうちたてたが、はじめは、みな、年も若く、学問も比較的少なく、みな、人に見下され、圧迫されたものだ。これらの人びとが、みな、後には、壮年になり、老人になり、学問を積んだ人となった。あらゆる人びとがみなこうなのだろうか? これは普遍的な法則なのだろうか?
完全には肯定するわけにはいかず、やはり調査研究を行う必要がある。しかし、多数はそうだと言ってもさしつかえない。彼らは、なぜ、発明家、英雄となることができたのか? かれらの方向が正しかったからである。学問がもっと多くても、方向が間違っていれば、無用〔の長物〕に等しい。「人は「禍いのもととなるので〕、名が著われるのを恐れ、豚は「屠殺されるので〕、肥えるのを恐れる」。
著名な人びとは往々にしてもっとも立ち遅れ、もっとも事なかれ主義で、もっとも創造性に乏しい人だ。なぜか? それは、彼らがすでに名を成し、年もとり、地位を得ており、圧迫も受けておらず、 大変忙しくて、学問を研究しなくなっているからである。
もちろん、すべての著名人を全面的に否定することはできず、なかには例外の人もいる。青年が老人をやっつけ、学問の少ない者が学問の多い者をやっつけるという例は、非常に多いのである。
中国の戦国時代に、秦国に甘羅という人がいた。おそらくは甘茂の孫であろう。彼は一二歳で丞相になった。彼はやっと「赤いネッカチーフ」〔をつけた少年団員くらいの年頃]だった。彼の祖父の甘茂によい思案がなかったのに、
彼が「みごとな]考えを打ち出して、趙の国に行って、一つの大問題を解決した。 [秦の始皇の時、始皇の使として趙に使し、趙王、ために五城を割いて秦に事う。甘羅は還って上卿に封じられた。『史記』甘茂伝参照]。
漢には、買誼という人がいた。一七歳で、漠の文帝に見出だされて、一日に三回も官位を昇進した。後に長沙に左遷され、『吊屈原賦』 [屈原をとむらう賦〕と『鵬鳥賦』という二篇の賦をつくった。やがて朝廷に戻ると、 『治安策』[天下を平定する策略を述べた書〕と『過秦論』〔過秦とは秦を咎める義。すなわち秦の過失を論究した書〕と呼ばれる二冊の書物を書いた。
私の見るところでは、彼もやはり古代における秦漢史の専門家だった。范文澜同志にはここに在席しているかね? 正しいかどうか、君の手でちょっと考証してみてほしい。彼は数十篇の著作を書いたが、残っているのは文学作品二篇(二篇の賦)と政治的著作二篇(『治安策』と『過秦論』 〔だけ」だ。死んだのはわずか三三歳の時だった。
漢の劉邦は比較的年をとっていたが、項羽は二四歳で兵をあげ、五年で諸侯のうちに加わった。後には、自立して西楚の覇王となった。死んだ時はわずか三二歳だった。この覇王の愛妾〔虞美人〕との惜別は青年時代だったはずだ。 今の芝居ではいでたちがまちがっている。覇王に長いひげをつけるのは〔京劇で老人をあらわす」、私の考えでは、 正しくない。小生〔京劇で、二枚目に当たる若い男を指す〕のみなりをすべきである。
韓信も人から見下げられていた。彼は若い頃に「股くぐりのはずかしめ」を受けたことがある。
孔子さまも青年時代には何の地位もなく、〔婚礼や葬式の時〕笛を吹いたり、太鼓をたたいたりしたことがある。 他家に葬式があった時、そのために進行係をかって出た。後には、読み書きを教えた。彼は役人になり、魯の国で司法部長になったが、やはり短期間だった。
魯の国は人口数十万にすぎず、我々の一つの県ぐらいの大きさにしか当たらなかった。孔子がなった司法部長というのは、我々の県政府の一課長にしか当たらない。なお、彼は、出納をつかさどる小役人になったことがあり、それは、我々の農業〔生産合作社〕の会計係にあたるものだ。しかし、彼は非常に多くの技術を学んでいた。
顔淵は孔子の弟子で、第二級の聖人クラスにはいる。死んだ時には、かれはわずかに三二歳だった。
お釈迦さまが仏教を創立したのも、その青年時代のことで、十数歳か二〇歳にすぎなかった。彼は、インドの、当時の被圧迫民族の出であった。
『西廂記』に出てくる紅娘は有名な人物であり、われわれはみな知っている。彼女は年が若く、召使いではあったが、大変公正で、勇敢で、大胆に古くさいしきたりをうち破り、崔鶯鶯と張生を大いに助けた。当時としては、それは憲法に合致せず、婚姻法にそむいていた。
老夫人は紅娘を四○回も大きな板でなぐつて、拷問した。しかし、彼女はそれに屈服せず、道理を説いて、ひとしきり老夫人を責めた。結局、老夫人の学問がすぐれているのか、それとも紅娘の学問がすぐれているのか? どちらに創造性があるのか? 紅娘が発明家なのか、それとも老夫人が発明家なのか?
南北朝の頃、荀灌(河南省臨頴県の人)という、一三歳の女の子がいた。せいぜい中学の一年生にすぎない。彼女は、父親とともに襄陽に包囲されとじこめられた時、敢然と数十人を率いて、重囲を突破して脱出し、長沙まで兵を移した[晋の人。荀崧の娘。崧、襄城の太守と為り、杜曾に囲まれるや、荀灌は包囲を突破して援軍を乞う。賊、兵至ると聞きて遁走す。晋書九六参照。しかし、『晋書』の記載では、援軍を乞うた場所は、魯陽山——河南省魯山県である」。みたまえ、彼女はなんと大きな才能をもつているではないか!
唐の詩人李賀は、死んだ時には、わずかに二七歳だった。
唐の太宗李世民が兵をあげた時にはかれはわずかに一八歳だったし、皇帝になった時も、わずかに二六歳にすぎなかった。李賀、李世民はともに貴族の出身であった。
唐末、山東の歴城の人、羅士信も二四歳で兵をあげたが、一四才でもう人と戦い、非常に勇敢であった。そのほか、 杜伏威(山東の章邸の人)という人も、一六歳で大将になった。
『騰王閣序』を書いた王勃は初唐の四傑の一人に数えられるが、彼も年は若く、死んだ時、わずかに二九歳だった。 宋の名将岳飛は、死んだ時、わずかに三八歳だった。
范文瀾同志、当たっていますかね? あなたは歴史家だから、「私の]話したことが間違っていたら、訂正してもらいたい。
マルクスのマルクス主義は、決してかれが壮年時代や老人時代につくり出したものではなく、青年時代につくり出したものであり、『共産党宣言』を書いたのは、わずかに二九歳の時だった。
レーニンも三一歳で(一九〇三年)、ボルシェヴィズムをつくり出したのである。
周瑜も孔明も、ともに年が若かった。孔明は二七歳で軍師となった。孫呉の本来の統帥者程普は老将だった。孫呉が曹操を撃った時〔赤壁の戦い]には、周瑜がさいはいをふるい、自ら左将軍となり、程普を右将軍とした、程普は、 これに服しなかった。しかし。周瑜は戦って勝利した。周瑜が死んだ時は、やっと三六歳だった。黄蓋という者がおり、私の故郷の、湖南の澧陵の人である。彼はこの戦役でてがらをたてた。私の故郷も光栄の至りにたえないというものだ。
晋の王弼は『荘子』と『易経』の注釈をつくったが、彼は一八歳で哲学者になっていた。彼の祖父は王粛である。 彼は死んだ時、やっと二四歳だった。
睡眠薬を発明したのは、専門家なんかではなく、聞くところによればフランスの小さな薬局の薬剤師だったという。 私はあるパンフレットで、読んだのである。彼は、睡眠薬を発明するため、実験を行っていた時、ほとんど命を失うところであった。実験が成功すると、フランスは彼に賛成せず、彼が法を犯したと言った。ドイツ人が彼をひき受けて、彼のために祝賀会を開き、書物を出してやった。
ペニシリン――あおかび素――の発明者も一人の染物の職人だった。というのは、彼の娘が病気にかかったが、病院に行く金がなかったので、染物用のかめから、ひとつかみの土をとり出して、これに何かをまぜて、飲ませたらよくなった。その後、化学実験を経て、そのなかにふくまれているのが、ペニシリンであることがわかった。
大発見家ダーウィンも年は若かった。この人は、はじめは宗教を信じていて、人から軽視されていた。彼は生物学を研究し、いたるところをかけまわり、南北アメリカにも、アフリカにもでかけた。上海に来たことはなかったが。 最近、胡適が台湾に帰り、科学院をつくり、その会員を選定しているが、アメリカ在住の二人の〔中国人]発明家、李政道、楊振寧〔ともに物理学者]も選にはいった。この二人も年は若い。
全国人民〔代表大会代表、郝建秀〔国営第六綿紡織工場の女工、一九五一年、その作業方法が優れているとされ、 「郝建秀細布作業法」として全国に紹介された」は一八歳の時、先進的な紡績方法をつくり出した。 国歌を作った大音楽家聶耳も年は若かった。
「哪咤」[封神演義の主人公〕――つまり托塔天王李靖の息子も、年は若いが、才能は相当のものだった。
南北朝の蘭陵王も年はまだ若かった。彼は戦いがとてもうまく、とても勇敢だった。彼をもっばらほめたたえた歌曲がある〔北斉の蘭陵王長恭が、五百騎を率い、己のやさしい顔をかくすため面をつけて、周の軍隊を金墉城下に撃破したさまを歌謡にしたもの」。『蘭陵王人陣曲』とよばれる。聞くところによれば、この歌は現在、日本にあるそうだ。
現在の、多くの優秀な郷の幹部、[合作]社の幹部はいずれもまだ年若い。要するに、有為の年若い人びとは大変多いのだ。
こんなに多くの例をあげた目的は、年若い人びとが老寄りよりも優れているし、学問の少ない人が、学問の深い人を打ちまかすことができるということを説明しようとしたのである。有名人の権威におどかされてはならず、有名人や大学者におどかされてはならない。
大胆に考え、大胆に物をいい、大胆に事を行わねばならず、大胆に考えず、大胆に物をいわず、大胆に事を行わないようではいけない。こうした、手足をしばる現象はよくない。こうした現象からは解放されねばならない。
勤労人民の積極性、創造性は、従来は非常に豊富であった。過去においては、それらは旧制度の抑圧下にあって、 解放されていなかったが、現在では解放されて、爆発しはじめている。
過去においては、少なからぬ人びとが、工業はとても手におえないものだ、とても神秘的なのだと考え、「工業化をやるのは容易ではないよ」と考えていた。要するに、工業をやるのには、〔困難がある)と考える非常に大きな妄信があった。
私も工業のことはわからない。工業についてはかんどころがつかめない。しかし、私は、工業がとても手におえないものだとは信じない。私は、工業を担当している数人のひとと話しあったことがある。はじめはわからないが、何年か勉強すればわかるようになり、何ら大したことはない、とのことだった。私の考えでは、十数年も努力しさえすれば、我が国は工業国になれるだろう。工業化をそれほどむずかしいものと考えてはならない。まず、それを軽蔑し、その上で、それを重視せよ。
「高い山に頭を下げさせよう、河の水に道を譲らせよう」ということばは、大変すばらしい。高い山よ、我々はお前に頭を下げさせたいのだ、お前はなおもあえて頭を下げようとしないのか! 河の水よ、我々はお前に道を譲らせようとするのだ。お前はなおも道を譲ろうとしないのか!
こんな思いをめぐらすのは、気狂いじみているだろうか? そうではない。我々は気狂いではない。我々は実際主義者であり、事実にもとづいて真理を求めるマルクス主義者だ。
大国ショーヴィズムは必要ない。大国ショーヴィズムは醜悪な行為であり、低級な趣味だ。
『法門寺』という芝居には、賈桂という配役がいる。彼は劉瑾の配下の者だ。劉瑾は明朝の太監で、実際上「内閣総理〔大臣〕」で、大権を握っている人物だ。ある時、劉瑾が、賈桂に腰をおろすように言うと、買桂は、私は立つことに慣れております、と言って、どうしても腰をおろそうとはしなかった。これこそ奴隷根性だ。中国人は、ながいこと帝国主義の奴隷となっていたので、どうしても少し尻尾が残るのは免れがたい。この奴隷の尻尾をきりすて、買桂のようなやり方を一掃しなければならない。
二種類の謙虚さがある。一つは卑俗な謙虚さであり、もう一つは、実際にかなった謙虚さである。
教条主義者は外国をひきうつしにする。それは、過度の謙虚さだ。自分自身では何をするのか。自分自身は頭を使わないのだ。中国の古詩のなかに、一種の古をまねる詩がある。これは過度の謙虚さであり、自分には何ら独創的な風格がなく、他人のまねをしようとするのである。
修正主義者も過度に謙虚なのだ。たとえばチトーなども、ベルンシュタインをひきうつしにするもので、ブルジョワジーの老師たちのもとから、何かをもちこんでくるだけのものにすぎない。
教条主義とは、一国のブプロレタリアートが、他の国のプロレタリアート〔の理論〕をひきうつしにするものであり、 よいものもひきうつしにするし、よくないものもひきうつしにするのである。こんなことをするのはよくない。うつす〔まねる」のは必要だが、うつす必要のあるのは、精神であり、本質であって、うわっつらではない。
たとえば、 モスクワの九ヵ条の共同綱領(『再論』で言っているのは五ヵ条であるが「『再論』とは、一九五六年一二月二九日付 『人民日報』に掲載された「再びプロレタリアート独裁の歴史的経験について」を指し、五ヵ条とは、その中でソ連邦の革命と建設の基本的経験として列挙した五項目を指す〕、モスクワ宣言では九ヵ条に分けられている)は、各国共通のものであり、一ヵ条かけてもいけない。
普遍的真理は、中国の具体的現実と結びつかねばならない。もし結びつけず、ひきうつしにするだけなら、それは過度の謙虚さである。普遍的真理でなければ、ひきうつしにはできない。 たとえ国内のものであっても、ひきうつしはできない。土地改革の頃、中央はどこか一地方の経験を特別に強調することはしなかった。つまり、ひきうつしにするのを恐れたからだ。いまでも、仕事のなかでは、この問題に注意しなければならない。
修正主義者はブルジョア化した連中であり、ブルジョアジーをひきうつしにする。チトーがペルンシュタインをひきうつしたにするのが、その一例である。
われわれはレーニンに学ばねばならず、大胆に赤旗をうちたてねばならず、赤ければ赤いほどよい。大胆に、新奇な〔理論や主張]をうち出さねばならない。新奇なものをうち出すにも、二種類ある。一つは赤旗をうちたてることであり、これは当然のことだ。もう一つは、白旗をうちたてることであり、あるべきことではない。レーニンは第二インターナショナルに異論をとなえ、新しいものをうち出し、別に赤旗をうちたてたが、当を得たものだった。
赤旗は、どっちみち、うちたてねばならないものだ。諸君が赤旗をうちたてなければ、ブルジョアジーが白旗をうちたてるだろう。ブルジョアジーにうちたてさせるより、われわれプロレタリアートがうちたてるのがよい。思い切って旅をうちたてねばならず、白い所を残さないようにせねばならぬ。ブルジョアジーがうちたてた旗を、われわれは抜きとらねばならない。思い切ってうちたて、思い切って抜きとらねばならない。
レーニンは「進んだアジアと後れたヨーロッパ」といったことがある。これは真理であり、今でもやはり真理である。われわれは進んでおり、西ヨーロッパは立ち遅れている。
われわれはブルジョアジーを蔑視し、神仙を蔑視し、上帝を蔑視する。しかし、小国を蔑視してはならず、自己の同志を蔑視してはならない。
一五年後には、われわれは現代化し、工業化し、文化〔程度〕の高い強大国に変わり、横柄にふるまおうとするかも知れない。われわれは恐れる必要はない。ここで、はっきり言っておこう。犬が尻尾をふりまわしても、必ずしも棒でなぐりつける必要はなく、一ひしゃくの冷や水をかければそれでよい。われわれも時には、冷や水をぶっかける必要がある。
正当でない自信、卑俗な自信、ニセの自信〔をいだくこと]はすべて許されない。科学の上にうちたてられていない謙虚さは、謙虚とは言われない。真の謙虚さは現実に合致しなければならない。たとえば、われわれが、外国人と会って、中国は今でもやはり農業国で、工業建設は始まったばかりです・・・・・・と言ったとすると、これは現実であるが、 外国人はわれわれは謙遜していると言うだろう。一般に、現実に合致するのが謙虚さなのだ。中には現実よりも低く [表明]した謙虚さもあるが、それは過度の謙虚さだ。一般に、現実に合致するのが謙虚さだ。
こういう言い方は、魯迅の諷刺についての考え方に似ている。魯迅は、よく練りあげられたか、または幾分誇張された筆致で、真実の事物について描写するのが諷刺といわれるものだ、と言っている。范文瀾同志が、最近、ある文章を書いた[一九五八年四月二八日付『人民日報』に発表した「歴史研究は厚今薄古でなければならない」を指す。
范は、『春秋』を書いた孔子をはじめとし、厚今薄古が中国史学の伝統であったと論じている」。大変面白く読んだ。 これは思い切った発言だ。この文章は多くの事実を引用して、厚今薄古〔古代に重点をおかず、現在に重点をおく」がわが国の伝統であることを証明し、司馬遷、司馬光・・・・・を引用している。残念ながら、秦の始皇帝を引用していない。秦の始皇帝は、「古をもって今をそしる者は、一族みな殺しにせよ」と主張しており、厚今薄古の専門家なのだ。
むろん、私も秦の始皇帝を引用するのに賛成するわけではないが。(林彪同志が発言したー秦の始皇帝は焚書坑儒をやった)。秦の始皇帝などものの数ではない。彼は四百六〇人の儒者を穴埋めにしただけだが、われわれは四万六千人の儒者を穴埋めにした。われわれは反革命を鎮圧したが、やはり、若干の反革命的な知識分子を殺していないだろうか? 私は民主人士と論争したことがあり、彼らはわれわれを秦の始皇帝だと罵ったが、それはあたっていない。われわれ❲が殺した反革命の人数〕は、秦の始皇帝を百倍も越えているのだ。われわれを秦の始皇帝だ、独裁者だと罵るが、われわれは、それを一貫して認めている。残念ながら、彼らの言いかたがたらないため、ともすれば、 われわれがそれを補足してやる必要があったほどだ(大笑)。
事物は必ず自己の反対物に転化するものだ。
ギリシャの弁証法が、中世の形而上学に転じ、〔さらに] ルネッサンスに転じた。これは、否定の否定だ。 中国においても同様であり、戦国時代の百家争鳴は弁証法だった。封建時代の経学は形而上学だった。現在は、また、弁証法が重んじられている。
そうじゃないかね? 范文翻同志、あなたはこれらのことについてよく承知しておられる。
私のみるところでは、一五年後には、きっと横柄になり、大国ショーヴィニズムが現われるだろう。大国ショーツイニズムが現われても、恐れることはない。まさか大国ショーヴィニズムになることを恐れて、社会主義大国の建設のために奮闘しないわけにはゆくまい。たとえ将来、大国ショーヴィニズムが現われても、それはやはり自己の反対物に転じ、ある種の正しいものが、大国ショーヴィニズムにとってかわるだろう。
こう。何の恐れることがあろう。社会主義国家で、全部の人がすっかり大国ショーヴィニズムになってしまうのは不可能だ。レーニンの弁証法〔から」、スターリンの部分的な形而上学〔にすすみ〕、〔さらに〕現在の弁証法〔になったが〕、これも否定の否定だ。
スターリンが全くの形而上学だというわけではない。彼は弁証法を理解していた。しかしあまりよくはわかっていなかった。
人民大衆の創造性は客観的な存在である。対立面を設定することは、非常に重要なことだ。対立面は客観的存在だ。
たとえば、われわれは、右派に対しては、かれらに自由にふるまわせ、しゃべらせたが、これは計画的にそうやったのであり、その目的は対立面を設けようとするにあった。右派をやっつけた後、一部の同志が整風・改造をおろそかにしたので、また、大字報と二つの反対運動〔反浪費、反保守運動〕が強調された。こうして対立面を設定し、一億枚の大字報を出せば、やむを得ず、改めざるをえなくなるだろう。
対立面を設定するということは、客観的に存在しないのに設定するということではない。いわゆる対立面とは、客観的に存在するものであってこそ、はじめて設定することができるのであり、客観的に存在しないものは、設定しきれるものではない。
私の話はこれで終わりである。この〔話の〕題目は妄信の打破と呼ぶことにしよう。教授は恐れる必要はないし、 マルクスも恐れる必要はない。
第二回目の講話(一九五八年五月一七日)
(一)国際情勢
資本主義世界には騒動が非常に多い。われわれのこの世界には騒動は比較的に少ない。われわれは強固に団結している。ユーゴスラビアはわが陣営にはおらず、われわれのうちにはいれない。われわれがはいるなというのではなく、 かれら自身がはいろうとしないのだ。わが陣営、一二ヵ国の情勢は、大変すばらしい。情勢はこれまでも大いによかったし、難局に直面したことは一日もなかった。
ただ、しかし、時には空に黒雲が多少現われることはある。一部の人びとは、よそはうまくいっているのに、われわれのところはうまくいかないと考えている。われわれのところはうまくいっていると私は考える。私は、モスクワ会議で一〇項目の証拠をあげて、われわれのところがこれまでうまくいっていたことを証明した。蔣介石は南京におり、われわれは延安にいたが、結局、どちらがうまくいったのか?
当時、延安には七千人しかいなかった。しかも郊外地区をも含めてである。南京はあんなに大きかった。南京、上海などの大都市はすべて蔣介石の手中にあった。彼には数百万の軍隊があったが、われわれには数十万の遊撃隊しかなかった。これまでは、小が大にうち勝ち、弱が強にうち勝ってきた。小や弱には生命力があるが、大や強にはそれがない。全般的情勢は大変すばらしい。
ヒトラー、蔣介石、アメリカ帝国主義は問題にならない。われわれはこれまでアメリカ帝国主義をハリコの虎とみなしてきた。アメリカ帝国主義は残念ながら、ただの一つしかない。なお一〇あっても、問題にならない。遅かれ早かれ、アメリカ帝国主義は滅亡する。
日本人が、北京で、私に、かつて、あなたがたを攻撃したことは、大変恥ずかしいと言った。私は、あなたがたはよいことをしたのだ、あなたがたの侵略があり、中国の大半を占領したからこそ、われわれは団結し、全国人民を指導して、あなたがたを追い出し、北京にやってこられたのだといった。われわれは、延安にいた頃、いつになったら、 梅蘭芳や程硯秋の芝居が見られるだろうと話し合った。一生涯、見られないかもしれぬという人もいた。しかし、われわれは見られるようになった。
革命情勢の発展は非常に速い。七年間ずっと全党が団結したため、蔣介石をくつがえした。これからも団結して、建設をやらねばならない。「七全大会」には一つの綱領〔連合政府論〕があった。今回の会議も、団結の大会、勝利の大会であり、やはり、一つの共同綱領がつくられた。全党一致で、社会主義建設の総路線を制定した。全国人民の総路線でもある。全党の団結、全国人民の団結、これが国内情勢である。
国際的には騒動が非常に多い。帝国主義が内部でけんかしており、世界は天下太平ではない。フランス、アルジェリア、ラテン・アメリカ、インドネシア、レバノンと、騒動はいずれも資本主義の世界で起こっている。しかし、これは、われわれにとってもみな関係がある。およそ帝国主義に反対しているものは、すべてわれわれにとって有利なことである。
帝国主義は内部でけんかしており、インドネシア、レバノン、ラテン・アメリカを圧迫しており、さらに、アルジェリアを奪いあっている(詳しくは述べない。資料をみられたい)。要するに、時には、情勢がよくなく、 空に黒雲があるようにみえることがあるが、こういう時にこそ、われわれは将来への見通しを持たねばならず、一時的な暗黒にまどわされてはならない。われわれがまずくなったと考えると、世界もまずくなったかのように感じられてきて、気が腐ってしまうのである。そんなことはないのだ!
われわれの過去において、最悪の情勢にあった時期は、万里の長征[期]だった。前方をふさがれ、後方から追撃され、軍隊は減り、ほんの少ししか残っておらず、[支配]地域も小さくなり、党も小さくなり、一〇本の指のうち、一本だけが残ったような具合だった。あのような困難をことごとく克服し、鍛錬をつんだのちに、新たな機会が到来し、ふたたび発展することになり、ふたたび一本の指から一〇本の指にまで発展することになり、ずっと、中華人民共和国の成立まで発展しつづけて、ついに全国的勝利をかちとるにいたった。
『ソ連共産党史』の第一章第一頁には、この、小から大への弁証法がとりあげられている。ソ連共産党は、数人の人びとが始めたグループからソ連邦を指導する大きな党にまで発展した。彼らは当時は、 一丁の銃ももたなかったのに、彼らの敵ははじめはツァーであり、後にはケレンスキー政府になったが、どちらも、 完全に武装していた。完全武装の方が強いのか、それとも身に寸鉄もおびない方が強いのか? 諸君はどう思うだろう。私は、身に寸鉄もおびない者の方が強いのだと思う。
最終的には誰が勝ったのだろう? われわれの党の情況も同じだ。一九二一年にわが党は成立したが、数十人にすぎなかった。第一回代表大会の周仏海は「立派な同志」だった(笑声)。陳公博もまた「立派な同志」だった(笑声)。陳独秀は出席しなかったが、声望があったので、総書記に選ばれた。しかし彼は立派な人物にはならず、立派な器量の持主とはならなかった。彼はベルンシュタイン主義なのだ。 彼は、民主主義革命はやったが、急進派だった。彼は、社会主義革命がわからず、永続革命がわからず、誤りを犯した。
わが党の歴史について考えてみよう。われわれは、どれほどの困難を経てきたことか!〔そこには]万里の長征の一時期があり、さらに、三中全会〔一九三○年九月〕から四中全会〔一九三一年一月〕までの一時期がある。四中全会は上海で開かれたが、数人がいなくなった〔四中全会で、王明ら留ソ派が党中央の指導権を握ったが、極左路線に反対した何孟雄らは、臨時中央委員会を組織した〕。危急存亡の時に、党は分裂していたのだ。
二万五千里の長征の時も、党は分裂していた。党は分裂を経たあげくに、また団結した。張国燾が逃げ出すと、学は団結を回復した。その後、延安では、蔣介石と日本人がわれわれを包囲し、われわれを十数個の根拠地に分断した。
そうした困難な局面にあって、結局、延安が強かったのか、それとも南京が強かったのか? われわれが強かったのか、それとも蔣介石が強かったのか? 現在では、われわれが強かったことが証明されている。そうでなくて、どうして、われわれが、いま、懐仁堂〔北京中南海〕で会議を開くことができるだろう? どうして彼〔蔣介石〕が台湾に逃げていこう? 誰が勝ったのだ?
(二)国内情勢
中国は、国際情勢の重要な構成部分である。国際情勢を論ずるには、中国を問題にしなければならない。中国の例をあげれば、勤労人民は抑圧されてはいても、生命力を持っていることが証明される。現在、社会主義には、非常に大きな同盟軍がある。アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの民族独立運動は、われわれの同盟軍であり、これらの地域は、帝国主義の後方である。彼らの後方にはわれわれの同盟軍がいるのであり、われわれは帝国主義の後方をとりまいているのだ。
レーニンは「進んだアジアとおくれたヨーロッパ」と言った。ヨーロッパのイギリス、フランス、 イタリア、西ドイツ、ベルギー、ポルトガルはすべてたちおくれており、アメリカもたちおくれている。考えてみたまえ、彼らが進んでいるのか、それとも、われわれが進んでいるのか? スターリンには、この点がわかっていた。
一九四九年六月、×××同志がわが党の代表団を率いて、ソ連に行った〔同じ頃、高崗を団長とする東北人民政府の貿易代表団がモスクワに派遣されているが、この代表団と同じかどうかは不明〕。スターリンは宴会の席上、杯を挙げて、中国が将来、ソ連を追い越すであろうと祝った。×××同志は、次のように言った。「この酒を、私は飲むことはできません。あなたは先生です。われわれは学生です。われわれがあなたに追いついても、あなたは、さらに前進しているでしょう」。
スターリンは、次のように言った。「違う。学生が先生を追い越さないで、どうしてよい学生などと言えよう。どうしても飲んでもらわねばならない」。一〇分か二〇分の間、宴が滞ってしまったが、最後にはやはり×××同志は飲んだ。先生は学生に教えるが、学生が先生に追いつけないのでは、覇気が足りない。このことは、レーニンばかりでなく、スターリンまでが、進んだ東方を見ぬいていたことを物語っている。
師は高く、弟子は強しである。われわれは傲慢になり、尻尾を天にまでおっ立ててはならないし、自ら劣等感をいだき、やたらに自己を軽んじたりしてもならない。妄信を打破し、自己を適当な地位に置かなければならぬ。大胆に考え、大胆に物をいい、大胆に事を行うべきである。その基礎はマルクス・レーニン主義である。
チトーも、大胆に考え、大胆に物をいい、大胆に事を行っているが、彼の基礎は、帝国主義、資本主義であって、マルクス・レーニン主義ではない。われわれの基礎はマルクス・レーニン主義だ。したがって、われわれは正しいのだ。だから、大胆に考え、大胆に物をいい、大胆に事を行っても、騒動が起きるはずがないのだ。
国内問題について話そう。国内問題は、やはり農民同盟軍の問題だ。中国革命は、終始、農民同盟軍の問題だ。労働者階級に、もし農民同盟軍がいなければ、勝利と解放をかちとることはできないだろうし、強大な国家をうちたてることもできないだろう。
解放前には、わが国の労働者階級の数は四百万(手工業は除く)にすぎなかったが、現在では千二百万となり、三倍に増加したが、家族を入れても四千万人前後にすぎないのに、農民は五億の多きを数える。 中国の問題は、終始、農民同盟軍の問題である。一部の同志にはこの面の問題があまりはっきりわからず、農村で数十年もすごしていながら、やはり、はっきりわかっていない。
一九五六年に、なぜ反冒進の誤りを犯したのか? 主要な原因は、この問題にあるのだ。農民の思想・感情があまりよくわからず、したがって、根をはっておらず、ひとたび風波が到来すると、容易に動揺するのだ。一九五六年、われわれは、『〔中国の〕農村における社会主義の高まりり』という本を出し、各省・自治区の百九十数個の合作社の資料を収集した。どの省からも数篇の論文を載せたが、 チベットだけはなかった。実際には、そんなに多くする必要はなかった。河北省遵化県の、王国藩の合作社の資料一つあれば、ほぼ、まにあうというものだった。
そのほか、冀中[河北省中部〕には、すかんびん合作社があった。中農は逃げだし、三軒の貧農だけが残って、解散しなかった。彼らは依然として堅持し続けている。この三軒は、五億の農民の方向を指し示している。どの省でも多くの合作社が増産しており、一度に二倍にも、数倍にも増えている。
それでも諸君は信じないのだろうか? 農業 [発展要綱]四○ヵ条は必ず実現できるだろうが、諸君はまだ信じないでいられるのだろうか? 私は実現できると思っている。一九五五年、一九五六年および一九五七年の上半期は信じない人がかなり多かった。いわゆる形勢観望派が非常に多く、中央から各級[党委員会]まで、どこでもそういう人がいた。
今でもまだ、×××同志が言っている秋のとり入れ後が勝負だという一派がおり〔×××とは劉少奇を指す。一九五八年五月五日の、劉の八全大会第二回会議における活動報告で、一部の人が「秋のとり入れ後が勝負だ」と主張していると指摘されている〕、積極的要因を探し出そうとせず、消極的な要因だけを探しもとめている。
数人の幹部が、農村はうまくいっていないというのを聞いて、三、四人がたがいに耳うちしあい、合作社はよくない、目の前はまっ暗だ、農民は腹一杯食えないと言ったり、増産はしていない、余剰穀物はないなどという。家族のものは手紙を書き、金をねだるために、[農村は〕とてもひどい状態にあるといい、苦しさを少し誇張して書き、穀物も、油も、 布もみんななくなったなどと言って来る。そうしなければ、金を送ってもらえないからだ。
諸君は、これらの点については、本当に穀物も、油も、布もみんななくなっているのかどうか、分析してみなければならぬ。柯慶施同志が私に話してくれたことだが、江蘇省では、統計をつくったことがあり、〔それによると]、一九五五年には、県、区、郷の三クラスの幹部の三○%が、ひどくさわぎたて、農民にかわって、農民は「苦しい」と叫んでやり、統一購入・統一販売の「統一」は余計だと言った。
彼らはどの階級に属しているのか? これらの幹部の所属階級はことごとく、 富裕中農であるか、または、はじめは貧農であったが、後に、富裕中農になり上ったものだ。農民が苦しいといっているのは、富裕中農が苦しいといっていることなのだ。富裕中農は穀物をたくわえようと考えており、穀物を供出しようとは考えず、資本主義をやろうと考えているから、農民は苦しいと大いに叫ぶわけなのだ。
下部が、こんなふうに叫ぶと、地区、省、中央のクラスでも、そう叫ぶ人がいないだろうか? 多少とも家庭や農村の影響を受けている人はいないだろうか? 問題は、諸君がどの立場に立って問題をみるのかだ。労働者階級、貧農・下層中農の立場に立って問題をみるのか、それとも富裕中農の立場に立って問題をみるのかだ。
現在は比較的よくなった。農村に大躍進がうまれた。整風、反右派闘争を経て、幹部が労働に参加し、労働者が一部の【企業】管理仕事に参加するようになり、都市と農村の政治的空気は変わった。農業「悲観論」、農業には「望みがない」、「四○カ条は実現できない」「という空気]はすっかり一掃されたと言ってよい。
しかし、なお、一部の「形勢観望派」、「秋のとり入れ後が勝負だという一派」が残っており、この部分の人々がまだ一掃されてはいない。 だから、活動には注意を払わねばならない。×××報告では、はなやかだが中味がなく、浮わついていて深みがなく、 あらくてキメが細かくないのは防がねばならないことに触れられている〔×××とは譚震林を指す。一九五八年五月一七日、八全大会第二回会議での譚の「一九五六年から一九六七年にかけての全国農業発展要綱(第二次草案)の説明」に、この語句が出てくる」。
これらの話題は江蘇[省〕が提供したものであり、つまり、自分の欠点を見つけなければならないと言うことである。一〇本の指のうち、九本は光明にみちているが、一本が暗いのだ。はなやか[華] は花のことであり、花をさかせるだけで、実を結ばせないのではこまる。あらくてキメが細かくないという問題だとが、張飛〔三国演義の登場人物]はあらさのなかにキメの細かさがあった。我々は張飛になり、あらさのなかにキメの細かさをもとめなければならない。はなやかだが中味がなく、あらくてキメが細かくないのはさけなければならない。
そうすることによって、秋のとり入れ後、〔所定の〕指標の要求に達しないようなことのないようにしなければならぬ。どんな活動であろうと、各業種、各部門の同志たちはみな注意深くやらねばならない。工業、農業、商業、 文化教育、小説書き………………などどんな活動であろうと、みな、注意深くやらねばならない。
国内情勢は大変すばらしく、光明にかがやいている。過去においては、多く、速く、立派に、むだなく〔の問題]をも含めて、思想が統一されず、自信がなかった。多く、速く、立派に、むだなくは工業、農業、交通のそれぞれの活動について言っているのだが、基本的な問題は農業であり、四○ヵ条〔の農業発展要綱〕についての問題である。
今では、自信が高まったが、それは農業生産の大躍進によるのである。農業の躍進が、工業に圧力をかけ、工業を農業に追いつかせて、揃って躍進し、活動全体を推し進めているのだ。南寧会議で、一つ問題を提起した。それは、で年か七年か、結局のところ、何年で、地方工業の生産額が農業の生産額に追いつき、または追い越すようにするのか、各省がそれについて企画をたてるということだった。
このかなめとなることが提起されると、わずか三カ月で、省、 県、郷の地方工業が勢いよく発展をはじめ、今では多くの同志がすっかりこれを理解するようになった。一九五六年下半期には、中央にも、「問題を〕あまりよく理解していない一部の同志がいたが、一九五六年と一九五七年の四月、五月、六月の数ヵ月を経て、今では ❲問題が]解決された。
昨年六月の、周恩来同志の人民代表大会での報告〔一九五七年六月二六日、第一期全国人民代表大会第四回会議における周恩来総理の政府活動報告〕は大変すばらしいものであり、プロレタリア戦士の姿で、ブルジョアジーに宣戦した。あの文章は、もう一度、読んでみるべきである。あの時、問題は本当に解決されはしたが、深く理解されるのは、なお、今後のことである。
現在、中央は次のことをきめている。すなわち中央の責任ある同志たちは、一年のうち、四ヵ月は下部に出かけていって、数羽のスズメ、つまり、いくつかの工場、いくつかの合作社を解剖し [スズメを解剖するとは、「スズメは小さいが、五臓は全部揃っている」と言われるように、数は少なくても、いくつかの工場、合作社を典型として分析し、具体的経験を総括すること〕、人民大衆の中に根をおろし、自分の頭の中に、人民大衆の根をおろさせることである。
そうしないと、どうしても深くはいれない。根をおろし、つながりをつければ、この根はほんとに根づくのである。河南省長葛県の第一書記の発言には感謝する。この発言は大変すばらしく(私も一度、読んでみた)。〔今年](一年で、一一二万ムーの土地を、全部ひととおり深く掘りかえし、一尺五寸も深く掘りかえし、一ムーあたり九百斤の生産をかちとるというのだ[『新華半月刊』一九五八年第一八期に、中共長葛県委員会「長葛県の、土地を深く掘りかえす運動をくりひろげた経験」が載っている。それによると一九五八年の掘りかえす目標は一一四万ムーである〕。
一年でうまくいかなければ二年、二年でうまくいかなければ三年、三年でもうまくいかないかどうか? それでもだめなら四年、五年ではうまくいくのではないか。 五年もかければ、きっと、ひととおり掘りかえせるのではないか。私は五年なら、きっと、やれると思う。彼らは、 第二次五ヵ年計画で、全県のすべての土地を、ひととおり掘りかえす計画だ。
よい道具がなければ、長葛県のような道具をつかい、彼らのようなやり方によってやることだ。第二次五ヵ年計画期間中には、他のやり方がないというなら、彼らのやり方を採用することだ。あるいは、別のやり方があるかも知れない。
彼らのやり方は、まず土地の表層の熟土を掘り起こして一方に寄せ、その後で、肥料を不熟土の上にまき、その後で、シャベルで第二層の不熟土層を掘りおこし、これを肥料とまぜあわせ、土くれをうちくだいた上、下にしきつめて、そのままにし、もうそれ以上動かさないようにする。続いて第二のうねを掘りかえすのであるが、第二のうねの熟土は、第一のうねの不熟土の上に盛る。こうして、次々に掘りおこしていけば、表層の土は変らない。
これは一大発明だ。ひととおり深く掘りおこせば、生産は倍増し、少なくとも何十%かは増産する。増産措置としては、この土壌〔改良〕を第一に置くべきである。 水利、肥料、土壤、種子、そのほかに密植も単独で一項目に数えねばならない。合理的な密植をやらねばならない。
広東では一ムーあたり三万株を植え付けようとした。一株につき苗三本づつを植え、どの苗も三本に分ケツするとすると、二七万本の穂が実ることになり、一つの穂に平均して六〇粒なるとすると、合せて一六二〇万粒となる。二万粒で一斤だから、一ムーで八一〇斤になる。一ムーあたりの生産量八○○○斤はすぐに計算できるのではないかね?
北方の小麦、とうもろこし、栗、高粱、大豆などもすべてこのようにして計算できる。密植とは、空気と太陽の光りを充分に利用することだ。現在は、浪費反対をやっているではないか? だから、空気と太陽の光りの浪費にも反対し、一掃すべきだ。太陽の光りが毎日、苦労して働きかけているのに、諸君はみんなこれを利用しないのだ! 空気中の炭酸ガスは、植物に吸収されて炭水化物となり、光合成作用によって、植物の必要とするものがつくられる。炭水化物は炭酸ガス+太陽光線に等しい。穀物は熱エネルギーの貯蔵庫なのだ。それぞれの団粒構造がみな小さな貯水池なのだ。
話がわき道へそれてしまったが、主として問題にしているのは、根をおろし、つながりをつけ、いくつかの合作社、いくつかの工場を研究することであり、軍隊では、いくつかの中隊をつかみ、教育面では、いくつかの学校をつかみ、商業面では、いくつかの商店をつかむことであり、それ以上、多くする必要はない。
要するに、各業種ともそのいくつかをしっかりつかみ、何羽かのスズメをつかまなければならない。そうしてこそ、はじめて、脳裡に深い印象が残ることになる。唯物弁証法を尊重しなければならず、まず第一に、唯物論を尊重しなければならない。
なぜ唯物論を尊重しなければならないのか? 世界観、認識論、方法論という三つのものは、一つのものだからだ。
人の思想はどこから来るのか? 生まれながらにしてそなわっているのか、それとも観察、実践の後にのみ、うまれるのか? 人の思想とは天賦のものではなく、生まれた後で、外界の事物が反映して形成された概念なのだ。犬を見、人間、子供、樹木、馬、石ころなどを見て、概念が初歩的に形成された後、はじめて推理と判断ができるのだ。
三歳の子供に、坊やのママは犬かそれとも人間かと聞いてみたまえ。子供は、人間であって、犬ではないと答えることができよう。これは子供の判断なのだ。ママは個別的であり、人間は一般的であり、ここに同一性がある。これは個別と普遍という、対立の統一である。これが弁証法だ。
だから、三歳の子供にも矛盾・統一がわかり、弁証法がわかるというのだ。われわれの思想は客観世界が感覚器官を刺激することによって形成されるだけであり、客観的実践によって形成されるだけである。概念はどこから来るのか? 客観世界から来るのである。
現在の、多く、早く、立派に、無駄なくという概念は、多くの経験を積み重ねてはじめて形成されたものであり、中国の経験、ソ連の経験、根拠地の経験、数年の建設の経験を積みかさねたものだ。大いに頑張り、高い目標を目指して闘うという二つの語句もなければならず、これがないとうまくゆかぬ。一人の人、一群の人、一つの党が頑張らなかったり、頑張りが足らなかったら、仕事はうまくやれない。
高い目標は、もちろん、目指さねばならず、四川を目指して努力し、低い目標を目指してはならない。低い目標とは江蘇だ。これは、自然地理を借りて、問題を説明したのだ〔高い目標、低い目標の原文は「上游」、「下游」で川の上流、下流の意味。ここでは高い目標、低い目標を、揚子江の上流の四川、下流の江蘇にたとえている〕。先進的なものにみならわねばならない。
われわれの同志は大衆と結ばつかなければならず、本当に大衆の感情がわからなければならず、大衆の思想感情を、 深くわれわれの頭に入れなければならない。大衆の感情が深くわれわれの頭に入っていないと、動揺しやすい。深く入っておれば、活動上、問題が生じても、対応策はある。
過去におけるわれわれの戦争も、つねに困難な問題にぶつかった。真夜中の一二時になっても、まだ対応策がたたなくても、一眠りして翌日になると、対応策がうまれてきた。 困難なこと、容易でないことは、しょっちゅうある。孫文は四○年の経験を積んだと言っがた、われわれは数十年の経験を積んでみて、およそ困難な問題にぶつかった時は、大衆と相談したり、一眠りしたり、会議を開いたりすれば、 問題を解決し得ることを深く理解するにいたった。
現在は、問題はなく、困難はないのだろうか? 一時的な暗黒さにびっくりしてはならない。われわれには、常に二つの要因がある。一つは明るさ、他の一つは暗さである。現在、河北の北部は、早ばつで、雨が降らないのに、河北の同志に、心配するな、などと言えるか? 彼らは昨年、四○億斤の生産をあげ、今年は八〇億斤の生産をあげるつもりだ。
たとえ、早ばつがあっても、五○億斤、六〇億斤の生産 をあげようとしている。国内情勢は非常にすばらしい。暗さはあっても、恐れることはない。明るさと暗さという二つの側面があるのだ。誤りを犯した同志たちも、昨年の六月になると、事態を理解するようになった。
まだ非常に多くの「形勢観望派」、「秋のとり入れ後が勝負だという一派」がいるが、これも恐れることはない。もっともっと道理を説き、十分に彼らを説得し、国際的・国内的な諸情勢を列挙して、教育をおこなわなければならない。
(三)四害「はえ、か、ねずみ、すずめ〕を除こう
四害の駆除について話そう。四害の駆除はよいことだろうか? 私は非常に興味を持っている。『参考消息』によれば、インド人も興味を持っており、四害を駆除したいと考えているようだ。彼らには猿の害というのがあり、非常に大量の穀物が食われてしまうのだが、誰も思い切って駆除しようとせず、猿は神だと言っている。
われわれは「幹部がすべてを決定する」とか「技術がすべてを決定する」というスローガンは提起しないし、「ソビエト+電化が共産主義だ」というスローガンも提起しない。われわれがこのスローガンを提起しないのは、電化しないということだろうか?
[我々も] 同じように電化する。しかもより一層はげしく電化する。〔ただ]前の二つのスローガンは、スターリンの言い方であり、一面性がある。「技術がすべてを決定する」――政治はどうなるのだ? 「幹部がすべてを決定する」―――大衆はどうなるのだ? ここには、弁証法が欠けている。
スターリンは弁証法について理解している時もあったが、理解していない時もあった。この点については、私はモスクワ会議の席上で述べたことがある。
われわれのスローガンは、より多く、より速く、より立派に、よりいっそう無駄なくというものだ。われわれのスローガンの方が多少優れていると私は考える。多少、優れていて当然だ。教師が学生に教えるのだから、学生は教師よりえらくなるべきだ。青は藍より出でて、藍より青しだ。あとからきたものが、上位につくのだ。私の考えでは、われわれ〔中国〕の共産主義は[ソ連よりも] テンポを速めて到来するだろう。
仕事をするには、緊張もなければならないし、休養・整備もなければならず、いつも緊張していては、うまくいかぬ。緊張も必要だし、緊張をゆるめるのも必要だ。疲れすぎると、うまくいかぬ。河南〔省]で、赤くもあり、専門的でもある学校[原文は「又紅又専的学校」、人民公社につくられた〕の経営に大いに力をいれているのは大変すばらしいことだ。
しかし、みんな疲れすぎており、授業中にいねむりをする者もいる。教師もつかれているが、いねむりするわけにもいかず、無理して頑張っている。疲れすぎてはいけない。どうしても、何日か休息する必要がある。われわれは緊張することも、緊張をゆるめることも必要であり、民主も集中も必要である。どんなところでも同じだ。
「形勢観望派」、「秋のとり入れ後が勝負だという一派」とは闘争しなければならない。しかし、その目的は団結しようとするにあり、革命をやらせないというのではない。阿Qをもっとも悲観させたことは、彼が、革命をやるのを許さないことだった。他人があやまちを改めるのを助けず、批判ばかりしているのはよくない。
一つには、闘い、二つには、助けるということであり、好意がなければならない。好意がなく、了見がわるいのは、よくない。それは人をやっつけて、自分がそれにとって代わろうとすることでしかない。一人でも多くなった方がよいのか、それとも一人でも少なくなった方がよいのか? 人は少しでも多い方がよく、すべての積極的な要因を動員しなければならない。
弁証法は中国で発展をとげるべきだ。われわれは他国のことは、かまいたくない。中国のことはわれわれがやるのだ。われわれのこのやり方はかなり弁証法に合致しており、かなりレーニンに合致しているが、スターリンには合致していない。スターリンは、社会主義社会の生産関係は完全に生産力の発展に照応していると言って、矛盾を認めなかった。
彼は、死ぬ前に、一文を書いて、自己を否定し、次のようにいった――すなわち、完全に照応するということは矛盾がないということではない。処理がまずければやはり敵対的な矛盾に発展することもありうると言った。スターリンには弁証法がなかったとは言えず、何割かはあった。妄信があったし、一面性があった。
しかし、彼なりのやり方で社会主義を建設し、敵をうち負かし、五千万トンの粗鋼を生産しており、今年は五千五百万トンに達するかもしれない。[人工]衛星も三つ、打ちあげた。それは一つのやり方だ。われわれは、別の方法を見つけ出せないだろうか?
どちらも社会主義をやるのだし、どちらも、マルクス・レーニン主義なのだ。たとえば、階級闘争でも、 われわれはレーニンのやり方を採用しており、スターリンのやり方は採用しない。スターリンは、『[ソ連における] 社会主義の経済的諸問題』のなかで、革命後の改革は、上からの平和的改革だと言っている。スターリンは下からの階級闘争はやらず、東ヨーロッパ、北朝鮮に対しては、平和的な土地改革をやらせ、地主と闘わず、右派に反対せず、 ただ上から、資本家に対して闘争しただけだ。
われわれは上からやったが、また、それにつけ加えて、下からの根をおろし、つながりをつける闘争、階級闘争もやった。われわれは「五反」運動をつうじて、ブルジョアジーと闘争した。現在は、建設をやっているが、われわれは大衆運動でやっている。上からも少しは必要である。たとえば、政府の指示・命令・規則・制度などがそれである。
しかし、大いに、大衆自身にやらせ、恵んでやるという観点や平和的土地改革には反対することが必要である。東ヨーロッパと朝鮮のやり方を、われわれは恵んでやる観点と呼ぶ。平和的に土地改革をやり、階級闘争を行わず、地主と闘わず、資本家と闘わず、路線が正しくないのは、無限の害毒を残すものだ。
なぜ、われわれは、ソ連よりも、建設速度がずっと速いのか?それはわれわれの条件が違うからだ。すなわち、六億の人民があり、ソ連の歩いた道があり、ソ連の技術援助があったからだ。ソ連よりも、いくらか発展が速いのはあたりまえだ。われわれは十月革命の伝統、レーニンの大衆路線を発揚させ、大衆に依拠し、農村では貧農に依拠するのである。しかし、彼〔スターリン?」にはこういうことばはない。
昨日、ある同志が、ある人についていけば間違うはずがないと言った。このある人とは、私を指している。このことばは、ちょっと修正しなければならない。すなわち、ついてもいくが、またついてもいかないというようにしなければならない。
一人の人には正しいこともあるが、正しくないこともあり、正しければついていき、正しくなければついていかないことであり、ぼんやりと、わけもわからずについていってはいけない。われわれはマルクスについていき、レーニンについていき、ある一部の事がらについてはスターリンについていく。
誰の手中にあれ、真理がある人についていく。たとえ汚穢屋でも、まちの掃除夫でも、その人に真理がありさえすればわれわれはついていくのである。われわれの合作化は、貧農・下層中農についていったのであり、多く、速く、立派に、無駄なく〔の方針] は、大衆の間に、多く、速く、立派に、無駄なく〔の動き」が現われたからである。
工場、農村、商店、学校、軍隊では・・・・・・、先進的なものをみつけ、どちらがよいか、どこに真理があるかをみつけて、それについていくことである。 ある個人についていってはならない。ぼんやり、わけもわからずに、ある個人についていくのは非常に危険だから、 独り立ちで物を考えなければならない。
わが同志たちは、一〇本の指の問題をしばしば、はっきりさせておらず、一たび事が起ると、一〇本の指のことを忘れてしまう。勤労人民内部の矛盾、勤労人民が誤りを犯す問題は、総じて九本の指と一本の指との問題である。
わが同志たちが誤りを犯す問題もこれと同じである。私は、ここでは×××については述べなかった。×××、×××の諸同志の発言は大変すばらしい。安徽[省代表]の発言は、なぜ××× [元安徽省委員会書記局書記李世農か?〕 〔の問題〕をとりあげなかったのか? 浙江 [省代表〕は、×××〔元浙江省委員会常務委員沙文漢か?」についての話が少なかった。宝物を献納して、みんなに見聞させねばならないのに、なぜ❲こうした問題]をとりあげないのか?
彼らのようなこうした人びとの問題は九本の指と一本の指との問題ではない。×××は十本とも黒い指だ。×××は九本までが黒い指で、一本がきれいなだけだ。今、とりあげているのは、はげしい風波のなかで動揺した人びとのことであり、これらの同志の問題は九本の指と一本の指の〔関係の]問題である。
今はさらに問題がはっきりわかるようになった。彼らと、これらの人びととは同じではない。これらの人びととはすべて団結しなければならず、これらの幹部は保護しなければならない。断固として各級の積極分子を保護しなければならない。
誤りはあっても、彼らは積極的なのだ。彼らは、大鳴大放を恐れ、ひっこみがつかなくなることを恐れている。 断固として保護すれば、あとのかたはつくのだ。彼らの誤りは十分の一にすぎず、整風のなかでは、断固としてこれらの幹部を保護しなければならない。青島会議の文書には、幹部を保護する問題がとりあげられており、以前にもとりあげたことがある。
動労人民内部の矛盾は一般には九本の指と一本の指との関係だが、個々の例外はある。ブルジ 『アジーの中間派のうちでも、その中間分子は五本の指と五本の指の問題である(五本の指が資本主義で、他の五本の指が社会主義である)。中間派のうちの左寄りの連中は、六本の指と四本の指の関係であり、中間派のうちの右寄りの連中は六本から七本の指が黒い。
ブルジョアジーの知識分子の脳味噌は、ちょっと洗っただけではきれいにならず、何度かくりかえして洗う必要がある。ブルジョアジーはこれからも「風波つまり反抗、抵抗を〕くりかえすだろう。大きいのはないだろうが、小さいのはあるかも知れない・・・・・・。[要するに] ブルジョアジーはやはり風波を起すだろう。
一二級の台風の前では、われわれの一部の同志はやはり動揺するだろう。昨年一年間の経験があり、全党が鍛えられるという経験をふんだので、風波は起るにまかせて、静かに釣船に坐っていることができよう。昨年は、あんなに大きな風が吹いたのに、われわれの船はひっくりかえらなかった。
「それはなぜだ?」という社説〔反右派闘争開始の合図となった、一九五七年六月八日付『人民日報』社説〕は少し早く書きすぎたという人がいるが、早すぎはしない。かさねて書かなければ、一部の左派は腐って駄目になってしまうだろう。
実際に、昨年一二月以降も、なお、小学校の教員のうちから、十数万人の右派がみつかっており、それは全国三〇万人の右派の三分の一を占めている。彼らはなおも気が狂ったかのように攻撃をかけてくる。章〔伯鈞〕・羅[隆基〕が右派に区分されたので、もう攻撃しては来ないとでも言うのかね? 彼らは以前とかわらず攻撃してきている。温度が適度になり、三七度から三八度に達しさえすれば、それらはまた元通り大胆にやられるようになるだろう。
九本の指と一本の指との関係を忘れてはいけない。一九五六年の冒進反対は、この問題を忘れ、本質から問題をみようとしなかったのだ。その中から教訓をくみとらねばならない。
(四)最終的な災難に備えよう
ここで、暗さ〔の問題〕をとりあげてみよう。大きな災難には備えねばならない。赤地千里とは、大旱ばつ、大水害のことにほかならない。さらに、大きな戦いに備えなければならない。戦争気違いが原爆をふりまわしたらどうするか? ふりまわすなら、ふりまわしたらよい! 戦争挑発者が一日でも存在している以上、その可能性はある。
さらに、党がやることがまずく、分裂しそうになるのにも備えねばならない。われわれがやることがうまくいけば、分裂することはあるまい。これは、ある種の情況下では、分裂することはあり得ないとはいえない、ということを意味しているのだ。ソ連でさえ、やはり分裂したではないか。・・・・・・・・・
戦争と平和〔の問題〕では、平和の可能性の方が、戦争の可能性より大きい。現在では、平和をかちとる可能性は、 以前より大きく、社会主義陣営の力は以前より大きく、平和の可能性は第二次世界大戦の時より大きい。ソ連は強大であり、民族独立運動はわれわれの強大な同盟軍である。
西側諸国は安定しておらず、労働者階級は戦争を望まず、 ブルジョアジーの一部も戦争を望まず、アメリカ人民も戦争を望まないから、平和の可能性が戦争の可能性より大きい。しかし、戦争の可能性はあり、気違いが現れるのに、つまり帝国主義が経済危機からぬけ出そうとして「戦争に訴える〕のに備えねばならない。
現在は原爆戦争をやるから、期間はきっと短縮し、四年はいらず、三年も戦えばすむだろう。準備はしなければならないが、本当に戦いが起ったら、どうするか? この問題について話してみよう。
戦わねばならぬのなら、戦って、帝国主義を一掃したうえ、再び建設するまでであり、それからのちは二度と世界大戦は起らないだろう。世界大戦が起る可能性があるからにはそれに備えねばならず、眠ってはならない。戦いが起っても、びくびくしていてはならず、戦いが起れば、どうせ死人は出るのだ。戦争で死人が出るのをわれわれはこの目でみてきた。
人口が半分消滅した例は、中国の歴史には何度もあった。漢の武帝の時は、人口五千万だったが、三国、 両晋、南北朝になると千万人あまりしか残っていなかった。一回の戦争が数十年もつづき、とぎれながら数百年も続いた。三国、両晋、南北朝、宋、斉、梁、陳とつづき、唐の時代になると、人口は、はじめは二千万だったが、その後の、唐の玄宗の時代になると、また五千万に達した。
安禄山が反乱を起し、五代十国と分裂して、一、二百年は戦乱がつづき、宋に至ってようやく統一されたが、またも千万そこそこしか残っていなかった。この道理について、私は×××[ネール?」と話しあったことがある。私は近代兵器は関雲長[『三国演義』に登場する関羽〕の青竜刀のすごさにはかなわないといったが、彼は信じなかった。
二度の世界大戦の死者は決して多いとはいえない。第一次[大戦」では千万人死に、第二次では二千万人死んだが、われわれのところでは一度に四千万も死ぬのだ。みたまえ、 青竜刀の破壊力がどんなに大きいかを! 原子戦争はいまはまだ経験がないので、どのくらい死ぬのかわからないが、もっともよくて、半分は残り、その次によくて三分の一が残るだろう。
二九億の人口のうち九億の人口が残ることになる。いくつかの五ヵ年計画で発展しはじめ、資本主義がすっかり消滅するのとひきかえに、永遠の平和をかちとることになれば、これも悪いことではない。
もしも党が分裂すれば、ひとしきり騒動が起きるだろう。もし大局を顧みないものがいれば、たとえば、×××や高崗のように大局を顧みないならば、党が分裂し、アンバランスが出現するだろう。最終的にはつやはりバランスがとれるだろうけれども。アンバランスが反対物に転ずるとバランスになる。中央委員はもっと大局を顧みなければならない。大局を顧みない者は誰でも、みな、つまずいてひっくりかえるだろう。・・・・・・
一体大局を顧みず、分裂を起こしたものに、どんなよい結果があるだろう? 張国素が分裂を起こして、どんな利益があったのか? 分裂は起こすべきではなく、分裂を起こすのは、正しくない。ただ、第二インターナショナルの時代に、ドイツ社会民主党が帝国主義戦争に〔信任]票を投じたので、レーニンがとうとう彼らと手を分かった〔ときの]ような、そういう種類の分裂だけはやってもかまわない。われわれは合法的な闘争をやり、多数をかちとらねばならず、分裂をおこし、大局を顧みないのはいけない。
われわれは六億人民の力を動員しなければならず、右派とも一緒に仕事をし、彼らを分化させ、右派一〇人中、七人は十分に改造させねばならない。八年か、一〇年かけて、十分改造すれば、きっとわれわれの側に立つだろう。右派の帽子をぬいでやっても、再度、右派〔的活動〕をやるなら、もういちど、〔右派の帽子をかぶせるまでだ。
第三回目の講話 (一九五八年五月二〇日)
一再び妄信をとり除くことについて。
第一機械[工業]部は、一つの資料を発行した。四一人の発明家の小伝をあつめたものである。そのうち、社会的地位のある技師は七人だけで、そのほかはすべて貧しい労働者の出身か、農民の出身である。ワットは労働者である。
この資料は一八世紀[以降の発明家の中〕から蒐集したものであり、百年あまりの間をあつかったものである。いつから蒐集したものであろうと、これは妄信打破にとって、大変に有益であり、われわれにとって大変助けになり、われわれが妄信を打破し、劣等感をうちくだくのを、助けてくれる。農林水産業、政治・法律、文化教育、衛生の各部門でも、みな、この方面の資料をあつめるとよい。
二再び、普通の勤労者の姿勢・態度でたちふるまう問題について。
この問題は非常に重要だ。これが重要なのは、一部の人びとがわれこそは天下第一だと考え、人を見下し、平等に人をあつかうのでなく、古い資格にたよって飯を食い、とりわけ大官になった連中は、大官ぶることによって飯を食い、普通の勤労者の姿勢・態度でたちふるまわないからである。
この問題をもち出すのは、大多数の人びとにたよって、こうした問題を解決することによって、ものごとの処理をやりやすくしたいがためである。過去においては、非常に多くの官僚主義者は、普通の勤労者の姿勢・態度でたちふるまわなかった。「お前は、おれの管下にあるのだ」 といって、これを飯の種にし、創造性の発展を妨げてきた。
こうしたことを一掃し、大部分の人びとの間から役人気風をとり除くには、誰に真理があるかだけをみて、真理のある人に従い、その人がおわい屋であろうと、炭坑夫であろうと、街の掃除夫であろうと、貧しい農民であろうと、真理がその手中にある人に従うことである。その役人が、 もっと重要な地位にあったとしても、真理がその手にないならば、その人に従ういわれはない。
多数の人びとが役人気風をとり除けば、残った少数のものは孤立してしまい、変なまねは、やりたくてもやれなくなる。役人気風は、1つの低級な趣味であり、高級な趣味ではなく、共産主義の精神ではないというべきだ。逆に、普通の勤労者の姿勢。 態度でたもふるまうことこそ、高級な趣味である。
このようにしていけば、われわれが防止しようとしている大国ショーヴィニズムが防止できる。もし、全党の大多数の幹部、とりわけ指導的な幹部が、謙虚(科学的謙虚)であれば、それは防止できるし、現われてもこわくない。
三しろうと[素人] がくろうと[玄人]を指導するのが、一般的な規則であり、しろうとだけが、くろうとを指導できるのだと、大体において言えるだろう。昨年、右派がこの問題を持ち出して、天地もひっくりかえるほどの大騒ぎを起こし、しろうとはくろうとを指導できないと言った。
しろうとだけが、くろうとを指導できると、こんなふうにいえるかどうか。この問題では、われわれは受身の立場にたたされており、過去においては、新聞が、この問題で、右派に対して系統だった批判をしなかったし、すっきりとは説明しなかった。しろうとがくろうとを指導するのが一般的な規則だと、なぜ言うのか?
それは、各人がみなそれぞれくろうとであり、またしろうとであるからだ。世界には一万のさまざまな業種があり、一万の科学技術部門があるとしても、各人はその一つにしか精通していない。たとえば、梅蘭芳は芝居を演ずるが、青衣〔中国の京劇で良家の娘や貞節な婦人などに扮する役〕を演じることができるだけだ。
役者には青衣、花旦 〔おてんば娘など若い女性に扮する役者〕、武旦〔女武者に扮する役者〕、老旦〔老年の婦人に扮する役者〕、醜旦〔女性に扮する道化役」の五役がある。五役のうち、梅蘭芳は一役しかやれず、老旦を演じてもうまくない。かれは老旦の演技では李多奎にはかなわない。
この外にも、なお、ほかの役があり、老生〔宰相・忠臣・学者などの立役に扮する役者]とか、小生 [二枚目にあたる若い男に扮する役者〕とか等々・・・・・・一万の各業種各部門のうち、各人はそれぞれ、その一つに通じているだけだ。だから、各人はみなくろうとだといえるし、各人はみなくろうとになれるのである。
しかし、各人はみなしろうとでもあり、九九九九の業種や部門に対してはしろうとなのだ。一人が二つか三つの職業あるいは四つか五つの業種・部門に精通するとしたら、それは大変すごいことだ。薛仁貴〔唐、竜門の人、貞観中、遼東を征し、顕慶中、しばしば高麗・契丹を破り、突厥を天山に撃つ。乾封の初、本衛大将軍を授けられる]と同じように、武芸一八般をすべて全うしたと言っても、一万〔の業種・部門〕からみれば、まだ九九八二の業種・部門ではしろうとなのだ。
業種・部門が違えば、山を隔てたようなものである。自分の専門は少なく、専門外が多いのである。だから、各人はみなしろうとなのではあるまいか? 指導の仕事をやるには、自分の専門のほかに、その他の業種・部門についてもいくらかは知っており、ちょっとは触れてみ、いくつかの部門はほぼ習熟しておくべきだ。
若干の常識をもつことが必要であり、たとえば党の仕事をやる者は、工業や農業のことを詳しく知っておく必要がある。しかし、それ以上多くの部門のことを熟知することは不可能である。私は飛行機には乗れるだけで、操縦はできない。中学には、いくつかの部門の科学を教える科目があり、大学ではもっと多い。多くのことは、本職外の仕事が転化したものだ。
たとえば孫文は、はじめは人に見さげられており、ちっぽけな医者だった。二〇歳から革命をやるようになったが、それは非合法なものであった。はじめ医者になったが、それはかれにとって専門のことだった。政治をやるのは副業だった。その後、[専心] 革命をやるようになり、政治が正業に転化し、医者を専門にはしなくなった。医者は副業となり、それどころか、まったくやらなくなって、しろうと [専門外のこと]に変ってしまった。しかし、その時でも彼は医者をやることはできた。
政治家とは、人と人との相互関係をあつかうものであり、大衆路線を実行すべき] ものである。この問題については、われわれは十分に研究してみる必要がある。なぜなら、多くの技師や科学者がわれわれを見くだしており、われわれのうちの一部のものも自らを見くびって、しろうとがくろうとを指導するのはとでもむつかしいと言い張っているからである。
少しばかり道理を説いて、これに反論する必要がある。私は、しろうとがくろうとを指導するのが一般的な法則だと考えている。たとえば梅蘭芳を大統領にさせようとしても駄目だ。彼は芝居がやれるだけなのだ。
四赤旗をたてて、風向きを見わけること。赤旗とはわれわれの五星紅旗のことである。どんな旗をたてるのか? 赤旗をたてるのか、それとも白旗をたてるのか? 世界中、どんなところでも旗をたてねばならず、南極から北極まですべて旅をたてねばならず、およそ人のいるところはすべて旗をたてねばならない。
赤旗でなければ、白旗か、もしくは灰色の旗もある。プロレタリアートの旗でなければ、ブルジョアジーの旗である。昨年五、六月の間には、機関、学校、工場では結局、どんな旗をたてただろうか? 双方がともに、旗を争奪していたのだ。
現在でもまだ少数の工場または工場の職場、合作社、学校、中隊、機関またはその中の一部がたちおくれており、そこではどんな旗がたてられているのか。それは白旗でなければ灰色の旗だ。われわれは、立ち遅れた地方に行って、大衆を立ち上がらせ、赤旗をたてなければならない。
卑俗な謙虚さとは赤旗をたてないことだ。赤旗をたてないのは、これは低級な趣味であり、ニセの謙虚さであり、 道教の道士が口をふさいで、笛や大鼓ではやしたてないようなもので、こういう謙虚さは批判すべきである。身を挺して進み出ようとせず、大胆に考え、大胆に物をいい、大胆に事を行おうとしないような、こうした活動ぶりを奨励するそうした一種の社会的世論がある。
これは『儒林外史』から学んできたものだ。旗をたてるためには、嗅覚を依感にして、風向きの見わけ方を会得し、どんな風が吹くのか見分ける方法を会得しなければならない。東風が西風を圧しなければ、西風が東風を圧するとは、蘇州の娘の林黛玉がいったせりふだ〔『紅楼夢』第八二回にみえる林黛玉のせりふ。「だいたいが家庭の中のことというのは『東風が西風を圧するか、西風が東風を圧するか、二つに一つ』ですからね」となっており、東風は本妻を、西風は妾を意味している〕。
世界の人びとはどうしても党派に別れるものであり、社会の人びとはどうしても左右と中間の三種類に別れ、ある一部のものは先進的な状態におかれ、他のある一部のものは中間的な状態または立ち遅れた状態におかれている。現在の任務は、先進分子が中間的な状態にある人々を獲得し、彼らを左の側に立つようにさせること、つまり、赤旗をたてさせるようにすることである。
右派の立てる白旗は、ブルジョアジーの旗だ。中間分子のたてる旗は灰色か白である。唐の劉知幾〔唐の史家、『史通』内外四九篇を著わす。嘗て言う「史に三長あり。才学識、世まれに之を兼ぬ」と〕は、歴史を書くには、才と学と誰が必要だと言っている。識とは知識を指すのではなく、風向きを見てとる力について言っているのである。
われわれは上手に風向きを識別するよう、識別力を身につけるよう、特に注意を払わねばならない。識別力は極度に重要である。 一部の人びとは、非常に才能があり、非常に学問があったとしても、風向きを識別するのは、非常ににぶいのである。
スターリンは予見性をもたねばならぬと言っている。予見性とは、風向きを見わけること、小さな風が吹いている時に、大風が吹こうとしていることがわかることを指している。見はり台に立ちながら、何もみつけることができないようではだめだ。予見性の欠如が、すでに、かなり普遍的に存在しているし、さらに、〔現に眼前にあるものをも] 見つけることができない、こういう状態は右派に乗ずる機会を与えるのであり、こちらが見つけなければ、右派はやってくるだろう。
赤旗をたてることを恐れてはならない。およそ赤旗をたてるべきところには、急いで、でかけて行ってたてることだ。どの山にも、どの村落にも、すべて、赤旗をたてねばならない。どの党委員会、機関、部隊、工場、合作社もすべて赤旗をたてるべきである。赤旗のないところには、どこでも赤旗をたてねばならない。
現在、多くの地方では、 どこでも、みな赤旗がたっているわけでは決してなく、ふぞろいに、いりまじっている。やっと赤旗をたてたばかりのところもあり、また、立ち遅れていて、赤くなっていないところもある。常に変化しており、これはやはり自然の状態である。旗が変わったら、常にとりかえねばならない。
紅白のお祝いごとについて。前回話した、対処可能な災難とは、主として戦争と党内分裂について言ったものである。災難には、大、中、小がある。私のいう大きな災難とは戦争と分裂である。
中国人民は結婚を赤いお祝いごとと言い、人が死ぬのを白いお祝いごとと言う。私はとても道理にかなっていると思う。中国人民は弁証法がよくわかっているのだ。結婚すると、子供を産むことができ、母親が分裂して子供が出現する。これは激変〔飛躍]であり、お祝いごとである。一人の人が分裂して、二人、三人が現われる。それどころか、 八人も一〇人も現われる。航空母艦と同じようだ。
新しい事物の発生、変化、死滅を、大衆はみなお祝い事という。人が死ぬと、追悼会を開いて、一方で激しく泣きながら、他方でお祝いごとだと考える。確かにお祝いごとなのだ。諸君、考えてもみたまえ。もし孔子さまが今なお生きていて、懐仁堂で会議を開いたとしたら、彼は二千余歳だ。はなはだ具合が悪い。
弁証法を問題にしながら、死に賛成しないのは、形而上学だ。災難が生ずるのは、社会現象であり、自然現象である。激変は、宇宙の、もっとも根本的な法則だ。生は激変であり、死もまた激変である。生から死への数十年は漸次的変化である。もし、蔣介石が死んだら、われわれはきっと、みなで手をたたくだろう。ダレスが死んでも、われわれには流す涙はない。これは旧社会の事物の死滅はよいことであり、みなが望んでいることだからである。
新しい事物の誕生はよいことであり、新しい事物の死滅は、もちろん、よいことではない。たとえば、一九〇五年のロシア革命の失敗、わが南方根拠地の喪失は、いま育ちはじめた植物の苗がひょうと大雨でだめになるのと同じであり、もちろん、よいことではなく、ここに、苗の補充の問題が生まれてくる。
われわれ共産党員は事物の変化を望むものであり、いわゆる躍進とは、過去とは異なって・・・・・・激変は量的変化に優っている。量的変化がなければ、激変は不可能である。量的変化がなくては駄目であり、量的変化を否定すれば、冒険主義にはしることになるだろう。
均衡が破れることが躍進なのであり、均衡が破れることは、均衡が保たれることよりまさっている。不均衡が大いに脳みそを傷つけることはよいことである。たとえば、第一機械工業部、冶金工業部、地質部などは、みな苦しい状態におかれているが、みんなからひどく攻めたてられるので、いずれも大いに発展しそうである。
これはよいことだ。均衡、量的変化、団結は一時的、相対的であり、不均衡、激変、不団結は絶対的であり、永続的である。多くの不団結が克服されて団結となる。団結の任務を提起するのは、団結していないからである。一人では団結していても、二人になると不団結が生じる。
わが党には千二百万人の党員がおり、様々な❲異なった〕出生の人びとがいるが、もし常に会議を開くようにすれば、団結するようになる。だから、毎年、毎年、団結を問題にするのは、毎年、毎年、不団結が生ずるからである。各人は、それぞれ考え方が異なっており、党員の水準も異なっているので、会議を開かなければならない。
常任代表制は正しく運営されるようになった。以前は、毎年一回代表大会を開く制度がなく、別の会議が開かれた。今でも毎年一回開くのはもっとものぞましい。会議を開かないと、考え方が異なってくる。会議が開かれると、比較的合理的な意見が採用され、 会議の席上、決議が行われ、報告が作製され発表されて、全国的一致が得られる。
これらの会議には、若干の地区委員会、県委員会の書記が参加するので、われわれの会議はより一層、よいものになる。彼らは、多くのすばらしい意見を出してくれる。
たんに毎年、団結を説かねばならないだけでなく、毎日、団結を説かねばならない。なぜなら、毎日、分裂が生じるからである。細胞は分裂し、新陳代謝する。古いものが死なないのは、子供の発育にとって不利なのだ。新陳代謝とは、陳という姓の者が去って、新という姓の者が現われることだ。
長江では、後からきた波が、前の波を前進させる。事物はすべて変化するものだ。今では百二種類の元素があるが、もともと、はじめはこんなに多くはなかった。 後になって変ってきたのであり、数億年もたてば・・・・・・百二種類ではなくなって、二百種類以上の元素となるかもしれない。事物は変化するものであり、その反対物に転化するのである。われわれ千二百万党員の中からは、どうしても
毎日、離党していく者がでる。どうしても毎日闘争がおこり、批判を受ける者が出る。湖北省で、兄と妹の二人が、 大字報をはり出した。兄は古い資格をもち、役人気風をもっていた。真理は妹の手にあり、結果的には、兄が負け、 妹が勝った。浙江で、父親と息子が、密植について論争した。息子は賛成し、父親は反対した。
結果的には、父親が負け、息子が勝った。これは一般的な規則だ。父親や兄たるものには、どうしても相当の危険はあるが、それでよいのだ。大したことではない。妹や息子に、負けたことを認めればよいのだ。普通の勤労者の姿勢・態度でたちふるまえば、危険はまぬがれるのだ。
世界大戦や党内分裂のような、起こるかも知れない大災難は防ぐことだ。わが党には四回分裂があった。一回目は陳独秀、二回目は羅章竜、三回目は張国燾、四回目は高崗〔がしでかした〕。別個の〔党]中央を立てようとしたが、 つぶれてしまった。
王明の、第三回目の極左路線は、合法的な形で現われたので、われわれは彼に対して、病を治して人を救い、批判を通じて団結に到達するという態度をとった。新しい分裂は起こるかもしれず、党が存在するかぎり、分裂が起こりうるのだ。百年後でもやはり起こるだろう。われわれのやり方は、団結――批判――団結であり、前のあやまちをこらしめて後のいましめとし、病を治して人を救うことである。
こういう話をすると、みんなは気持を悪くするかも知れないが、私はしゃべると、すっきりするのだ。妄信してはいけないのであり、みんなが思想的な備えをするようにと言っているのである。ユーゴスラビアは、分裂を起こしている最中ではないのか?
なおそのほかに、アメリカ[共産党]のフォスターがいる。かつて、陳独秀、羅章竜、張国燾、高崗が分裂をしでかしたし、最近では、李峰[元山東惠民専区委員会第一書記〕、沙文漢〔元浙江省委員会常務委員〕、李世農〔元安徽省委員会書記局書記〕、孫作賓〔元青海省委員会常務委員〕、陳再励〔元広西省委員会常務委員]……も分裂をしでかした。北京の政法系統はつぶれてしまったし、文芸系統もかなりつぶれた。これらのものがつぶれたって、何もこまることはあるまい。
世界には常に分裂が起こるし、新陳代謝が行われる! 細胞が死ぬのと同じように、毎年、分裂が起こるし、毎月、分裂が起こる。細胞が生まれるのと同じように、毎年、団結が生じ、毎月、団結が生じる、第一インターナショナル、第二インターナショナル、第三インターナショナル〔コミンテルン」もすべて発生、発展、消滅の過程があり、コミンフォルムもなくなった。現在は、モスクワ会議の形で、それにとって代われるのであり、一二ヵ国が互いに相談しあい、ソ連が会議の召集者となり、事があれば会議を開く。
対立物を設けるのには二種類ある。
一つは、社会にもともと存在しているものである。たとえば右派はもともと存在するものであり、自由に行動させるかどうかは政策の問題であり、われわれは自由にやらせようと決意し、大鳴大放させ、自由にやらせて対立物をつくらせ、勤労人民を立ち上らせて、彼らと論争させ、彼らに敵対させ、彼らをやっつけさせたのである。小学校の教員には非常に多くの右派がおり、三〇万の右派のうち一〇万を占めている。三〇万の右派という対立物が存在しており、かれらに自由にやらせて六億の人民を教育するのが、われわれにとって有利なのだ。
もう一つは、自然界には存在しないが、物質的条件はそなえているものだ。たとえば、ダムをつくることは、人為的な方法で対立物をつくることだ。水位を高くして、水を流し、水に落差をもたせれば、発電ができ、船も運行させることができる。工場をつくるのも対立物を設けることだ。
鞍山鉄鋼公司は日本人がつくったものだし、長春自動車工場は新しくつくったものだが、これらは人為的に設けた対立物だ。自然にないものでも、人為的につくることができる。但し、それには物質的な基礎がなければならぬ。人工衛星を天にあげるのは人間がやることだ。法則をみつければ、うちあげられるのだ。
われわれは楽観主義者であり、分裂を恐れない。分裂は自然な現象である。………陳独秀、羅章竜、張国燾、高崗の分裂は、われわれにとって助けともなった。二回の王明路線、内戦の時期の第三回目の極左路線はわが党を教育した。これらの多くの対立物は、みな役に立った。もちろん、人為的に陳独秀や高崗をつくり出す必要はない。一定の気候になれば、彼らは出てくるのである。何もこわいことはなく、彼らを克服するまでである。
楽観主義は、われわれの主導的な側面だが、心配もあるにはある。右派が現われた時、みんながあわてずにいられるだろうか? 私はいくらかあわてるだろう。あわてると、やり方を考えようとするし、指導の技術を問題にするようになる。指導がよければ、分裂は、悪いことから良いことに変わる。
草を刈るのと同じように、早くから予見しておれば、〔分裂を〕起こさないですむ。千二百万の党員中、二、三万人が、より一層高い自覚をもつようになれば、 こわいことはない。より一層高い自覚とは、予見できるということだ。何をこわがるのか? こわがるのは、やはり、 よくない。世界大戦は、起こさないよう努力するが、起こってもこわくはない。
前のあやまちをこらしめて後のいましめとし、 病を治して人を救い、誤りを犯した者に対しては、たとえば番×× [潘復生?〕のように、誤りを改めさせねばならぬ。現在、われわれは大いに団結しており、何も問題はなく、中央も地方も大変うまくいっている。反冒進の動きもいまはきれいにかたづいており、新たな土台の上で、新たな団結に達している。
少し誇張して言えば、われわれは楽観主義者であるが、みんなを自覚させ、準備をしておくことだ。 工[工業]、農〔農業〕、兵[軍事]、学〔学校〕、商〔商業〕、思〔思想〕のうち、黒竜江〔省]では、思想を第一位に置いており、これは、やはりよいことであり、虚をもって実をみちびき〔抽象的な思想的なもので具体的なものをみちびき」、政治をもって業務をみちびき、紅〔共産主義思想〕をもって専〔専門技術〕をみちびくこと、すなわち思、工、農、兵、学、商〔の順〕なのだ。
スターリンの次の二つのスローガンには弁証法が欠けている。すなわち、 (彼は)技術がすべてを決定するというが、政治はどうなのだ?〔彼はまた〕幹部がすべてを決定するというが、大衆はどうなのだ?
レーニンはすばらしいことを言っている。ソビエト+電化が共産主義なのだと。ソビエトとは政治のことであり、電化とは技術のことだ。政治と業務が結びつけば、共産主義が生まれるのだ。政治と業務は対立の統一であり、両者が結婚すれば、子供が生まれるのである。
第四回目の講話 (一九五八年五月二三日)
われわれの大会は成果をあげている。すべりだしもよく、まじめに仕事が進められ、われわれの総路線が制定された。世界のことがらは、まじめ第一である。まじめであれば、どんな困難があろうとも、局面は打開できる。わが国は、世界でもっとも人口が多く、国はもっとも大きい。
人民大衆は解放をかちとり、ブルジョア民主主義革命は勝利をかちとり、社会主義革命は基本的な勝利をかちとり、建設は大いに発展をとげている。こうしたことによって、われわれは、すでに、自己の前途を見てとることができるようになった。以前には、いったい、いつがきたら受身の状態、立ち遅れた状態から抜け出せるのか、まだはっきりしなかったし、わからなかった。
以前には、われわれは世界において、「いうほどの]地位をもたず、人にあなどられており、ダレスはわれわれを眼中においていなかった。これは、われわれの情況にふさわしくないものであった。そこにもやはり道理はあった。つまり、人口は多いとはいえ、
まだ力が現われていないからである。いつの日か、イギリス、アメリカに追いつけば、ダレスだって目につかないわけはなく、確かにこの国が存在することを認めるだろう。われわれとしては、この客は招かずにおき、向こうから訪ねてきた時には、しかたなしに招待してやるという方針である。
過去数年間は、いや一昨年でも、まだ総路線がはっきりわからなかったし、これに反対するものもいた。多く、速く、立派に、むだなくという方針に疑いを持つ人びとが少なくなかった。このような情況もやはり避けがたいことであり、客観的に存在するものである。こんなに多くの人間がいるのだから、多く、速く、立派に、むだなく社会主義を建設できるということについて、当時は、なお疑いをいだくもの、反対するものが少なくなく、見透せるものもいたが、見透せないものもいた。
見透せなくても、いろいろ、于余曲折を経れば、見透せるようになる。時間がたてば、見透せる人が多くなる。道はどうしても曲りくねっているものであり、今後もやはり曲折はあるだろう。大会は、多く、速く、立派に、むだなく、大いに頑張り、高い目標をめざして努力するという総路線を制定したが、なお、客観的実践をつうじて、これを証明しなければならない。 これまでに、その一部はすでに証明されている。過去三年間は、鞍形をしており、両はじは高く、まん中が低かった。
すなわち一昨年は高く、昨年は低く、今年はまた高くなっている。この変化があったので、今回の会議はちょうど時機がよかったのである。今回の大会は人民の気持、要求、張り切りようを反映している。多く、速く、立派に、むだなく社会主義を建設する 〔という方針]も、その反映であるというべきである。昨年九月の三中全会が、この点をはじめて反映したのであり、一昨年十一月の二中全会ではそれが十分には反映せず、それが優位を占めることができなかったのである。
一九五六年冬に、思いもよらない二つの事件が起った。すなわち、国際的には、スターリン批判が起り、ポーランド・ハンガリー事件がおこり、世界に反ソ反共の高まりが現われ、これが全世界に影響を及ぼし、わが党にも影響を及ぼしたことである。国内でも、思いもよらない冒進反対の動きが起った。
この二つの事件は思いもよらないことであった。成都会議で出席した同志に、話したことだが、将来もなお曲折が生ずる可能性があり、各省委員会は研究して、あらかじめ予想しておくようにしてもらいたいと注意した。前回は、大会で、戦争がおこる可能性があり、分裂がおこる可能性があるが、予想しておけば、大したことはないと話しておいた。
みんなが、研究しなければならず、各省も、戦争や分裂がおこる可能性について、やはり研究しなければならない。予想がついていれば、こわくないからである。いま戦争がおこるというのでは決してないが、おこる可能性があるのであり、世界には気違いがいるから、モスクワ会議では、気違いに備えねばならないと話しておいた。
〔モスクワ〕宣言は、戦争を起こせば自分の身を滅ぼすといっているが、この見解はわれわれのものだ。騒動が起こるだろうが、正しくない勢力はどうしても批判されねばならない。正しい勢力は必ず勝利するだろう。しかし、予想はつけておかねばならず、党内でもあれほど多くの省・市委員会、自治区のうち、半分以上が問題を起こしたことは考えてみなければならぬことだ。
しかし、省・市委員会はくつがえされたことはなく、騒ぎはすべて克服されてしまった。たとえば×××、xxx XXX ×××、××など、とても多い。地区委員会、県委員会、支部はみな、多かれ少なかれ、問題を起こしたことがある。 これは階級闘争の正常な現象だ。一部には、よい人間が犯した誤りもあり、たとえば、多く、速く、立派に、むだなく〔の方針」を理解していないために犯した誤りがそれであり、また一部には党内にまぎれこんできた悪質分子が犯した誤りもある。
×××はよい人間だが誤りを犯した。丁玲は党内に隠れひそんでいた悪質分子で、早くから党にそむいていた。
どんな人間についてゆくのかという問題。まず第一にはどんな人についてゆくのか? まず第一に、人民にまなび、人民についてゆくことである。人民の内部では、こんなにも多くの人が頑張っており、多く、速く、立派に、むだなく働いて、多くの発明・創造を行っており、第一類の合作社〔先進的な合作社〕では、一ムー当たり千斤も二千斤も生産している。
工業の面でも、ノルマを突破し、発明・創造を行っている。要するに、工業、農業、商業、文化教育、 軍事の各方面でも、思想・理論の各方面でも、人民を代表するさまざまな人材がいる。大会では、あんなに多くの経験が語られた。私が話をしようとしても、話すことがなく、諸君の話の方が、私の話よりもずっとすばらしく、人民の要求、思想、感情を正しく反映していた。
これらの正しい反映にもとづいて、たとえば、今大会の決議や報告のように、比較的完備した体系をつくりあげることである。以前には、このようなことはなかった。この八年、とりわけ第一次五ヵ年計画、一九五六年の大発展を経てのちに、一つの大波動がやってきた。一九五七年は鞍の低部にあたる。
一九五七年の三中全会のはげましが、全党、全国人民に比較的明確な方向を示した。全党の努力を通じて、最近の半年間、つまり昨年の冬から今年の春にかけて大躍進があり、また、杭州会議、南寧会議、成都会議を経て、今度の大会が準備され、総括と決議が作成された。また、六〇ヵ条〔工作方法六○ヵ条(草案)〕がつくられた。まだできあがっておらず、なお、書きかえねばならないが、大体の考えはうち出されているので、数ヵ月のうちに、もう一度、書き改めてみる。
これこそ、まずわれわれが人民について歩み、その後で、人民がわれわれのあとについて歩む〔実例〕である。まずはじめに理論が実践からうまれ、しかる後に、理論が実践を指導するのである。理論と実践の統一がマルクス主義だ。はじめはマルクス主義なんかなかったのだ。
なぜなら、階級闘争の実践があって、それが人民の頭脳に反映し、まず最初に先覚者マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの頭脳に反映し、客観的な法則が主観の世界に反映して、はじめて理論的な総括がうまれたのであり、これが彼らによって理論へと発展させられ、われわれの手本となったのである。政治的に誤りを犯さないようにしようとするには、理論に実践を指導させねばならない。
しかし、理論はまた実践をつうじて、ひき出されなければならない。客観的実践を離れて、理論的な体系をつくり出すことはできず、門を閉じたままで、なにか実際的なものをつくり出すことは不可能である。大会における総路線の制定は、ある一部の個人が突然考えだしたものではあり得ない。
地位がどんなに高かろうと、官職がどんなに重要なものであろうと、また、どれほど有名なひとであろうと、もしみずから進んで下部におりて人民と結びつくように注意せず、また、人民と結びつきのある幹部、 ゆる幹部、人民の間の積極分子と接触するように注意せず、ただの半年間でも、 人民と接触したり、結びついたりしなければ、何もわかるはずがなく、[知識は〕乏しくなってしまうだろう。
だから、毎年四ヵ月間は下部におりるよう規定することは大いに必要なことである。下部におりて、人民と結びつき、人民と結びつきのある幹部、および人民の間の積極分子と接触し、彼らがどんなことを考えているのか、どんなことをやっているのか、どんな苦難をなめつつあるのかを理解し、総括して上部にあげることである。
「十分に頑張りを鼓舞し、高い目標をめざす」というスローガンは大変すぐれており、人民の頑張りを反映している。頑張り[原文・幹勁」については、「十分に鼓舞する〔原文・鼓足]」という二字を使うのが比較的よく、「鼓舞する」〔原文・鼓起]よりもよい。
真理にも量の問題がある。なぜなら、頑張るからにはとっくに鼓舞されているのであり、問題は十分に鼓舞されているかどうかということである。少なくとも六、七分鼓舞されていることが必要で、 八、九分鼓舞されていることがもっとも望ましく、十分に鼓舞されていて、はじめて、十分といえるのである。
だから「十分に鼓舞する」という二字を使うのは比較的よく、頑張ることにもちがいがある。「十分に頑張りを鼓舞する」 ということばは新しいことばだ。「高い目標をめざす」という言葉は以前からあり、新しいことばではない。………………………
「十分に頑張りを鼓舞し、高い目標をめざし、多く、速く、立派に、むだなく」ということは、外国人からみるとよくわからず、意味が通じないようだ。主語がないからだ。もともとは「すべての積極的な要因を動員して」ということばを加えて、主語にしようと考えていたが、今はなくてもよいと考えている。
六億の人民こそが主語であり、六億の人口中の圧倒的多数の人びとの頑張り〔こそが主語〕である。章伯钧、羅隆基、章乃器、××などこれらの人びとの頑張りは大したことはないだろう。
赤旗をたてて、風向きを見わけること。諸君がたてなければ、他の人がたてるだろう。どんな大きい山でも小さい山でも、どの一ムーの田畑でも、旗のないところを見つけたら、でかけて行ってたてるようにし、白旗を見つけたら抜くことだ。灰色のも抜かねばならない。灰色の旗はいけない。だから、とりさらねばならない。黄色い旅もいけない。黄色労働組合[妥協主義的な労働組合〕は白旗に等しい。どんな大きい山にも、小さい山にも、討論を通じて、 赤旗をたてねばならない。
前回、話した風向きとは、方向ではない。風向きとは東風か、それとも西風かということである。たとえば「冒進」反対〔の風]は、一九五六年六月から、吹きはじめたが、あの時には、すでに十大関係「毛沢東は一九五六年四月、「十大関係論」と題する講話を行っている〕が提起されており、多く、速く、立派に、むだなく「社会主義建設をやろうとしており」、さらに、「社会主義建設の〕促進会があった。
四月の、政治局拡大会議には省・市委員会書記も参加したが、その時は、明確な決議はなく、できたのは紳士協定にすぎなかったが、みんなが賛成した。今回の大会のような明確な決議や報告はなかった。一九五六年一一月の〔八期〕二中全会でも明確な決議はなされず、ただ重点はあらゆる手段を講じて増産節約をはかることにある、という新聞報道が行われた。
例の一陣の風〔反冒進の風] はおしとどめることはできなかったが、これは、悪いことをよいことに転じさせたのであり、われわれは比べることができるものができたわけであり、南寧〔会議〕でも、成都〔会議〕でも、ともに話題になった。今回の大会で、同志諸君は非常に多くのすばらしい発言を行った。・・・・・・チトーは人の気をくさらすことを専門にしており、その面で頑張っている。
モスクワ宣言はわれわれの側の頑張り〔の結果〕である。ユーゴスラビアの綱領は、プロレタリアートの志気を奪い、敵の威風を増長させるものである。
今後は、風向きを見わけるよう、注意を払おう。大風が吹き、一二級の台風で、家も倒され、人も倒されるようなら、その風向きは見わけやすいが、小さな風は見わけにくい。宋玉〔楚の文学者〕の書いた『風賦』「風を、大王の風と庶民の風の二種に分け、当時の社会に存在する不平等をついた賦。生き生きとした風刺にみちている〕は、読む価値がある。
かれは、風には二種類あり、その一つは貴族の風であり、他のもう一つは貧民の風である(いわゆる 「大王の風」と「庶民の風」)と言っている。風には、小さな風、中くらいの風、大きな風がある。宋玉は、「風は地に生じ、あおうきくさ〔青萍〕の葉末に起こるも、渓谷を侵しなぶり、大きな洞くつの入口であれくるう」「『風賦』の一節」と言っている。こんなときは、「その風向きは〕一番見わけにくい。




