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コミンテルン解散問題についての報告 (一九四三年五月二十六日)

<解題> 原題は「關於共産国際解散問題毛沢東同志詳尽報告」、『解放日報』一九四三年五月二十八日掲載。竹内実監修『毛沢東集』(北望社刊)第九巻所収。


コミンテルンは第二次世界大戦中の一九四三年五月十五日、解散を決定した。コミンテルンと中国革命ないし中国共産党との関係は、長くかつ深いものがあったが、コミンテルンの中国革命にたいする指導、関与はかならずしも成果にみちたものではなかった。毛沢東はここでは肯定的な評価をおこなっているが、実質的に スターリンおよびソ連共産党の意を体するようになったコミンテルンは、二七年四月の蒋介石の反革命クーデターに適切に対処する指導をおこなわずに、中国革命に大きな損失をもたらしたのをはじめ、農村に根拠地を形成して都市を包囲していく毛沢東の革命戦略にたいしても、それをむしろ阻害する関係しもたなかった。また、抗日のための第二次国共合作にたいする基本政策にしても、毛沢東の「逼蒋抗日」にたいして、コミンテルンの意向を反映する王明は「連蒋抗日」の右翼路線を主張したのであった。こうした観点から見れば、ここで毛沢東が各国共産党の自立化を主張し、各国のことはその国の党が責任をもつ、とのべていることが注目される。六〇年代に、ソ連の権威を否定し、ソ連との論争、対決に踏みきった中国の基本的な姿勢をここに見ることができる。なお、中国共産党中央委員会は四三年五月二十六日、コミンテルン解散問題について、毛沢東の報告と同趣旨の決定をおこなっている。


(本紙『解放日報』特報 二十六日夜、延安での幹部大会の演壇に姿をあらわした毛沢東同志は、会場全体をゆるがす拍手によって迎えられた。この会は、中国共産党中央書記処が召集し、コミンテルン執行委員会議長団および中共中央の、コミンテルン解散問題にかんする二つの歴史的文献を伝えるものであった。任弼時同志が開会理由をのべ、李富春同志がこれら二つの重要文献を読みあげたのち、毛沢東同志は中共中央政治局主席の資格で本大会に向け報告をおこなった。)


(毛沢東同志は、まず指摘した。)

コミンテルンの解散は、まさにアメリカの通信社が報じているように、「画期的大事件」である。この四日間、世界各国では、反ファシズム陣営も、ファシスト侵略者の陣営も、党派を問わず、この問題にたいして多きな関心を示していることからも、このことは証明できよう。


(毛沢東同志は問うた。)

コミンテルンは、なぜ解散しなければならなかったか? コミンテルンは、全世界の労働者階級の解放をはかり、反ファシズム戦争に尽力したではないか?


(毛沢東同志は語った。)

まさにしかり。コミンテルンは、レーニンが自らつくったものである。コミンテルンは、それが存在した全歴史期間にわたって、各国が真に革命的な労働者の政党をつくるのを援助するうえで、また、反ファシズム戦争という偉大な事業を組織するうえで、きわめて巨大な貢献をおこなった。


(毛沢東同志はとくに、中国の革命事業を援助したさいのコミンテルンの貢献を指摘して、のべた。)

コミンテルンが中国人民に及ぼした影響にはきわめて大きなものがある。その原因はどこにあるか。中国は経済的におくれた国ではあるが、二十二年間というもの、たえ間なく三つの巨大な革命運動をすすめてきた。そして、コミンテルンは、この三つの革命運動、つまり北伐戦争、土地革命そして抗日戦争のすべてにたいし、大きな支援をおこなったからだ。


(毛沢東同志は、北伐戦争の前夜、コミンテルンがどのように、孫中山〔孫文〕先生とその指導下にある国民党を援助して、一九二四年に改組を実行し、国共両党の合作をとりまとめたかを語った。また当時蒋介石先生が、中山先生の命をうけてモスクワを訪れたこと、さらには、当時国民党代表がコミンテルンの会議に列席したことなどの歴史的事実をのべ、つぎのように語った。)

これらのことは、コミンテルンの、中国革命にたいする援助と中国人民に及ぼした影響力が、いかに大きなものであったかを十分に証明している。その後の土地革命や近年の抗日戦争については、改めてふれるまでもないだろう。


(毛沢東同志はまた指摘した。)

革命運動は、輸出することも、輸入することもできない。コミンテルンの援助があったとはいえ、中国共産党の誕生とその発展は、中国自身が自覚した労働者階級をもつにいたったことによるのであって、中国の労働者階級が自ら、自分の党――中国共産党をつくりあげたのである。中国共産党は、二十二年の歴史〔一九二二〜四三年〕をもつにすぎないが、三度も偉大な革命運動をおこなっている。

コミンテルンは、中国や他の国ぐにで多大な貢献をおこなったにもかかわらず、こんどは、なぜまた解消を宣言しなければならなかったのだろうか?


(毛沢東同志はこれに答えてのべた。)

革命の組織形態は、革命闘争の必要に従属しなければならない。これがマルクス・レーニン主義の原則である。もし、組織形態がもはや闘争の必要に適合しなくなったとすれば、その組織形態は解消しなければならない。


(毛沢東同志は指摘した。)

現在、コミンテルンというこの革命の組織形態は、もはや闘争の必要に適合したもの格ではなくなった。もしこの組織形態を保ちつづけるならば、かえって各国の革命闘争の発展を妨げることになろう。現在必要なのは、各国民族の共産党を強化することであって、このような国際的な指導の中心は不必要になった。それは、主としてつぎの三つの理由による。第一に、各国内部の事情および各国間の情況が、以前とくらべ、ずっと複雑になり、その変化もまたずっとは早くなったからだ。


統一的な国際組織は、このようにひじょうに複雑な、そして急速に変化する情況に対処できない。正確な指導は、情況の詳細に研究することから出発しなければならないが、これはなおのこと、各国の共産党が自分でやらなければならないことだ。各国の実際の闘争から遠くかけ離れたコミンテルンは、情況が比較的単純で、変化もまだそれほど早くなかった過去の時期には適切であったが、現在ではそうではなくなってしまった。第二に、ファシストの強盗どもは、ファシズム集団と反ファシズム集団に属する各民族のあいだに深いミゾをつくって画然と区分けした。反ファシズム国家のなかには、社会主義、資本主義、植民地、半植民地といういろいろな類型の国家があり、ファシズム国家とその隷属国のなかにも大きな相違がある。またこのほかにも、さまざまな情況の立国がある。したがって、すべての国の反ファシズム闘争を迅速かつ効果的に組織するためには、国際的性格をもつ中央集権組織はあまり適当ではない、とは早くから感じられており、こうした情況は近来とりわけ顕著になっている。第三に、各国共産党の指導幹部が成長を遂げ、すでに政治的に成熟したからだ。


(毛沢東同志は、中国共産党を例にとってこの点を説明した。)

中国共産党は三回の革命運動を経てきたが、キャラの革命運動は連続したものであり、またひじょうに複雑であって、ロシア革命とくらべてもいっそう複雑である。キャラの革命運動の過程で中国共産党は、すでに自らの百戦錬磨の優秀な幹部を擁するようになった。一九三五年のコミンテルン第七回世界大会以後、コミンテルンが中国共産党の内部問題に干渉したことはないし、中国共産党は、抗日民族解放戦争におけるすべての活動を、充分りっぱにおこなっている。


(毛沢東同志は、この四日間の、各国のコミンテルン解散にたいする輿論をとりまとめ論じた。)

反ファシズム同盟各国の正義の人びとはすべて、この行為を、口をそろえて称賛している。ところがファシズム国家では事情は異なる。血にまみれた侵略者は例外なく、かつては「コミンテルン反対」の協定を結んでいながら、こんどは逆に、コミンテルンの解散を希望しないかのように見える。なんとおかしなことではないか! かれらはみな、あわてふためき、必死になってコミンテルンの解散を責めたてている。同盟国のなかでも、たとえば、ストックホルムとロンドンの両社会民権党内のガンコ分子は、以前は「コミンテルンの指令を受けている」ことを理由に、その国の共産党が自分たちの党に加入するのを拒絶していたのに、いまは反対に、コミンテルンの解散を歓迎していない。これもまた、ちっぽけだが、奇妙なことだ。

いまや、全世界のすべての反ファシズム国家の任務は、労働運動を統一させ、それによって力強く迅速にファシズムのうち負かすことである。労働運動内部のガンコ派は、コミンテルンの解散によって口実を失ったため、ひどく不機嫌になり、ついに、各国共産党も解散すべきだといっている。


(毛沢東同志は、ひきつづき、つぎのように指摘した。)

中国にも、あるいは、このような、まったく常識はずれの議論があらわれたかもしれないので、少し検討してみよう。とはいえ、こういった議論には最低限の常識さえ欠如しているから、全中国の大多数の正義の人びとが、このような議論に迎合するはずはない、とわたしは信じている。


(毛沢東同志は語った。)

コミンテルンが解散したのは、各国共産党を弱めるためではなく、各国共産党を強め、各国共産党の民族化をすすめ、反ファシズム戦争の必要に、より適応したものにするためだ。わが党が近年おこなっている整風運動、すなわち主観主義、セクト主義、党八股といったよくないものに反対する運動は、まさに中国共産党の民族化をすすめ、抗戦・建国の必要に、より適応したものにするためだ。 (ここで毛沢東同志は、きわめておもおもしい口調で指摘した。)

いまやコミンテルンはなくなった。これはわれわれの責任感を増すものである。すべての同志は、自分が重大な責任を負うようになったことを認識しなければならない。こうした責任感から出発して、共産党員としての創造力を発揮しなければならない。われわれは、困難な民族解放戦争に身をおいており、八路軍や新四軍は敵の後方にあって、きわめて強大な敵に抵抗している。われわれのおかれている情勢は厳しく、戦争はまだ長期にわたろう。しかし、このような、苦しく長期にわたる闘争は、われわれ自身を鍛えてくれる。われわれに大ざっぱで、一人上がりな考え方ではなく、慎重に考えをめぐらすようにさせる。また、主観主義やセクト主義や、例のごとき党八股の作風の排除に真剣にとり組ませ、そうして完璧に責任ある態度と高度の創造力をとりださせるのである。


(毛沢東同志は、つぎの二つの団結が、絶対に必要なことを、きわめて強い調子で指摘した。)

一つは党内の団結であり、一つは党と人民との団結である。これこそ困難な情勢のうち勝つための至宝であって、全党の同志は、この二つの至宝をしっかり守らなければならない。第一に、全党の同志が党中央のまわりに団結しなければならない。団結を破壊するいかなる行為も罪悪である。共産党員が一致団結し、全員が協力さえすれば、いかなる強大な敵でも、いかなる困難な情勢でも、われわれに屈服するであろう。第二に、全党の同志はだれもが人民と団結することに巧みでなければならない。ここでわたしは最近『解放日報』が報じた、陳宗堯、左斉両同志の例を手本として同志のみなさんに学習してもらいたいとおも分。陳宗堯同志は八路軍の連隊長である。かれは連隊を率い、数百里にわたる米の輸送をおこなったが、そのあいだ馬に乗らず、自分も馬も米を背負うようにした。全連隊の指揮員、戦闘員はかれの精神に感動して、自分たちも勇気百倍、一人の脱落者も出さなかった。左斉同志は同連隊の政治委員である。戦争中に片方の手首を失ったため、開墾にさいしても、スキをもつことができない。しかし、かれは営内で戦士のためにメシを炊き、山上にかつぎあげて、食べさせた。このことは戦士たちに、ことばに尽せないほどの感動を与えた。


(毛沢東同志は呼びかけた。)

全党の幹部は、この二人の同志の精神を学び、広汎な大衆とうって一丸となり、大衆から遊離したあらゆる官僚主義を克服せよ。


(毛沢東同志は語った。)

われわれ共産党員は役人になるのではなく、革命をおこなわねばならない。われわれはだれもが、徹底した革命精神をもたねばならない。片時といえど、大衆から遊離してはならない。大衆から遊離しさえしなければ、われわれは、かならず勝利することができる。

〔伊藤一彦訳〕


(1)コミンテルン Communist International の略称。レーニンの指導のもとに、右翼ひよりみ主義の第二インターナショナルと訣別して、一九一九年第一回大会が開催され、結成された。国際共産主義運動を指導する中枢機関としての役割をはたすことが任務であり、中国をはじめアジア諸国の解放運動、革命運動にも大きな影響を及ぼした。ただ、その指導には誤りや批判されるべき点も多い。コミンテルンの組織原則からすると、各国共産党はコミンテルンの下部組織として支部を構成し、コミンテルン執行委員会は各国共産党に絶大な指導権をもっていた。なお、コミンテルンが解散に至った要因は毛沢東もこの報告でふれているが、主要な要因はアメリカ、イギリスなどの反ファシズム戦線を円滑にするためであった。

(2)『解放日報』 抗日戦争期、延安で発行されていた中国共産党の機関紙。一九四七年二月停刊。現在、上海で発行されている『解放日報』とは異なる。

(3)延安 陝西省北部にある町。大長征ののち、ここが革命の中心地となり、抗日戦争期には、党中央、八路軍司令部などが置かれていた。毛沢東の権威が名実ともに確立されたのはこの延安時代の、それも一九四二年から展開された整風運動の過程においてであった。毛主席と称されるようになったのは四三年頃からという(正式の党主席就任は四五年)。

(4)任弼時 一九〇四〜五〇年。湖南省出身。八路軍総政治部主任、中央委員会書記処書記などを歴任。中国共産党の指導者の一人。

(5)李富春 一九〇〇〜七五年。湖南省出身。二二年からの古参党員。経済関係を担当。副総理。

(6)北伐戦争 北方の軍閥勢力を打倒するため、一九二六年七月から開始された、国民革命軍による北上戦争。国共合作下におこなわれたこの戦争は、労働者、農民の圧倒的支持を受け、短期日に揚子江流域に到達した。そして、二七年には武漢に国民党左派と共産党を主体とする政府が樹立された。しかし、総司令蒋介石の反革命によって大後退を余儀なくされた。

(7)土地革命 土地革命戦争または第二次国内革命戦争といわれる。一九二七年の国共分裂後、毛沢東らは武装闘争を推進し、農村に根拠地をおいた。そして封建的地主支配体制を打倒し、革命根拠地を維持・発展させるために、地主から土地を没収して農民に分配する土地革命を展開した。しかしこの政策は第二次国共合作と抗日戦争を迎えて抗日勢力をいっそう獲得するために「減租減息」政策に切りかえられた。

(8)抗日戦争 一九三七年七月の蘆溝橋事件に端を発した日本の全面的な中国侵略戦争にたいする、中国人民の救国戦争。初期にこそ国民党軍は大衆の抗日の声に押されて、日本軍と戦闘を交えたが、その後はむしろ中国共産党の指導する軍と辺区への攻勢・包囲を強めた。四〇年代に入ると、日本軍とカイライ軍を迎え撃ったのはおもに八路軍と新四軍であった。

(9)国共両党の合作 中国共産党員が個人的資格で国民党にも加入するという党内合作の独特の方式で、一九二四年一月に実現した。これを推進したのはコミンテルン代表のマーリンで、中共党内にあった批判を圧倒して推進された。孫文は合作にあたり、「連ソ、容共、労農扶助」の三大政策を表明し、国民党の改組も断行した。

(10)孫中山先生、蒋介石先生 四二頁訳注(1)、参照。「先生」という尊称についていえば、中国共産党は時期を除き(一九二〇年代末から三〇年代の半ば)、孫文は合作にあたり、「連ソ、容共、労農扶助」の三大政策を表明し、国民党の改組も断行した。

を表している。蒋介石にたいする「先生」は、この時期、国共合作が維持されていたからである。

(11)第七回世界大会 一九三五年夏開催。ナチスをはじめとするファシズムの脅威にたいして、コミンテルンは大きな戦略的転換をおこない、人民戦線による抵抗を提唱した。この主報告をおこなったディミトロフ論文は有名である。このころから各国共産党にたいする具体的な指導面で、コミンテルンは大きな限界を見せるようになっていった。毛沢東は、この大会以降コミンテルンのコミットがなくなった旨を語っているが、コミンテルン執行委員である王明がこの大会に出席し、帰国して以降、毛沢東は王明のコミンテルン直輸入ともいうべき右翼ひよりみ路線と激しい論争をおこない、これを批判し去る。

(12)整風運動 このときの整風運動は「三風整頓運動」ともいわれる。三風とは、①マルクス、レーニンのまる暗記、教条主義を含む主観主義、②局部に固執して全局を見ず、全局の利益を局部に従属させようとするセクト主義、③第一部第一章第一節といった空虚な形式を重視する党八股、である。一九四十一年から党高級幹部のあいだではじめられ、四二年からは全党あげての取り組みとなった。これは残酷できびしい日本の「三光」政策のもとで貫徹され、「三光」政策を打破する原動力となった。

(13)左斉 一九一四年生まれ。江西省出身。三〇年に紅軍に参加して以降、一貫して軍関係の活動に従事。六八年はじめ、新疆軍管区第一副政治委員。

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