第六話:名前を付けた(檻は砂糖で出来ている)
※R15 な背後注意
降り続く雨の音も、夜の冷たい気配もすべてがどこか遠くへ押し流され、まるで時間がぴたりと止まってしまったかのような錯覚。
視界を占めるのは、至近距離で見つめてくるアルの瞳だけだった。
どれぐらいの時間が経ったのだろうか、それとも一瞬だったのか。
唇に触れたままのアルの指先が熱くて、混乱した。
かつて、静かな夜の屋上で、二人きりの執務室で。
アルが戯れに幾度となく重ねてきた、あの温かい指の感触。
止まった時間の中で、懐かしい熱が唇から全身へ広がる。
(……逃げなきゃダメ。巻き込んでは、絶対にダメ)
悲壮な決意を固めていたはずなのに。皮膚と細胞が、あの頃の甘い体温を完璧に呼び覚ましてしまう。
ステラの身体からすっと抗う力が抜けた。
その隙を逃すわけがない。
気がすれば背中が冷たい壁に激しく押し付けられ、逃げ出そうともがく間もなく、アルの長身が隙間なく覆いかぶさってきた。その太い腕がステラの身体ごとすっぽりと抱え込むようにして、完全に動きを封じる。
雨に濡れたコートから香る硝煙と夜の匂い。耳元を激しくくすぐる熱い吐息。
たったそれだけでステラの頭は痺れ、指先から感覚が溶けていく。
もう、任務のことなんか頭からすっぽりと抜けていた。
アルの射貫くような青い瞳から、目が逸らせない。
(……ああ、私、やっぱり……)
——この人が、好きなんだ。
どれだけ悲壮な覚悟で心を固めても、この指先ひとつで一瞬にして暴かれてしまう。逃れようのない愛しさと敗北感に、ステラの瞳が潤んで揺れた。
「……アル、私は——」
言い訳を紡ごうとしたステラの耳元に、アルはさらにぐっと顔を近づけ、息すら逃がさない至近距離で低く笑った。
「俺を守るため?」
冷たく暗い火を宿した瞳が、ステラの視線を逃さず射抜く。
「そんなのは要らなかった、一言でよかったんだよ。『助けて』って、俺に縋ればよかっただけだろ」
「っ……あ……」
「俺がどんなに危険な状況でも、ステラを絶対に見捨てなかったことくらい、知ってたはずだ」
胸元が強く押し付けられ、身動きすら取れない。アルの言葉が、逃げ場のない刃となってステラの胸を深く突き刺す。
「ステラがいない夜が、どれだけ長かったか……わかってる? どこを探してもステラがいない、暗くて冷たい夜が……どれだけ恐ろしかったか」
「アル……っ」
「なのに、勝手に消えて、勝手に傷ついて、勝手に俺を置いていった。……酷いよな、ステラ」
甘く、絶望的なまでに低い声。
アルの瞳に滲むのは、怒りだけではない。裏切られ、置いていかれた男の、狂おしいほどの絶望と傷痕だ。
自分がアルをどれほど長く、深く傷つけてしまったのかを突きつけられ、ステラの体が激しい罪悪感で震える。
「自分の罪、自覚できた?」
すっと顎を掬い上げる指先は、恐ろしいほど繊細で、優しくて——そして、骨の奥まで拘束するかのように逃げ場を一切与えない。
至近距離で交錯する、言葉のない会話。
ステラの瞳に広がるのは、今さら思い知らされた激しい罪悪感と後悔。
それを受け止めるアルの瞳の奥には、暗く静かな愉悦が揺れていた。
言葉はなくとも、瞳の奥から押し寄せる熱量だけで、アルの意図が肌を伝って痛いほど流れ込んでくる。
もう待つだけの時間は終わった。逃がす気なんて最初から無いのだと、その冷徹な眼差しがすべてを語っていた。
逃げ場のない絶望と甘さが混ざり合う視線に射抜かれ、ステラは息を呑んだまま、ただ小さく喉を鳴らすことしかできない。
その様子に満足したように、アルの唇が甘く歪んだ。
「なら、お仕置きだ」
アルはステラのポケットから、滑らかな手つきで小さな銀紙——ホワイトチョコレートを引っ張り出した。
パキ、と甘い音を立てて割られたチョコを、迷わず自身の口に含ませる。
次の瞬間、抗う間もなく重厚な唇が覆いかぶさってきた。
「んんっ……!?」
重なった割れ目から、とろけるホワイトチョコレートの甘さと、アルの熱い舌が滑り込んでくる。
まろやかな甘さと互いの吐息がぐちゅりと重なり合い、息をする隙間すら与えられない濃厚なキス。
舌を絡め取られ、奥まで吸い上げられるたびに、ステラの背筋を甘い痺れが駆け抜けた。
「ふ、あ……ん、っ……!」
呼吸が途切れ、理性がドロドロに溶かされたところで、ふはっと唇が離れる。
ステラはアルの肩を両手で押し、距離を取ろうとした。
銀の糸を引く口元から、ステラの甘い絶叫のような吐息が漏れ出た。
「はぁ……っ、あ、アル……息が……っ」
「ふふ、甘い匂いさせてさ。……逃げる気満々だった癖に、俺のこと考えてたんだろ?」
あがる吐息を封じるように熱い額へ、震えるまぶたの上へ、赤く上気した頬へ。
ちゅ、と湿った音を響かせて降らせる口づけは、甘く、けれど逃走を一切許さない。
与えられる熱に耐え切れず、更にアルの肩を強く押そうとしたが、圧倒的な力の差で片腕を掴まれてしまった。
「っ……アル、待っ……ん、あっ……!」
捕まえられた手首や指先にまで、愛おしそうに熱い唇が擦り付けられる。
身体の至るところにアルの体温と匂いが塗りつけられ、ステラの頭の中は甘い熱で飽和していく。
そして最後に、アルは首元へ顔を埋めた。
襟ぐりを強引に押し開かれ、月明かりの下に剥き出しになった白く柔らかい肌。
そこに、容赦のない強い口づけと、鋭い歯列が突き立てられる。
「……っあ!? 痛っ、アル、だめ……っ!」
「ダメじゃない。……俺を置いて逃げた罰」
じゅ、と肉を吸い上げる生々しい音と、痺れるような強烈な痛み。
傷つけまいと踏み込めずにいた優しさの皮を脱ぎ捨て、もう逃がさないと二度と手放さないと主張するような束縛の証が、真っ白な肌の上に色濃く刻まれていく。
「……っ、ふ……あ……っ」
激しい痛みと狂おしい熱さにステラが身を捩らせると、アルは刻みつけた噛み痕を、慈しむように熱い舌先で幾度も舐めとった。
そのまま肌に額を押し付け、震える声でぽつりと吐き出す。
「……何度も、何度も手を伸ばした……っ。失うなんて、思わなかったんだ……」
しがみつくような腕の力。
溢れ出たのは、怒りでもお仕置きでもない。居場所を失い、闇の中を彷徨い続けていた男の、痛々しいほどの情けない本音だった。
(アル……)
首筋に落ちる熱い吐息と、身を震わせるアルの体温。
その切なすぎる弱音に胸を刺され、ステラは反論する言葉を完全に失ってしまう。
——ただ、吸い寄せられるように。
ステラは小さく指を曲げ、アルの濡れたコートの背中を、ぎゅっと深く握り返していた。
反抗するためでも、押し返すためでもない。
「ごめんなさい」の代わりのように、すがるようにその体温を確かめてしまう。
アルはゆっくりと顔を上げると、ステラの耳たぶを愛おしそうに優しく食み、とろけるような低音で囁いた。
「もう二度と逃がさない。……額から足の先まで、俺の体温と匂い、奥まで全部染み込ませてあげるから」
全身に隙間なく口づけを落とされ、腕の中で完全にぐったりと蕩けたステラを見下ろし、アルの瞳の奥で狂おしいほどの愛おしさが濁っていた。
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