第五話:摑む(最初からそこにあった)
雨が薄明るいネオンに反射して、窓を叩く。
必要最低限の物しかない無機質な部屋。
ステラは、ベッドの上で膝を抱えて深いため息をついた。
もうほとんど治ったはずの胸の怪我が、どこか痛む気がした。
ベッド横にぽつんと置かれた、食べかけのホワイトチョコ。
窓から差す、人工的な光を反射して光る銀紙に、そっと触れる。
雨音しかしないこの部屋で、あの日の闇市場でアルとすれ違ってしまった場面を思い出していた。
たった数日前の、ほんの一瞬の出来事だった。
すれ違った瞬間のアルの息遣い。胸の奥で甘い記憶が波のように押し寄せてくる。
低く掠れた「待て、ステラ」という声。
フードの端に、あと数センチで届きそうだった指先の熱。
(……絶対に、気づかれた)
心臓が痛むほど大きく鳴る。
会いたい。声を聞きたい。あの温度に触れたい。
感情が溢れそうになるのを必死で抑え込み、ステラは唇を噛み締めて目を閉じた。
(ゲームの史実通り、私は本来ここで死んで、アルの隣から消えるはずだった)
歪みが早まっている今でも、自分が身を引けば未来は戻せるはず。
自分が犠牲になれば、世界の整合性は守られる。
それが、真面目な彼女が信じた「正しい選択」だった。
(だから、逃げ切る。……絶対に)
指先が微かに震えるのを、彼女は雨の冷たさのせいにした。
◇
——それから、数時間後。
ステラは核心施設の屋上から続く通気ダクトを抜け、静かに内部へと潜り込んだ。
先日闇市場で手に入れたアクセスキーを使い、「世界の歪みを止める最終データ」を盗み出す。
それが彼女の計画だった。
黒いフードを深く被り、足音を殺して廊下を進む。
監察官からの情報を受け、施設の警備ルートは把握していた。
迷いなく進んだ先に現れたデータルームの扉を開け、震える指先で証拠を抜き取るための端末へアクセスを開始した。
(これで最後。……絶対に、終わらせてみせる)
◇
同じ頃。
討伐機関の屋上。雨に煙る夜景を背に、二人の男が対峙していた。
「上層部の不自然な戦死処理。……あんたがステラを隠してるんだろう」
アルの声は低く、地鳴りのように響いていた。
黒いコートの襟を立て、濡れた金髪が頬に張り付いている。
いつもの気怠げな笑みは影を潜め、暗闇で狂気に揺れる瞳だけが、監査官を射抜いていた。
背後に漂うのは、戯れを一切排除した本気の殺気。
監査官は煙草に火を点け、ゆっくりと煙を吐いた。
紫煙の向こうで、冷や汗が頬を伝うのを隠すように肩をすくめる。
「……捜査は打ち切られている。君も知っているはずだ」
「はぐらかすな」
アルが一歩、踏み出す。
たったそれだけで屋上全体の空気が凍りつき、雨の音すら遠のくほどの圧力が監査官を襲った。
「あんたが彼女を庇ってるのは分かってる。だからこうして、直談判に来たんだ。……俺からこれ以上、引き出し方を試されたくないなら、吐け」
(……やれやれ。本気で俺の首を跳ねる気か、この第3部隊長様は)
監査官は内心で苦笑しながら、深く煙を吸い込んだ。
あの生真面目な少女を守るための隠蔽だったが、目の前の男の狂愛は、国家機関の裏工作すら容易く踏み荒らそうとしている。
「……彼女はもう『存在しない』。それが公式の記録だ」
「それがどうした」
「あいつの生真面目な頭だ。『自分が犠牲になって世界の整合性を守る』なんて馬鹿なことを考えて、裏口からコソコソ逃げるのが関の山だろうな」
監査官はわざとらしく裏口の方向へ視線を泳がせ、煙草の火を灰皿に押し付けた。
「……歪みが前倒しになったせいで、色々と計算が狂ってな。死ぬはずだった駒が生き残る“バグ”が起きている」
アルの瞳が、わずかに細められた。
監査官の言葉の裏にある「ステラがどこへ逃げ、どう動くか」を、脳内で一瞬にして組み上げていく。
沈黙ののち、アルの口角がゆっくりと持ち上がった。
そこに浮かんだのは、獲物の足取りを完全に把握した肉食獣の、危うい笑みだった。
「……サンキュ、監査官。おかげで、逃走経路の答え合わせができたよ」
アルは最初から、監査官に聞くまでもなくステラの逃げ道は見抜いていた。
ただ「裏口」という確証を得に来ただけだったのだ。
そう呟くと、アルは雨夜の闇へ溶けるように姿を消した。
監査官は一人残され、夜空を見上げて小さく息を吐いた。
「まったく。……可愛い元部下たちのために、こっちは命がけだな」
◇
一方、館内の暗がりの中——。
端末から漏れる青い光が、ステラの切羽詰まった表情を浮かび上がらせていた。
ピコン、と小さな電子音が鳴り、データの抽出が完了する。
(これで……狂った歪みを止められる)
データの入った小さなデバイスを固く握りしめた、その時。
館内の遠くから、慌ただしい足音と警報の予兆が微かに響いた。感づかれたのだ。
(この位置は...正面のルートはもう塞がれている……!?)
心臓が跳ね上がる。
ステラは昔、監査官から聞かされた施設構造を咄嗟に思い出していた。
人目に触れず、廃棄物を運び出すための廃ルート——『裏口』。
生真面目な彼女が土壇場で導き出した脱出経路は、まさにアルが読み切っていた通りの場所だった。
(急がなきゃ……! アルや討伐機関に見つかる前に、ここを去らないと)
足音を殺し、影から影へと滑り込むようにして、ステラは裏口へと走る。
行き着いた重い鉄扉を必死の思いで押し開けると、冷たい夜風が湿った頬を打った。
裏口の向こうに広がる路地は、水たまりに青と紫のネオンを映して、静かに光っている。
コンクリートの冷たい匂いと、遠くの排気の匂い。
雲の切れ間から覗く月明かりの下で、ステラは安堵の息を吐きかけた。
……その、瞬間だった。
カツン―――
闇の中で、乾いた音が響く。
靴を鳴らす、短い音。
ステラの全身が、指先まで完全に凍りつく——。
月明かりが雲の切れ間から差し込み、出口の闇を淡く照らした。
そこに立っていたのは、濡れた黒いコートを羽織った長身の男——アル。
無造作に切りそろえられた金髪が、雨で額に張り付いている。
彼はゆっくりと、その濡れた髪を長く整った指先でかき上げた。
水滴が頬を伝い、鎖骨のあたりで消える。
その仕草は上品で、しかし見る者の息を詰まらせるほどに色気を帯びていた。
低い吐息が、夜気に混じって漏れる。
「……お疲れ様、ステラ」
声は優しくて、低い。
けれど目は、笑っていない。
獲物を確実に仕留めると決めた肉食獣のような、静かで熱を孕んだ眼差し。
「ずいぶんと長いお散歩だったな?」
ステラが反射的に一歩後ろへ下がる。
けれどアルはすでに、彼女の退路を完璧に塞いでいた。
死角のない間合い。
「逃げられると思ってる?」
かつて一緒に戦った相手だからこそ、逃げ場など用意されていないことが分かった。
アルが、わずかに首を傾げる。
濡れた髪が肩に落ち、細い首筋が月明かりに白く浮かぶ。
「……俺のところへ、戻ってきてもらおうか」
その声は柔らかくて、熱くて、執着に満ちていた。
ステラは息を呑む。
胸の奥で、切なさと愛しさが同時に爆発する。逃げ場のない絶望と、それでも抗えないほどに胸を突き刺す熱。
彼女が何か言葉を紡ごうとした、まさにその瞬間——。
伸びてきた熱い指先が、容赦なくステラの薄い唇を押し潰す。
——はっと、世界から音が消えた。
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