第四話:星は遠い(でもいつかは光が届く)
『流星事件』から数週間。
討伐機関の第3部隊執務室では、いつもと変わらない光景が繰り広げられていた。
「いやー、今日もいい天気だな。こんな日は任務なんて放り投げて、どこかで甘いものでも食べに行きてえな」
頬肘をつき、手元にある積まれた書類を適当にぺらぺらと捲りながら、軽薄な笑みを浮かべて肩をすくめるアル。
部下たちは「また隊長のサボり癖が出た」と苦笑いを浮かべ、一見すると執務室は平和そのものに見えた。
——だが、誰も気づいていないわけではなかった。
ヘラヘラと浮かべた笑みの奥、その瞳には一切の光が宿っていないこと。
会話の合間、ふとした瞬間に全身を寒気で凍りつかせるような、死の匂いを孕んだ殺気が漏れ出していること。
(……アル隊長、頼むから、何も起こさないでくれ……)
部下たちは内心で生きた心地がしていなかった。
あの日、ステラ隊長が「戦死」したと告げられて以来、アルは涙ひとつ流さず、取り乱しもせず、ただ「いつも通り」の道化を演じ続けている。
けれど、アルが本気で「気まま」を発動させた時の巻き込み事故の恐ろしさを、彼らは身に染みて知っていた。
いつ静かな暴風が巻き起こるか分からず、誰もが胃を痛めていたのだ。
(下手くそな隠蔽しやがって)
書類を捲るフリをしながら、アルの脳内では冷徹な思考が高速で回転していた。
『魔物に呑み込まれ、消滅』。
組織が下したステラの「戦死処理」は、あまりにも手際が良すぎた。
現場のまともな検証すら省略し、情報提供を遮断し、わずか数日で捜査を打ち切ったプロセスの異常さ。
遺体の確認すら曖昧なまま、急ごしらえで墓を作った上層部と監察官ども。
その強行姿勢そのものが、アルにとっては「あいつは生きている」という何よりの証明だった。
(死んだんじゃない。誰かが隠したんだ。あるいは、ステラ自身が姿を消したか)
どちらにせよ、理由などどうでもよかった。
勝手に自分を置いて消えたことも、自分を騙して去っていったことも。
(見つけ出したら、もう二度と俺の前から逃げられないようにしてやる)
アルは視線を落とす。
手元の書類の端に、小さく置かれたホワイトチョコレートのパッケージ。
長く整った指先で、銀色の包装をゆっくりとなぞる。
紙の感触を確かめるように、優しく、丁寧に。
その仕草は上品で、しかしどこか名残惜しげで、見る者に静かな執着を感じさせた。
ここ数日、アルは独自のルートで上層部の不審な資金の流れを洗っていた。
前々から面倒くさいことをしているのは知っていた。
だが、生憎と正義感やら上昇志向やらは微塵もなかったため興味の外であり、ステラがこんな状況にならなければ見向きもする予定はなかった。
そうして本気になったアルの調査で浮上したのが、組織の裏で極秘兵器や違法な魔物素材を取引している「闇市場」の存在だ。
(捜査の打ち切りを指揮した監察官のラインと、この闇市場の資金源が繋がっている)
さ
ステラが生きているなら、あるいはこの裏ルートの先になんらかの手掛かりがある。
もし誰かに捕らわれているなら、奪い返す。
もし自分の意思で隠れているなら、その首根っこを掴んで引っ張り出す。
確率は五分五分。
それでも、何かの痕跡はあるはずだと踏んでいた。
「ちょっとそこまで散歩に行ってくる。夕飯までには戻るから、書類よろしく」
「えっ、アル隊長!? これから幹部会議が——」
制止の声を背で聞き流し、アルはひらひらと手を振りながら執務室をあとにした。
廊下に出た瞬間、その顔からヘラヘラとした道化の笑みが完全に消失する。
氷のように冷たく、黒く濁った執着の瞳。
アルは単身、闇市場の拠点へと向かって足を進めた。
(いるかどうかは分からない。でも、何かは残ってるはずだ)
指先に残る甘い香りの記憶を頼りに、彼は静かに、しかし確実に、獲物の気配を追い始めていた。
◇
ステラは不気味な静寂と油の匂いに包まれていた。
闇市場の取引が行われている地下拠点へは、元上司、そして現監察官の男の指示で来ていた。
生きて目覚めてしまったあの日から、1か月程が経ち、身体の傷もそこそこ癒えていた。
任務をこなすのには支障はない。
黒いフードを深く被り、気配を殺して通路を進むステラの胸の奥で、さっき監察官から聞いた言葉が繰り返し響いていた。
「最近、第3部隊長が闇市場の情報を嗅ぎ回っているらしい。特に『流星事件』で消えた部隊長を探しているという噂だ。君の名前が上がっている可能性もある。……注意しろ」
(アルが、私を探してる)
心臓が、嫌になるほど大きく鳴った。
会いたい。声を聞きたい。あの夜の屋上で感じた熱を、もう一度確かめたいくらいに。
でも、会ってはいけない。
ここで姿を見せれば、自分が生きていることがバレる。そうなれば、アルは間違いなく組織の裏側に巻き込まれる。
監察官が言った通り、「厄介なことになる」可能性すらある。
(だから、会わない。絶対に、気づかれてはダメ)
ステラは唇を噛み締め、ポケットの中でホワイトチョコの銀紙を指先で強く握った。
傷が癒えてから、無意識に買い込んでしまった甘いもの。
口に含めば、アルの笑顔と温度が蘇ってしまうのに、どうしても手放せなかった。
拠点の奥で、怪しい取引が始まろうとしていた。
ステラは物陰に身を潜め、ターゲットである重厚な金属ケースを見つめる。
狙いは、組織の核心施設——その最深部へ侵入するために必要な『暗号解読キー(アクセスキー)』の入ったディスクだ。
(これさえ手に入れれば、数日後、本丸へ潜入して世界の歪みを止める証拠を抜き出せる……!)
その時——。
重厚な扉が、凄まじい衝撃音と共に吹き飛んだ。
「ひっ……!? な、なんだ!?」
「敵襲——っ! 討伐機関の男だ!!」
怒号と悲鳴が飛び交う中、煙の向こうから現れたのは、黒いコートを翻す長身の男だった。
アル。
いつもの気怠げな笑みなど微塵もない。
冷たく研ぎ澄まされた瞳で、周囲を一掃するように斬撃を繰り出す。
警備兵が次々と倒れていく。無駄のない、しかし明らかに「誰かを探している」動き。
(来た)
ステラは息を詰めた。
監察官の噂は本当だった。アルは、自分を探してここに来たのだ。
「ひっ、離せ! 組織の上層部と俺たちは繋がって——」
「黙れよ」
感情の欠片もない、氷のような声。
アルは跪く男の襟首を掴み、冷たく見下ろした。
「俺が知りたいのは、あいつの居場所だけだ。もう一度聞く、ステラを知らないか?」
名前を呼ばれた瞬間、ステラの全身が強張る。
聞こえている。あの声が。
自分の名前を、こんなに低く、熱を帯びて呼ぶ声が。
(やめて。そんな声で呼ばないで)
アルは男を放り投げると、ゆっくりと拠点の奥を見渡した。
確率は五分五分。
それでも、何かの痕跡はあるはずだと踏んで来たのだ。
資金の流れ、監察官の不自然な動き、現場に残された擦れた痕跡——すべてがここに繋がっていた。
「いないなら、いないでいい。でも、何か残してるはずだ。 ステラがさ」
アルの声は、探しているようで、どこか確信めいていた。
ステラは胸の奥で小さく息を吐く。
(お願いだから、気づかないで)
混乱に乗じて、彼女は陰から陰へと滑り出した。
証拠のディスクを懐にねじ込み、出入口へと向かう最短ルートを取る。
かつて背中を預け合って戦った相手だからこそ知っている、アルの死角と間合い。
このルートなら、確実にすり抜けられるはずだった。
——勝機は一瞬。
アルが手元の一兵を打ち伏せ、わずかに姿勢を戻したその隙を突き、ステラは彼の真横を風のように駆け抜けた。
すれ違った刹那。
アルの鼻腔を、硝煙と血の匂いを無遠慮に切り裂く、まろやかなホワイトチョコレートの甘い香りが貫いた。
瞬間、思考が停止する。
その香りは、屋上の夜風と重なる。
血に濡れた唇に最後に触れてくれた、冷たい指先と重なる。
そして——その軽やかで無駄のない脚さばき。
呼吸の間合いまで知り尽くした、あの日々の背中合わせ。
(この動き。この匂い。この気配)
「——ステラ」
声が、喉の奥から低くすり落ちた。
叫ぶのではなく、確認するように、確かめるように。
アルが雷に打たれたように振り返る。
黒いフードの隙間から、一瞬だけ見えた真面目な瞳と、動揺に赤くなった耳先。
(いた。ここにいた!)
安堵などない。
胸の奥で何かが、音を立てて弾けた。
「待て」
次の瞬間、アルは獣のように踏み出していた。
「待て、ステラ!!」
怒号。
いつもの軽薄さも、冷静さも削ぎ落とされ、ただ剥き出しの執着だけが残った声。
ステラは息を殺し、唇を血が滲むほど噛み締めて闇へ飛び込んだ。
けれどアルの手は、彼女のフードの端に、あと数センチのところで届いていた。
指先が布に触れた感触。熱が、一瞬だけ伝わった気がした。
「っ……!」
ステラの身体が、わずかに強張る。
まだあの声が聞こえる。
「待て」と、ほとんど掠れたように繰り返されるアルの声が。
(……ごめんなさい)
心の中でだけ謝りながら、奪い取ったアクセスキーを固く握りしめ、彼女は深く闇へ沈んでいく。
背後から聞こえる、アルの低くて狂おしく叫ぶ声。
フードの端を掠めた彼の指先の熱が、今も首筋に残っているようだった。
(気づかれた……よね?)
激しい動悸と恐怖で、ステラの足が震える。
(急がなきゃ。潜伏先の最短ルートは…?!戻ってこのキーを解析して……数日後の核心施設への潜入計画を、一刻も早く実行に移さなきゃ……!)
捕まるわけにはいかない。巻き込むわけにはいかない。
ステラは溢れそうになる涙を拭い、夜の闇の中へと必死に駆け出していった。
アルは空を切った手をゆっくりと握りしめ、その場に立ち尽くした。
指気に残る、ほんのわずかな甘い香りと、布の感触。
「やっぱり、生きてた」
声が、暗く歪む。
瞳には、狂おしいほどの熱が宿っていた。
あいつは生きている。
自分を置いて、死んだことにして、逃げた。
「逃げ切れるなんて思うなよ、ステラ」
指先に残った香りを、ゆっくりと唇に運ぶようにして、アルは呟いた。
その動作には、もう理性など残っていなかった。
「次は、絶対に捕まえる」
静まり返った瓦礫の山に、甘い残り香だけが長く漂っていた。
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