第二話:墜ちた(世界が動き出すのに理由なんていらない)
『流星事件』。
歪んだ空から星の破片のように魔物が降り注ぎ、不夜城は一瞬にして地獄と化した。
ステラの第9部隊と、アルの第3部隊は最前線へと投入される。
瓦礫と硝煙が舞う中、アルの斬撃が美しく閃き、ステラの魔法が落ちてくる重雷を打ち落とす。
二人は自然と背中を預け合い、完璧な呼吸で敵を薙ぎ払っていった。
「左、三匹来る!」
「助かる、ステラ!」
背中越しに伝わるアルの体温。
お互いの間合いも癖も知り尽くした立ち回り。
激戦の合間、アルが頬の血を拭いながら、いつものように軽口を叩く。
「怪我すんなよ? チョコ奢ってもらう約束、忘れたとは言わせないからな」
「……わかってるよ」
ステラは胸の奥で、静かに最後の息を吐いた。
知っていた。
これから始まる物語のどこを探しても、彼の傍らにステラという名は存在しない。
彼は主人公ではない。
けれど、誰よりも強くて美しい。
そんな彼の背中を追いかけ、こうして隣で戦うことができた。
その事実だけで、胸が痛いほど満たされていた。
この先の曲がり角で、自分は死ぬ。
答え合わせの時間は、もうすぐそこまで迫っていた。
だからこれ以上、何も言い残さない。
ただ彼の隣で、彼の背中を守り抜く――そう決めていた。
◇
その時、空間が引き裂かれるような音と共に、巨大な異形の魔物が突如として現れる。
狙われたのは、攻撃の反動でわずかに体勢を崩したアルだった。
(あ……今なんだ)
ステラの思考に迷いはなかった。
身体が、勝手に動いていた。
「アル——っ!!」
強引にアルの身体を押しのけた瞬間、鋭い巨腕の爪がステラの胸腔を貫いた。
衝撃。内臓を灼くような激痛。
視界が真っ白に染まり、口から大量の血が溢れ出す。
「ステラ!?」
魔物を一閃で斬り伏せたアルが、血相を変えて駆け寄ってくる。
いつもの気怠げな余裕なんて、欠片も残っていない。
「ステラ! おい、しっかりしろ! ステラ!!」
膝から崩れ落ちた彼女を、アルがなりふり構わず抱き寄せる。
ステラは震える指先で、彼の綺麗な制服の袖を掴んだ。
もう力は入らない。
それでも最後の力を振り絞って顔を上げた。
「大丈夫……行って、アル……」
「馬鹿なこと言うな! 傷が深すぎる、今すぐ俺が背負って戻る——」
「あ……なたが……残ったら……みんな、死ぬよ」
ステラは血に染まった唇で、けれど、声だけは穏やかに。
そして、かすかに微笑んだ。
「私は……へい、き。ここにいる、大きなやつは...倒した、から...。
……行って……追撃を……止めて……」
アルの腕が、彼女の血に濡れた髪ごと更に強く引き寄せる。
(…あの夜も、こんなに距離が近かったな)
彼の服から漂う微かな香水と、甘いチョコレートの香り。
夜の屋上で交わした、あの甘い視線。
唇に残っていた、確かなアルの熱。
「嫌だ、置いていけるわけないだろ!」
「…行って」
ステラは弱々しく手を伸ばし、彼の唇にそっと指を当てた。
かつて彼が、自分の言葉を遮るように唇に触れたのと同じように。
「行って、アル。……みんなを、守って」
アルは胸を打ち破られたような顔で目を閉じ、ステラの指の感触を確かめるように強く噛み締めた。
やがて、血の涙を流さんばかりの瞳を開き、ゆっくりと頷く。
アルはそっと、ステラを瓦礫に横たえさせた。
「待ってろ。すぐ戻る。絶対に、死ぬな!」
疾走していくアルの背中。
ステラは冷たい瓦礫に背を預け、歪んだ空を見上げた。
痛みも、寒さも、遠のいていく。
まぶたの裏に残るのは、アルの背中と、肩に残った抱きしめられた感触。
かつて自分の唇に触れてくれた彼の指先。
(これでいい。これで、アルも世界も救われる)
痛みが薄れていく中で、胸を占めていたのは不思議な達成感だった。
運命のシナリオ通りに役割を果たせた満足感。
そして——自分勝手に彼の前から消えていく申し訳なさ。
(ごめんね、アル。勝手にいなくなって。……勝手にさよならして)
アルに残してしまう傷の深さを知りながら、ステラは瞳を閉じる。
(好きだったよ、アル)
言えなかった言葉を、心の中でだけ呟く。
その声は静かに、誰にも知られずに溶けて消えた。
それが自分の選んだ、最高に幸せな終わり方だった。
◇◇
魔物を一閃のもとに討ち取ったアルは、なりふり構わず現場へと駆け戻った。
(頼む、無事でいてくれ……!)
だが、息を切らせてたどり着いた場所に、ステラの姿はなかった。
残されていたのは、冷たい瓦礫と、地面を黒く染める血だまりだけ。
後からやってきた討伐機関は、現場を見るや早々に結論を下した。
「魔物に呑み込まれ、跡形もなく消滅したのだろう」と。
(ふざけるな)
アルの冷たい思考が、その結論を真っ向から否定する。
魔物が人間を喰らったなら、残るはずの肉片や骨の破片、あるいは砕けた装具があるはずだ。
それらが綺麗さっぱり消えている。
地面に残された血痕の脇には、かすかに「誰かが倒れた人間を抱え上げて立ち去った」ような擦れた痕跡まで残っていた。
あいつは、食われてなんかいない。
誰かに連れていかれたんだ。
アルはそれから数日間、寝る間も惜しんで現場へ足を運び、組織の上層部へ再捜索を訴え続けた。
しかし、組織は不自然なほど迅速に捜索を打ち切り、ステラの「戦死」を確定させた。
周囲の仲間たちも「諦めろ」「お前の見誤りだ」と哀れみの視線を向けてくるだけ。
情報は遮断され、気づけばアルは、彼女の世界から切り離されたように感じていた。
◇◇
――事件から数日後。雨の上がった中庭に、小さな慰霊碑が建てられた。
アルは、その一番手前に立っていた。
いつもの軽薄な笑みは影を潜め、その表情は氷のように冷たく硬い。
ポケットの中から、彼は小さな板チョコを取り出した。
指先が微かに震える。
パキ、と重い音を立てて半分に折る。
半分を遺影の前にそっと置き、残りの半分を自分の口へ放り込んだ。
「苦いな」
まろやかなはずのホワイトチョコレートが、喉を焼くほど苦かった。
目を閉じれば、あの日々のすべてが鮮明に蘇る。
血に濡れた彼女の髪の重さ。肩を抱いたときの華奢な感触。
自分の唇に触れた、冷たくなっていく指先。「行って」と笑った、あまりにも静かな微笑み。
屋上で視線が重なったとき、彼女の胸が高鳴っていたこと。
「無理してる?」と聞いたとき、怯えたように泳いだ瞳。
「付き合う?」と冗談めかして言ったとき、赤くなった耳先。
(全部、気づいてたんだ)
彼女が自分との間に、分厚い透明な壁を作っていたこと。
踏み込もうとするたびに、上手にするりと逃げられていたこと。
(なんで俺は、あの時強引に抱きしめなかった?)
(嫌われるのを恐れて、なにも聞かずに笑って誤魔化したのは俺だ)
「いつでも言える」と思っていた。
いつか戦いが終わったら、彼女が壁を壊してくれると高をくくり、逃げていたのは自分の方だ。
だが、後悔の波にいつまでも飲まれているわけにはいかない。
(考えろ。ステラは絶対に生きている)
(何か事件に巻き込まれて帰って来られないのなら、俺が助けに行くだけだ)
覚悟を決めたアルの研ぎ澄まされた思考が、ふと別の違和感を捉える。
(待て。何かがおかしい)
なぜ組織は、あんなにも急いで捜索を切り上げ、あいつを「戦死」にした?
急ごしらえの死亡認定。意図的に遮断された情報。
生きてどこかに運ばれたのだとしたら、なぜあいつは戻ってこない?
怪我でまだ動けないのか。それとも――ステラ自身が、『戻らないこと』を選んだのか。
頭の中で、バラバラだった不自然な点が、不気味なほど鮮やかにひとつの線で繋がっていく。
そして、ステラの最後の微笑み――――。
あいつは死んだんじゃない。
『自分を死んだことにして、俺の前から消えた』んだ。
ステラは最初から、役割を終えたら自分の前から消える準備をしていた。
組織の裏か、誰かの手引きか——理由はどうあれ、彼女は自らの意志で「死亡」という仮面を被り、アルの手の届かない場所へ逃げ込んだのだ。
自分を置いて、勝手にさよならを告げて、勝手に死んだことにして隠れている。
その企みに気づいた瞬間、胸の奥で燻っていた悲しみが、ドス黒く熱い「執着」へと塗り替わった。
「……すぐ戻るって言っただろ、バカだよ」
掠れた声が、無人の空に溶けていく。
振り返る部下たちが、見たこともないほど暗く鋭い冷気を纏うアルの背中に、息をのんだ。
ただの仲間じゃない。同じ隊長としてじゃない。
俺は、ステラを——一人の女として、狂おしいほど愛しているのだ。
(勝手に逃げ切れると思うなよ、ステラ)
力が入った手のひらの中で温められたチョコレートは、じわりと溶けて指先にとろりとした感触を残す。
アルは静かにそれを見つめると、舌でぬぐった。
喉を落ちていく甘さは、どこまでも苦い。
唇を湿らせる甘い残り香が、あの日交わした甘い記憶を嫌でも呼び覚ます。
その一瞬の動作には、見る者が気圧されるような危険な色香が漂っていた。
二度とブレることのない冷徹な瞳で、彼は空を見据える。
(世界の果てまで追いかけて、絶対に俺の腕の中に引きずり出してやる)
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