6 水しぶきの向こう側
枕元で呼び出し音が鳴り響いた。フロントからの電話らしい。眠い眼をこすりながら受話器を取ると、僕宛に日本人女性から外線だと交換手が告げた。まったく身に覚えがないが、考えるのも面倒で電話に出た。相手の声と顔が結びつかない。
「昨日はすみませんでした」
ベノアで同行した女子大生グループの一人だった。話の内容は、僕がバリ島に詳しそうなので、もし時間があれば案内してほしいというもの。今日はタナロットに行く以外は予定がないので、昼食を一緒に取る約束をした。
もう一眠りしようかとも思ったが、コーヒーを飲みたくなって起きあがり、シャワーを浴びてラウンジで軽い朝食を取った。雨期にもかかわらず、今日もバリ島は晴れていた。タナロットに行くのだから、雨が降らない方がいいのは当然だ。
午前中はどこへ行く気にもなれなかった。彼女――サリに相談すると、クタにウォーターボム・パークがあるから、そこなら遊べると言う。彼女のバイクで行くことにした。昼食の待ち合わせ場所からも遠くないので、そこで時間を潰すことに決めた。
バリではバイクが主要な移動手段だ。現地の人はほとんどバイク。スーツ姿のOLだってスカートのままバイクにまたがる。僕はサリの運転するバイクの後ろにしがみつき、クタへ向かった。自分より小柄な女性にしがみつくのは妙な気分だった。
ウォーター・スライダーを滑るのは何年ぶりだっただろう。最初は気乗りしなかったが、サリに腕を引っ張られるまま水に飛び込んだ。冷たい水が体を包み、視界が一瞬白くなる。気がつけば、二人とも子供のように笑っていた。
失恋してから初めて、何も考えずに笑った気がした。胸の奥に沈んでいた重しが、少しだけ浮いたような気がした。サリがスライダーを滑り終えて、濡れた髪をかき上げながら言った。
「笑った顔の方がいいですね」
その言葉は軽い調子だったのに、妙に心に残った。僕は照れ隠しのように肩をすくめた。
「失ったものばかり見ていると、今あるものが見えなくなりますよ」
サリはそう続けた。その声は、冗談めいているのに、どこか祈るような響きを持っていた。
僕は返事をしなかった。けれど、胸の奥で何かがゆっくりと動き始めたのを感じた。
ウォーター・スライダーやビーチ・バレーで時間を潰し、昼食の待ち合わせ場所へ向かった。女子大生たちはシーフードを食べたいと言ったが、この時間はまだ開いていない。大抵は夜が営業時間なのだ。サリの案内でビュッフェ・スタイルの店に入った。
「これを食べてみて」
サリが皆にナシ・ゴレンとミー・ゴレンを取り分けてくれた。
コーヒーを取りに席を立つと、サリが「私の分もお願い」と笑った。
「ミルクと砂糖は?」
「ブラックで」
その一言だけで、遠い記憶が静かに目を覚ました。彼女もまた、コーヒーはブラックしか飲まなかった。
「タナロット、楽しみですね。きっと……何か見つかりますよ」
サリはそう言って笑った。僕はその笑顔につられて笑い返した。その時の僕は、あの夕暮れが人生を変えることになるとは、まだ思いもしなかった。




