5 伝えられなかった言葉
レギャン通りは狭い道路の両側に小さな店が建ち並び、夕方を過ぎると人の波が急に厚みを増す。現地の人々はバイクで器用にすり抜け、店を眺めながら歩いているのはほとんど観光客だ。タクシー乗らないか、これ買わないか、と声が飛び交い、湿った風がその声を運んでいく。
ダイヴィングのお礼に、と僕は彼女――サリに髪留めを選んでいた。籐細工や木彫りの小物が並ぶ店先で、これはどう? と白蝶貝で作られたプルメリアの髪留めを彼女の後ろ髪にあてながら談笑する。目の前の彼女に選んでいるのに、心の奥には別の女性の姿がちらつき、胸が痛んだ。僕はどんな顔で笑っていたのだろう。どれほどぎこちない作り笑顔だったのだろう。
「何か悪い夢でも見たのですか?」
サリが不意に訊いた。
「なんで?」と笑って返すと、
「悪魔が取り憑いたような顔してますよ」
と冗談めかして言う。
僕は昼間のビーチで見た夢の断片を、たどたどしい英語で話し始めた。伝わっているのか自信がない。夢の内容を思い出しながら、それを英語に変換しながら話すという二重の作業に、僕自身が一番信用できなかった。
サリは黙って聞いていた。時々、小さく頷く。その仕草が似ていたので、そのたびに胸が痛んだ。彼女は別に似ているわけではない。顔立ちも違う。でも、ちょっとした仕草が記憶を呼び起こす。僕は過去の記憶に囚われているのだろうか。思い出という呪縛から解放されず、束縛されたままなのだろうか。
話がひと段落したとき、サリがふと訊いた。
「その人は……どんな人だったのですか?」
僕は少し戸惑いながら答える。
「よく笑う人だった」
「綺麗な人?」
「そうじゃない」
「じゃあ、なぜ好きだったのですか?」
その問いに、僕は言葉を失った。理由を探そうとしても、どこにも見つからない。胸の奥に沈んだままの何かが、形を持たずに疼くだけだった。
サリは僕の沈黙を責めず、逆に自分の話を少しだけしてくれた。
「私にも、後悔していることがあります」
「どんな?」
「伝えられなかったことがあります。どうしても、言えなかったことが」
その言葉は軽く発せられたのに、どこか深い影を帯びていた。僕はその影の意味を理解できなかったが、胸の奥に小さなざわめきが生まれた。彼女の言葉は、僕自身の後悔に触れるようでもあった。
「明日はどちらに行くのですか?」
サリが話題を変えるように訊く。
僕は真顔で「サヌール」と答え、すぐに大笑いした。彼女もからかわれたとわかって笑った。
「私は明日お休みなので、よかったらタナロットまで行きませんか」
タナロット――16世紀にジャワの高僧がこの地の眺めに感動し、海の神を祀る寺院を建てた場所。夕陽の眺めは見事だが、それ以上に、海に突き出した奇妙な岩の上に寺院が建っているという地形が人を惹きつける。
「どうして? タナロットへ」僕が訊ねるとサリは少しだけ笑った。
「行けば、わかります」
店を出るとき、サリがふと立ち止まり、僕の方を見た。
「本当に失ったのですか?」
その声は、冗談ではなく、どこか祈るような響きを持っていた。
「伝えてください」
「まだ遅くありません」
「会えるなら、会ってください」
その言葉だけが、不思議と胸に残った。




