4 ガムランに導かれて
夜の帳が降りた頃、タクシーでレギャン通りへ向かった。目的はない。ただホテルにいてもやることがなく、雑踏に身を任せれば少しは気が紛れるだろう、と思っただけだった。通りには雑貨屋が雑然と並び、夜のレギャンは時間とともに人が増えていく。
テロの慰霊碑だけが喧噪とは別世界に静かに佇み、そこだけは時間が止まっているようだった。寺院の供物の上に白いプルメリアが一輪置かれていた。雨が降り始めても、その花だけは崩れなかった。
街の奥からガムランが聞こえた。金属を打つ乾いた音が夜気に溶け、その響きはまるで遠い昔から続く祈りの残響のようだった。音に誘われるように歩いていくと、小さな広場でレゴンダンスが始まっていた。
踊り子たちは色鮮やかな衣装をまとい、月明かりの下で指先まで神経の通った動きを見せている。
観光客は歓声を上げていたが、地元の人々は静かに見守っていた。彼らにとってこれは見世物ではなく、神々への奉納なのだろう。
バリでは神々と精霊と祖先が今も人々の暮らしの中に生きている――そう聞いたことがある。ガムランの響きを聴いていると、それがただの言い伝えとは思えなかった。
闇の向こうから、本当に何かがこちらを見つめているような気がした。踊り子の動きは緩やかでありながら、その一つひとつが異様なほど精密だった。指先は花弁のように開き、手首は水面を撫でるようにしなやかに曲がる。目の動きは鋭く、まるで観客の心の奥を覗き込むようだった。
ガムランの音が高くなると、踊り子の足元の影が揺れ、影そのものが踊っているように見えた。衣装の金糸が月光を受けて淡く光り、その光が風に揺れるたび、踊り子の周囲に小さな光の粒が舞い上がった。それはまるで、精霊が踊りに呼応して姿を現しているようだった。
僕は踊り子の顔を見入った。ホテルのフロント嬢にそっくりだったからだ。多分、似ているだけだろう。そう思った瞬間、ガムランの音がひときわ強く響いた。突然、激しいスコールになった。観客は一斉に軒下へ避難し、広場は一瞬で空っぽになった。
2月のバリは雨期だ。雨は容赦なく降り注ぎ、地面を叩く音がガムランのリズムと混じり合った。
しかし、舞台では踊りが続いていた。踊り子たちは雨に濡れながらも動きを止めず、ガムランは幻想的に響き渡っていた。雨粒が衣装に当たるたび、金糸が光を散らし、踊り子の周囲に淡い光の輪が生まれた。その光の輪は、まるで雨の中に浮かぶ小さな結界のようだった。
僕はその光景に見入っていた。雨の音、ガムランの響き、踊り子の影が揺れるたび、世界がゆっくりと別の層へと沈んでいくようだった。
ふと、視線を感じたので振り返ると、そこには彼女の姿があった。雨は激しく降っているはずなのに、彼女の髪だけは不思議なくらい乱れていなかった。踊り子は他人の空似だった。けれど、この雨の中で突然現れた彼女は、踊り子よりもずっと神秘的だった。
僕は今朝のダイヴィングのお礼と、早朝の無断外出の非礼を詫びた。彼女は表情を変えずに「Sama-sama」と答えた。どういたしまして、の意味だ。その声は雨音に溶け、ガムランの余韻と混じり合い、どこか現実離れしていた。
「ひどく疲れた顔してますね」と彼女が言った。そうかな、と僕は軽く否定する。勤務明けの彼女はこれからマッサージに行くので一緒にどうか、と誘った。断る理由もなかったし、何より予定はなかった。彼女に案内された店は観光客向けではなく、地元の人が通う静かな場所だった。
店内はグリーンを基調にし、ハーブの香りが心地よく漂っていた。ガムランの音が小さく響き、その音が僕の意識をゆっくりと沈めていった。僕は自然に深い眠りに吸い込まれていった。久しぶりにリラックスした時間だった。身体のこわばりと一緒に精神のこわばりも解放されたようだった。外に出ると星空が広がっていた。雨はやんでいた。二人で食事をし、通りをあてもなく歩いた。




