3 蒼い海の底
電話の相手はホテルのフロントの女性だった。早朝の無断外出についての確認らしい。英語とインドネシア語が入り混じった問いかけを聞きながら、僕は憂鬱な気分のまま曖昧に返事をした。
ふと違和感を覚え、尋ねた。
「エクスキューズ・ミー。どうしてこの番号を知っているの?」
チェック・インの際に記入した連絡先だと彼女は告げ、さらに今どこにいるのかと訊ねた。僕は観念したように、ベノアからボートでレンボガンに来たこと、同行グループは船酔いでダイヴィングできずに戻ったことを伝えた。
彼女は2秒ほど沈黙し、船の名前を僕に訊ねた。インドネシア語で「風の花」と答えると、予想外の言葉が返ってきた。船長は彼女の従弟であり、彼女の指示で僕には小型ボートが手配された。
ようやく僕は海に潜ることができた。
エントリーの瞬間、海面が静かに割れ、世界がひっくり返るように音が消えた。水温は思ったより冷たく、首筋を撫でるその感触が、眠っていた神経をゆっくりと目覚めさせた。
ゆっくりと沈降していく。眼下には珊瑚礁が広がり、褪せた色の迷路のようだった。2月のバリは雨期で透明度が低い。それでも、光は雲の隙間から斜めに差し込み、海中に薄いカーテンのような揺らぎを作っていた。その揺らぎの中を、僕はただ漂った。
流れは弱いドリフトで、身体を預けると勝手に進んでいく。僕はインド洋の熱帯魚の一匹になったような気がした。フィンを動かすたび、海の蒼色が胸の奥に刺さる。痛いほどの蒼さだった。
珊瑚の隙間から、黄色いチョウチョウウオが二匹、僕を警戒するように覗いていた。その視線が「ここはお前の居場所じゃない」と告げているようで、胸が少しだけ軋んだ。
さらに深度を落とすと、海の色は濃くなり、世界は青ではなく“青黒い静寂”へと変わった。呼吸音だけが規則的に響く。吸って、吐いて。そのリズムが、僕の孤独をゆっくりと塗りつぶしていく。
遠くでマンタが滑空していた。巨大な影がゆっくりと羽ばたくように海を切り裂き、僕の横を通り過ぎる。その優雅さに心が震えた。けれど、震えたのは感動ではなく、哀しみだった。美しいものを見ると、どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。
海に潜ったって何も解決しない。深度を上げても下げても、聞こえるのはボンベの呼吸音だけ。深い哀しみが、ずっと僕の横に寄り添っていた。
砂地に着底し、しばらく動かずにいた。海底の砂は細かく、指で触れるとゆっくりと舞い上がる。その舞い上がった砂が光を受けて銀色に輝き、まるで星屑のようだった。僕はその星屑の中で、ただ呼吸していた。海は静かで、僕の心も静かだった。静かすぎて、逆に苦しかった。
やがて浮上の時間が来た。僕は名残惜しさもなく、ただ淡々と海面へ向かった。海は僕を癒さなかった。けれど、拒絶もしなかった。ただ、そこにあった。
ベノアからタクシーでホテルに戻った。昼食にピッツァを食べ、部屋に戻る。オーシャンビューの部屋は、時として最悪だ。眼下に広がるインド洋が、僕をさらに孤独へと引きずり込む。
眠れず、目を閉じては開き、閉じては開く。蒼色が視界に飛び込んでくるたび、胸がざわついた。
身体を動かそうと部屋を出て、ホテルの1階で水着と1冊のペーパーバックを買った。題名も内容も確認もせず、表紙の雰囲気だけで選んだ。
ビーチのデッキチェアに横たわり、ハイネケンを傍らに置いて読み始める。
少女は星を探していた
魔法使いは少女に告げた
満月の夜、海に白い花を届けろ、と
3分の1は知らない英単語で、疲れた頭では理解できなかった。ビールが回り、いつしか眠りが訪れた。
白い花が風に舞っていた
誰かが祈っている
波音だけが聞こえる
少女がいた気がした
けれど顔は見えない
月だけが異様に大きかった
その月の下で、誰かが僕の名を呼んだ
振り返った瞬間、目が覚めた。
夢? 夢だったのだろう。気付くと少女も月も星もなかった。汗ばんだ身体にプルメリアの花びらがついていた。どこからか飛んできたのだろう。僕はシャワーを浴び、夕闇がゆっくりと世界を包み始める中、ビーチから部屋へ戻った。




