2 フランジパニ
バリ島訪問は3度目になるが、数年前のテロの影響もあり、観光客は少なかった。おかげで幸運にも安価でビーチ沿いのホテルに滞在できることになった。ホテルのロビーには白いプルメリアが浮かぶ大きな水盤が置かれていた。南国特有の甘い香りが静かに漂っている。どこのホテルにも飾られている花だった。歓迎の印なのだろう、とその時は勝手に思っていた。バリでは神々への供物にも使われる花だということを、その時の僕はまだ知らなかった。
チェック・インを済ましたあとで、フロントの女性に訊ねた。
「あの花はどういう意味があるのか」と英語で。
「フランジパニ」
と彼女はインドネシア語で答えた。
「神様へ捧げる花です」
少し考えてから、彼女は続けた。「平和と幸せを願う時にも使います」と。小柄で細身だが、陽に灼けた肌が魅力的な女性だった。そして、僕の荷物が少ないことを訝しがった。仕事の荷物はすべてロスから日本に送ってしまった。バッグ一つで訪れる日本人も珍しいのだろう。
彼女にチップを渡して、部屋に向かおうとした。すると彼女はスッと僕の横を通り抜けて、エレベーターのスイッチを押した。どうやら部屋に案内してくれるようだ。エレベーターの中で、後ろ姿の彼女を見て、ちょうど同じぐらいの背丈だった。
それだけで、胸の奥にしまい込んでいた記憶が疼いた。
案内されたのは7階の海に面した部屋だった。僕が窓から眼前に広がるインド洋を眺めている間に、彼女はいったん部屋を出て、すぐに戻ってきた。手にはプルメリアの花を持って。彼女は黙って、その花を花瓶に飾った。海の蒼さと花びらの白さが素敵なコントラストだった。
「あなたにも幸せが訪れますように」と一輪を僕の胸に挿してくれた
「バリは初めてですか」
彼女はゆっくりと英語で訊いた。僕は、3度目だと答えた。
「何日間滞在されますか」
今日から5日間と答えると、彼女はカレンダーを指差した。僕が帰る日を確認するように。そして穏やかに微笑んだ。
彼女と話していると不思議な懐かしさを感じた。彼女が部屋を出る際に僕は彼女の名前を訊いた。「サリ、と呼んでください」と名を教えてくれた。
翌日の早朝、ベノア港から南へレンボガンに向かった。バリ島のダイヴ・スポットの一つだ。朝の4時に出て、イルカを見てダイヴィングする、オプショナル・ツアーだ。卒業旅行らしい日本人女性が4人一緒だった。
夜明けを迎えようとしているインド洋は深い蒼色が広がっていた。まるで、数え切れない哀しみを溶かし込んだような蒼色だった。その中には僕の哀しみも含まれているのだろう。そう思うとやりきれない気持ちになった。
ドルフィン・ウォッチをしたあと、ダイヴィングだ。そう、僕は海に潜りたくてバリに来た。ログ・ブックを見せてウェットスーツに着替えていると、慌てて呼び出された。どうやら、同行した女性が船酔いで気分が悪いため、引き返してもいいか、と。
思わず顔をしかめた。楽しみにしていたダイヴィングだった。余計に哀しい気持ちになってきた。
船の手すりにもたれて、海を眺めながら溜め息をついた。どうも、あれ以来世の中のめぐりがよくないな、と。たった一人の存在を失っただけで、これほどまでにお前の人生は変わってしまうのか、と問い掛けてみる。答えはわからない。
流れていく船を眺めていると、懐かしく楽しい日々を思い出していた。
しかし、その黄昏を引き裂くように携帯電話が鳴り響いた。




