epilogue 白い約束
2022年10月
あれから18年ぶりに、僕は再びバリ島に戻ってきた。仕事でシンガポールに滞在していた僕は、娘と現地で合流することになっていた。デンパサール空港の到着ロビーに降り立った瞬間、湿った熱気が肌にまとわりついた。
ロビーの人混みの中で、白い花束を抱えた少女がこちらに向かって手を振っていた。高校生になった娘だ。その手にあるのは、プルメリアの花束だった。
「パパ、こっち」
駆け寄ってくる娘は、少し息を弾ませながら花束を差し出した。
「ママがね、バリに来た時は、この花で迎えるんだって教えてくれたの」
僕はその言葉に胸が熱くなるのを感じた。18年前、あの満月の夜にサリが海へ捧げた白い花。そして翌日、日本から来た彼女を迎えるために僕が手にした花束。その記憶が、娘の手の中で静かに息を吹き返していた。
娘は今日、慰霊祭で平和へのメッセージを読み上げる。国際交流協会が高校生を対象に募集した英語のメッセージ。夏休みの宿題の一環として応募した娘の文章は、
「自分の誕生日がテロ当日であること」を含んでいたため、特に強い印象を与えたらしい。
テロ――2002年のバリ島爆弾事件。多くの命が奪われた、痛ましい事件。
慰霊祭の会場は静かな緊張に包まれていた。白い椅子が整然と並び、祭壇には犠牲者の名前が刻まれた碑が置かれている。潮風がゆっくりと吹き抜け、プルメリアの香りが漂っていた。
娘が壇上に立つ。その瞬間、僕は息を呑んだ。娘の髪に、白蝶貝で作られたプルメリアの髪留めが光っていた。さっきまで、そんなものはつけていなかったはずだ。
娘は落ち着いた声でメッセージを読み始めた。
「私は10月12日生まれです。その日は、20年前に多くの人が命を失った日でもあります……」
言葉が会場に染み込んでいく。娘の声は震えていなかった。むしろ、誰よりも強く、真っ直ぐだった。
読み終えたあと、僕は娘に髪留めのことを訊ねた。
「それ、いつつけたの?」
娘は不思議そうに答えた。
「さっき、受付の小柄な女性がつけてくれたの。すごく綺麗な人だったよ。
『あなたの言葉はきっと届きます』って言ってくれた」
受付でそんな女性は見かけなった気がする。僕は言葉を失った。胸の奥で、何かがゆっくりと形を持ち始めていた。
僕たちは18年前に泊まったホテルを訪れた。サリと出会い、そして消えた場所。
妻と娘は庭のプルメリアを眺めていた。僕はフロントへ向かった。
「昔ここで働いていたサリという女性を覚えていますか」
老支配人は、僕の言葉にわずかに表情を変えた。しばらく奥へ引っ込み、古いアルバムを持って戻ってきた。
「この人のことですか」
ページを開くと、そこにサリがいた。18年前と変わらない笑顔で、花束を抱えて立っていた。
「彼女は……2002年のテロで亡くなりました」
僕は凍りついた。支配人は静かに続けた。
「婚約者と喧嘩したままだったそうです。それが心残りだったと聞いています」
胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。あの夜、サリが言った言葉が蘇る。
「伝えられなかったことがあります」
「まだ遅くありません」
「本当に失ったのですか?」
あれは――彼女自身の記憶だったのだ。
僕は言葉を失ったまま、アルバムを閉じた。その時、隣にいた娘がぽつりと言った。
「だから……私がここにいるんだね。」
僕は頷くことしかできなかった。親子で、サリに感謝していた。あの夜、僕を導いてくれた女性に。
ホテルの庭には、白いプルメリアが咲いていた。
娘は花を見ながら笑った。
「パパ、昔から白い花が好きだったよね」
僕は苦笑した。
「違うよ」
「じゃあ何?」
「好きになったんだ」
娘は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は訊かなかった。
風が吹き、プルメリアが一輪、静かに足元へ落ちた。それは18年前、神々の島で交わされた白い約束が、今も確かに続いていることを告げるようだった。僕は何も言わず、その花を見つめていた。




