9 満月の奇蹟
ふと、暗闇が訪れた。月が雲に隠れたのだろう。さっきまで世界を包んでいた静謐が破れ、喧噪が一気に戻ってきた。その瞬間、僕のポケットで携帯電話が鳴った。日本にいる、別れを告げた彼女からだった。迷いはなかった。僕は電話に出た。
「今、どこにいるの?」
変わらない声だった。
どうして? と聞き返す僕に、彼女は少し困ったように言った。
「家に行ったら、何日も帰ってない形跡だから……心配して」
僕は言葉を失った。胸の奥で何かがほどけるような感覚があった。
「今、どこにいるの?」彼女はもう一度訊いた。
「今、バリにいるんだ」
僕は素直に答えた。そして、堰を切ったように言葉が続いた。
今からバリに来ない?
すごく素敵な島だ。
この島で一緒に過ごしたい。
今すぐ会いたい。
数秒間の沈黙。あまりに唐突で、彼女は困惑したのだろう。当然だ。
「今日がヴァレンタインだって、知ってた?」
予想外の言葉だった。
「ん……?」としか返せなかった僕に、彼女は明るい声で言った。
「じゃあ、これからチョコを届けに行くね」
その瞬間、雲が切れ、満月が姿をあらわした。白い光が海を照らし、波の上に道を描くように広がっていく。
彼女との電話を終えて
「ありがとう」と言おうとして振り向く。
そこにもう誰もいない。ふと気づくと、隣にいたはずのサリの姿が消えていた。
僕は名前を呼んだ。返事はなかった。人混みをかき分けて探し、バイクを停めた場所まで走った。係員に訊ねても「わからない」と首を振るだけだった。
まるで、最初から存在しなかったかのように――
彼女は忽然と消えていた。
ホテルに戻り、旅行代理店の友人に電話をしてチケットの手配と宿泊延長を頼んだ。2時間の時差を忘れていたので、友人はやや不機嫌だった。日本は真夜中だ。彼女には飛行機の時間、便名、到着時刻、そして空港へ迎えに行くことをメールした。シャワーを浴び、ベッドに潜り込むと、胸の奥に静かな熱が灯っていた。
翌朝、フロントで延泊の手続きを終え、サリについて訊ねた。しかし、誰も知らないと言う。そんな女性はこのホテルでは働いていない、と従業員が口を揃えて言った。訝しく思う僕に
「チェック・インも私が承りました」と男性スタッフ。
「いや、女性だった。」と僕が言うとスタッフは少し困った顔をした。おかしな話だ。まるで、彼女は存在ごと消えてしまったようだった。
ビーチで泳いだあと、プルメリアの花束を買い、デンパサール空港へ向かった。日本から来る彼女を迎えに行くためだ。
僕の深い哀しみは、昨日の夕陽とともに西の海へ沈んでいった。そして白い花びらとともに夜空へ舞い上がり、満月の光に溶けていった。
解放された僕には、バリの海と空の青さが、これからの二人を祝福しているように感じられた。




