第6話:初めての衝突と和解
「……あ、やば」
配信開始ボタンを押してわずか五分。琥珀ねねとしての活動が軌道に乗り、鼻歌まじりにコーラのペットボトルを傾けていた私の視界が、突如として暗転した。
正確には、モニターが真っ暗になり、PCの冷却ファンの音が、断末魔のような呻きを上げて止まったのだ。
「え、うそ、なんで!? ちょっと、ねね様!? PCくん!?」
慌ててデスクの下を覗き込む。そこには、私が数日前から「後で片付ければいいや」と放置していた配線のスパゲッティ状態があった。
足癖悪く伸ばした私の右足が、絡まっていた電源タップのコードを無情にも引き抜いていたのだ。
おまけに、再起動を試みた画面には無情なメッセージが表示される。
『システムアップデートを開始します。電源を切らないでください。完了まで約三十分かかります』
「……終わった」
瀬戸さんから、口が酸っぱくなるほど言われていたことだった。
『配信前には必ず配線の安全を確認し、システムアップデートは事前に済ませておくように』
今日の私は、連日のバズりと瀬戸さんとの距離が縮まった(ような気がしていた)全能感で、その「鉄則」を完全に舐めていたのだ。
「ま、まあ……瀬戸さんなら、なんとかしてくれるよね。……瀬戸さーん、助けてくださいー……」
私は甘えた声を出しながら、スマートフォンの通話アプリを開いた。
いつもなら、こちらが泣きつく前に「状況は把握しています。予備の端末でSNSに告知を出してください」と的確な指示が飛んでくるはずだった。
だが。
画面の向こう側の瀬戸さんは、恐ろしいほどの沈黙を保っていた。
チャットの既読はついている。なのに、一向に返信が来ない。
三十分後。アップデートが終わり、ようやく繋がった通話。
私はいつもの調子で、少しだけおどけて謝った。
「ごめんなさーい、瀬戸さん! ちょっと足引っ掛けちゃって。でも、リスナーのみんなには後で『ズボラすぎて電源抜いちゃった』ってネタにすれば……」
『……山咲さん』
背筋が凍りついた。
スピーカーから聞こえてきたのは、今まで聞いたどの声よりも、低く、重く、そして冷徹な声だった。
感情を押し殺しているがゆえに、その奥にある怒りの巨大さが伝わってくる。
『……私は君を、「だらしないままでも価値がある」と言いました。ですが、「プロの仕事を舐めていい」とは一言も言っていません』
「え……」
『今日のトラブルは、不可抗力ではありません。君の怠慢です。配線の確認、アップデートの実行。私が昨日、一昨日と、しつこいほどリマインドしましたよね。君はそれを、「はいはい」と聞き流していた。違いますか?』
「それは……そうですけど。でも、そんなに怒らなくても……」
『怒っているんじゃありません。……失望しているんです』
その言葉は、元夫の健二に浴びせられたどんな罵倒よりも、私の胸を深く抉った。
健二の言葉は、私を支配するための武器だった。
でも、瀬戸さんのこの冷たい言葉は、プロとして隣に立っていたはずの私への、絶望の表明だった。
『君は今、何万人という人の時間を預かっている。君の声を、君の配信を、今日一日の唯一の楽しみに待っていた人たちがいる。……それを、自分の不注意で、こんなくだらないミスで台無しにした。君には、その自覚が足りなすぎる』
「……ごめんなさい……」
『……今日の残りの仕事は、すべて私が引き受けます。君はもう、今日は何もしなくていい。……頭を冷やしてください』
プツリ。
一方的に切られた通話。
静まり返った部屋で、私は立ち尽くした。
涙が溢れてきた。
今まで、瀬戸さんは私のダメなところを全部「いい」と言ってくれた。
だから、どこかで甘えていたのだ。
瀬戸さんがいれば、私はだらしないままで、何も考えずに成功できるんだって。
私は、彼が守ろうとしてくれていた『琥珀ねね』という存在を、自分自身の傲慢さで汚してしまった。
夜中、私は泣きながら部屋の掃除をした。
絡まったコードを一本ずつほどき、結束バンドで固定し、デスクの上を拭き上げた。
今まで「面倒くさい」で済ませていたことが、どれほど瀬戸さんに負担を強いていたのか。
手を動かすたびに、自分の愚かさが身に染みた。
深夜二時。
掃除を終え、放心状態でベッドに倒れ込んだ私のスマートフォンが、微かに震えた。
瀬戸さんからのメッセージだった。
また厳しいことが書いてあるのかと、身を縮めて開く。
だが、そこにあったのは、先ほどの冷徹な声とは違う、不器用なほど真摯な長文だった。
『……山咲さん。先ほどは、強い言葉を使いすぎました。申し訳ありません。
ですが、これだけは分かってほしい。
私がなぜあそこまで怒ったのか。それは、君という才能が、こんなくだらないミスで「ああ、やっぱりダメな女なんだ」と世間に評価されるのが、私には耐えられなかったからです。
君は、もうただのサレ妻ではありません。
君は、多くの人の心を救う、唯一無二の表現者です。
私は、君を守りたい。……だからこそ、君自身が自分の価値を傷つけるような真似を、許せなかった。
……明日の配信、楽しみにしています。
機材の予備設定は、私の方で二重化しておきました。
君はただ、笑って、コーラを飲んでいればいい。
そのための「足場」を完璧に整えるのが、私の仕事ですから』
読み終えた瞬間、私は枕に顔を埋めて、声を上げて泣いた。
健二は、私の欠点を見つけては「お前はダメだ」と切り捨てた。
でも、瀬戸さんは、私の欠点が私の才能を邪魔しないように、命懸けで怒ってくれた。
彼が叱ってくれたのは、私が嫌いだからじゃない。
誰よりも、私を……私の可能性を、信じてくれているからなんだ。
「瀬戸さん……。バカなのは、私の方だったよ……」
翌日。
配信開始直前の打ち合わせ。
私は、昨日までの甘えた態度を捨て、居住まいを正してマイクに向かった。
「……瀬戸さん。昨日は、本当に申し訳ありませんでした。……配線、すべて整理しました。アップデートも完了しています。……私、瀬戸さんの隣に恥じないように、今日から心を入れ替えます」
少しの沈黙。
そして、スピーカーから聞こえてきたのは、いつもの、少しだけ困ったような、温かい溜息だった。
『……はいはい。反省したなら結構です。……ただ、あまり生真面目になりすぎても、君の良さが消えますから。……コーラ、一本だけ用意してありますか?』
「……っ、はい! 用意してます!」
『なら、いいです。……さあ、いきましょう。トップへの道は、まだ始まったばかりですから』
初めての衝突。そして、本当の意味での和解。
私たちの絆は、仕事上のパートナーという言葉では片付けられないほど、深く、強固なものへと変わっていた。
この時、私は確信した。
この人の背中についていけば、私はどこまでも高く飛べる。
そして、瀬戸さんもまた。
自分の叱責を受け止め、ボロボロになりながらも立ち上がった私の姿に、もはや「編集者」としての関心を超えた、熱い感情を抱き始めていたことに。
私たちの関係が加速する陰で。
ついに、あのクズ男が、私の「正体」に気づく瞬間が刻一刻と迫っていた。
第6話をお読みいただきありがとうございます!
今回は二人の初めての「衝突」回でした。
厳しい言葉の裏にある瀬戸さんの深い愛情……。叱ってくれる人がいる幸せを、ちあきが噛みしめるシーンに心を込めて執筆しました。
「瀬戸さんのツンデレが最高!」「ちあき、よく頑張った!」と思っていただけましたら、
ぜひ下の【評価(★★★★★)】やブックマークで応援をお願いします!
皆様の評価が、二人の絆をより一層深めるエネルギーになります!
次回は、いよいよサレ妻・ちあきが本当の「豊かさ」を手に入れ始めます。
そして、あの元夫の影が……。
更新を楽しみにお待ちください!




