第5話:見えない背中への憧れ
深夜一時。配信機材の冷却ファンが静かに回る音だけが響く部屋で、私はスマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。
画面には、通話アプリの履歴。一番上には、つい数分前まで繋がっていた『瀬戸』という名前がある。
「……僕も、少しだけ救われている気がします、か」
第4回配信の直後、瀬戸さんがボソリと漏らしたあの一言。
思い出すたびに、心臓の奥がシュワシュワと泡立つような、それでいてキュッと締め付けられるような不思議な感覚に陥る。
それは、一・五リットルのコーラを飲み干した時の多幸感よりもずっと、深くて重い温度を持っていた。
「瀬戸さん……」
私はベッドに仰向けになり、天井を見上げた。
ふと、恐ろしいことに気づく。
私は、瀬戸さんのことを何も知らない。
彼がどこに住んでいて、どんな顔をしていて、昼間は何をしていて、どんな食べ物が好きなのか。
私は自分の醜い過去も、だらしない私生活も、炭酸で酔っ払う無様な姿もすべて彼に晒しているのに。彼は鉄壁のカーテンの向こう側から、私の人生を完璧に操縦している。
有能で、冷静で、時折こぼす言葉がひどく優しい。
そんな『編集者の瀬戸さん』という記号以上の彼を、私は猛烈に知りたくなっていた。
「……検索、してみようかな」
指が勝手に検索エンジンへと動く。
瀬戸。動画編集。クリエイター。
けれど、入力しかけた指を、私は自らの意志で止めた。
「ダメだ。そんなの、ストーカーみたいじゃん……」
彼はプロとして私に接してくれている。
私が「無能」と捨てられたどん底から救い出してくれたのは、彼の卓越した技術と冷静な判断力だ。そこに私の個人的な感情をねじ込んで、この美しいビジネスパートナーとしての関係を壊すわけにはいかない。
元夫の健二はよく言っていた。『お前のことは俺が一番よく知っている。だから、俺の言うことだけ聞いていればいいんだ』と。
あの言葉は支配だった。
でも、瀬戸さんは違う。彼は私を知ろうとするのではなく、私が私であることを「価値がある」と定義してくれた。
「でも……知りたいなぁ。瀬戸さんの背中、どんな感じなんだろう」
見えない背中への憧れは、一度芽生えると、ズボラな私の心の中で雑草のようにぐんぐんと伸びていった。
翌晩の打ち合わせ。スピーカーから聞こえる彼の声は、いつも通り完璧に整えられていた。
『山咲さん。次回配信の機材トラブル対策について、共有事項があります。先日の配信中、わずかですが音声にノイズが混じっていました。オーディオインターフェースの設定を以下の通りに変更してください』
「あ……はい。わかりました」
『それと、最近コメント欄で特定のリスナーが過度な自治行為を行っています。こちらでミュート対応を行いますが、君は決して反応しないでください。いいですね?』
「……はい」
いつもなら「さすが瀬戸さん! 助かります!」と元気よく返せるはずなのに、今日の私はどこか上の空だった。
冷たくも心地よい彼の声を聞いていると、プロとしての指示を聞かなければならない自分と、もっと彼に甘えたい、仕事以外の話をしたいと願う自分が、心の中で激しく喧嘩を始める。
「……ねえ、瀬戸さん」
『何でしょうか。設定について不明な点でも?』
「いえ、そうじゃなくて。……瀬戸さんって、ちゃんと休めてますか? 私の動画の編集とか、マネジメントとか……いつも深夜まで付き合ってくれてるから。たまには、だらだらしたりしないのかなって」
私は、仕事の壁を一枚だけ剥がそうと、慎重に言葉を選んだ。
けれど、瀬戸さんの返答は、やはり鉄壁だった。
『……仕事ですから。君のチャンネルを成長させることが、私の現在の最優先事項です。私の休息について、君が案じる必要はありません』
突き放すような、けれど拒絶ではない言葉。
私はもどかしさに胸を焦がした。
甘えたい。もっと個人的な話をしたい。
「瀬戸さんのおすすめのコンビニスイーツは何ですか?」とか「好きな飲み物は何ですか?」とか、そんな他愛もない話で笑い合いたい。
けれど、彼の凛とした声を聞くと、自分の幼稚な願望が恥ずかしくなって、喉まで出かけた言葉を飲み込んでしまう。
「……そう、ですよね。すみません、変なこと聞いて。……機材の設定、明日までにやっておきます」
『ええ。お願いします。……では、今日の打ち合わせは以上です』
通話が切れる、その直前だった。
瀬戸さんがマイクのスイッチを切るのが、いつもより一瞬だけ遅れた。
――カチャリ。
小さな食器の触れ合う音。
そして、微かな、本当に微かな溜息。
『……ふぅ。……少し、冷めたか』
独り言。
それは、彼が私の前で見せる「完璧な編集者」の顔ではなく、一人の人間として、夜の静寂の中に佇んでいることを想起させる、生々しい「生活」の音だった。
「……っ」
心臓がドクンと跳ねた。
見えない。顔もわからない。
けれど、今の音だけで、私は瀬戸さんが同じ世界で、同じように夜を過ごしていることを強く実感してしまった。
冷めたお茶か、あるいはコーヒーでも飲んでいるのだろうか。
その背中は、どんな風に丸まっているのだろうか。
想像するだけで、視界が熱くなる。
「瀬戸さん……」
私は、接続の切れたスマートフォンを両手で包み込んだ。
甘えたい自分を自制して、プロとして振る舞う。
それが、私を救ってくれた彼への、今の私ができる唯一の恩返し。
けれど、自制すればするほど、憧れは重力を増して私を惹きつけていく。
仕事のパートナー。
今は、その言葉の殻の中に、私のこの想いを隠しておこう。
いつか、この炭酸みたいなシュワシュワした気持ちが、本当の「恋」だと認めざるを得なくなる日が来るまで。
この時、私はまだ、自分自身の感情に蓋をすることに必死だった。
そして、瀬戸さんもまた、私という「だらしなくて放っておけない女性」への関心が、もはや仕事の領域を遥かに超えてしまっていることに、必死で抗っていることにも気づいていなかった。
見えない背中を追いかける、もどかしい距離感。
それが、ある「きっかけ」によって、一気に崩れ去る瞬間が近づいていることを、私たちはまだ、知る由もなかった。
第5話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、ちあきの瀬戸さんに対する「憧れ」と「葛藤」をメインに描きました。
ビジネスライクな瀬戸さんの「生活の音」を聞いてしまった時の、あの何とも言えないドキドキ感……共有できていれば幸いです!
「瀬戸さんの正体が気になる!」「ちあき、もっと攻めちゃえ!」と思ってくださいましたら、
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皆様の星が、二人のもどかしい距離を縮める一歩になります!
次回は、二人の関係を大きく揺るがす「ある事件」が……?
楽しみにお待ちください!




