第4話:共感と癒やしのズボラ企画
不倫されて追い出されたあの日、私の世界はモノクロームだった。
築四十年のボロアパート、積み上がった段ボール、そして耳の奥にこびりついた「無能」という呪いの言葉。
けれど、今の私のモニターには、信じられないほど鮮やかな光が溢れている。
「……収益化、承認されました」
瀬戸さんからのチャット画面に躍るその文字を見て、私は震える指先で自分のチャンネルの管理画面を開いた。
琥珀ねね、登録者数五万人。
配信を始めてから、まだ二週間も経っていない。それなのに、画面の向こう側には、私の「だらしなさ」を肯定してくれる何万という人たちが集まっていた。
「瀬戸さん、私……。本当に、やってよかった」
ヘッドセット越しに呟くと、わずかな沈黙のあと、瀬戸さんの落ち着いた声が返ってきた。
『感慨に耽るのは、最初の給与が振り込まれてからにしてください。……それより、山咲さん。今日送ったリスナーからのコメントまとめ、読みましたか?』
「はい。読みました……。読みながら、ちょっと泣いちゃいました」
瀬戸さんが抽出してくれたコメントは、どれも温かいものばかりだった。
『ねね様の「今日も洗濯機回せなかった」って言葉に救われました』
『丁寧な暮らしをしてるキラキラした人たちを見て落ち込んでたけど、ねね様を見て「生きてるだけでいいんだ」って思えました』
『サレ妻の絶望を笑いに変えてくれてありがとう』
私が「ゴミ」だと思っていた私の日常が、誰かにとっては、明日を生きるための小さな「光」になっていたのだ。
『……そう思えるようになったのなら、次のステップへ進みましょう。第4回配信の企画案を送りました。確認してください』
画面に表示された企画書には、大きな文字でこう書かれていた。
【特別企画:サレ妻の限界ズボラ飯&炭酸酔い雑談~生きてるだけで偉くない?~】
「ズボラ飯……ですか?」
『ええ。コンビニのパスタを容器のまま食べ、コーラを飲み、ただただ「今」を肯定する配信です。山咲さん、君は「だらしなさ」を克服しようとする必要はありません。むしろ、そのズボラさを極めることで、リスナーの罪悪感を肩代わりしてあげるんです』
「罪悪感を……肩代わり」
『「ねね様がこれなら、私も大丈夫」――そう思わせることが、今の琥珀ねねの使命です。いいですね? 決して、配信のために部屋を片付けようなんて思わないでください。カメラには映りませんが、その空気感は必ず伝わりますから』
瀬戸さんのプロデューサーとしての視点は、相変わらず鋭く、そしてどこまでも私(のダメな部分)を全肯定していた。
――そして、配信本番。
私は、コンビニで買ってきた大盛りのペペロンチーノを机に置き、その横に一・五リットルのコーラを鎮座させた。
「……あ、お疲れ。琥珀ねねです。……見てこれ。今日の晩ご飯。温める時に袋を破るの忘れて、容器がちょっとひしゃげちゃった。でも、お皿に移し替えるなんて高度な技術、私にはないからこのまま食べるね」
配信開始のボタンを押した直後から、コメント欄が猛烈な勢いで流れ出す。
『待ってました!』
『容器がひしゃげてるの、リアルすぎて草』
『ねね様、今日も通常運転で助かる』
私はフォークで麺を啜り、大きな口でペペロンチーノを頬張った。
おしゃれなカフェ飯でも、健二のために必死で作った三汁三菜でもない。ただの、コンビニ飯。
けれど、今の私には、これが世界で一番美味しいご馳走に感じられた。
「ケフっ……あー、コーラうめぇ。……ねえ、みんな。私さ、前の夫にずっと言われてたんだ。「掃除もできない女に価値はない」って。「俺がいなきゃお前はゴミだ」って。……でもさ、今日こうやってみんなと喋ってて、思ったんだよね」
炭酸が脳に回り、心地よい多幸感が体を包み込む。
私はコーラのボトルを握りしめ、カメラ(アバター)の向こう側にいる五万人に向かって、本音をぶちまけた。
「洗濯機が回せなくても、靴下が片方行方不明でも、コンビニ飯が夕食でも……生きてるだけで、私たちってめちゃくちゃ偉くない!? 毎日、絶望しないで朝起きてるだけで、もう優勝だよ! だらしなくてもいいじゃん、人間だもん。ねえ、そうでしょ瀬戸さぁーん!」
酔った勢いで、裏方にいるはずの瀬戸さんの名前を叫んでしまった。
コメント欄は「瀬戸さんwww」「敏腕編集者、出てこい!」「ねね様の全肯定、染みる……」と、かつてないほどの盛り上がりを見せる。
『瀬戸:配信に集中してください。……それと、コーラを飲みすぎです』
画面の隅に流れた瀬戸さんの冷徹なチャット固定。
それすらもリスナーにとっては「夫婦漫才」「信頼関係てぇてぇ(尊い)」として受け入れられていく。
一時間の配信が終わる頃、私の心は、あの日健二に踏みにじられた時とは比較にならないほど、温かい何かで満たされていた。
「……ありがとうございました。琥珀ねねでした。おやすみ、みんな。……明日も、適当に頑張ろうね」
配信終了。
私は椅子に深くもたれかかり、天井を見上げた。
ボロアパートの天井。剥がれかけた壁紙。
けれど、そこにはもう、絶望の影はなかった。
「……瀬戸さん、お疲れ様でした。私、今日も最高に楽しかったです。……私を、拾ってくれてありがとう」
ヘッドセットを外そうとした、その時だった。
いつもなら、事務的な挨拶だけで即座に切れる通話。
だが、今日は少しだけ、瀬戸さんの沈黙が長かった。
『……山咲さん』
「はい?」
『……今日の配信、良かったです。……君の言う通りかもしれませんね』
「え……?」
『……僕も、毎日正論と効率ばかりを追い求めて、少し疲れていました。……君の、その……適当で、だらしない配信を見ていると。……僕も、少しだけ救われている気がします。……おやすみなさい』
プツッ。
無機質な切断音。
けれど、私の耳の奥には、最後の一言が――いつもの冷徹なトーンの中に、ほんのわずかだけ混じっていた、熱っぽい響きが、残り火のように焼き付いていた。
「……え。……ええええっ!? 今、瀬戸さん、なんて!? 救われてるって言った!? 私が瀬戸さんを!? えええええーっ!!」
私は、空になったコーラのペットボトルを抱きしめたまま、ベッドの上でゴロゴロとのたうち回った。
心臓が、炭酸の泡が弾けるみたいに、うるさく跳ねている。
瀬戸さんに褒められた。
あの、鉄面皮で有能すぎる瀬戸さんが、私に「救われている」なんて。
「……どうしよう。どうしよう、瀬戸さん! 私、もっとだらしなくなっちゃうよぉぉ!!」
深夜のボロアパート。
元夫に「無能」と捨てられた女は、今、世界一幸せな、炭酸の夢の中にいた。
この時、私は気づいていなかった。
私が瀬戸さんという存在に深く依存し始め、そして彼もまた、私という「だらしなさの象徴」を、誰にも渡したくないほど大切に思い始めていることに。
そして、幸せの絶頂にいる私たちの影で。
ちあきが稼ぎ出した巨額の収益と、その「正体」を嗅ぎつけた健二の醜い欲望が、静かに鎌首をもたげ始めていることを。
第4話をお読みいただきありがとうございます!
「ズボラ飯配信」でリスナーだけでなく、あの瀬戸さんの心まで動かしてしまった(?)ちあき。
少しずつ、二人の間にビジネス以上の「何か」が芽生え始めているのが感じられたでしょうか?
瀬戸さんのデレ(微量)を察知して悶絶するちあきの姿にニヤリとしていただけたなら幸いです。
これから二人の距離はどうなっていくのか、そして不穏な影を見せ始めた元夫・健二は……。
「瀬戸さん、もっとデレて!」「ちあき、幸せになれ!」と思ってくださいましたら、
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皆様の星の一つ一つが、不器用な二人の背中を後押しします!
よろしくお願いいたします!




