第30話:マリッジブルー? いいえ、炭酸酔いです
幸せすぎるというのも、時には毒になるらしい。
瀬戸さん――一さんの実家へ挨拶に行き、温かく迎え入れられたあの日から、私の心には小さな「ささくれ」のような不安が芽生えていた。
都心の夜景が見える高級マンション。
指先一つ動かさなくても、瀬戸さんが完璧に整えてくれる清潔な日常。
そして、稀代のクリエイティブ一族の跡取り息子という、彼のあまりにも眩しすぎる正体。
「……無理。……やっぱり、絶対無理だよぉ……」
深夜。瀬戸さんが仕事のメールを返している隙に、私は配信部屋の隅で膝を抱えていた。
かつてのボロアパートにいた頃は、「健二を見返したい」という怒りがガソリンになっていた。けれど、その敵がいなくなり、手元に莫大な富と最高のパートナーが残った今。
私は、自分という人間の「だらしなさ」が、彼の人生に泥を塗るのではないかと、怖くてたまらなくなってしまったのだ。
「私みたいな、靴下を左右バラバラに履くような女が、瀬戸内家の嫁なんて……。いつか愛想を尽かされて、また捨てられるんだわ……。あうぅ、怖い、怖いよぉ……!」
私は、震える手で冷蔵庫から「最強」のラベルが貼られた強炭酸水を引っ張り出した。
今の不安を、喉を焼くような刺激で掻き消したかった。
シュパァァァッ!!
景気のいい音と共に、私はボトルの半分を一気に飲み干した。
◇
いつもなら、炭酸を飲めば多幸感に包まれる。
けれど、今日の私は違った。
マリッジブルーという名の心の闇と、強炭酸が混ざり合い、化学反応を起こしてしまったのだ。
そう、それは「炭酸酔い」の最悪の形態――「炭酸悪酔い」である。
「う、うわぁぁぁん!! 瀬戸さぁぁん!! 今のうちに私を捨ててくださいぃぃ!!」
突然の私の絶叫に、隣の部屋から瀬戸さんが血相を変えて飛び込んできた。
「山咲さん!? どうしたんですか、今の悲鳴は! 不審者ですか!? それとも機材が爆発――って、なんだ、その空きボトルの数!!」
床に転がる三本の強炭酸水のボトル。
私は顔を真っ赤にし、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、瀬戸さんの足にしがみついた。
「瀬戸さん! 私、分かりました! 私みたいなズボラ女は、瀬戸内家の家訓で雑巾にされる運命なんです! 一生、お屋敷の床を舐めて暮らすことになるんですぅぅ!」
「……何を、支離滅裂なことを……。被害妄想が過ぎますよ」
「嘘だ! 瀬戸さんは今は優しいけど、結婚して三日も経てば『お前、また洗濯物を裏返しに脱いだのか! この無能め!』って言って、私をコーラの川に放流するに決まってますぅぅ!!」
私は瀬戸さんの高級なスラックスに顔を擦り付けながら、全力の泣き上戸を晒した。
炭酸の泡が脳をかき乱し、止めどなく「捨てられる恐怖」が言葉になって溢れ出す。
「……ちあきさん。落ち着きなさい」
「落ち着けません! 私、自信あるんです! 一生、瀬戸さんに言われるまで歯を磨かない自信があるんです! そんな私を、瀬戸さんが一生愛せるわけないじゃないですかぁぁ!」
『………………っ』
瀬戸さんは、深い、深すぎる溜息をついた。
そして、ジタバタと暴れる私を、有無を言わさぬ力強さで、ひょいと抱き上げた。
◇
瀬戸さんは私をソファに座らせると、自分もその隣に座り、私の肩を逃げられないほど強く抱きしめた。
「……いいですか、よく聞きなさい。……君が洗濯物を裏返しに脱ぐ? そんなことは、出会った初日から知っています。……君が言われるまで歯を磨かない? だから私が、毎晩洗面所まで君を連行しているじゃありませんか」
「ううっ、……そうだけどぉ……。いつか、疲れちゃうじゃないですか」
「……疲れませんよ。……いいですか。君が何一つできないことは、私がいれば『問題』にすらならないと言ったはずです。……むしろ、君が完璧になったら、私の存在意義がなくなる。……君には、私の『管理者』としてのプライドを傷つけさせるつもりですか?」
「瀬戸、さん……」
瀬戸さんは、眼鏡を少しずらし、真っ赤になった私の瞳を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、かつての冷徹な「仕事のパートナー」の顔はなく。
ただただ、不器用で、世話焼きで、私という存在に執着しきっている「一人の男」の愛が、熱を持って宿っていた。
「……君を捨てたりしません。……君のだらしなさも、その泣き上戸なところも、全部ひっくるめて私の管理下にある宝物です。……瀬戸内一族の嫁としてではなく、私の妻として。……ありのままで、私の隣にいてください。……いいですね?」
瀬戸さんの低い声が、胸の奥に染み渡る。
マリッジブルーの霧が、彼の体温によって、スルスルと晴れていくのを感じた。
「……瀬戸さん。……大好き。……大好き、大好き!! 世界一幸せにしてください! 一生、私のことを甘やかして管理してください!」
『……はいはい。……言われなくても、そのつもりです。……ほら、顔を拭きなさい。……酷い顔ですよ』
瀬戸さんは、呆れながらも、至極丁寧に私の涙を拭ってくれた。
◇
翌朝。
炭酸の悪酔いから覚めた私は、少しの気恥ずかしさと、それを遥かに上回る幸福感に包まれていた。
私はPCを立ち上げ、一つの告知文を打ち込んだ。
【琥珀ねねから、大切なお知らせ】
明日。私は全世界のリスナーに向けて、人生最大の発表をする。
だらしなくて、一度は捨てられた私。
そんな私が、最高のパートナーと共に掴み取った「答え」。
サレ妻の逆転劇は。
いよいよ、最高のフィナーレに向けて、カウントダウンを始めた。
第30話をお読みいただき、ありがとうございます!
幸せすぎて不安になるマリッジブルー……。ちあきらしい「炭酸悪酔い」という形で爆発してしまいましたが、瀬戸さんの鉄壁の愛によって無事に鎮火されましたね。
「君がだらしないから、私がここにいる」という瀬戸さんの言葉、全肯定の極みで執筆していて胸が熱くなりました。
さて、次回はいよいよ……琥珀ねねの結婚報告配信です!
「瀬戸さんの添い寝(?)管理、尊すぎる!」「結婚式配信が楽しみ!」と思ってくださいましたら、
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皆様の星が、二人の門出を祝う盛大なファンファーレになります!
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