第2話:だらしない私を「価値がある」と言った、初めての人
「……は、はい。山咲ちあきです。よろしくお願いいたします」
ノートパソコンのスピーカーに向かって、私は蚊の鳴くような声で挨拶をした。
画面に映っているのは、昨日見たのと同じ静かな海のアイコン。ビデオ通話と言っても、お互いにカメラはオフだ。
相手の顔は見えない。ただ、回線の向こう側から、わずかに衣擦れの音が聞こえた後、驚くほど低くて心地よい声が響いた。
『初めまして。瀬戸です。……そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。私は取って食おうというわけではありませんから』
落ち着いた大人の男性の声だった。
その響きがあまりに知的で、それでいて冷徹すぎない温度感を持っていたので、私は思わず背筋を伸ばした。
今の私の格好といえば、首元が伸びきったジャージに、昨日泣き腫らしてむくんだ顔。さらには、さっき食べたカップ麺の容器が放置されたままの机。
カメラをオフにしておいて、本当によかったと心の底から胸を撫で下ろす。
「ご、ごめんなさい。昨日の書き込み……その、炭酸で酔っ払ってて……。変なことを書いた自覚はあります。もし迷惑だったら、今すぐ忘れていただいて構いませんので!」
私は勢いよくまくし立てた。
まともな判断力のある大人なら、あんな支離滅裂な「不倫されました! 私を世界一にしてください!」なんて募集、関わりたくないはずだ。
だが、瀬戸さんは低く小さく、笑った。
『いえ。むしろあの文章を読んで、私は君に連絡をしようと決めたんです。文章は確かに酷かったですが、君の「声」のサンプルを聴いて、確信しました。君には、人を惹きつける絶対的な才能がある』
「才能……? 私が、ですか?」
元夫の健二からは、三年間ずっと「お前には何の取り柄もない」「掃除もできない無能」と言われ続けてきた。
自分の声なんて、ただの音だと思っていた。それが才能だなんて、考えたこともない。
『ええ。ですから、まずはテストをしましょう。昨日の「酔った勢い」で録音したデータは残っていますか? あれを私に預けてください。私が、君の人生をコンテンツに変えてみせます』
それから数日。
私は瀬戸さんの指示に従い、自分の何気ない日常を録音し、彼に送り続けた。
基本は、家事ができなくて途方に暮れている様子や、コーラを飲んで元夫への文句を垂れ流しているだけの、人様には決して見せられない汚点のような音声だ。
そして今日、彼から一つの動画ファイルが届いた。
私は震える指で再生ボタンを押した。
「……っ!? これ、本当に私……?」
画面の中で動いているのは、瀬戸さんが用意してくれた仮のVチューバーモデルだった。
ふわふわとした銀髪、潤んだような紫色の瞳。儚げで守ってあげたくなるような、美少女の姿。
だが、そこから流れてくるのは、まぎれもない私の声だ。
『……あー、今日も洗濯機回すの忘れちゃったぁ。靴下が片方行方不明。もういいや、このまま寝る……ケフっ。……健二のバカ……私だって、本当は……っ』
瀬戸さんの編集は魔法のようだった。
私の情けない泣き言や、だらしない日常が、絶妙な間と効果音、そしてコミカルなテロップによって「放っておけない愛されキャラ」として昇華されていたのだ。
ただの悲惨な身の上話が、クスッと笑えて、どこか胸が締め付けられるような、最高に魅力的な物語に変わっていた。
『山咲さん。聞こえますか?』
ヘッドセットから、瀬戸さんの声が届く。
「はい……すごいです、瀬戸さん。私、こんなに……こんな風に見えるなんて思わなくて」
『これが君の価値です。君が「だらしない」と卑下していた部分は、今の疲れた現代人にとっては、最大の「癒やし」と「共感」になる。着飾る必要はありません。君は、君のまま、このアバターを通して世界に叫べばいいんです』
視界が熱くなった。
否定され続け、ゴミのように捨てられた私の人生を、この人は「価値がある」と言ってくれた。
「私、やりたいです。瀬戸さんと一緒に……Vチューバー、本気でやりたいです!」
『いい返事だ。では、今夜。デビュー初配信を行いましょう。名前は「琥珀ねね」。君の新しい人生の始まりです』
――そして、運命の初配信。
私は心臓の音がうるさすぎて破裂しそうだった。
モニターの向こうには、すでに数十人の待機勢がいる。瀬戸さんがSNSを駆使して、事前に話題を作ってくれていたおかげだ。
「ど、どどど、どうしよう瀬戸さん。噛みそうです。逃げ出したいです……」
『落ち着いて。机の上のコーラを一口だけ飲んで。私がついていますから』
瀬戸さんの落ち着いた声に促され、私はペットボトルに口をつけた。
強炭酸が喉を刺激し、鼻に抜ける。
一秒後。脳内にシュワシュワとした快楽物質が広がり、恐怖心がスルスルと溶けていく。
「ケフっ……あー、もういいや! いっちゃえー!」
配信開始のボタンを、私は勢いよく叩いた。
「……あ。……あー、テステス。聞こえてる? 初めまして、琥珀ねねです。……っていうか、見てよこれ。配信始まる五分前に、コーラこぼしてジャージがベタベタ。掃除するの面倒くさいから、このまま喋るわ。……あ、ちなみに私、不倫されて追い出されたばっかりのサレ妻ね。よろしくー」
一瞬、コメント欄が止まった。
あまりにも衝撃的な第一声。清楚な銀髪美少女の見た目から発せられたのは、あまりにもガチすぎる「底辺の日常」だった。
だが、次の瞬間。
『!?』
『初手から情報量が多すぎるwww』
『声は天使なのに中身が……推せる』
『不倫した旦那、見る目なさすぎだろw』
『ジャージのベタベタ拭けよw 好きw』
コメントが、滝のような速さで流れ始めた。
画面の隅で、同時視聴者数が百、二百、五百……と跳ね上がっていく。
「え、えへへ。みんな優しいねぇ……。あ、コーラうめぇ。……ねえ、聞いてくれる? うちの元夫、私のこと無能って言ったんだよ? ひどくない? うう、思い出しただけで泣けてきたぁ……」
炭酸酔いのせいか、私は初対面のリスナー相手に、ボロボロと泣きながら身の上話を始めた。
普通なら「放送事故」だ。
けれど、瀬戸さんがリアルタイムで入れるフォローのテロップや、私の声の良さが、それを極上のエンターテインメントに変えていく。
裏方チャット欄に、瀬戸さんからのメッセージが飛んできた。
『瀬戸:完璧です。そのままの君で、トップを獲りましょう』
私は画面をぼやけさせながら、力強く頷いた。
この時、私はまだ知らなかった。
この配信を、浮気相手と豪遊していた元夫が、偶然にも目にすることになるなんて。
そして、私の隣に立つ瀬戸さんが、どれほど私を甘やかす「世話焼き」へと変貌していくのかも。
サレ妻・山咲ちあきの、大逆転劇。
その幕は、最高に「だらしなく」切って落とされた。
第2話をお読みいただきありがとうございます!
ついに「琥珀ねね」としての第一歩を踏み出したちあき。
「炭酸酔い」の破壊力と、瀬戸さんの神サポートによって、予想外のバズりが巻き起こりました。
自分の欠点を「武器」だと言ってくれた瀬戸さん。
そんな彼との関係が、これからどう深まっていくのか(そしてどう甘やかされていくのか)……。
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