第20話:結衣の自滅と、健二の「確信」
「……はぁ。瀬戸さんが作ってくれる朝ごはん、今日も最高に美味しいです」
お泊まり二日目の朝。私は、綺麗に整えられた食卓で、瀬戸さんお手製のフレンチトーストを頬張っていた。
本来なら不審者への恐怖で眠れないはずなのに、隣の部屋に瀬戸さんがいるという安心感は、どんな睡眠薬よりも強力だった。
「山咲さん、口の横にシロップがついています。……全く、子供じゃないんですから」
瀬戸さんは呆れたように言いながら、ティッシュで私の頬を丁寧に拭ってくれる。
その指先が触れるたび、私の心臓は炭酸の泡のように跳ねる。
画面越しでは決して味わえなかった、この距離、この体温。
かつての家で、ただ「便利屋」として扱われていた私には、信じられないほど甘くて優しい時間が流れていた。
「瀬戸さん、私……。瀬戸さんがいれば、他に何もいらない気がします」
『……仕事のパートナーとして、最大限の信頼を寄せられていると解釈しておきます。……さあ、食べ終わったら新機材のチェックです。今日届く予定のものは、君の声をより鮮明に届けるための最高級品ですからね』
瀬戸さんは少し照れたように視線を逸らしたが、その口角は微かに上がっていた。
◇
一方で。
私がかつて「家」と呼んでいた場所から、さらにランクを落とした薄暗い賃貸マンション。
健二が重い足取りで帰宅し、玄関を開けると――そこには、静寂と異様なまでの「軽さ」が漂っていた。
「……結衣? おい、結衣。……なんだ、これ」
リビングに入った健二は、言葉を失った。
数日前まで散乱していた結衣のブランド品や派手な服が、跡形もなく消えている。
クローゼットは開け放たれ、健二が以前に買い与えた貴金属や、家の中にあった僅かな現金まで持ち去られていた。
代わりにテーブルの上に置かれていたのは、一通の封筒だった。
「……消費者金融からの督促状……? 連帯保証人、俺の名前になってるじゃないか……っ!」
結衣は、健二を「金のない男」と見限るや否や、彼を借金の盾にして、別の男の元へと逃げ出したのだ。
美貌だけで健二を操ってきた彼女だったが、その裏では健二の何倍も杜撰な金銭トラブルを抱え、最後は共倒れになる前に彼を切り捨てた。
「……あいつ、俺を裏切りやがったのか……。俺が、あんなに尽くしてやったのに……っ!」
健二は、ゴミ溜めのような部屋で一人、頭を抱えた。
結衣という「完璧だと思っていた仮面」が剥がれ落ち、後に残ったのは、莫大な借金と、孤独だけ。
この時、健二の脳裏に浮かんだのは、皮肉にも、かつて自分が「無能」と切り捨てたちあきの姿だった。
ちあきなら、こんな裏切りはしなかった。ちあきなら、俺を立てて、俺のために尽くしてくれた。
失って初めて気づいた「都合の良い献身」への渇望が、彼の歪んだ心をさらに加速させた。
◇
その日の深夜。
健二は、ちあきのアパートの物陰に、這いつくばるようにして潜んでいた。
自分を捨てた女が、どんなに惨めな生活を送っているか。それを見届け、「俺がいなきゃダメだろう」と救いの手を差し伸べるフリをして、自分に奉仕させる。それだけが今の彼の唯一の希望だった。
だが。
彼が目撃したのは、自分の想像を絶する光景だった。
「……あ、あの箱……なんだ?」
アパートの前に、深夜便の配送トラックが停まった。
そこから運び出されたのは、大きく重厚な木箱。
健二は、配送業者が伝票を確認するために立ち止まった瞬間、その内容を盗み見た。
(……一〇〇万? この機材、一箱で一〇〇万以上するのか……? 送り先は……ちあき、か!?)
さらに、別の箱には有名な高級ブランドのロゴが入った、大量の「リスナー(ファン)」からの贈り物。
健二には、それが「Vチューバー」としての収益や人気によるものだとは理解できなかった。
だが、その圧倒的な「富」の匂いだけは、卑しくも嗅ぎ取ることができた。
「……なんだよ、これ。……あいつ、俺を捨てておいて、こんなに金を……。あんなボロアパートに住んでるクセに、中身は金まみれじゃないか……!」
健二の瞳に、ギラついた欲望が宿る。
今の自分は借金まみれ。結衣に裏切られ、どん底。
一方、ちあきは自分の知らないところで、自分以上の富を築いている。
「……あの金があれば、俺の借金も、今の地獄も全部帳消しにできる。……そうだ、元々は俺が育ててやった女だ。あの金は、半分以上、俺の権利のはずだ……!」
健二の中で、ちあきの成功を「自分を助けるための資源」へと変換する、身勝手なロジックが完成した。
◇
部屋の中。
機材のセッティングを終えた瀬戸さんは、静かに窓の外を見下ろしていた。
夜の闇の中に、何者かの不快な気配を感じ取っているようだった。
「山咲さん」
「はい? 瀬戸さん、そんなに真面目な顔して、どうしたんですか?」
瀬戸さんは、不安そうな顔をする私を、優しく、けれど強く引き寄せ、その肩を抱きしめた。
「……明日は、絶対に一人で外へ出ないでください。……私が、君を、そして君の積み上げてきたすべてを守り抜きますから」
「瀬戸さん……」
瀬戸さんの腕の力強さと、窓の外に潜む闇。
過去の亡霊が、ついに「富」という餌を求めて、直接的な牙を剥こうとしていた。
だが、今の私の隣には、世界で一番有能で、私を全肯定してくれる、最高の騎士がいる。
運命の対決は、もう回避できないところまで来ていた。
第20話をお読みいただき、ありがとうございます!
不倫相手・結衣の「夜逃げ&借金押し付け」という、なかなかに自業自得な展開になりました。
結衣にとっては「金が尽きた健二」に価値はなく、健二にとっては「金を持っていそうなちあき」が最後の希望になるという、醜い連鎖が始まっています。
そして、ちあきの「高級機材」を見てしまった健二の歪んだ執着。
「あの金は俺の権利」という、典型的なクズ男思考に、次話での「ざまぁ」への期待が高まりますね。
「瀬戸さんのハグ、尊い……!」「健二、早く痛い目を見て!」と思ってくださいましたら、
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