第17話:おはようから始まる管理生活
「……むにゃ。あと、五分。……五分だけ、コーラの海で泳がせて……」
築四十年のボロアパート。その万年床の上で、私は幸せな夢の続きを貪っていた。
かつての私にとって、朝は恐怖の象徴だった。健二の不機嫌な足音に怯え、完璧な朝食を並べなければならないという強迫観念。
けれど、今の私を待っているのは、それとは全く違う「音」だった。
カチャリ、と玄関の鍵が開く小さな音。
以前の私ならパニックになるところだが、今の私にとっては、それは世界で一番安心できる「合図」だ。
「……山咲さん。いい加減に起きなさい。九時を五分過ぎていますよ」
聞き慣れた、低くて心地よい声。
近所に越してきた瀬戸さんは、私が渡した合鍵を使い、毎朝決まった時間に「管理」という名のモーニングコールに来てくれるようになった。
「……あう。瀬戸さん、おはようございますぅ……。あと、五秒だけ、添い寝してくれませんか……?」
『………………っ。寝ぼけたことを言っていないで、早く顔を洗ってきなさい。……だいたい、君は。コーラの空のペットボトルを枕にするのは、何度言えばやめるんですか』
瀬戸さんは呆れたように溜息をついた。
まぶたを擦りながら見上げると、そこには朝の光を背負った、完璧なまでに清潔で端正な「旦那様」……じゃなくて、編集者の姿。
眼鏡の奥の瞳が、私の無防備な寝顔(ボサボサ髪と伸びきったジャージ)を見て、一瞬だけ揺れたのを私は見逃さなかった。
「えへへ、瀬戸さん、今私の寝顔に見惚れてましたね? 可愛すぎて、仕事忘れそうになりました?」
『……仕事の効率を心配しているんです。……さあ、さっさと立ちなさい。私が用意した朝食が冷めますよ』
◇
瀬戸さんが持参した「健康的な朝食」が、綺麗になったテーブルに並ぶ。
彼が私のために栄養バランスを考えて作ってくれた……あるいは選んでくれた食事。
それを向かい合って食べる時間は、私にとってどんな成功報酬よりも甘いご褒美だった。
「瀬戸さん。私、毎日瀬戸さんが家に来てくれるなんて、前世で宇宙でも救ったんじゃないかなって思うんです。これ、実質的に新婚生活ですよね? もう婚姻届、予備の分まで用意してありますよ?」
『……君の生活リズムを矯正するのが私の使命ですから。……余計な口を動かす暇があるなら、手を動かしてください。……あ、口角にパンくずがついていますよ』
瀬戸さんは、自然な動作で指を伸ばし、私の口元の汚れを拭った。
その指先が、ほんの一瞬、私の唇に触れる。
「……あ」
『……っ!?』
瀬戸さんは、自分が何をしたか自覚した瞬間に、目に見えて耳まで真っ赤になった。
そのまま石像のようにフリーズする彼を見て、私の心拍数は炭酸の泡のように激しく跳ね上がる。
「……瀬戸さん。今の、確信犯ですよね? 責任とって、私を一生管理してくださいね?」
『……し、仕事の延長です! ……さあ、食べ終わったら機材のチェックです! さっさと動く!』
真っ赤な顔をして逃げるように流し台へ向かう瀬戸さん。
その広い背中に向かって、私は「大好きですよー!」と特大の愛を叫んだ。
◇
昼間の機材調整中。瀬戸さんは、私の後ろで真剣にコードを整理していた。
ふと、私は以前から気になっていたことを口にした。
「ねえ、瀬戸さん。そんなにかっこいいのに、毎日私のこんなアパートに来てていいんですか? 近所の奥様方とか、配信者仲間とかに狙われちゃいますよ?」
瀬戸さんは、手を止めずに答えた。
『……他人がどう思おうと、私には関係ありません。……私は、私の管理下にある「君」を守ることにしか、興味がないので』
「え……」
『君のだらしなさも、その無防備なところも、私以外に見せる必要はありません。……君の価値を一番理解しているのは私です。……いいですね、余所見をしないで、私の指示だけを聞いていればいいんです』
それは、独占欲という名の、最も甘い「鉄鎖」。
瀬戸さんは「ブランド管理の話です」と即座に付け足したけれど、その声には、隠しきれない情熱が宿っていた。
私は、自分の胸が温かさでいっぱいになるのを感じながら、彼の背中にそっと寄り添った。
◇
その夜。瀬戸さんが帰宅し、静まり返ったアパートの周辺。
暗い街灯の下に、一人の男が立ち尽くしていた。
健二だった。
彼は、実家の両親を執拗に脅し、泣きつかせ、ついにちあきの「居場所」を突き止めたのだ。
「……見つけた。……見つけたぞ、ちあき」
健二は、ちあきの部屋の明かりを見上げ、醜い笑みを浮かべた。
彼が今置かれているのは、結衣の浪費によって借金が膨れ上がり、家の中はゴミ溜め、電気も止まりかけているような絶望の淵だ。
「……ふん。あんなボロアパートに住みやがって。……どうせ俺がいなくて、生活に困ってるんだろう。……安心しろ、ちあき。俺が、もう一度お前を『回収』してやる。……お前は、俺に尽くしてさえいればいいんだからな……」
彼は、かつて自分が捨てた女が、今どれほどの栄光の中にいるかも。
そして、彼女の隣に、自分など足元にも及ばない「最強の守護者」がいることも知らない。
ただ自分の惨めさを埋めるために、自分勝手な妄想を抱いて、健二は闇の中に消えていった。
幸せの絶頂にいる私たちと。
破滅の淵で、過去を掴み直そうとする亡霊。
運命の歯車が、最悪の音を立てて、直接対決へと回り始めた。
第17話をお読みいただき、ありがとうございます!
第3章の開幕は、瀬戸さんの「モーニングコール」という名の甘々生活から始まりました。
口角のパンくずを拭うシーン、瀬戸さんの無自覚な溺愛が漏れ出してしまいましたね。
一方、ついに居場所を突き止めた元夫・健二。
「ボロアパートだから困っているはず」という勝手な思い込みが、後の「ざまぁ」をより大きくしてくれそうです。
「瀬戸さんの独占欲、もっと見たい!」「健二、早く絶望して!」と思ってくださいましたら、
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皆様の星が、二人の絆をさらに強固にし、クズ男を粉砕する力になります!
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