第16話:隣にいる幸せ
「……ふぅ。これでようやく、人間が住める場所になりましたね」
夕暮れ時。ボロアパートの一室で、瀬戸さんは額の汗を拭いながら、満足げに部屋を見渡した。
一晩中続いた格闘の末、床を埋め尽くしていた空き缶や段ボールは姿を消し、代わりにフローリングの板目が夕日に照らされて輝いている。
空気清浄機も、どこか誇らしげに清浄な風を送り出していた。
「すごいです、瀬戸さん……。私の部屋、こんなに広かったんですね」
私は、ピカピカになった床にちょこんと座り、感動に震えていた。
けれど、それ以上に私の胸を震わせていたのは、数歩先で腕まくりをしている瀬戸さんの姿だった。
画面越しの二次元的な存在だった彼が、今、私の生活空間にいて、私と一緒に呼吸をしている。
その事実が、コーラを十本一気飲みしたときよりも強烈な多幸感を私に与えていた。
「お礼に、と言ってはなんですけど……。瀬戸さん、これ、食べてください」
私は、瀬戸さんの指導を受けながら(「賞味期限を確認してください」「その皿は洗ってありますか」等の小言を挟まれつつ)用意した、少し良いお惣菜と炊きたてのご飯をテーブルに並べた。
「……いただきます」
向かい合って座る、二人だけの食卓。
瀬戸さんが、箸を使い、咀嚼し、喉を鳴らす。
その一つ一つの動作があまりにも愛おしくて、私は自分の箸を動かすのも忘れて見入ってしまった。
「瀬戸さん……。美味しいですか?」
「……ええ。悪くないですよ。……君とこうして食事をする日が来るとは、思ってもみませんでしたが」
瀬戸さんは、少し照れくさそうに視線を逸らした。
眼鏡の奥の瞳が、夕日のせいだけではない熱を帯びている。
これまで「ネットの向こう側の神様」だった人が、今、私の目の前でモグモグと食事をしている。その圧倒的な「現実感」に、私は幸せすぎて涙が出そうになった。
◇
食後の静かな時間。
瀬戸さんは温かいお茶(「夜にカフェインと糖分を摂りすぎるのは禁止です」とコーラを没収された)を飲みながら、意を決したように口を開いた。
「山咲さん。……今後の管理体制について、重大な変更があります」
「え、変更? 何ですか? もしかして、もう掃除に来てくれないとか……」
不安で顔を曇らせる私に、瀬戸さんは眼鏡を指で押し上げ、真剣な眼差しを向けた。
「……逆です。ネットワーク越しの指示では、君のズボラさを制御しきれないことが判明しました。ですので――。君の住んでいるこのアパートの近所に、部屋を借りました」
「…………え?」
「これからは毎日、私が直接ここへ来ます。朝の点呼、食事のチェック、配信環境の維持、そして生活指導。……私が物理的に隣にいて、君を徹底的に管理することに決めました」
数秒の沈黙の後、私の脳内は爆発した。
「それって、それって……! 毎日瀬戸さんに会えるってことですか!? 朝起きたら瀬戸さんがいて、夜も瀬戸さんの顔を見て眠れるってことですよね!? 実質的に、ほぼ新婚生活じゃないですかぁぁぁ!!」
「……ま、マネジメントの効率化です! 変な解釈をしないでください!」
瀬戸さんは叫ぶように言い返したが、その耳は、今日一番の赤さで染まっていた。
「管理下、万歳です! 瀬戸さん、私をもう一生離さないでくださいね! だらしない私を、瀬戸さんが一生かけて更生させてください!」
「……はいはい。……君という人は、本当に……。放っておけるほど、私はお人好しではないので」
瀬戸さんは、観念したように小さく笑った。
その笑顔は、これまでのどの「琥珀ねね」への賞賛よりも、私……山咲ちあきという一人の女性に向けられた、深い愛情に満ちていた。
◇
玄関先で、瀬戸さんを見送る。
夜風が心地よく、私たちの間を通り抜けていく。
「瀬戸さん。……私を拾ってくれて、本当にありがとう。私、今、世界で一番幸せです」
私がそう言って彼のシャツの裾を少しだけ掴むと、瀬戸さんは一瞬立ち止まり。
そして、おずおずとした、けれど温かい手で、私の頭をポンと優しく撫でた。
「……捨てたりしませんよ。……明日も朝九時に来ます。……掃除をサボっていたら、お仕置きですからね」
「はいっ! 楽しみにしてます!」
瀬戸さんは「……全く」と呟き、足早に廊下を去っていった。
その後ろ姿を、私はいつまでも、いつまでも、胸をいっぱいにしながら見送っていた。
だらしない私と、世話焼きな瀬戸さん。
画面越しだった私たちの絆は、今、本物の熱を持って結ばれた。
◇
一方で。
かつての私がいたマンションから、逃げるようにボロ家へと引っ越した男・健二。
「……クソ。金が、金が足りねえ……っ」
結衣との浪費生活の果てに、彼は絶望的な借金を抱えていた。
結衣は毎日「金を持ってこい」と彼を罵り、家の中は荒れ果て、かつての清潔な面影はどこにもない。
「……ちあき。……そうだ、アイツだ。アイツは俺に尽くすことしかできない女だ。……実家の場所なら分かってる。……無理矢理にでも居場所を吐かせて、金を……。俺の人生を立て直すための金を、出させてやる……」
健二の濁った瞳に、醜い執着が宿る。
かつて自分が「無能」と捨てた女が、実は自分の唯一の救い(金づる)であると信じ込む、破滅へのカウントダウン。
幸せの絶頂にいる私たちを、過去の亡霊が追いかけようとしていた。
第16話をお読みいただき、ありがとうございます!
これにて第2章「ネット越しの絆と事件(急接近編)」が完結いたしました!
物理的な距離がゼロになり、瀬戸さんの「近所への引っ越し(実質的な生活管理)」という、これ以上ないほど甘い展開で締めくくりました。
だらしないヒロインが、ハイスペック男子に物理的に甘やかされる……読者の皆様が求めていた報酬感を、最大級に詰め込めたかと思います。
一方の健二側は、ついにちあきへの「執着」という名の毒牙を剥き始めました。
第3章からは、いよいよ元夫との直接対決、そして「琥珀ねね」としての栄光と、それを奪おうとする過去との戦いが始まります。
「二章完結おめでとう!」「瀬戸さんの管理生活、続きが読みたすぎる!」と思ってくださいましたら、
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