第15話:アパートのドアの向こう側
「……あ、あう。……もう、指一本動かないよぉ……」
早朝のボロアパート。私は、積み上がったゴミ袋の山と、中途半端に片付いた(ように見えるだけの)床の真ん中で、大の字になって倒れ込んでいた。
瀬戸さんの「行く」という宣言から数時間。私は一睡もせず、半泣きで部屋中の空き缶を拾い、脱ぎっぱなしの服をクローゼットに押し込み、掃除機をかけ続けた。
けれど、長年蓄積された「ズボラの結晶」は、一夜漬けの掃除で隠せるほど甘いものではなかった。
「……瀬戸さんに見られたら、確実に死ぬ。……っていうか、この惨状を見せて『結婚して』なんて、どの口が言えるの……」
自分の不甲斐なさに絶望し、湿った畳の上に顔を埋めていた、その時だった。
ピンポーン。
静かな朝の空気を切り裂く、無機質なインターホンの音。
私は、心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃を受けて跳ね起きた。
「ひ、ひいいいっ!? きた、きちゃった!? まだ心の準備も、メイクの残りカスを落とす準備もできてないのに!」
私は狂ったように鏡を見て、髪を整え(きれず)、ジャージの襟を正し、震える手で玄関のドアノブを掴んだ。
深呼吸を三回。けれど、酸素は全く肺に入ってこない。
私は、えいや、と決死の覚悟でドアを開けた。
◇
「……おはようございます。山咲さん」
そこにいたのは。
画面越しに見た、あの「国宝級のイケメン」そのものだった。
銀縁の眼鏡。整えられた黒髪。
仕立ての良いネイビーのシャツに、清潔感溢れる細身のスラックス。
その手には、まるで戦場に赴く戦士のような重厚な掃除用具バッグが握られている。
朝の光を背負って立つ彼は、築四十年の薄暗いアパートの廊下にはあまりにも不釣り合いで、そこだけ次元が違うような輝きを放っていた。
「あ……。あ、あ……」
声が出ない。
本物だ。
画面の中で私の醜態を笑っていた、あの素敵な声の主。
私の魂を救ってくれた、あの理知的で美しい瞳が、今、数センチの距離で私を真っ直ぐに見つめている。
「……山咲さん? どうしました、そんなに固まって」
「………………実在、してたんですね。……瀬戸さん、本当に、人間だったんだ……」
「……当たり前でしょう。……失礼しますよ」
瀬戸さんは、呆れたように一つ溜息をつくと、私の許可を待たず一歩踏み込んできた。
その瞬間。
彼の眼鏡の奥の瞳が、一気に険しくなった。
『………………これは。……想像を、絶しますね』
「ひっ!? ごめんなさい! これでも、これでも頑張って片付けたんですぅ!」
部屋に入った瞬間の瀬戸さんの第一声は、もはや感嘆に近い絶望だった。
玄関からリビングに続く、わずかな「動線」以外は、依然として物と段ボールがひしめき合っている。
だが。
恐怖よりも先に、私の脳内を別の感情が支配した。
(……近い。……近いし、いい匂いがする……。……本物の瀬戸さんだぁぁぁ!!)
画面越しでは分からなかった、彼の身長の高さ、肩幅の広さ。
そして、ふわりと漂う、清潔な石鹸と微かなコーヒーの香り。
私の野生の本能が、目の前の「最高のご褒美」に向けて、一気に解き放たれた。
「瀬戸さぁぁん!! 本物だぁ! 会いたかった! もう、今すぐ抱きついていいですか!? 私、瀬戸さんの匂いだけで白米三杯いけます!」
『……っ! 待ちなさい! 寄るな! 抱きつく前に、まずその足元の空き缶を拾いなさい!』
瀬戸さんは、見たこともないような素早い動作でバッグを盾にし、私の突撃を間一髪で回避した。
だが、その顔。
知的な眼鏡の奥で、彼の肌が、首元から耳の先まで、瞬く間に真っ赤に染まっていくのを私は見逃さなかった。
「えへへ、瀬戸さん、照れてる! リアル照れ瀬戸さん、可愛すぎます! もう、一生この家から出しませんよ!」
『……黙りなさい! ……いいですか、山咲さん。私は「仕事」で来ているんです。君のこの劣悪な環境を更生させ、プロとしての生活を叩き込むために。……いいですね、掃除が終わるまで、君に自由はありませんよ』
瀬戸さんは、震える手で腕まくりをしながら、毅然とした態度で宣言した。
けれど、その視線は泳ぎ、私と目が合うたびに「……っ」と小さく肩を揺らしている。
◇
掃除が始まった。
瀬戸さんの手際は、恐ろしいほどに鮮やかだった。
「これは捨てます」「これはここ」と的確に指示を出し、自分でも驚くほどの速さで私の部屋が「部屋」としての形を取り戻していく。
私は彼の隣で、言われるがままに雑巾をかけたり、物を運んだりしていた。
狭いワンルーム。
すれ違うたびに、肩が触れそうになる。
彼が屈むたびに、その綺麗なうなじが目の前に来る。
「……ねえ、瀬戸さん」
『……何ですか。手を休めないでください』
「私、今、世界一幸せです。……瀬戸さんが私の部屋にいて、一緒に掃除してるなんて。……これって、実質同棲ですよね?」
『………………っ、掃除です!! 変なことを言っていないで、その段ボールをまとめてください!』
瀬戸さんは、掃除機の音で掻き消すように叫んだ。
けれど、その横顔は、もはや隠しきれないほど真っ赤になっていて。
画面越しの絆が、物理的な体温を帯びて重なり合う。
私の部屋に充満する、瀬戸さんの匂いと、彼の気配。
だらしない私を、叱りながらも決して見捨てず、こうして直接「管理」しに来てくれた人。
「……瀬戸さん。私、絶対にあなたを離しませんからね」
『……はいはい。……まずはその床を拭ききってから言いなさい』
いつもの台詞。
けれど、目の前で、少しだけ視線を逸らしながら言った彼の声は、これまでのどの通信よりも、甘く、熱く、私の胸を震わせた。
サレ妻としての絶望が消えたアパートの一室で。
私たちの「リアルな恋」が、掃除の砂埃と共に、激しく舞い上がり始めていた。
第15話をお読みいただき、ありがとうございます!
ついに……ついにリアルで出会ってしまった二人!
瀬戸さんの「実物のハイスペックさ」と、それを前にしても全く衰えない(どころか加速する)ちあきの猛アタック……楽しんでいただけましたでしょうか。
「瀬戸さんのリアル赤面、ごちそうさまです!」「このまま同棲してしまえ!」と思ってくださいましたら、
ぜひ下の【評価(★★★★★)】やブックマークで応援をお願いします!
皆様の応援が、二人の物理的距離をさらにゼロにする力になります!
次回……第2章完結。二人の「新しい関係」の形が決まります。
お楽しみに!




