第13話:不倫カップルの「真の地獄」
朝の光が、新しく買い替えた遮光カーテンの隙間から、心地よく差し込んでくる。
かつての私なら、この時間に目が覚めることは絶望でしかなかった。
「あ、今日ゴミ出しの日だっけ」「健二のシャツ、アイロンがけ終わってたっけ」……。
起き上がった瞬間から、誰かに評価されるための『ノルマ』に追われる日々。
けれど、今の私は違う。
「……ふわぁ。……いい匂い」
私は、昨日瀬戸さんに「初収益のお祝いに、少しくらい贅沢をしてもバチは当たりませんよ」と言われて購入した、デパ地下の高級クロワッサンをトースターに入れた。
サクッという音とともに、バターの芳醇な香りが部屋中に広がる。
私は、いつものように瀬戸さんとのチャット画面を開いた。
「瀬戸さーん! 見てください、今日の朝ごはんはクロワッサンですよ! 一個五百円もするんです。私、貴族になっちゃったかもしれません!」
焼き立てのパンの写真を送ると、数秒で既読がつき、いつも通りの――けれど、どこか以前より柔らかいトーンの返信が届いた。
『瀬戸:贅沢をするのは自由ですが、パンくずをキーボードの隙間に落とさないように。……それから、飲み物はコーラではなく、温かい紅茶にしてください。胃を労わるのもプロの仕事ですよ』
「えーっ! コーラの方が合うのに! ……でも、瀬戸さんがそう言うなら、紅茶にします。私、瀬戸さんの管理下にある一号被験者ですからね!」
『瀬戸:……。……食べ終わったら、機材チェックの通話を繋ぎます。遅れないように』
画面越しのやり取り。
それだけなのに、私の胸はクロワッサンよりも温かく、満たされていた。
だらしない私を「管理」してくれる、世界でたった一人の大切なパートナー。
かつての家で、誰にも認められず、ただ「無能」と切り捨てられていた頃の私に見せてあげたい。
あんた、今、最高に幸せだよ、って。
◇
一方で。
私が去った後のマンションは、もはや「家」と呼べるような場所ではなくなっていた。
「……ただいま」
健二が重い足取りで玄関のドアを開けた瞬間、彼を襲ったのは、むせ返るような生ゴミの臭いと、乱雑に脱ぎ散らかされたハイヒールの山だった。
「……結衣? おい、結衣」
リビングに入ると、そこには不倫相手であったはずの結衣が、ソファでくつろぎながら優雅にワインを飲んでいた。
だが、その足元には、数日前に食べたはずのデリバリーの容器が放置され、テーブルの上にはブランドショップの紙袋が散乱している。
「健二さん、おかえり。……ねえ、聞いてよ。今月、カードの限度額が超えちゃったんだけど。明日までに、あと三十万くらい補填しておいてくれない?」
「三十万!? ふざけるな! 先週も十万渡したばかりだろ! ……だいたい、なんだこの部屋の惨状は。ちあきがいた頃は、こんな……」
「ちあき、ちあきって、うるさいわね!」
結衣はワイングラスをテーブルに叩きつけるように置いた。
「私は健二さんに愛されるためにここにいるの。掃除や洗濯なんて、汚らしい仕事をするために来たわけじゃないわ。……だいたい、健二さんの年収、思っていたよりずっと少ないじゃない。私を満足させられないなら、エリートなんて名乗らないでよ」
「なんだと……っ!」
不倫をしていた頃、彼女は「完璧な女神」に見えた。
自分の話を全て肯定し、優しく微笑み、健二の自尊心をこれでもかと満たしてくれた存在。
だが、いざ生活を共にして分かったのは、結衣はちあきよりも遥かに家事をせず、ただ健二を「便利なATM」としてしか見ていないという現実だった。
結衣が寝室へ消えた後、健二は一人、暗いキッチンでカップ麺を啜った。
お湯を入れるのも、自分。
麺が伸びていくのを、無機質な静寂の中で眺めるのも、自分。
(……なんでだ。なんで、俺はこんな生活を……)
かつて、ちあきが「だらしない」と言いながらも、毎日作ってくれていた温かい味噌汁。
脱ぎっぱなしの靴下を文句を言いながらも片付け、俺が帰る場所を、常に「家」として整えてくれていた、あの女。
当時はあんなに無能だと思っていたちあきの存在が、今の地獄のような日常と比較され、健二の胸に醜い執着となって鎌首をもたげ始めた。
(……アイツなら、俺の言うことを何でも聞いた。……ちあきなら、今頃俺がいなくなって、どこかで泣きながら後悔しているはずだ)
健二は、ちあきが今、自分よりも遥かに豊かな生活を送り、愛するパートナーに守られていることなど、想像もしていなかった。
彼はただ、自分の惨めさを埋めるために、自分が一方的に捨てた「都合のいい女」を、もう一度自分の管理下に置きたいという、卑屈な欲望に駆られていた。
◇
「ケフっ……。……あー、お腹いっぱい! 瀬戸さん、私、今日も最高に元気ですよ!」
私は、紅茶を飲み干して、スピーカーに向かって満面の笑みで叫んだ。
瀬戸さんは「……騒々しいですよ」と呆れたように返したが、その声の裏側には、私を愛おしむような響きが、確かに混じっていた。
過去の地獄から解き放たれ、新しい光の中にいる私。
そして、自業自得の地獄の底で、失ったものの価値にすら気づけず、ただ醜い執着に身を焦がす男。
運命は、もう二度と、健二の望むようには回らない。
琥珀ねねとしての活動が、さらなる飛躍を見せようとしている今。
私は、瀬戸さんの温かい「管理」に包まれながら、本当の意味での幸せを噛みしめていた。
第13話をお読みいただき、ありがとうございます!
ちあきの「高級クロワッサン」というプチ贅沢と、健二側の「カップ麺」という惨めな対比、いかがでしたでしょうか。
健二側については、ご指示通り不倫相手との破綻のみを描き、外部の情報を一切遮断することで、彼の自業自得感を強調しました。
瀬戸さんからの「紅茶を飲みなさい」という過保護なリマインドに、ちあきと一緒にキュンとしていただければ幸いです!
これから、そんな瀬戸さんの「管理」が、いよいよ物理的な距離を縮めていく展開が……?
「瀬戸さんの管理が甘すぎる!」「健二、もっと苦しめ!」と思ってくださいましたら、
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