第10話:運命のカメラ切り忘れ事件(前編)
人生には、決定的な瞬間というものが存在する。
私にとっては、不倫されて家を追い出されたあの日がそうだった。そして今、私の目の前で、それに匹敵する……いや、ある意味ではそれ以上の「地殻変動」が起きようとしていた。
深夜零時。私の部屋は、相変わらずの惨状だった。
収益で買った高級空気清浄機だけが、シュコーという静かな音を立てて、ホコリまみれの空気を懸命に浄化している。
私はといえば、昨日瀬戸さんに名前を呼ばれた(気がする)という事実だけで、脳内が多幸感の炭酸で溢れかえっていた。
「ふふ、ふふふ……。瀬戸さん、今日は一段と声が優しい気がする。これはもう、私に惚れてるってことでいいんだよね!?」
私は、お祝い代わりに開けた一・五リットルの強炭酸コーラをがぶ飲みした。
喉を焼くような刺激。鼻に抜ける甘い香り。
「ケフっ」と小さく震えるような音を漏らし、私の炭酸酔いは最高潮に達していた。
そんな中、PCの画面上で瀬戸さんとの定期ビデオチャットが開始される。
いつも通り、お互いのカメラは「オフ」の設定だ。画面には、私の琥珀ねねの立ち絵と、瀬戸さんの静かな海のアイコンが並んでいるだけ。
『……山咲さん。聞こえますか? 次回の機材配置案を画面共有します。……そこにあるオーディオインターフェースの端子を、こう……』
スピーカーから流れる、冷たくて、でも私の心を溶かす低音。
瀬戸さんは淡々と、私が送った「配線がぐちゃぐちゃのデスク写真」を元に、改善案を説明してくれている。
「はーい、了解ですぅ! 瀬戸さぁーん、見て見て! 私、新しい期間限定のコーラ買ったんですよぉ! これ、瀬戸さんにも飲ませてあげたいなぁ!」
炭酸酔いで、手元がひどくおぼつかない。
私は瀬戸さんに「見てほしい」という一心で、画面共有のボタンを押そうとした。
――だが、私の指が触れたのは。
共有アイコンのすぐ隣にある、小さなカメラのアイコンだった。
◇
カチッ。
その、小さなクリック音が、世界の終わりを告げる鐘の音に聞こえた。
真っ暗だった画面の下半分に、突如として鮮明な映像が映り込む。
そこに映っていたのは。
ボサボサの髪を適当にクリップでまとめ、ジャージの首元が少し伸びきった、けれど――。
元夫から「無能」と呼ばれ、自分でも「地味だ」と思い込んでいた、山咲ちあきの素顔だった。
色素の薄い大きな瞳が驚きに見開かれ、色白の肌が炭酸でほんのりと桜色に上気している。
「あ……」
声が出なかった。
そして。
おそらく、私の側の設定変更に引きずられたのだろう。
連携している瀬戸さんの側のカメラも、不意に、無情に、起動した。
画面の上半分。
海のアイコンが消え、そこに一人の男が映し出された。
『…………え?』
瀬戸さんの、困惑したような声が漏れる。
そこにいたのは。
知的な銀縁の眼鏡をかけ、整いすぎた眉を少しだけ寄せた、誰もが二度見するような……いや、二度見どころか三度見しても信じられないほどの、超絶ハイスペックなイケメンだった。
モニター越しに見つめ合う、二つの視線。
私は、手に持っていたコーラのペットボトルを口元に運んだまま、石造りの彫像のように固まった。
私の脳内は、処理能力を遥かに超えた情報量にショート寸前だった。
(……え。待って。うそ。瀬戸さん……かっこよすぎない!?)
画面の中の彼は、落ち着いたダークグレーのシャツを着こなし、その整った容姿からは想像もつかないほど、生々しい「驚き」の表情を浮かべていた。
私が今まで「仕事ですから」と冷たくあしらわれていた相手が、こんな、映画の主役のような男だったなんて。
一方の瀬戸さんもまた、手に持っていたペンをデスクに落としたまま、呆然と私を見ていた。
『……山咲……さん?』
その声が、わずかに震えている。
彼は、私がいつも「素材」として送っている、あのゴミ溜めのような部屋の音を立てていた主が。
だらしなく、コーラを飲んで泣きじゃくっていた女が。
こんなに、吸い込まれそうな瞳をした、儚げで、けれど眩しいほどの美しさを秘めた女性だなんて、想像もしていなかったのだろう。
沈黙が、永遠のように長く感じられた。
私の背後には、脱ぎっぱなしの靴下が一つ、見切れて映っている。
私の手には、一・五リットルの巨大なコーラ。
最悪の初対面。
最高の、素顔の邂逅。
「……瀬戸、さん……」
私がやっとの思いで名前を呼んだ瞬間。
画面の中の瀬戸さんの耳が、目に見えて、赤く、熱を帯びていくのがわかった。
『……っ、すみません!!』
瀬戸さんが、見たこともないような慌てた動作で、ブチリと接続を切った。
真っ暗になったモニター。
そこに映るのは、呆然とした私の、真っ赤になった顔だけ。
「………………実在、したんだ。あんな、かっこいい人類」
私は、熱くなった顔を両手で覆い、ベッドの上へ崩れ落ちた。
心臓の音が、耳の奥まで響いてくる。
炭酸の酔いなんて、一瞬で吹き飛んでいた。
これが、事件。
ネット越しの絆という、安全な殻が壊れた瞬間。
そして。
私の中にあった、もどかしい「憧れ」という名の種が。
瀬戸さんのあの「照れ顔」を見た瞬間、一気に大爆発して、制御不能な『愛』へと変わった瞬間だった。
「……決めた。私、絶対この人を、私の旦那にする!!」
深夜のボロアパートに、私の新たな、そしてこれまでで最も熱烈な決意が響き渡った。
第10話をお読みいただき、ありがとうございます!
ついに、ついに……! お互いの素顔を知ってしまった二人。
しかも瀬戸さんが想像を絶するハイスペック・イケメンだったという、ちあきにとっては「最高のご褒美」にして「暴走の引き金」となる回でした。
不意にカメラが回ってしまった時の、あの絶望と、その後に来る衝撃的なときめき……共有できていれば幸いです!
瀬戸さんのあの「耳まで真っ赤」な反応にキュンとした方は……。
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皆様の応援が、次話から始まるちあきの「暴走猛アタック」を加速させます!
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