第9話:トップランナーの孤独と、唯一の理解者
「……はぁ。……疲れたぁ」
配信終了の表示を確認し、私はそのままデスクの上に突っ伏した。
登録者数が十万人を超えてからというもの、私の生活は一変した。
かつて私を捨てた健二に見せつけてやりたい、という一心で始めた活動だったけれど、今や『琥珀ねね』という存在は、私個人の手には負えないほど大きなものになりつつある。
ネットを開けば私の切り抜き動画が溢れ、SNSの通知は一秒間に何度も更新される。
そのほとんどは温かい応援の声だ。けれど、分母が増えれば、どうしても毒のような言葉も混じり始める。
『不倫される方にも原因があるんじゃないの?』
『どうせズボラっていう設定でしょ。中身は計算高いおばさんだよ』
『声がいいだけで調子に乗ってる』
ブロックしても、瀬戸さんが消してくれても、ふとした瞬間に視界に入ってしまう鋭利な言葉。
それらは、健二に毎日浴びせられていた罵声を思い出させるには十分すぎるほどの毒性を持っていた。
「……私、本当にこのままでいいのかな。……やっぱり、だらしないだけの私は、いつかみんなに愛想を尽かされるんじゃ……」
暗い部屋の中、空気清浄機の作動音だけが虚しく響く。
一・五リットルのコーラを手に取る元気すらなくて、私は膝を抱えて丸まった。
十万人の歓声よりも、たった数行の悪意の方が、今の私の心には重くのしかかっていた。
その時。
静かな部屋に、スマートフォンのバイブレーションが響いた。
画面を見ると、そこには『瀬戸』の文字。
打ち合わせの時間にはまだ早い。何かのトラブルだろうかと、私は慌てて通話ボタンを押した。
「は、はい。山咲です……」
『……山咲さん』
耳に飛び込んできたのは、いつもの、冷たくて心地よい、あの低音。
けれど、今日の彼の声には、いつもより少しだけ、確かな「質量」があった。
『……今の配信、終わりの挨拶が三秒早かったですね。それに、SNSへの終了報告もまだされていない。……何かありましたか?』
「え……。あ、わかっちゃいました? すみません、ちょっと疲れちゃったみたいで……。すぐ、報告書きますね」
『……嘘を吐くのが下手ですね、君は』
瀬戸さんは、静かに、けれど強く、私の言葉を遮った。
『画面越しでも、君が今どんな顔をしているかくらい、私には分かります。……一人で抱え込んで縮こまるのは、私の仕事を奪う行為だと言ったはずですが?』
「……瀬戸さん……」
その一言で、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
私は、誰にも見せていなかった涙を、スピーカーの向こう側にいる彼にだけ、ボロボロとこぼした。
「……っ、瀬戸さん。私、怖いんです。……みんなが褒めてくれるたびに、いつか『だらしない本物』の私を知って、ガッカリされるんじゃないかって……。健二みたいに、お前は無能だって捨てられるんじゃないかって……」
一度溢れ出した言葉は止まらなかった。
ネットの誹謗中傷、過去のトラウマ。それらがごちゃ混ぜになって、私は子供のように泣きじゃくった。
瀬戸さんは、何も言わずに私の泣き声を聞いてくれていた。
否定もせず、安易な慰めも口にせず。ただ、彼がそこにいて、私の呼吸を共有してくれている。その事実だけで、部屋の温度が少しだけ上がった気がした。
『……山咲さん。いいですか、よく聞いてください』
私が少し落ち着くのを待ってから、瀬戸さんは語り始めた。
『君は確かにだらしない。掃除もできないし、機材の管理も危うい。……それは事実です』
「うう……。そんなにはっきり言わなくても……」
『ですが、その「だらしない君」に、今、十万人の人が救われている。君がコーラを飲んで「生きてるだけで偉い」と笑うたびに、救われている誰かがいる。……そして何より、その「だらしない君」という素材を、プロとして選んだのは私です』
瀬戸さんの声が、一段と低く、響いた。
『世界中が君を疑い、君自身が自分を信じられなくなったとしても。……私だけは、君を信じている。私が価値があると決めた君を、否定することは、私の目利きを否定することと同じです。……私に、泥を塗るつもりですか?』
「そ、そんなわけないです……!」
『なら、前を向きなさい。君の隣には、私がいます。……君がどれだけだらしなくても、その手を引いてトップまで連れて行く。それが私の仕事であり、私の意志です』
その言葉は、どんな甘い愛の告白よりも、私の心に深く、重く、そして甘く刻まれた。
元夫の健二は、私から自信を奪うことで私を支配した。
でも、瀬戸さんは、私に自信を与えることで、私の世界を広げてくれる。
「……瀬戸さん。……ありがとうございます。私、また頑張れます。瀬戸さんがいてくれるなら、何も怖くないです」
『……わかればいいんです。……さあ、もう遅い。今日はこのまま、通話は繋いでおきますから。君が眠りにつくまで、私が傍にいます』
「え……。いいんですか?」
『……仕事ですから。……君の睡眠不足は、明日の声のツヤに影響します。早く目を閉じてください』
どこまでも「仕事」だと言い張る、不器用な優しさ。
私はベッドに潜り込み、スピーカーから聞こえる彼の微かな呼吸音を子守歌代わりに、瞳を閉じた。
暗い部屋。けれど、不思議と寂しくなかった。
まどろみの中で、私は小さく、誰にも聞こえないような声で呟いた。
「瀬戸さん……。本当に……大好き……」
その言葉が届いたのかはわからない。
意識が遠のく中、最後に聞こえたのは、いつもより少しだけ慌てたような、柔らかな声だった。
『……おやすみなさい、ちあきさん。……全く、放っておけませんね』
◇
翌朝、目が覚めた時。
昨夜の不安は、炭酸の泡が弾けるように綺麗に消えていた。
私は、昨日よりもずっと力強く、冷蔵庫からコーラのボトルを取り出した。
名前を呼ばれたような気がしたのは、きっと夢だったのかもしれないけれど。
それでも、私の胸の中には、新しい力が満ちていた。
私と瀬戸さんの距離は、今、見えない絆によって限界まで引き寄せられている。
そして、この「ネット越しの絆」が、ある劇的な事件によって、決定的に崩れ去る瞬間が――もう、すぐそこまで迫っていた。
第9話をお読みいただき、ありがとうございます!
有名になったからこそ感じる不安を、瀬戸さんが圧倒的な信頼で溶かしてくれる、癒やしの回。
「瀬戸さん、かっこよすぎる!」「ちあき、幸せになれ!」と思ってくださいましたら、
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皆様の星の一つ一つが、二人の物語を加速させる炭酸になります!




