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EP.3-12 わがままの代償

皆さん、こんにちは!Time Bombです!


今週はイレギュラーなことがあり、執筆にほとんど時間を割けない一週間でした。


その一方で、今僕のことを気にかけてくれている人たちに、伝えられる時にちゃんと感謝を伝えること。


その大切さに改めて気づくことができた一週間でもありました。


また来週からは気持ちを切り替えて、読者の皆様の期待に応えられるよう、楽しみながら執筆に励んでいきます!


引き続き『Abyss Trigger ーーSecret Xーー』をよろしくお願いします!

夏月「ねえ、言ってること分からない?」


瑞葵「え?」


夏月「二人だと余計に危ないから、一人で行くの」


瑞葵「それって……」


夏月「試合会場に行けばすぐ気分を悪くする。 女の子に変装してるのに男子トイレに行く」


 夏月は一瞬だけ瑞葵を見た。


夏月「今の瑞葵を見て、信用できると思う?」


瑞葵「ごめん………」


夏月(こんなこと言わせないでよ……)


 口にした言葉は正しい。


 正しいはずなのに、言ったあとで胸の奥がひどく重くなる。


 確かに今の瑞葵は危なっかしい。

 フォローしなければならない部分も多い。

 けれど、そう分かっていながらも、任務の成功を優先するあまり、どうしても言葉が鋭くなってしまう。


 心に余裕がないのだと、自分でも分かっていた。


 昨日までは、松戸に言われた“瑞葵を受け入れる準備”という言葉が、胸のどこかに残っていたはずなのに。

 今の夏月は、そのことさえ頭の隅へ追いやってしまっている。


 受け入れることより、任務を成功させること。

 それもただの任務成功ではない。


 父に認められたい。

 兄より上だと思われたい。

 そんな気持ちが、想像以上に自分を急かしているのだと、夏月はもう気づいていた。


夏月「はぁ……とにかく、周りの西横たちに紛れてくれればそれでいいから。 無理する必要もない」


夏月「子どもたちが螺旋階段に近づこうとしないなら、何もしなくていいから」


 それだけ言うと、夏月はその場を後にした。


夏月 (やってしまった……)


 後悔が、遅れて胸の中に滲んでくる。


 昨日、父と兄に会ってから、その気持ちは何度も頭をもたげていた。


 ――今なら、兄を超えられるんじゃないか。


 自宅へ戻ってからも、その考えは何度も浮かんでは、無理やり押し込めてきたはずだった。

 けれど苳也は受験に失敗した。

 なら今ここで任務を成功させ、結果を出せば、評価が覆るかもしれない。


 そんな淡い期待を、どうしても捨て切れなかった。


 馬鹿みたいだ、と夏月は思う。


 昨日の父の目を見れば分かっていたはずだ。

 自分は必要な時だけ呼び戻される道具でしかない。

 冬川照子という名前も、感謝も、全部外向けの見せ方の一部でしかない。


 それでも。


 そうまで思い知らされたあとでも、まだ父の評価を欲しがっている自分がいた。


 その事実が、何より悔しかった。


 リングからまた新たな歓声が湧き上がる。


 ちらりと視線を向けると、瑞葵はなんとか西横キッズの中に紛れて観客に混ざっていた。

 ぎこちなさはあるが、少なくとも今は目立っていない。


夏月(やるしかない。私、一人で……)


 観客たちと警備の視線がリングへ釘付けになっている隙を見て、夏月は厨房裏へ飛び込んだ。


 古い雑居ビルを再利用しているだけあって、セキュリティは驚くほど甘い。

 むしろ、こういう場所だからこそ、表立った設備に頼らず、人の目と空気で監視しているのだろう。


 油の染みついた床。

 くたびれたシンク。

 金属の作業台。

 隅に積まれた段ボール箱。

 漂うのは食べ物の匂いというより、古い建物に染み込んだ湿気と汚れの匂いだった。


 厨房裏は、簡単な料理なら作れそうな造りになっていた。

 だが今は、鍋も火も動いておらず、妙な静けさだけがそこにあった。


夏月(人はいない……)


 それでも完全な無人ではないと、夏月はすぐに気づいた。


 微かに、小さなクリック音が聞こえる。

 マウスを動かすような、乾いた音。


 厨房自体は狭い。

 けれど、その奥には「rest room」と書かれたドアがあった。


夏月 (そこか……)


 夏月はバッグから折りたたみ式の誘導棒を取り出し、静かにセットした。


 見た目はただの小型の道具にしか見えないが、振り抜けば十分に武器になる。

 バッグの中身を確認された時に怪しまれないよう、強度は少し落としてある。

 それでも、不意打ちには使えるはずだった。


 左手にそれを構えたまま、夏月はドアをノックする。


 返事はない。


 だが、中に誰かいる気配は消えない。


 もう一度、今度は少し間を置いてからノックする。

 やはり返事はない。


 相手が複数なら、一人でも数を減らせるに越したことはない。

 本当は、誰かがドアを開けたところで奇襲をかけるつもりだった。


 けれど反応がない。


夏月(中に何人いるか分からない。どうする……)


 短い逡巡。


 ――でも。


夏月(瑞葵を呼んだところで、現状が変わるわけでもない)


 今の瑞葵をここへ呼ぶ意味はない。

 むしろ、さらに状況が悪くなる可能性の方が高い。


 父の顔が頭をよぎる。

 兄の無言の横顔も。


夏月 (やるしかない)


 夏月は息を殺して「rest room」のドアを開け、中へ滑り込んだ。


 しかし、中には誰もいなかった。


夏月 (もしかして……)


 急いで奥へ目をやると、非常階段へ繋がる半開きのドアがあった。


 見上げても、すでに人影はない。


夏月(作戦が仇となっちゃったか……)


 ノックをしたせいで、相手に逃げる時間を与えてしまったのかもしれない。

 そう思いかけた、その瞬間だった。


夏月「!」


夏月(違う!)


 視界の右端。

 黒いノートパソコンの画面に、ほんの僅かだが人影が映った。


 ここですぐ振り向くのは危険だ。


 夏月はあえてそのまま三歩だけ前へ出た。

 相手に“気づいていない”と思わせたまま、体の向きをずらしてから一気に後ろを振り向く。


 次の瞬間、細身で背の高い男の回し蹴りが飛んできた。


夏月「ッ……」


 位置をずらしていたおかげで、直撃だけは避けられた。

 それでも右耳を掠め、熱い痛みが走る。

 すぐに皮膚が切れて血が滲み出るのが分かった。


 男は無言のまま、間合いを取り直す。


 夏月も誘導棒を握り直し、低く構えた。


 しばしの牽制。

 互いに一歩も動かず、視線だけがぶつかり合う。


「お嬢ちゃん、何をやっているのかな?」


 低い声だった。


 軽く笑っているようで、その実まったく隙がない。

 夏月はわずかな時間で思考を回す。


 理想は嘘をつくことだ。

 偶然迷い込んだ、トイレを探していた、そういう言い訳はいくつも浮かぶ。


 けれど、目の前の男を納得させられる気がしなかった。

 下手な言い訳は、むしろ相手に判断の時間を与えるだけだ。


 ならば――


夏月「………」


 沈黙。


 それが今の自分にできる、いちばんまともな返答だった。


 夏月はゆっくりと男との距離を保ちながら、左手で非常階段側のドアを押し閉める。

 カチ、と小さく鍵が回る音がした。


 そのわずかな隙を、男は見逃さなかった。


 床を蹴る音。

 一気に距離が詰まる。


夏月(来ると思った。)


 夏月は左手を離し、あらかじめ右手に持ち替えていた誘導棒を男の喉仏へ思いきり突き込んだ。


 狙いは急所。

 迷いなく、まっすぐ。


 男の口から声にならない嗚咽が漏れる。


 酸素の流れを一瞬断たれた男は、その場に膝をつく。

 涎を垂らし、咳き込みながらも立ち上がろうとするが、その前に夏月は体重を乗せて押し倒した。


 床に沈む鈍い音。


 そのまま男の背中を押さえ込み、もう片方の手で誘導棒を首筋へ押し当てる。

 抵抗の気配があればもう一撃入れるつもりだった。


 だが男は、酸素を奪われたままぐったりと伸びてしまった。


 意外なほどあっさり、決着がつく。


 夏月はようやくそこで、全身に力が入っていたことに気づいた。


夏月「はぁ……………はぁ……………」


 肺が焼けるようだった。

 上手くいったはずなのに、呼吸は全然整わない。


 流れるように捕獲はできた。

 できたのに、それ以上に緊張していたのだと、今になって分かる。


夏月「はぁ……………はぁ……………」


夏月(翼がいなくても、一人で捕獲できた……)


 Secret Xに加入した直後の自分では考えられなかった。


 あの頃より、確実に動けるようになっている。

 判断も速くなった。

 怖くても、足が止まらなくなった。


 それなのに。


 胸の奥は少しも軽くならなかった。


 やれた。

 うまくいった。

 そう思うのに、満たされない。


 成長したと自分で認めたいのに、心のどこかではまだ誰かに見てほしいと思っている。

 頑張ったと、ちゃんと評価してほしいと思っている。

 その“誰か”の中に、一番見ていてほしい人が含まれていることが、余計に苦しかった。


ーーーーー


 その後、夏月は目を覚ましても動けないよう、こっそり忍ばせておいた手錠二つを非常階段の手すりに付け、男を拘束した。


 動きは慣れている。

 こんなことに慣れたくはないのに、身体はもう迷わず動く。


 観客席で待たせている瑞葵のことも気にかかる。

 あの状態で本当に持ちこたえられるのか、不安は消えない。


 夏月は急いでノートパソコンの前へ移動した。


 幸運なことに画面はスリープになっていない。

 開かれたままの画面には、いくつものファイルが並んでいる。


夏月(当たり……)


 顧客データがあるかもしれない。

 そう思った瞬間、心臓がまた速くなる。


 夏月は指先を落ち着かせながら、手当たり次第にファイルを開いていった。


 ファイルの中には、女の子の裸体や、殴られて痣だらけになった少女たちの画像まで混ざっていた。


夏月(最低……)


 自然とマウスをクリックする指に力が入る。


 できればノートパソコンをそのまま持って帰りたいところだが、ワイヤーで机に固定されていて動かせない。

 近くにあったハサミでは、そのワイヤーを切ることもできなかった。


 仕方なく夏月は、顧客ファイルの捜索を続ける。


夏月(!)


 その中に、顧客ファイルと思われる無名のフォルダを見つけた。


 開いてみると、そこにはコロシアムの入場情報、寄付、賭けの履歴、画像データが大量に入っていた。

 画質は粗いが、顔の判別は十分できる。

 証拠としては申し分ない。


 中には、夏月の同級生の親の顔もあった。


 ぞっとする。


 オーナーの立場からすれば、このデータは脅しにも、切り札にもなる。

 遊び半分で来ている大人たちにとってはたまったものじゃないだろうが、だからこそ逃げられないのかもしれない。


夏月(ある意味、こっちとしても助かる……)


 そのままデータをUSBに移そうとした、その時だった。


 ――冬川建設。


 その文字を見た瞬間、夏月の指が止まった。


 父の会社だ。


 背中が冷たくなる。


 そんなはずがない。

 父がここに来ているはずがない。


 いつだって自分の好感度と立場を最優先する父が、こんな場所に足を運ぶわけがない。

 そう思うべきなのに、思えば思うほど不安が広がる。


 もしかしたらこれは顧客データとは無関係なのかもしれない。

 会社名があるだけで、別の人物かもしれない。

 そうやって必死に別の可能性を探し始めている自分が、もう情けなかった。


瑞葵『夏月』


 違う。

 父はいないはずだ。


 けれど、そのフォルダの中で“会社名”のついたファイルには、必ず“社長”の文字が並んでいる。


夏月(違う……)


瑞葵『夏月?』


夏月(そんなはずがない!)


瑞葵『夏月!』


 イヤモニから響いた大きな声に、夏月はようやく我に返った。


夏月「うわ! なに?」


 いきなりの大声に、思わず肩が跳ねる。


瑞葵『あの、さっき入り口で会った人から聞いた話なんだけど』


夏月「ちょっと待って……。周りに誰もいない?」


瑞葵『うん、いない』


夏月「なら、続けて」


瑞葵『顧客データが厨房裏にあるみたいで。ノートパソコンに』


夏月「ノートパソコンに?」


瑞葵『前に厨房裏のパソコンいじったら、オーナーがこれはコロシアムの生命線なんだって声を荒げたらしくて』


夏月「やっぱりか……」


夏月(分かっていたはずなのに……)


瑞葵『え?』


夏月「いや、なんでもない。分かった。パソコンは見つけたから、後は任せて」


 そう言いながらも、夏月の指はまだ“冬川建設”の文字の上から離れられなかった。


瑞葵『それが、もしかしたら後少しで試合が終わっちゃいそうで』


夏月「え?」


瑞葵『間に合う?』


 今見つけたファイルをすぐUSBに転送すれば、任務としては間に合う。


 それでいいはずだった。


 それなのに、夏月の中では別のものが膨らんでいく。


 気になる。

 見ずにはいられない。

 もし父がいたら。

 もし、本当にここに来ていたら。


 その可能性を潰さないまま終わることができなかった。


夏月「ご、ごめん………なんとか、急ぐけど……もう少しなんとかならないかな……」


 口にした瞬間、自分でも分かった。

 これは任務のためだけの言葉じゃない。


 完全に、私情だった。


瑞葵『え? でも……』


夏月「お願い………」


 父を嫌いになれない自分が、憎くて仕方がなかった。


 昨日、久しぶりに父に会って思い知らされたはずなのに。

 自分は、父にとって都合のいい時だけ使う道具でしかないのだと。


 それでも。


 それでも夏月にとって、父は世界に一人しかいない父親だった。


 その事実が、何より惨めだった。


瑞葵『わ、分かった………』


 それだけ言うと、瑞葵からの通信は切れた。


夏月 (ごめん………)


 夏月はデータファイルを開いてしまった。


 柚木も見ているのに、それでも見ずにはいられなかった。


 細かい文字が並ぶ入場履歴。

 粗い画像。

 その中から父の姿がないか、一つずつ確認していく。


 ――これは裏切り行為だ。


 そう自分を責める声が、頭の中で何度も響く。


 仲間を裏切りかけている。

 任務よりも父のことを優先しようとしている。

 そんな自分が嫌でたまらないのに、マウスから手を離すことができなかった。


 仲間を裏切りかけた申し訳なさと、それでも父に縋ってしまう自分への悔しさが、一気に込み上げてくる。


 父にとっては夏月、いや照子がいなくても兄の苳也が代わりにいる。


 ――それでも。


夏月(私にとってお父さんは世界に一人しかいないから……)


 最後のファイルを開く。


 そこに父の姿はなかった。


 写っていたのは、夏月も会ったことのある幹部の人間数人だけだった。

 どいつも権力を武器に、この異質な場所をただの娯楽として楽しんでいただけらしい。


 父の命令でも、仕事でもなく、ただの“遊び”。

 その方が逆に、ぞっとした。


夏月「はぁはぁはぁはぁ……」


 時間に追われて、息をするのも忘れていたらしい。


 夏月はようやくUSBメモリをパソコンへ繋ぎ、ファイルを転送する。

 転送中のバーが少しずつ伸びていくのを眺めながら、夏月は放心したように立ち尽くしていた。


 もし、あのファイルの中に父がいたら。

 自分はどうしていたのだろう。


 6月21日を迎えるまで、悠喜はすぐに異変に気づいてくれた。

 翼は疲れているはずなのに、わざわざ自分のために時間を作ろうとしてくれた。

 柚木と晴翔も、何があってもすぐ戻れるように迎えに行ける体制を整えてくれていた。


 それなのに。


 夏月は裏切ろうとした。


夏月 (ごめんなさい……)


 その言葉が、頭から離れなかった。


 データ転送完了の表示が出る。


 夏月はUSBメモリを引き抜き、深く息を吸った。

 まだ手は少し震えている。

 けれど今は、その震えごと押さえ込まなければならない。


 今、自分がやるべきことはひとつだけだ。


夏月(任務に戻るしかない)


 今は、このメモリを柚木に届けること。

 それが一番の謝罪だ。


 夏月はまだオーナーが目を覚ましていないことを確認すると、姿勢を低くして厨房裏から抜けた。

 誰にも見つからないよう、壁際をなぞるようにしてリングの方へ戻っていく。


 近づくにつれて、また歓声が耳を刺した。


夏月(良かった。間に合った)


 安堵するのも束の間。


 リングを見た瞬間、夏月の呼吸が止まった。


 ボロボロの状態の瑞葵が、ガタイのいい女子と闘っていた。


 もう一人いた。


 夏月のわがままのために、必死に時間を稼いでくれた瑞葵という存在が。

次回予告


圧倒的な体格差。

ルール無用のリング。


それでも瑞葵は逃げない。


夏月のために。

自分も役に立つために。


そして、限界まで追い詰められたその時――。

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