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EP.3-11 震える右手

皆さん、こんにちは!Time Bombです!


改めまして、先月は『Abyss Trigger ーーSecret Xーー』とあわせて、『Summer Friend』も完結まで見届けていただき、本当にありがとうございました!


今月からは、また瑞葵たちの物語一本に集中していきたいと思いますので、ぜひよろしくお願いします!


EP.3もいよいよ後半戦!


西横任務もここから大きく動いていきますので、引き続き夏月と瑞葵たちの活躍を楽しんでいただけると嬉しいです!


今月も『Abyss Trigger ーーSecret Xーー』をよろしくお願いします!

 リングの上では、次の試合に向けた準備が淡々と進んでいた。


 倒れた少女は、いつの間にか係の女に引きずられるようにして場外へ消えている。

 ほんの数分前まで歓声の中心にいたはずなのに、誰もその行方を気にしていない。観客たちの興味は、もう次の試合へ移っていた。


 薄暗い照明。酒と汗の匂い。耳障りな笑い声。


 この地下では、人が痛がる姿さえ、すぐ次の見世物に塗り潰されていく。


夏月(ほんと、最低……)


 胸の奥で吐き捨てながらも、夏月は表情には出さなかった。


 今は怒るより先に、動かなければならない。


 ここで感情に飲まれたら終わりだ。

 目の前にある異様さに嫌悪を抱くのは簡単だが、その異様さの中で平然としていられなければ潜入なんてできない。


 リング脇では、司会役の女が次の試合に向けて大袈裟な声を張り上げていた。

 さっきまで人が倒れていたことなんて、もう誰の記憶にも残っていないみたいだった。

 周囲の子どもたちも、負けた方のことなどとうに忘れた顔をしている。

 缶を片手に笑っている者もいれば、退屈そうにスマホをいじっている者もいる。

 けれど試合が始まりそうになると、皆同じように顔を上げる。


 人が痛がるところを見るのに慣れている目だ。


 胸の奥が冷える。


夏月(もしかしたら……今なら、もう少し聞き出せるかも)


 夏月は、まだ近くにいたもえこへさりげなく声をかけた。


夏月「ねえ? ここって二階あるの?」


もえ「二階?」


夏月「ほら、あの螺旋階段のところ」


 夏月が視線だけで示すと、もえこは「ああ」と軽く笑った。


もえ「あそこね。噂によると、VIPの観客席らしいよ」


夏月 (ビンゴ!)


 思わず心の中でそう呟く。


 やっぱり、と夏月は思う。

 あそこだけ空気が違う。

 警備の立ち方も、ただの倉庫番にしては妙だった。

 だが、そう簡単に決めつけるのも危険だ。


夏月「だから、あそこに大人たちがたくさんいるんだね」


もえこ「え?」


夏月「ほら。警備って意味で」


もえこ「ああ! それはまた違うよ」


夏月「違うの?」


もえ「うん。あの二階はどうやら倉庫らしくて、あそこに戦利品しまってあるみたいなのよ」


 夏月は表情を変えないまま、胸の奥だけが少し熱くなるのを感じた。


 戦利品。

 つまり、ここで勝った子どもたちに与えられる報酬が、そこにまとめられているということだ。


 お金。酒。タバコ。あるいはもっと別のもの。

 子どもを引きずり込むための餌。


 それを隠しておく場所として二階が使われているのなら、螺旋階段に見張りがついているのも納得できる。


夏月「ねえ、さっきからその“噂”って、どこで聞いたの?」


もえ「噂ってより、実際に見たから」


夏月「え?」


夏月(実際に見た……ということは……)


夏月「それって、あの大人たちが上がってくとこじゃなくて?」


もえ「ううん、そっちじゃない。あの倉庫の方」


もえ「前に試合してる隙ついて、戦利品狙おうとした輩がいてね」


夏月「なるほど……」


もえ「それ以降は警備が固くなったって話」


夏月「だからなのね」


 もえこの話し方は軽かった。

 深刻さなんて欠片もない。ただ面白い噂を共有しているだけ、という調子だ。


 その軽さが逆に気味悪い。


 こういう空気の中に長くいると、感覚が麻痺するのだろうか。

 誰かが殴られることも、誰かが泣くことも、誰かが報酬目当てに命を削ることも、全部同じ“面白い話”に変わってしまうのかもしれない。


 観客からまたヤジが飛んだ。どうやら試合が終わったらしい。


もえ「あっちゃ〜。これまた派手にやられた」


夏月「知り合い?」


もえ「昨日知り合ったの。酔っ払ったおじさん相手にふざけて遊んでたら、その子も一緒になってきてさ」


夏月「へえ、そうなんだ。……ちょっとトイレ行ってくるね」


もえ「うい」


 関わりたくないと思っていたが、貴重な情報を手に入れることができた。


夏月 (クズではあるけど……)


 それでも、情報を拾うには都合がいい相手ではある。


 夏月は心の中だけでそう割り切る。


夏月(ここは瑞葵と一度合流して、作戦を練るか)


 ――だけど。


夏月(螺旋階段も気になるけど、厨房裏に人がいないのがどうも気味悪い)


 リングから少し離れた場所にある厨房裏は、さっきから妙に静かだった。

 静かすぎると言ってもいい。

 人が集まる場所のすぐそばにあるのに、そこだけ空気が切り離されているみたいだった。


 見張りが露骨にいる場所と、逆に誰も立っていない場所。

 どちらも怪しい。

 どちらも、簡単には近づかせたくない場所に見える。


 再びリングから歓声が上がった。

 どうやら次の試合が始まったらしい。


 トイレなら不自然じゃない。

 しかもリングから少し外れていて、話をまとめるにはちょうどいい。


 そう思って足を向けたのに、肝心の瑞葵がいなかった。


夏月 (まさか……)


 その不安は、嫌な形で当たる。


 瑞葵は、男子トイレから出てきた。


 その瞬間、夏月の背筋が冷えた。


 もし誰かに見られていたら。

 もし今の一瞬を、誰か一人でも不審に思っていたら。


 それだけで全部終わる。


 さっきまでの情報収集も、変装も、柚木たちの準備も、全部水の泡だ。


夏月「みずき……」


瑞葵「ご、ごめん……なかなか気分が戻らなくて……」


 夏月は瑞葵の胸ぐらを勢いよく掴んだ。


 壁へ叩きつけたい衝動を、ぎりぎりで押しとどめる。ここで騒ぎになれば、それこそ最悪だ。


 胸ぐらを掴まれた瑞葵の身体がびくりと固まる。


瑞葵「ヒッ!」


夏月「ねえ? わたしがなんでこんな怒ってるか分かる?」


瑞葵「その……なかなかトイレから戻って来なかったっ」


夏月「違う」


 声は低かった。


 怒鳴ってはいない。

 なのに瑞葵の肩がびくりと震える。


夏月「あんた、今は女の子なんだよ」


 その一言で、瑞葵の顔色が変わった。


 自分が何をやったのか、そこでようやく本当の意味で理解したのだろう。


瑞葵「ご、ごめん……そこまで頭回ってなくて……」


夏月「回ってないで済む話じゃないの。今誰かに見られてたら、それだけで終わってた」


 怒鳴りたいわけじゃない。

 けれど、声を荒げられない分だけ、夏月の声は低く冷えていた。


 その冷たさは、自分でも分かるくらいはっきりしていた。


瑞葵「……ごめん」


 さっきよりもさらに小さくなった声に、夏月は苛立ちを押し込める。


 今ここで潰しても意味がない。

 必要なのは反省じゃなく、立て直しだ。


 それくらい、頭では分かっている。


 でも、分かっていても腹は立つ。

 怖かったからだ。

 今の一瞬で全部が壊れるかもしれないと思った、その恐怖がまだ喉元に残っている。


夏月「……いい。もう戻れないこと責めても仕方ない」


 言いながらも、掴んでいた胸ぐらから手はすぐには離せなかった。


 夏月自身、まだ怒りを飲み込みきれていない。


瑞葵「……」


 瑞葵は何も言えない。

 言い返せない。

 全部、自分が悪いからだ。


夏月「それより、情報入った。螺旋階段の先はVIP席じゃなくて、倉庫の可能性が高い」


瑞葵「それじゃあ……」


夏月「厨房裏には顧客データか、VIP席に繋がる何かがあるっぽい」


瑞葵「それじゃあ、そこに潜り込めば……」


夏月「だけど、螺旋階段の可能性もなくはない」


 夏月はようやく手を離した。


夏月「警備が固いのは、二階に戦利品の倉庫があるから。子どもたちに狙われないようにしてるのが理由らしいけど」


瑞葵「そうなんだ……」


夏月「ねえ、ちょっと動かないで」


瑞葵「え?」


 夏月はそう言うと、瑞葵の胸元の前で指で△、◯、♡の形を作った。


 瑞葵は一瞬何をしているのか分からなかったが、すぐにイヤモニから柚木の声が聞こえる。


柚木『△、◯、♡。夏月ちゃん、大丈夫。しっかり見えてる』


瑞葵(そうか! 胸元のカメラだ)


 今回の任務では、変装した二人の服の一部に小型カメラが仕込まれていた。映像がちゃんと拾えているかを確認したのだ。


 瑞葵は、こんな時でも夏月が抜けなく動いていることに少しだけ息を呑む。


 怒っている。

 苛立っている。

 それでも、任務に必要な確認は飛ばさない。


夏月「よし。それじゃあ、瑞葵は引き続き試合会場で待機してて」


瑞葵「え?」


夏月「もし運よく二階に上がろうとした集団がいれば、それに紛れて上がって。VIP席があるかどうか確認してきて」


夏月「胸元のカメラに、しっかり映るように」


瑞葵「分かった。な、夏月は?」


夏月「私は頃合いを見て、厨房裏に潜入する」


瑞葵「でも、一人じゃ危ないよ」


夏月「大丈夫だから」


 その返事があまりに早くて、瑞葵は逆に不安になる。


 考えた末の答えというより、最初からそうするしかないと決めていたような速さだった。


瑞葵「ま、待ってよ……」


 思わず夏月の腕を掴む。


 さっき怒られたばかりなのに、それでも止めずにはいられなかった。


瑞葵「厨房裏に大人が何人いるか分からないんだから、二人で行った方がいいんじゃない……かな」


 声は弱い。

 それでも、夏月を心配しているのは本当だった。


 けれど夏月は、ため息をつきながらその手を振り払った。


夏月「ねえ、言ってること分からない?」


瑞葵「え?」


 夏月は一瞬だけ瑞葵を見る。


 その視線には、苛立ちだけじゃなく、失望に近い色も混じっていた。


夏月「二人だと余計に危ないから一人で行くの」


瑞葵「それって……」


夏月「試合会場に行けばすぐ気分を悪くする。女の子に変装してるのに男子トイレに行く」


 言葉が容赦なく刺さる。


夏月「今の瑞葵を見て、信用できると思う?」


瑞葵「ごめん………」


 何も言い返せなかった。


 全部事実だからだ。


夏月「はぁ……とにかく、周りの西横たちに紛れてくれればそれでいいから。無理する必要もない」


夏月「子どもたちが螺旋階段に近づこうとしないなら、何もしなくていいから」


 その言い方は突き放しているようでいて、実際には“余計なことをして壊すな”という最低限の役目を与えていた。


 けれど、今の瑞葵にはそれすら悔しかった。


 何もしなくていい。

 そこにいてくれればいい。


 そう言われたような気がして、胸の奥がじくりと痛んだ。


 さっきまで夏月の役に立ちたいと思っていたはずなのに、今はその気持ちごと否定されたように感じてしまう。


 でも、夏月がそう言うのも当然だった。

 自分が失敗したから。

 自分が信用を落としたから。


 分かっているのに、痛い。


 夏月はそれだけ言うと、試合会場へ戻っていった。


 残された瑞葵は、その背中を見送ることしかできなかった。


瑞葵(僕は……結局、何も変われてないのかな……)


 胸の奥が重い。


 変わりたいと思ってる。

 役に立ちたいとも思ってる。

 足を引っ張りたくないとも思ってる。


 なのに、いざこうして現場へ立つと、身体が追いつかない、頭も回らない。

 さっきだって、トイレに行くなら女子トイレへ入るべきだという当たり前のことすら飛んでいた。


 情けない。


 自分が一番、そう思う。


 リングの方から歓声がまた大きくなる。


 この熱気の中に戻らなければならない。

 何事もなかった顔で。

 役に立てていない感覚だけを胸に抱えたままで。


 瑞葵は唇を噛み、マスクの位置を直した。


 せめて今は、言われた通りにするしかない。


-----


 螺旋階段に目を向けるが、誰もそこに近づこうとする子どもたちはいない。


 足を引っ張った分、挽回したいと気持ちだけが焦る。


 後ろを振り向いても、もう夏月の姿は見えない。


瑞葵(もしかして、もう潜入したのかな……)


 不安が積もる。

 けれど今は、夏月を信じるしかない。


もえ「あれ? さっきのかわいい子じゃん!」


瑞葵(こ、この人は……入り口で話しかけられた……)


瑞葵「ど、どうも……」


もえ「さっき、もう一人の子に会ったんだよね」


瑞葵「そ、そうなんですね……」


 平静を保とうとすると、余計に声が震えてしまう。


 瑞葵は晴翔のアドバイスを思い出し、できるだけ声を掠らせて、酒焼けしたような声を演じた。


もえ「きみ、かわいい顔して声は結構野太いんだね!」


 瑞葵は思わず心臓が飛び跳ねる。


瑞葵「よ、よく言われます……」


もえ「いいね、ギャップ感じてかわいいよ」


瑞葵「あ、ありがとうございます……」


 学校でも友達のいない瑞葵にとって、女の子を演じるのに加えてコミュニケーションを取らないといけないのはかなり難しい。

 頭の中がどんどん窮屈になっていく。

 何を言えばいいのか、何を言ったら変に思われるのか、その線引きをしている余裕がない。


もえ「ねえ、そういえば名前聞いてなかったね? なんていうの?」


瑞葵「みずき………ちゃんです。」


 言った瞬間、しまったと思った。


 名前を変えれば良かったと気づくも手遅れ。

 苦し紛れに“ちゃん”をつけてごまかそうとする。


もえこ「自分でちゃんづけ? 笑」


瑞葵「あ、アハハハ」


 笑うしかない。

 もう、何をどう取り繕っているのか自分でも分からない。


もえ「それよりさ、瑞葵ちゃんって普段どうやってお金稼いでるの?」


瑞葵「お、お金……」


もえ「私、いいパパ知っててさ。会社経営してるから結構羽振りもいいんだよね!」


瑞葵「な、なるほど……」


もえ「どう? 私もお世話になってるんだけどいい人でさ。

紹介料ももらえるって言うから、今かわいい子に声かけてるんだけど興味ない?」


瑞葵「い、いや……」


もえ「それじゃあ一回会ってみない?

   会ってから判断して欲しいと思って。

   きっと瑞葵ちゃんのこと気にいると思うよ。

   あの人、かわいい女の子好きだから」


瑞葵(僕は男なんだよ………)


 そう叫びたいのに、そんなことできるはずもない。


 瑞葵は必死に頭を回して、なんとか話題を変えようと考える。

 けれど、いい案は何ひとつ浮かばない。


 気づけば視線が、夏月の向かった厨房裏の方へ流れていた。


もえ「うん? 何? なんか厨房のところにあるの?」


瑞葵「え、いや……」


瑞葵(変に注目させちゃダメだ……)


瑞葵「あ、違くて……その……お腹……空いて……」


もえ「おなか? でも、あそこには何もないよ」


瑞葵「そうなんですか?」


もえ「てか、敬語やめてくれない? 瑞葵ちゃんとは仲良くなりたいから、タメでいこうよ」


瑞葵「わ、分かった……」


もえ「厨房裏には前に入ったことあるけど、オーナー?みたいな人にめちゃくちゃ怒られちゃって」


瑞葵(オーナー? もしかして……)


瑞葵「怒られちゃったの?」


もえ「そう!ひどいと思わない? 

   お腹空いたから厨房に行ったのに、食べ物何もなくて」


もえ「確かノートパソコンしかなかったんだよね」


 瑞葵の胸の奥がどくんと鳴る。


 厨房裏。

 ノートパソコン。

 今、夏月が向かった場所と綺麗に繋がった。


もえ「だから、友達と配信でもして稼ごうと思ってパソコン触ったら、オーナーが怒ってきて!」


瑞葵「それって、何か大切な情報があるからとか?」


もえ「そうらしいよ。コロシアムの生命線でもあるんだとか言ってたけど」


瑞葵(じゃあやっぱり、厨房裏に!)


 夏月が正しかった。

 しかも、厨房裏にあるのはただの物じゃない。

 コロシアムそのものを回している何かだ。


瑞葵「その、パソコンって何のデータがあったのかな」


もえ「知らないわよ。そんなの」


 観客から呆れた声が漏れ始める。どうやら試合が、終わったらしい。


 試合会場を見渡しても、響いているのは司会の女の声だけだった。

 リングの上では、女性にしてはかなりゴツく太い体格の女子がガッツポーズをしていた。


もえ「はあ……今日はあいつがいるのか」


瑞葵「あの子って?」


もえ「通称、ゴンちゃん。プロレスラー目指してたらしいけど、怪我したとかで」


瑞葵「あの子も西横なの?」


もえ「いや、あの子は一応帰る家があるらしいけど。 別に西横しか出入りできないってルールはないから」


もえ「それに、ゴンちゃんみたいな強い子がいるとね。その子を倒すことができるダークホースが出てくれば盛り上がるからね」


瑞葵「そうなんだ」


もえ「ゴンちゃんは先月から時々参加してるんだけど、今のところ全勝!

   今勝てば戦利品もめっちゃいいのもらえそうよ!」


瑞葵「へえ……」


もえ「でも、強すぎるが故にゴンちゃんがいると誰もゴンちゃんと戦いたがらないのよ。

   だから、最近は早めのお開きが多くてね」


瑞葵「え? それじゃあ……」


 お開きが近い。

 つまり、時間がない。


 今この瞬間も、夏月は厨房裏で動いているかもしれない。


 急いで伝えないと。


瑞葵「ちょ、ちょっと……トイレ行ってくる」


もえ「えー! 瑞葵ちゃんも?」


 もえこの不満そうな声を背中で聞きながら、瑞葵は急いで今度は女子トイレに入った。


 個室の扉をひとつずつ確認し、誰もいないことを確かめる。

 息が上がっている。

 心臓が早い。


 けれど今はそれどころじゃない。


 瑞葵はイヤモニに小さく声を落とした。


瑞葵「夏月」


 しかし、夏月から返事は返ってこない。


瑞葵「夏月?」


瑞葵 (もしかして……)


 嫌な想像が頭をよぎる。


 もし、もう見つかっていたら。

 もし、何かあったあとだったら。


瑞葵「夏月!」


夏月『うわ! なに?』


 返事が返ってきた瞬間、瑞葵はようやく息をついた。


 無事だ。

 それだけで、全身の力が少し抜ける。


 だけど、時間はない。


瑞葵「あの、さっき入り口で会った人から聞いた話なんだけど」


夏月『ちょっと待って……。周りに誰もいない?』


瑞葵「うん、いない」


夏月『なら、続けて』


瑞葵「顧客データが厨房裏にあるみたいで。ノートパソコンに」


夏月『ノートパソコンに?』


瑞葵「前に厨房裏のパソコンいじったら、オーナーがこれはコロシアムの生命線なんだって声を荒げたらしくて」


夏月『やっぱりか……』


瑞葵「え?」


夏月『いや、なんでもない。分かった。パソコンは見つけたから、後は任せて』


 その言葉に、瑞葵は一瞬だけ安堵しかけた。


 けれど、すぐに別の不安が押し寄せる。


瑞葵「それが、もしかしたら後少しで試合が終わっちゃいそうで」


夏月『え?』


瑞葵「間に合う?」


 数秒だけ沈黙が落ちた。


 その間が、やけに長く感じる。


夏月『ご、ごめん………なんとか、急ぐけど……もう少しなんとかならないかな……』


 その声は、今まで聞いたことのないくらい弱々しかった。


 焦り。

 迷い。

 それとも、別の何か。


 少なくとも、いつもの夏月の声ではなかった。


瑞葵「え? でも……」


夏月『お願い………』


 その一言に、瑞葵は言葉を失った。


 今の声には、ただの任務上の頼み以上の何かが混じっている気がした。

 追い詰められているような。

 必死に何かを掴もうとしているような。


瑞葵「わ、分かった………」


 結局、一言そう返すしかできなかった。


 通信が切れたあとも、瑞葵の耳にはさっきの弱い声が残っていた。


瑞葵 (ど、どうしよう………)


 気づけば、さっきまで響いていた歓声が止んでいた。


瑞葵 (も、もしかして……)


「はいはーい、もう挑戦者いない感じ?」


 試合会場を見渡すと、司会をしている女性の声だけが響いていた。


 リングの周りには、ボロボロになって倒れている女の子が複数いた。

 息はあるようだが、立ち上がれる状態ではない。

 観客たちはそれを見ても特にざわつかない。

 見慣れた光景なのだろう。


「はあ、誰も挑戦者いない感じ? それじゃあ今日はここまでかな?」


ゴン「いいよ。私はまだ戦えるよ!」


 ゴンちゃんの体には傷ひとつない。


 息も乱れていない。

 汗はかいているのに、余裕がある。

 強い。見ただけで分かるくらい、強い。


瑞葵 (つ、強い……)


瑞葵 (でも……)


 夏月の声を思い出す。


 あの声は、たぶん本当に困っていた。

 焦っていた。

 自分が動かなければ、夏月が間に合わないかもしれない。


瑞葵(今日の任務は、夏月だけじゃない。僕もいるんだ)


瑞葵(動かないと……)


 今、瑞葵ができることは分かっている。


 この試合を少しでも引き延ばせばいい。

 少しでも場を長引かせれば、その分だけ夏月の時間になる。


 怖い。

 無茶だ。

 でも、何もしないままここに立っているだけの方が、もっと嫌だった。


 震える体を抑えて、瑞葵は右手を力強く挙げた。

次回予告


「今の瑞葵を見て、信用できると思う?」


一人で厨房裏へ潜入した夏月。

そこで見つけたのは、コロシアムの闇と――見覚えのある名前。


任務か、父への想いか。


「私にとってお父さんは世界に一人しかいないから……」

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