EP.3-7 感謝の席
皆さん、こんにちは!Time Bombです!
今月は新連載も始まり、非常に充実した日々を送っております!
日頃から作品を読んでくださる皆様はもちろん、Xでの宣伝にもいいねとリポストをつけて応援してくださる方々に支えていただき、僕自身も「この作品が皆様にとって楽しみの一つになれるように頑張ろう」と、日々たくさんの力をいただいています。
改めまして、読者の皆様。
いつも支えていただき、本当にありがとうございます!
そしてEP.3ですが、改めて読み返してみても、我ながら本当に面白いエピソードになっていると思っています(笑)
ここからさらに物語が動いていきますので、ぜひ今後の展開も楽しみにしていただけると嬉しいです!
そして、新作『Summer Friend』も絶賛連載中です!
今週は投稿頻度も少し多めとなっていますので、ぜひ『Abyss Trigger ーーSecret Xーー』とあわせて楽しんでいただければと思います。
車が止まった瞬間、夏月は小さく息を呑んだ。
見慣れた病院だった。
幼い頃から何度も連れて来られた場所。
けれど、自分の意志で来た記憶はほとんどない。
毎年この日になると、父に連れられるようにここへ来て、決められた順番で、決められたように時間が流れていく。
病院の外観は以前と何も変わっていないはずなのに、見るたびに胸の奥がざわつく。
白い壁。大きなガラス扉。
きれいに整えられた花壇。
清潔で、静かで、無機質で――そして、この世に生まれた瞬間の記憶だけがこびりついていそうな場所。
父 「行くぞ」
短い一言だけを残し、父は先に車を降りた。
兄も何も言わず、その後を追う。
夏月は一拍遅れて車を降りた。
黒いワンピースの裾が、わずかに足にまとわりつく。
今日のために整えられた格好は確かに綺麗だったが、その分だけ“福本夏月”から遠ざけられている気がして息苦しかった。
松戸「大丈夫ですか、夏月様」
後ろから控えめな声がかかる。
この家を出た時点では“照子”として扱ってほしいと言ったのは自分なのに、こうして松戸が誰にも聞こえない声量で“夏月様”と呼んでくれるだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
夏月「……大丈夫です」
嘘だった。
全然大丈夫じゃない。
でも、ここで立ち止まるわけにはいかない。
病院の自動ドアが開く。
中へ入った瞬間、消毒液の匂いが鼻を掠めた。
静かな空調音。
遠くで鳴るナースコール。
磨かれた床に反射する白い光。
どれも清潔で整っているのに、夏月にはそれが妙に冷たく感じられた。
まるでここだけ、感情が置いていかれているみたいだった。
受付の前を通り過ぎ、父は迷いのない足取りで奥へ進んでいく。
兄も、風間も、松戸も、その後ろを当然のようについていく。
夏月だけが、その列の中で少しだけ足が重かった。
今日ここに来た理由は分かっている。
分かっているのに、知りたくないことをまたなぞらされる気がしてならなかった。
廊下を曲がった先で、ひとりの女性が立ち止まっていた。
白衣姿ではない。
だが、その姿を見た瞬間、夏月の胸は大きく跳ねた。
忘れるはずがない。
あの夢の中で、必死に心臓マッサージをしていた人。
お腹の中の赤ちゃんを救いたいと、父に何度も許可を求めていた人。
藤田香織が、そこにいた。
藤田「照子ちゃん!」
ぱっと表情を明るくして、藤田は夏月へ歩み寄った。
その声には打算も遠慮もなく、ただ純粋な再会の喜びだけがあった。
だからこそ、夏月はうまく息が吸えなかった。
自分を救ってくれた人。
けれど同時に、自分をこの世界へ引きずり出した人。
そんな言い方は最低だと分かっている。
分かっているのに、胸の奥からそういう感情が湧いてくるのを止められなかった。
院長「お待ちしておりました、冬川様」
父 「お忙しい中、毎年このような機会を作っていただき誠にありがとうございます」
父は落ち着いた声でそう言った。
いつものことだ。外向けの父は、どこまでも礼儀正しく、どこまでも誠実そうに見える。
院長「何をおっしゃいますか。 冬川様にはこちらこそ感謝しております。
命を救うことは決して簡単なことではありません」
院長「時には救えない命もある。 それを引きずってしまう医師も少なくないのです。」
院長「ですが、毎年冬川様がこの病院に足を運んでくださることが、医師や看護師にとっては希望になるのです」
父 「私はただ感謝を申し上げたいだけです。 隣にいる藤田さんが照子を救ってくれた」
父 「そして、照子がそばにいる生活が、かけがえのないものが当たり前ではないことに気づかせてくれた。 そのことに感謝をしたいだけなんです」
夏月(よく言うわ……)
心の中で吐き捨てる。
毎年、同じことを言う。
少しだけ言い回しを変えて、少しだけ声を震わせて、感謝深い父親を演じる。
その姿を見ていると、胸の奥に黒いものが溜まっていく。
院長「立ち話もなんですし、こちらへどうぞ」
院長に案内され、会議室へ入る。
記者会見にも使われる広い部屋だった。
前方には簡易的な演台が置かれ、後ろには病院名の入った白いパネル。
椅子は整然と並べられていて、そこには新人の医師や看護師たちが既に待機していた。
扉が開いた瞬間、その視線が一斉にこちらへ向く。
夏月は反射的に背筋を伸ばした。
見られている。
冬川家の家族として。
奇跡的に助かった娘として。
感謝を伝える側の“象徴”として。
そのどれにも、自分の意思はなかった。
院長「大変お待たせいたしました」
院長「今、君たちの前にいるご家族は、十五年前にトンネル崩壊事故に巻き込まれた方々です」
院長の声が、広い会議室によく響く。
夏月はその場に立ったまま、表情を崩さないように意識した。
視線を上げすぎず、かといって俯きすぎず、ちょうどいい位置で止める。
照子として、見苦しくないように。
院長「当時、冬川様は社長として新幹線トンネル工事の視察に関わっておられました。」
院長「ご家族も特別に招待されておりましたが、僅かな設計ミスと前日の大雨が重なり、トンネルは崩壊したのです」
会議室の空気がしんと静まる。
新人たちは真剣な顔で話を聞いている。
メモを取っている者もいた。
きっと彼らにとっては、これは“命と向き合う仕事の尊さを学ぶ場”なのだろう。
けれど夏月にとっては違う。
毎年、自分の出生が、母の死が、父の涙が、誰かの学びの材料として並べられていく場所だった。
父 「照子」
夏月「はい……」
名前を呼ばれて、一歩前へ出る。
そのたった一歩だけで、自分の輪郭が“夏月”から“照子”へ塗り替えられていく気がした。
父 「こちらの藤田香織さんが、娘である照子を救ってくれました。
その時の私は恥ずかしながら、目の前で妻が亡くなってしまった現実を受け入れることができなかったのです」
父「ですが、藤田さんは諦めずに私に声をかけてくれました。 あなたの奥さんは命をかけて、お腹の中の赤ちゃんを守ったのだと……」
父の声が震える。
毎年、ここで父は涙を流す。
それを見て、新人たちは胸を打たれたような顔をする。
院長も静かに頷いている。
藤田は目を潤ませながら父の言葉を聞いていた。
この場にいるほとんどの人間が、父の言葉を“本物”だと思っている。
けれど夏月は知っている。
父が心の底から感謝していないことを。
これは自己満足であり、演出であり、冬川家と病院のイメージを良くするための、毎年恒例の儀式に過ぎないことを。
父の会社の社風は『感謝の心を忘れずに』だ。
社長である父が毎年病院へ足を運び、奇跡的に助かった娘と共に感謝を伝える。
聞こえはいい。企業イメージは格段に良くなる。
そして病院側もまた、“命を救った現場”としての美談を持ち続けられる。
感謝をする側も、される側も、どちらにとっても得がある。
だから、この行事は十五年経っても続いている。
五年前、事故から十年という節目にはマスコミまで来ていた。特集だ何だと騒がれて、夏月は作り物みたいな笑顔でカメラの前に立たされたのを覚えている。
あの時も、吐きそうだった。
院長「もしよろしければ、藤田くんの方からも未来ある医師と看護師たちにメッセージを」
藤田は少し驚いたように目を瞬かせ、それから真っ直ぐ前を向いた。
あの姿勢からして、彼女は本気で自分の仕事を誇りに思っているのだろう。
あの日、自分が赤ん坊を助けたことも、間違っていなかったと信じている。
だからこそ、夏月の胸は苦しかった。
藤田「私たちの使命は、一人でも多くの命を救うことです」
藤田の声ははっきりと通る。
迷いがない。
藤田「助けられる命があるなら、決して諦めてはいけません。
あの日、私はそう思って行動しました。
もちろん、すべての命を救えるわけではありません。
現実はそんなに優しくないです」
藤田「それでも、目の前に助けられる可能性があるなら、私たちは手を伸ばさなければならない。
そうしなければ、きっと一生後悔するからです」
新人たちは静かに聞き入っていた。
その言葉はまっすぐで、美しい。
医師や看護師としては、きっと正しいのだろう。
でも夏月は、まともに聞いていられなかった。
本気で父が感謝していると思っている藤田が、ある意味ではかわいそうに見えた。
そして同時に、そんなふうに思ってしまう自分もまた最低だった。
この人は何も悪くない。
何も悪くないのに、自分を救ったことを“恨みそうになる瞬間”がある。
そんな自分を、夏月はどうしても許せなかった。
藤田「照子ちゃんがこうして元気に成長してくれていることが、私にとっても救いです。
あの日の判断は間違っていなかったと、今でも思わせてくれるから」
その瞬間、夏月は少しだけ視線を落とした。
真正面から受け止めきれない。
照子ちゃん。
元気に成長してくれている。
間違っていなかった。
そのどれもが、今の夏月には重すぎた。
写真撮影も済ませて、なんとか病院での行事は終わった。
その次は院長と藤田を交えての五人での食事会だ。
次の会場へ行くまでの間、夏月は何度も考えていた。
病院での会見の際、何度もチャンスはあった。
父に捨てられたこと。
自分は別の会社に引き取られていること。
そういうことを声に出してしまえば、父に復讐できたのではないかと。
でも、夏月にはそれができなかった。
むしろ写真撮影では、言われるままに笑顔さえ向けていた。
父の言いなりになっている自分が、たまらなく憎たらしかった。
ーーーーー
食事は高級フレンチのコースが用意されていた。
落ち着いた照明の下、磨き上げられたグラスと銀色のカトラリーが静かに並んでいる。
テーブルクロスは白く、皺ひとつない。
中央には季節の花がさりげなく活けられ、病院の会議室とはまた違う意味で、ここも“整えられた空間”だった。
父、兄、照子――その並びで座らされ、反対側には院長と藤田がいる。
席順まで含めて、まるで最初から絵になるように組まれている気がして、夏月は少しだけ吐き気を覚えた。
最初に運ばれてきた前菜は、色鮮やかで綺麗だった。
小さな皿の上に丁寧に盛り付けられた一品は、きっと普段なら「すごい」と思えたのだろう。
けれど今日は、何を口に入れても味がしなかった。
藤田「照子ちゃんは今年受験でしょ? どこ受けるか決めてるの?」
夏月「え? あ……、えーと……」
唐突な質問に、夏月は一瞬言葉を詰まらせた。
照子として答えるべきか。
夏月としての今を答えるべきか。
そもそも、ここでどこまで話していいのか。
一瞬で色々なことが頭をよぎる。
父「すみません、まだ迷っている最中で」
父が自然に会話を引き取る。
あまりにも滑らかで、何度こういう場をこなしてきたのかと思うほどだった。
藤田「照子ちゃんは苳也くんに似て成績優秀なんでしょ? 選びたい放題でしょ!」
夏月「そうですね」
反射みたいに笑ってしまう。
本当は、そんなことを軽く返せる気分ではない。
けれど、照子としてそこに座っている以上、こう答えるのが正解なのだと身体が勝手に覚えてしまっている。
藤田「照子ちゃんも来年で高校生か。 天国のお母さんも喜んでると思うよ」
夏月「はい……そうだと思います」
無意識に、また笑顔を作ってしまった。
口元だけで、上手に。
写真撮影の時と同じように。自分でも気づくくらい、不自然じゃない笑顔を。
そのことが、たまらなく腹立たしい。
藤田「苳也くんはもう大学生だっけ?」
苳也「いえ、実は……第一志望の大学に合格したのですが、やはり父の通った大学に行きたいと思い、やり直そうと」
藤田「そうだったんだ。 目標が高い子は本当にすごいわ」
兄は穏やかに微笑みながら答える。
その姿は、誰が見ても優秀で、礼儀正しく、よくできた息子そのものだった。
そして――
夏月(この人はどうして、こんなにデリカシーがないんだろ……)
夏月は心の中でそう呟いた。
悪気がないのは分かる。
むしろ本気で褒めて、本気で励まして、本気で“素敵な時間”にしようとしているのだろう。
けれどその善意が、今日はどこまでもきつかった。
事故当時の映像なんて夏月は知らない。
だが、あの夢が真実なんだと、もう分かってしまっている。
父や藤田の証言。
周忌のタイミングで時々流れる崩壊事故のニュースやドキュメンタリー番組。
そこから浮かび上がる光景は、夢の中のそれとほとんど重なっていた。
夏月(この女が無理矢理、私を産ませたんだ……)
思った瞬間、自分で自分が嫌になる。
この人は命を救おうとしただけだ。
何も悪くない。
何も間違っていない。そんなことは頭では分かっている。
それでも、こうして父の“感謝”に付き合わされ、母の死を美談として見せつけられた後では、どうしても綺麗な気持ちだけでは見られなかった。
院長「それにしても、母の名前を受け継いだというのは何とも感動しますね」
ナイフとフォークを持つ手が、一瞬だけ止まりそうになる。
やめてほしい。
そんなふうに、感動的な話として口にしないでほしい。
父「私にとって、照子が守ってくれた命を、照子が繋いでほしい。
そして、母の想いも一緒にこれからを生きてほしいという想いがあるんです」
冬川照子。
夏月の母の名前だ。
あの夢で見た、大量に出血して倒れていた女性。
トンネルの崩壊が起きた際、身重だった照子はその場から逃げられなかったのか、そのまま巻き込まれてしまった。
そして奇跡的に、お腹の中にいた赤ちゃん――夏月だけが生きていた。
父親は一人で子どもを育てるのは難しいと、最初は夏月を助けることを諦めていた。
だが、藤田は諦めなかった。
母の命と引き換えに、自分は生まれた。
その事実を、こうして毎年、名前ごと突きつけられる。
苳也「照子は自慢の妹なんです」
夏月(嘘つき……)
四歳だった兄も、事故のことを覚えているらしい。
そして兄は、夏月のことを恨んでいる。
四歳の子どもにとって、夏月は母の命を奪った存在だったのだろう。
大人になった今でも、その行き場のない感情を整理できないまま、夏月を恨むしかなかったのだ。
それなのに、こんな場では“自慢の妹”だと言う。
よくそんな顔ができると思う。
次の皿が運ばれてくる。
スープ。
魚料理。
肉料理。
どれも完璧に整えられていて、非の打ち所がない。
けれど夏月には、どれも同じに思えた。
喉を通っていく感覚だけがある。
味は分からない。
ただ、食べなければならないから食べているだけだ。
藤田以外の四人で作り上げた演劇は、最後まで破綻しなかった。
父は感謝深く、兄は優秀で、照子は健やかに育った娘として笑う。
その完成度の高さが、逆に気持ち悪かった。
やがてデザートと食後の飲み物まで終わり、ようやく食事会は終わりへ向かった。
院長「冬川様、今年も素敵なお時間をありがとうございました」
父「いえいえ。 こちらもとても有意義な時間でした」
藤田「苳也くんと照子ちゃんも、勉強がんばってね」
苳也「はい」
夏月「ありがとうございます」
最後まで、夏月は照子として笑っていた。
後部座席には家族三人。
しかし、誰も声を上げる人はいなかった。
当然、このあと墓参りへ向かうのだと思っていた。
けれど父の口から告げられたのは、まったく別の予定だった。
その瞬間、夏月の胸の奥で何かがまた静かに冷えた。
次回予告
「夏月様ならできますよ。瑞葵様を受け入れることも」
長かった6月21日が、ようやく終わる。
松戸との時間の中で、
溢れていた自分の感情と向き合い始めた夏月。
父への想い。
瑞葵への戸惑い。
そして、翼への恋心。
少しずつ前を向こうと決めた夏月は、
明日の任務に備えてトレーニングルームへ向かう。
――だが。
翼の隣にいたのは、
夏月の知らない、一人の少女だった。




