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EP.3-3 切れない名前

皆さん、こんにちは!Time Bombです!


今週に入って一気に暑くなり、いよいよ夏本番となりましたね!


現在はEP.4を執筆中ですが、EP.5ではちょうど夏休みを舞台にしたお話を予定しています。


「この季節にお届けできたらもっと雰囲気が伝わるのにな」と思う反面、皆さんに読んでいただく頃には、きっと季節は冬になっているんだろうなと思うと、少しだけ名残惜しい気持ちもあります。


ですが、今の更新ペースなら来年の今頃も、まだ瑞葵たちの成長を描いていられると思うと、とても楽しみです。


読者の皆様にとって、Abyss Trigger ーーSecret Xーーが毎週の楽しみの一つになれるよう、これからも頑張って執筆していきます。


ぜひ、今後ともよろしくお願いいたします。

 トレーニングも終わり、夏月は一番風呂から上がった。


 風呂の順番は、いつも夏月が先だ。

 中学生の女子である夏月への気づかいから自然とそう決まった流れで、そのあとを翼、悠喜、瑞葵が日によって入れ替わり、最後に柚木と晴翔が入ることになっている。


 普段なら、その気づかいをありがたいと思える。

 実際、男子たちのあとに入るのは少し抵抗があるし、誰もそれを茶化したりしないこの環境には感謝している。


 けれど今日は、そんな些細な優しさまで素直に受け取れる余裕がなかった。


 ドライヤーの温風を髪に当てながら、夏月はぼんやりと鏡の中の自分を見つめていた。


 今日は嫌な一日だった。


 朝から最悪の夢を見て、翼はそばにいなくて、瑞葵は翼の隣にいて、学校でも何もかもがうまくいかなかった。

 悠喜には当たるようなことを言ってしまったし、翼にも素直になれなかった。

 自分で自分を面倒くさいと思うような日だった。


 普段の夏月は、表面上はもっと大人っぽく振る舞える。

 感情をすぐ顔に出したりしないし、ある程度は冷静に物事を見られる方だと思っている。


 でも今日は、明らかに違った。


 あの夢を見た日だけは、どうしても駄目だ。


 鏡の中の自分は、髪を乾かし終えたあとも、どこか疲れ切った顔をしていた。

 目元の奥にじわじわと溜まる重さが、まだ抜けていない。


 悠喜にも申し訳ないことをした、と夏月は改めて思う。


 いつもなら、あんなふうに真正面から言葉をぶつけてくる悠喜に対して、「うるさい」と言いながらもどこか気が楽になる。

 今日だって本当は助けられていたのに、その優しさに甘え切れない自分がいた。


 髪を乾かし終え、タオルを畳んで部屋へ戻る。


 扉を閉めた、その瞬間だった。


 夏月のスマホから着信音が鳴った。


 身体が、一瞬で強張る。


 心臓が大きく跳ねて、指先の温度が急に引いていく。

 ついに来てしまった、と思った。


 翼、悠喜、瑞葵、晴翔、柚木がこの家にいる状況で、わざわざ電話をかけてくる人間なんて限られている。

 少なくとも、今の夏月が一番聞きたくない相手であることは、画面を見る前から分かっていた。


 夏月はすぐにはスマホへ手を伸ばせなかった。


 一人きりの部屋に、着信音だけが響く。


 止まってくれればいいのにと思う。

 少しだけ時間をくれればいいのにと思う。

 けれど、何度待っても着信音は止まない。

 無視したところで、後でもっと怖くなるだけだと知っている。


 やがて、夏月は覚悟を持ってスマホを手にした。


 画面に表示されていたのは、やはり『お父さん』の文字だった。


夏月(今年もか………)


 乾いた息が漏れる。


 今朝、翼と瑞葵が寝ていた部屋――基本的には空き部屋になっていて、滅多に誰も来ない場所。

 夏月は反射的にそこへ避難した。


 部屋に入って扉を閉める。

 誰にも聞かれたくない。

 誰にも見られたくない。


 そして、「ふぅ」と細く息を吐いたあと、ようやく通話ボタンに手を伸ばした。


夏月「もしもし? なつ……いえ、照子です」


 口にした瞬間、自分で自分が嫌になる。


 もう夏月として生きているのに、こういう時だけ“照子”で応答しなければならない。

 それだけで、心の奥にずるりと嫌な感覚が走った。


松戸「もしもし、お久しぶりです。 夏月様」


 受話口から聞こえた声に、夏月はわずかに目を見開いた。


夏月「この声は……松戸さんですか?」


 松戸礼司。

 冬川家に雇われている若手執事の一人だ。


 若手といっても所作は丁寧で、声の落ち着きも年齢以上に感じられる。

 冬川家の中で、夏月にとって唯一“気を許せるかもしれない”と思える相手だった。


 松戸は、唯一、夏月を気にかけてくれている存在である。


松戸「はい。 夏月様はお変わりなく」


 松戸は、夏月が“照子”と呼ばれることを好きではないのを知っている。

 だから周りに誰もいない時は、こうして“夏月様”と呼んでくれる。


 たったそれだけのことなのに、その呼び方に救われる時がある。


夏月「うん。 私もなんとかやってます」


松戸「そうでしたか……それは何よりです」


 少し気まずい雰囲気が流れる。


 どちらも分かっているからだ。


 夏月は、この電話が“照子に戻される日”を告げるものだということを。


 そして松戸は、夏月が“照子に戻される日”を一年で一番嫌っていることを。


 気遣いの言葉を重ねるほど、その先にある本題の輪郭がはっきりしてしまう。

 だからこそ、お互いに次の一言が言いづらかった。


 沈黙に耐えかねたのは、夏月の方だった。


夏月「要件を言ってください……。もう……覚悟はできてるんで」


 言いながら、そんなの嘘だと思う。

 覚悟なんて、毎年できていない。

 来ると分かっていても、実際に来てしまうと結局心が追いつかない。


松戸「申し訳ございません」


夏月「松戸さんのせいではありません。 いつも、私に気を使ってくれてるのは知っていますし」


松戸「はい……」


 また一瞬だけ無言が落ちる。


松戸「それでは要件ですが……」


夏月「うん……」


松戸「6月21日に迎えに行くとのことです」


 それだけ。


 松戸は極力、言葉を増やさなかった。


 それもきっと松戸なりの気づかいだ。

 嫌というほど、その日が夏月にとって地獄であることを知っているから。

 だから余計な説明はしない。

 説明しなくても、夏月には十分すぎるほど分かってしまうから。


 6月21日。


 その日付を耳にしただけで、喉の奥がきゅっと狭くなる。


松戸「夏月様、気分は大丈夫ですか?」


夏月「すみません、大丈夫です。 それにしても珍しいですね。松戸さんから電話なんて」


夏月「普段はあの嫌味ったらしい兄さんが私にLINEしてくるのに」


 冗談っぽく言ってみたが、自分の声が少し硬いのは隠せなかった。


松戸「お兄様もお忙しいとのことですので」


夏月「そう……まあ、松戸さんで良かったです。 いつ連絡するのかヒヤヒヤしてたので」


 自然と乾いた笑いが出る。


 笑わなければやっていられない。そんな感覚だった。


松戸「夏月様」


夏月「はい?」


松戸「今年も夏月様を参加させてしまう運びとなってしまい、申し訳ございません」


夏月「え? あ……いえ……って、もしかして! お父さんに何か言ったの?」


 スマホの向こうから、すぐには返事が返ってこない。


 夏月には分かった。


 松戸のことだ。きっと今年はもう参加させなくてもいいのではないか、と何らかの形で父に意見したのだろう。

 夏月のために。

 照子へ戻される日を、少しでも減らせないかと思って。


 その気持ちは、嬉しい。


 でも同時に、怖くもあった。


 松戸は若手だ。

 まだ冬川家の中で絶対的な立場を持っているわけじゃない。

 そんな人が主人に意見することの重さくらい、夏月にも分かる。


夏月「松戸さん。 松戸さんの気持ちは本当にありがたいですし、嬉しいです」


夏月「でも、松戸さんはまだ冬川家の執事では若手ですよね。

   私のために意見して、それこそ解雇なんてことになったら申し訳ないです」


夏月「松戸さんだって生活がありますし」


松戸「お心遣い、感謝いたします」


夏月「松戸さんは私の唯一の味方なんです」


 言葉が出た瞬間、自分でも思った以上に切実な響きになってしまっていた。


夏月「松戸さんまでいなくなったら……それこそ私、居場所なくなるんで……」


 言ってから、少しだけ息を呑む。


 冬川家の中ではもちろん、この世界のどこで“照子”として認められるのかと考えた時、松戸の存在は本当に小さくないのだと思い知らされる。


松戸「夏月様……。失礼いたしました」


夏月「いえ、いつも気づかっていただき本当に感謝しています。ありがとうございます」


松戸「大変申し上げにくいのですが、そろそろお時間ですので。 お忙しいところ失礼いたしました」


夏月「ううん。 久々に松戸さんと話せて、私も楽しかったです。 ありがとうございます」


 “楽しかった”なんて半分は強がりだ。

 けれど、松戸の声を聞けたこと自体は本当によかったと思う。

 兄から事務的に送られてくるメッセージだけで知らされるより、ずっとましだった。


松戸「当日は私もご同行させていただく予定ですので」


夏月「それは心強いです」


 素直にそう言えた。


 あの日に、自分のことを“夏月”として見てくれる人が一人でもそばにいる。

 それだけで、地獄の濃さがほんの少しだけ薄まる気がした。


松戸「最後に……夏月様」


夏月「はい?」


松戸「毎年のことですが、もしお辛いことがありましたら私が相談に乗りますので」


夏月「うん……ありがとう」


松戸「それでは失礼いたしました」


夏月「うん。 松戸さんも頑張ってください」


 通話が切れる。


 静かになった部屋で、スマホの画面だけがやけに明るかった。


 夏月は、その光をただじっと見つめていた。


夏月「はぁぁ……」


 分かっていた。

 逃げられないことを。


 だから今、妙に冷静でいられるのだろうと夏月は思った。

 連絡が来るまでは、ずっと怖くて怖くて仕方がなかったのに、いざ来てしまうと、なぜか現実だけが妙に輪郭を持って迫ってくる。


 “ついに決まった”。


 その事実が、逆に変な静けさを連れてくる。


 両足に力が抜けたのか、夏月はそのまま壁に背中をつけながら、ゆっくり床に座り込んだ。


 体を丸め、顔をうずめる。


 視界が真っ暗になる。

 いっそこのまま、自分の存在まで真っ暗になって見えなくなればいいのにとさえ思った。


 悪い癖だ。


 今年こそは、私は呼ばれないのではと淡い期待を抱いてしまっていた。

 しかし、それはそれで、今度はもう父に必要とされていないのではと落ち込むのだろう。


 どう転んでも、苦しい。


 照子に戻される日は、一年の中で一番嫌いな日だ。


 しかし、夏月の心の端には、照子という存在でもまだ父に必要と思ってもらえることに、喜びの感情が僅かにある。

 その感情が夏月にとっては憎たらしく、惨めで、どうしようもなく腹立たしかった。


 嫌いなのに、捨て切れない。


 拒みたいのに、求めてもいる。


 その矛盾ごと抱えている自分が、たまらなく嫌になる。


 着信履歴の一番上には『お父さん』の文字。


 冬川家の固定電話の連絡先だ。

 “自宅”とは登録したくない。


 翼、悠喜、柚木、晴翔と住んでいるタワーマンションの一室。


 ――ここが私の自宅だ!


 そう叫びたい。


 でも、『お父さん』と登録しているのは、まだ完全には諦めていないからだ。

 父親への愛情を。

 必要とされたいという気持ちを。


夏月(力が出ない……)


 松戸と電話してからどれくらい経ったのだろう。


 まだそんなに経っていないのかもしれない。

 けれどスマホの画面で確認するほどの気力はなかった。


 このまま、誰にも見つからずに少しだけ時間が止まってくれればいいのにと思う。


 ――でも、そろそろ戻らないと怪しまれる。


 夏月はゆっくり立ち上がった。


 顔を少しだけ上げ、深呼吸をする。

 平気なふりを作るための、いつもの準備だ。

 何もありません、少し疲れているだけです、という顔を作らないといけない。


 そして、自分たちの部屋へ戻った。


 部屋に入ると、瑞葵が眠気と戦いながら――いや、負けながら今日の宿題をやっていた。


 普段なら学校から帰ってきてからトレーニングをするまでの間の休憩時間に宿題を終わらせて、トレーニング後は就寝までの時間を自由時間にしている。

 けれど、深夜任務の疲れが溜まっていた関係で、今日は宿題をやる時間を犠牲にして仮眠を取っていたのだ。


 机の上には開きっぱなしのノート。

 手にはシャーペン。

 けれど本人の意識はほとんど飛びかけている。


夏月「まったく……」


 思わず呆れた声が出る。


 夏月は寝落ちしかけている瑞葵の肩を揺すり、「ほら、起きないと終わらないよ」と声をかけた。


瑞葵「あ、ごめん!」


夏月「別に……」


 部屋には、他の二人の姿が見えない。


夏月「翼と悠喜は?」


瑞葵「悠喜はテレビ見てるんじゃないかな? 翼は僕の後にお風呂に入った」


夏月「そう………」


瑞葵「あ………」


 瑞葵がなぜか、夏月の方へ視線を向けた。


夏月「なに?」


瑞葵「あ、ごめん……。あの……」


夏月「なに?」


瑞葵「いや、何かあったのかと思って……」


夏月「え?」


瑞葵「なんか元気……ないから」


 まだそこまで深く関わっていない瑞葵にまで気づかれるとは思っていなかった。


 驚いた、というより一瞬だけ困る。

 関係が浅いからこそ、どう返せばいいのか分からない。


夏月「別に……。 少し、疲れただけだから」


 それだけ言って、夏月は自分のベッドへ潜り込んだ。就寝時間まではまだだいぶある。

 けれど今は、誰とも顔を合わせていたくなかった。


夏月「疲れたから寝る」


 そう言って、壁側へ顔を向ける。


瑞葵「え? あ、うん」


夏月「電気そのままでいいから、宿題早く終わらせなさいよ」


瑞葵「分かった」


 掛け布団を顔の近くまで引き上げ、視界を暗くする。


 すると、急にスマホの画面が明るくなったことに気づく。


 翼からの通知だった。


 夏月は反射的にメッセージを開いた。


翼『今日は瑞葵の介抱で時間が作れなくてごめん。

  今、風呂上がって急いで着替えるからゆっくり話そう。

 ベランダにするか? それか今日仮眠で使った空き部屋にするか?』


 翼からのメッセージ。


 その文面を見た瞬間、感謝ではなく「遅い」が先に浮かんでしまう自分に、夏月はもっと腹が立った。


 翼は気づいてくれていたのか。


 それとも悠喜が話したのか。


 ――いや、どっちもだ。


 きっと翼は最初から気づいていた。

 去年も一昨年も、その前も、翼は何も言わなくてもあの夢を見た日の夏月の異変に気づいてくれていた。まだ関係が浅かった頃でさえ、翼はちゃんと気づいてくれていた。


 そして悠喜も、今日の様子を翼に知らせたのだろう。

 異変に気づいて、今日はずっと夏月を一人にしないように、あの不器用なやり方でそばにいてくれていた。


夏月(私だけだ……。 成長できてないのは……)


 仕方ないのは分かってる。


 今日の瑞葵の様子を見れば、翼がそばについていないといけないのは当然だ。


 それを分かった上で、悠喜は夏月のそばにいてくれた。


夏月(2人の優しさを無下にしたのは私だ)


夏月(きっと翼は初めから時間を作ってくれてたんだ。 翼だって疲れてるのに……)


 今の夏月に、メッセージを返す余裕はない。


 返せばきっと、翼は時間を作って来てくれる。

 優しいから。

 疲れていても、夏月のために動いてくれる。


 それが分かるから、余計に返せなかった。


夏月 (ごめん……)


夏月(今日はもう無理だ……)


 そのまま瞳を閉じる。

 早く今日を終わらせるために。


 明日になれば少しはましになるのだろうか。


 そんな希望めいたものさえ、今は薄い。


 頭の中に浮かぶのは、ただひとつの日付だけだった。


 ――6月21日。


 今年も同じ日だ。

 去年も、一昨年も、その前の年も、父親から呼ばれる日は同じだった。


 ――6月21日。


 それは冬川照子が生まれた日でもあり、


 ――冬川照子が死んだ日でもあった。

次回予告

「今回の任務は夏月ちゃんにしかできない。」


初めて託された瑞葵との二人任務。


不安と期待が交錯する中、

翼の優しさが夏月の心を少しずつほどいていく。


だが、その先には逃れられない”6月21日”が待っていた。

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