EP.3-2 見えない傷
皆さん、こんにちは!Time Bombです!
先月末に活動報告で連載開始半年の御礼を書かせていただきました。
改めまして、読者の皆さん、いつもありがとうございます。
EP.1、EP.2は瑞葵を主軸に物語が進んでいましたが、EP.3では夏月視点としての瑞葵たちの姿も楽しんでいただければと思います!
EP.3は長編となっておりますが、その分、夏月の内面や変化をしっかり描いていけたらと思っております。
夏月が一皮むけていく過程にも、ぜひ注目していただけたら嬉しいです。
ぜひ今後とも楽しみにしていただければと思います!
放課後のトレーニングルームには、乾いた打撃音が一定のリズムで響いていた。
壁際に立つ稔の視線は鋭い。
その正面で構える瑞葵は、両足を開き、必死にファイティングポーズを維持していた。
だが、その構えにはいつものような安定感がない。
肩はわずかに落ち、呼吸も浅い。
昨日の任務の疲労が抜け切っていないのは、誰の目にも明らかだった。
床を踏むたび、足元がわずかに揺れている。
腕を上げているだけでも負担なのだろう。
けれど瑞葵は、それを顔に出すまいとしていた。
出したところで、見逃してもらえる相手ではないと分かっているからだ。
稔「遅い」
短く言い放った直後、稔の右足が鋭く走る。
瑞葵「っ……!」
瑞葵は咄嗟に腕を下ろして防ごうとしたが、反応がわずかに遅れた。
低い位置から入った蹴りが左の太腿をかすめ、そのまま体勢が崩れる。
稔「今のを食らう時点で終わってる」
冷たい声がトレーニングルームに落ちる。
容赦がない。
だが、それが稔のやり方だった。
甘さを見せた先にあるのが怪我で済むとは限らない。
この場にいる全員が、そのことを知っている。
瑞葵は歯を食いしばり、ぐらつく足に力を入れて再び構え直した。
瑞葵「……はい」
稔 「声が小さい」
瑞葵「はい!」
返事はしたものの、呼吸は乱れたままだ。
額にはすでに汗が滲み、前髪の先からぽたりと雫が落ちる。
息を吸うたびに喉の奥がひりつき、昨日の任務の疲れがまだ身体の深いところに残っているのが嫌でも分かった。
トレーニングルームの隅では、晴翔が壁にもたれながら静かに様子を見ていた。
その隣には休憩中の翼もいる。
翼は腕を組みながらも、視線だけは瑞葵の動きから一瞬たりとも外していなかった。
晴翔はどこか冷静で、状況全体を眺めているような目をしている。
対して翼の目は、ただひたすら瑞葵に向いていた。
今どこが危ないか、どこで崩れそうか、そういうものを無意識に拾ってしまう目だった。
稔 「もう一度だ。次は防げ」
稔が一歩踏み込む。
その瞬間、瑞葵の肩がわずかに揺れた。
上段が来ると読んだのだろう。腕が上がる。
しかし、稔が狙ったのは腹部だった。
鈍い音が響く。
瑞葵「……っ!」
拳が腹に入った衝撃で、瑞葵の身体がくの字に折れる。
息が一気に吐き出され、そのまま膝が床につきかけた。
稔 「脇が甘い」
稔は容赦なく言い切る。
稔 「上を見せられたらすぐ上に釣られる。
視野が狭い。
読みが単純。
反応も遅い。」
言葉の一つ一つが、追い打ちのように刺さる。
瑞葵は咳き込みながらも、なんとか床に手をつかずに耐えた。
ここで完全に崩れたくない。
その意地だけで踏みとどまっているのが分かる。
膝をついた瞬間、自分が本当にそこで終わってしまう気がしたのだろう。
瑞葵「……すみません」
稔 「謝るな。直せ」
稔の声には一切の情けがなかった。
それでも、その冷たさは突き放すためのものではなく、瑞葵を甘やかさないためのものだと、この場にいる全員が知っていた。
中途半端な優しさは、現場では誰も守れない。
だから稔はいつだって言葉を濁さない。
稔 「昨日、任務に出たんだろ」
瑞葵「はい」
稔 「ならなおさらだ。実戦の翌日に隙が増えるようなら、お前はそのうち本番で死ぬ」
トレーニングルームの空気が、ぴんと張りつめる。
瑞葵は俯きかけた顔を、ゆっくり上げた。
唇の端がかすかに震えている。
痛みのせいか、悔しさのせいか、自分でも分かっていないのかもしれない。
瑞葵「……はい」
稔 「昨日任務に行ったのは分かる。
疲れてるのも分かる。
だが、それを言い訳にするなら今日ここに立つな」
稔は一歩、瑞葵との距離を詰める。
稔 「立つってことは、できるようになる気があるってことだ。 違うか?」
瑞葵は息を整えながら、小さく拳を握り直す。
瑞葵「……あります」
稔 「聞こえない」
瑞葵「あります!」
その返答に、稔はわずかに顎を引いた。
稔 「なら立て」
瑞葵は深く息を吸い、もう一度構えを取る。
けれど、その足元はやはり不安定だった。
疲労だけじゃない。
任務明けの緊張、寝不足、身体に残った鈍い痛み。
その全部がまだ消え切っていない。
翼はそんな瑞葵の背中を見ながら、小さく息をついた。
翼 「やっぱり少し無理させすぎたかもしれません……。」
晴翔が視線だけを翼へ向ける。
晴翔「それでも稔さんは止めないよ。 今ここで見逃した方が後で危ないからな。」
翼 「分かってます。」
分かっているからこそ、翼の声色は重かった。
昨日の任務で、瑞葵は確かに踏ん張った。
危なっかしいところは多かったが、それでも逃げずに動いた。
けれど、その代償はこうして確実に身体に残っている。
瑞葵自身も、それを分かっているのだろう。
分かっているからこそ、休ませろとは言わない。
弱音を吐けば、それがそのまま未熟さの証明になる気がしているのかもしれなかった。
稔 「来い」
瑞葵が床を蹴る。
今度は自分から前へ出た。
稔の懐へ飛び込み、拳を真っ直ぐ打ち込もうとする。
悪くない踏み込みだった。
だが、やはり速さが足りない。
稔は最小限の動きで身体を逸らし、瑞葵の腕を払う。
稔 「甘い」
そのまま返す手で、頬の手前でぴたりと拳を止める。
あと数センチ近ければ、まともに顔面へ入っていた距離だった。
瑞葵の身体がびくりと強張る。
目の前まで来た拳。
そこに込められていた圧。
風を切る気配。
痛みが来る、と身体が先に思ってしまう。
頭で分かるより早く、恐怖だけが身体を縛る。
稔 「顔に来ると分かった瞬間、目を逸らしたな」
瑞葵「……っ」
稔 「そこだ」
稔は拳を引き、淡々と告げる。
稔 「瑞葵は痛みより先に恐怖が出る。
だから反応が遅れる。
だから守りが崩れる。」
瑞葵の喉が小さく鳴った。
図星なのだろう。
腹部でも脚でもなく、顔の直前で拳を止められた時だけ、瑞葵ははっきりと怯えを見せる。
自分では隠しているつもりでも、それは稔の目にはきっちり映っていた。
稔 「別に怖がるなとは言わん。怖いなら怖いでいい」
低い声が落ちる。
稔 「だが、怖いまま止まるな。 恐怖を理由に目を逸らすな」
瑞葵は息を呑んだまま、じっと稔を見つめた。
トレーニングルームの隅で見ていた翼の表情が少しだけ変わる。
厳しい言葉だ。
だが、それは今の瑞葵に必要なものでもある。
稔 「瑞葵はまだ、自分が殴られる側の想像から抜け切れてない」
稔 「だから相手の動きより、自分がどうされるかを先に考える」
稔 「それじゃ守れない」
その言葉に、瑞葵の肩が微かに震えた。
守れない。
その一言が、他のどの指摘よりも重く響いたのだろう。
瑞葵の脳裏に、昨日の任務の断片がよぎる。
自分が止まれば、誰かが危なくなる。
自分が遅れれば、守れないかもしれない。
そういう感覚だけが、胃の底へ重く沈んだ。
瑞葵はぎゅっと奥歯を噛み締めたあと、もう一度だけ構えを上げ直した。
瑞葵「……お願いします」
稔 「最初からそう言え」
次の瞬間、二人の距離が一気に縮まる。
稔の拳。瑞葵の防御。蹴り。受け損ねた衝撃。よろめきながらも立て直す足。トレーニングルームには再び乾いた音が響き始めた。
何度も、何度も。
瑞葵の反応は遅い。甘い。危うい。
それでも、最初よりはわずかに目が逸れなくなっていた。
恐怖は消えていない。
消えていないまま、それでも見ようとしている。
その変化を、稔も翼も晴翔も見ていた。
腹に一発、肩に一発、脚に一発。
細かいミスのたびに稔の声が飛ぶ。
稔 「脇」
稔 「足が止まる」
稔 「今の一歩が余計だ」
稔 「視線を切るな」
瑞葵は返事をする余裕もなく、ただ食らいつくように動き続ける。
息は荒く、汗は次々と落ちていく。
それでも逃げなかった。逃げられなかったのか、逃げたくなかったのか、自分でも分からないまま。
その姿を見ながら、翼はぽつりと呟いた。
翼 「……少しずつだけど、昨日よりは見れてますね」
晴翔「まあな。 任務のあとでこれなら上出来な方だよ」
翼 「でも、まだ危なっかしいです。」
晴翔「危なっかしいから今やってるんだろ。」
晴翔の言葉に、翼は黙る。
その通りだった。
瑞葵はまだ未熟だ。
危うい。
放っておけない。
だから手を貸したくなるし、目も離せない。
その“放っておけなさ”が、周りにどう見えているのかまで考える余裕は、今の翼にはなかった。
気づいていないわけじゃない。
ただ、今はそれより優先するものがあるというだけだった。
稔の蹴りをなんとか受けきった瑞葵が、数歩下がって息を整える。
肩で呼吸をしながらも、視線だけは切らなかった。
稔はそんな瑞葵を見て、ようやく一度だけ動きを止める。
稔 「……今日はここまでにしてやる」
その言葉に、瑞葵の膝から力が抜けそうになる。
だが、倒れる寸前でなんとか踏みとどまった。
稔 「勘違いするな。 合格じゃない。 今のままじゃ全然足りん」
瑞葵「はい……」
稔 「ただ、最初よりはマシになった」
瑞葵は驚いたように目を瞬かせる。
稔が素直にそう言うのは珍しい。
だからこそ、その一言の重みは大きかった。
褒められたわけじゃない。
それでも、“見ていた”と言われた気がした。
稔 「恐怖が消えることはない。 だが、目を逸らさずに立てるなら、お前はまだ伸びる」
短くそう言い残すと、稔は背を向ける。
その背中を見送りながら、瑞葵はその場にへたり込みそうになる足を必死に支えた。
今座ったら、たぶんしばらく立てない。
そんな予感があった。
翼 「お疲れ」
近づいてきた翼が、瑞葵の前に立つ。
瑞葵「……全然、ついていけなかった」
翼 「いや、最後の方はちゃんと見てたよ」
瑞葵「でも、まだ全然怖かった……」
そう言った瑞葵の声は小さかった。
強がる余裕もないくらい、今は素直だった。
翼 「怖くても立てたなら十分だろ」
翼がそう言うと、瑞葵は少しだけ顔を上げた。
その言葉に救われるのは悔しいのに、少しだけ救われてしまう。
そんな複雑な顔だった。
ーーーーー
一方その頃、トレーニング前の短い休憩時間。
夏月と悠喜は、廊下の端で向かい合っていた。
下校中のやり取りを、まだ引きずったまま。
窓の外は少しずつ夕方の色を濃くしていて、廊下には部屋の中ほどの熱気はない。
それでも、夏月の胸の内だけは朝からずっとざわついたままだった。
悠喜「だから、くだらなくないって言ってんだろ」
トイレを済ませてきた夏月に、悠喜は説得に入る。
夏月「自分でくだらないって言ったんでしょ」
悠喜「言い方の問題だよ。言い方の」
夏月は小さく息を吐く。
あの時は少しだけ気が晴れたはずなのに、胸の奥に残った重さまでは消えてくれない。
むしろ、気が抜けたせいで隠していたものが浮かび上がってくる。
夏月は無造作にスポーツドリンクを口に運ぶ。
冷たいはずなのに、喉を通っていく感覚はやけに鈍かった。
悠喜「で、何にそんなイラついてんの」
夏月「別に……」
悠喜「別にで済むなら、ため息あんなにでかくならねえだろ」
図星を突かれて、夏月は視線を逸らす。
翼のこと。
瑞葵のこと。
自分の嫉妬。
今日一日ずっと引っかかっていたものは、どれも口に出した瞬間に急に幼く、みっともなく見えそうで嫌だった。
言葉にした途端、それが“ただのわがまま”として形を持ってしまいそうで怖い。
そうなったら、もう自分でも言い逃れできなくなる。
夏月「……私、自分が嫌になる時があるの」
悠喜「急に重いな」
夏月「うるさい」
悠喜は謝らなかった。
ただ、ふざけるのをやめた。
それだけで、少し話しやすくなる。
いつもは雑に見えるくせに、こういうところだけ妙にちゃんとしているから厄介だと夏月は思う。
夏月「分かってるの。 翼は悪くないし、瑞葵も悪くない。 そんなの最初から分かってる」
夏月「でも、今日だけは……今日だけは、少しでいいから私の方を見てほしかった」
言ってしまった瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
ああ、やっぱりわがままだ。
自分でそう思ってしまう。
けれど悠喜は、笑わなかった。
悠喜「それのどこが駄目なんだよ」
夏月「え……」
悠喜「見てほしい時に見てほしいって思うの、普通だろ」
その言葉に、夏月は何も返せなかった。
普通。
その言葉が、今の自分には少しだけ遠く聞こえた。
普通に甘えられたら、こんなに苦しくない。
普通に頼れたら、こんなふうに一人でぐちゃぐちゃにならない。
翼に頼りたい。甘えたい。傍にいてほしい。
そんなことくらい、本当は素直に言えればいいのに。
言った瞬間に、それが弱さとして露骨に見えてしまう気がして、どうしても飲み込んでしまう。
悠喜「……それだけじゃないんだろ」
胸が重くなる。
今日はまだ来ていない。
でも、来るかもしれない。
毎年、この時期になると。
思い出したくもないのに、身体だけが先に身構えてしまう。
あの夢を見た時から、頭のどこかでずっと時計の針が進んでいるみたいだった。
夏月「……あの夢、見た」
悠喜の表情が変わる。
軽口を叩く時の顔じゃない。
ちゃんと、意味を知っている人の顔だった。
悠喜「……そっか」
夏月「だから、たぶん……もうすぐ来る」
その言葉を口にした瞬間、現実になる気がして怖かった。
言葉にしなければ、まだ確定していないままでいられる気がしていたのに。
口にしただけで、もう逃げ場がひとつ減ったような気がした。
悠喜「翼を呼ぶか」
夏月「いい。 今の翼にこれ以上負担かけたくない」
夏月「それに……このくらい、自分で何とかしなきゃ」
悠喜「強がんなよ」
夏月「ほんと。 だって、翼も疲れてるだろうしさ」
今もきっと瑞葵のことを見ている。
任務明けで、寝不足で、それでも訓練に立っているあの子のことを。
それが当然だと分かっているからこそ、余計に自分のことなんて言えなかった。
悠喜「これはわがままじゃないだろ。 夏月がずっと抱えてる悩みだろ?」
夏月「だからだよ……。 いい加減さ……私一人で心を落ち着かせないと……」
いつまでも誰かに支えてもらう側ではいられない。
そう思ってしまう。
思わなければ、自分がひどく未熟に見える気がしてしまう。
悠喜「それでも……」
ちょうどそのタイミングで、トレーニング開始の指示が出てしまった。
短い合図の音が廊下に響き、話の続きは強制的に断ち切られる。
夏月「ほら! 行くよ」
夏月はそれ以上話を続けさせないように、勢いのままトレーニングルームに向かってしまった。
悠喜はその背中を見ながら、わざとらしく大きく息を吐く。
悠喜「はぁぁぁ……」
今度は悠喜が大きいため息を吐いた。
悠喜「俺のこと頑固だって言うくせに、自分はどうなんだよ」
思わず独り言が漏れる。
夏月がこうなる時期を、悠喜は知っていた。
毎年、だいたい同じ時期に空気が変わる。
表面上はいつも通りを装っていても、ふとした瞬間に揺れ方が大きくなる。
悠喜(6月……いつもこの季節だ。 夏月があの夢を見るのは)
悠喜(翼は気づいてるはず。 早く手を打たないと、瑞葵みたいになるんじゃないか……夏月は……)
夏月は何事もなかったような顔で、トレーニングルームへ入っていく。
けれど、その横顔が少しだけ強張って見えたのは、きっと気のせいじゃない。
悠喜は小さく息を吐いた。
今の夏月を、一人で大丈夫だなんて思えなかった。
次回予告
「6月21日に迎えに行くとのことです」
風呂上がりの静かな時間。
ついに夏月のもとへ、“その日”を告げる連絡が届く。
逃げられない日付。
戻りたくない名前。
それでも捨てきれない想い。
揺れる心を抱えたまま、夏月が向き合うものとは――。




