第三話 夏井栗栖
夏井栗栖。
長く艶のある黒髪を腰まで伸ばしたやや小柄な、人形みたいな美少女である。
華奢な見た目の割には、意外と運動もできたりする。
その容姿から、彼女は男子生徒から凄まじい人気を獲得していた。
噂によれば、一日に四度も告白されたことがあるという。
そして、そこからついた二つ名は、『学園のジュリエット』。
まぁ、俺が考えたんだが。
華奢な体格も相まって、守ってやりたくなるような雰囲気を纏っているものの、本人はそれをまるで自覚していない。
むしろ、無愛想で淡々としており、他人とは一定の距離を置きたがるタイプだ。
しかし、本当は誰よりも優しいということを俺は知っている。
以前、誰もいない雨上がりの公園で、彼女が震える捨て犬を抱き上げている姿を見かけたことがあった。
そう、ただその優しさを上手く表に出せないだけなのだ。
「他にも、小学生が倒れているところを___」
「ねぇ、あなたってもしかしてストーカーなの?」
「そ、そんなわけがないだろ! だいたい、夏井栗栖の情報を知りたがってたのはお前のほうだろ!」
「そんな具体的に、とは言ってないわ」
彼女は呆れたようにため息をつきながら、じとりとした視線を向けてきた。
失礼な。
俺はただ、観察力に優れているだけだ。
「らいっちは、夏井さんのこと前から気になってたでしょ? 『俺は、ほかの奴らと違う! 絶対に告白成功させて見せる!』 って息巻いてたじゃない。……まあ、結局びびって一度も告白してないけど」
「う、うるさい! お前は、余計なことを言うな!」
「あんたって私が思っていた以上に、気持ち悪い男なのね……」
永谷は本気で引いたような目を向けてきた。
やめろよ……。
その視線は、地味に精神へダメージが入る。
「べ、別にいいだろ。男なら誰だって美少女に憧れることくらいある」
「その発想自体がもうキモいのよ」
「辛辣すぎない?」
すると、永谷は小さくため息をつき、ティーカップを机へ置いた。
「でも、意外ね」
「……何がだよ」
「あなたみたいなタイプって、 “どうせ俺なんか”って全部諦めてる人種だと思ってたから」
「実際、半分くらいは諦めてるぞ」
「じゃあ残り半分は?」
不意に、真っ直ぐな視線が向けられる。
俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……そりゃ、少しくらい期待することもあるだろ」
その瞬間。
永谷はなぜか、ほんのわずかに目を見開いた。
だが次の瞬間には、すぐいつもの澄ました表情へ戻る。
「ふぅん……」
そう短く呟くと、彼女は再び紅茶へ口をつけた。
「だが、あの夏井が容易に俺との会話に応じるとは到底思えないのだが……」
「学校の近くに川があるの、知ってる?」
「まぁ、一応……」
「六時頃、そこへ行きなさい」
彼女は、悠々と足を組みながらこちらを見た。
「行って何になるんだ?」
「とにかく攻める、それが私のモットーなのよ」
彼女は、依然として表情を崩さない。
しかし、俺にはさっぱりわからない。
彼女が何を言っているのか。
♢♦♢
「大丈夫、私がいるから……」
少女は、犬を抱え上げて優しくつぶやいた。
傍らには、数か所に穴の開いた、ボロボロの段ボールで作られた犬小屋が置かれていた。
「ごめん、今日これしか持ってこれてないんだ……」
少女は、申し訳なさそうに眉を下げながら、コンビニの袋から小さなパンを取り出した。
それを少しずつ千切ると、震える子犬の前へそっと置いていく。
「明日は、もっとちゃんとしたの持ってくるからね……」
まるで幼い子どもに言い聞かせるような、優しい声だった。
子犬がそれをゆっくりと食べていくのを見て、ようやく少しだけ表情を緩めた。
普段、学校で見せている無愛想な姿からは想像もできないほど、穏やかな笑みだった。
「マジかよ、夏井栗栖、ほんとにいたんだけど……」
永谷理香は、その後「夏井栗栖は毎日、自分が本来食べるはずの食べ物を子犬にあげているのよ」と言った。
まさか、本当に当たっているとは思わなかった。
「だ、だれっ!?」
栗栖は、子犬を大事に抱えながら、肩を大きく震わせた。
まるで、子犬を抱えた人形のように可愛らしく、思わず見惚れてしまうほど絵になっていた。
さすが、『学園のジュリエット』と言われるほどの美少女だ。
まぁ、俺が考えたのだが。
「き、きりたに、らいとっ」
その名を口にした途端、彼女の目つきが鋭く変わった。
まるで、犯罪者を見るような眼差しだ。
「な、なにしにきたっ」
「い、いや別に何も……」
「これいじょう、ちかづいたらつうほうする」
彼女は、顔に冷や汗を浮かべながらも、彼女の鋭い眼差しは揺らがなかった。
これが今の俺の現実だ。
やはり、俺の悪評は学園中に知れ渡っているらしい。
だが、逆に安心した。
___もう、減る物なんて何もない。
「だ、だからこれ以上近づい___」
俺は、ポケットに入れてきたドッグフードを子犬へ差し出した。
ちなみに、このドッグフードを用意しろと提案したのも永谷である。
永谷曰く、この子犬はこういうタイプのドッグフードが好物らしい。
その情報をどこで手に入れたのかは分からないが、どうやら彼女の話は正しかったみたいだ。
子犬は、モグモグと勢いよく食べた。
「良い子だ。 はは、そんなに慌てなくても、誰も取ったりしないよ」
このセリフも、もちろん永谷が考案した言葉だ。
我ながら、良い演技をするものだ。
「こ、こんなにたべてるとこ、みたことない……」
彼女の険しかった表情が、驚いたようなものへ変わる。
こ、これは、なかなかのラブコメ王道の展開ではないか?
こんな幸せに感じたの、いつぶりだろうか……。
「ほら、夏井さんも」
「えっ……?」
俺は、袋から揚げパンを取り出した。
永谷によれば、このパンは、
「揚げパン、好きだろ」
「え、で、でも……」
「別にお金なんていらないよ。君がずっと、この子に自分の食べ物を分けてあげてるの知ってるし」
「あ、ありがとうござい、ます……」
彼女は、少し顔を赤らめてお礼を言った。
よし、これはもう決まったな。
♢♦♢
「す、すみません……。 先ほどは失礼しました……」
彼女は、深々と頭を下げた。
「いやいや、全然大丈夫ですよ」
「その……すみません。私が勝手に想像していたあなたのイメージと、あまりにも違いすぎて……」
夏井栗栖は申し訳なさそうに視線を伏せた。
先ほどまで張り詰めていた警戒心は、もうどこにも見当たらない。
代わりにあるのは、気まずさと戸惑いだった。
あとは、顔の紅潮のみ。
「まぁ、気にしないでください。実際、学園での俺の評判ってかなり悪いですし」
自虐気味に笑ってみせると、夏井は小さく肩を震わせた。
「で、でも……。 噂だけで人を決めつけるのって、よくないですよね……」
その声には、どこか自分自身を責めるような響きが混じっていた。
……律儀な人だ。
「別にもう慣れてますよ。 今さら俺のことを誤解する人が一人増えたところで、大して変わりません」
「そういう言い方、よくないと思います……」
「え?」
予想外の返答に、思わず聞き返す。
すると夏井は、腕の中の子犬をそっと抱き寄せながら、小さな声で続けた。
「自分のことを、そんなふうに言わないでください……」
川辺を吹き抜けた夜風が、彼女の長い黒髪を静かに揺らす。
その真っ直ぐな言葉が、不思議なくらい胸に残った。
――ああ。
この人、好きだわ。
「それは、あなたもですよ」
「えっ?」
「たまには、自分自身も気にしてやってください。 ちゃんとご飯食べられてないんでしょ?」
「そ、それは……」
夏井は気まずそうに視線を逸らし、抱えていた子犬をぎゅっと胸元へ引き寄せた。
どうやら、図星らしい。
だが、すでに俺は知ってる。
お前が二日間飲まず食わずだということも。
貧乏なんだろ?
しかし、それは俺にとって好都合なのだ。
「実は、おか__」
「これからは、俺も呼んでください!」
「えっ?」
彼女は、呆然と俺を見た。
「俺が、子犬の食事代のお金を出します。 とりあえずあなたは、自分自身に気を使ってください」
「い、良いんですか?」
「もちろんです!」
あぁ、きもちいい!
これが、主人公のセリフってやつか。
一度は、可愛いヒロインに言ってみたかったやつだ。
「ほ、ほんとに、ありがとうございます……」
彼女の瞳に滲んだ涙が、重力に引かれるように頬を滑り落ちた。
彼女も、また一人だったのかもしれない。
たった一人で、子犬の面倒を見て、学校へ行き、講義を受ける。
何度も同じ辛さを経験してきたからこそ、彼女の気持ちがわかった気がする。
「おいおい、何してんだ!」
「ひゅーひゅー、カップルじゃね、あれ」
「まじー!? 激熱じゃーん! もしかして、俺ら雰囲気壊しちゃったって感じ?」
「えっ、だ、誰……」
ようやく来たか、不良軍団。
待ちくたびれてたぞ。
「夏井さん、子犬を連れて、早く逃げて」
「で、でもそしたら、桐谷さんが……」
「俺は大丈夫だ」
「わ、分かりました……」
彼女は一瞬だけ迷うように俺を見つめたあと、ぎゅっと子犬を抱き直した。
それから、決意を固めたように小さく頷く。
次の瞬間には、踵を返して走り出していた。
その背中が遠ざかっていくのを確認しながら、俺は静かに息を吐く。
__計画通り!
やはり、永谷の言うとおりだった。
この辺りには、素行の悪そうな連中がこの時間帯にたびたび出没するらしい。
しかし、素行が悪そうなのは見た目だけであって、一応まともな人たちらしい。
そのおかげで、俺はラブコメ伏線を作ることに成功した。
「よし、じゃあお前らは帰っていいぞ」
「は? 何言ってんだ、てめぇ」
「え……?」
おかしい、俺が永谷に聞いた話と違う。
「調子乗ってんじゃねえぞ!」
ヤンキーのストレートは、俺の腹に容赦なくめり込んだ。




