レティシアとして目覚める
目を開いた瞬間、健次郎は、まず“光”の質に戸惑った。
まぶしいわけではない。むしろ優しい。
しかし、どこか――乾いている。
日本の朝にある、湿気を含んだやわらかな拡散とは違う。
包み込むようでいて、微妙に肌に触れない、そんな光だった。
視界の上方には、重厚な布で覆われた天蓋が広がっている。
深い赤と金糸で縁取られた、時代劇でも滅多にお目にかかれない意匠。
その下で自分が寝ていたという事実だけで、誰かの冗談のように思えた。
鼻をくすぐるのは甘い花の香りだった。
だが、花瓶の直線的な香りとは違い、
布や木の質に染み込んだような、人工的な上品さがある。
ホテルのアロマのようでもなく、しかし確かに手間ひまを掛けた気品があった。
状況が理解できず、呼吸が浅くなる――
そんな“人間らしい反応”が起きてもいいはずなのに、
健次郎の身体は驚くほど静かで、平らだった。
視界の端で、何かがわずかに震えた。
顔をそちらに向けると、若い侍女らしき少女が、
涙をこらえきれずに頬を濡らしながらこちらを見つめていた。
年のわりに背筋が真っすぐなのは、緊張のせいか、それとも職業柄か。
肩まで固くなっている。
まるで、爆発を恐れる人間のように。
少女は突然、ほっとしたように息を吐き、
目を丸くして言った。
「お嬢様……! 本日はご機嫌がよろしいのですね!」
“お嬢様”。
その呼びかけに、健次郎は反射的に眉を寄せた。
けれど、そのわずかな不快感すら、水に溶ける砂のようにすぐ散っていく。
何かが決定的におかしい。
だが、どこから突っ込めばいいのかもわからない。
そして――
少女の震えた声が、この世界における“前提”を
否応なく、静かに突きつけてくるのだった。
「お嬢様」という言葉が、耳の奥で軽くはねた。
本来なら、反射で否定の声が出ていいはずだ。
そんな柄でもなければ、そう呼ばれる性分でもない。
だが健次郎の身体は、まるで
“昔からそう呼ばれてきましたが、何か?”
と言わんばかりに、その呼称を拒否しなかった。
違和感は確かにある。
だがその輪郭が、妙にぼやけている。
(……お嬢、さま?)
頭で反芻すると、多少ムズムズする。
しかし、胸の奥は微動だにしない。
体のどこかに“レティシア”という住人が既に根を張っている、
そんな感覚があった。
ふと、自分の声を出してみた。
驚くほど澄んだ女性の声が喉から流れ出た。
指を動かせば、しなやかで細い――
武道家の硬さとは無縁の、貴族令嬢の指先がそこにあった。
驚きは……来ない。
動悸も汗も、拒絶反応の兆しもない。
むしろ、
“この状況で動揺していない自分”に驚くべきなのでは?
そう思うのに、その“驚き”すら起きなかった。
まるで心の反応が、ひとつ分遅れている。
ならば仕方ない、と健次郎は即座に思考を切り替える。
混乱より「場の把握」が先に来るのは、
長年、試合の渦中で生きてきた癖だ。
まずは環境の確認だ。
(ここは……リングか?)
違う。
足元にはキャンバスの反発もロープの緊張もない。
(じゃあ、控室か?)
それも違う。
控室はこんなに横に広くないし、
天蓋付きベッドが置かれることはまずない。
(……どこだここは)
観客の気配も、汗の匂いも、試合前の緊張もない。
ここは――完全に未知の環境だ。
健次郎は静かに息を吸い、
目の前の侍女へ、慎重に視線を向けた。
この世界の“次の情報”は、きっと彼女の口から与えられる。
侍女は、さっきまでの涙ぐむ喜びが嘘のように、
急にその両手を胸元で固く握りしめた。
指先が白くなるほどの力だった。
嬉しさと不安が同居していて、
それが慣れきってしまった仕草であることがすぐにわかる。
伏せられた睫毛がふるえ、
少女は震える声で続けた。
「本日は……王太子殿下との“再確認の儀”がございます。
……どうか……どうか、また怒鳴ったりはなさいませんよう……」
“怒鳴ったり”。
その単語が、健次郎の思考を一瞬で整理した。
この身体――レティシアという人物が、
どういう扱われ方をしていたのか、
侍女がどんな恐怖を日々味わっていたのか、
ほんの数秒で察せられる。
気性が荒い。
周囲にあたり散らす。
王太子との関係は悪化の一途。
そんな人物像が、
侍女の怯えた眼差しだけで容易に形を取った。
だが健次郎の内側には、
その“前任者”への同一化はまったく起きない。
他人の審判をする時のように、
彼は静かに境界線を引く。
――自分は、この人物ではない。
それが不思議なほど自然に腑に落ちた。
侍女の怯える眼を真正面から受け止め、
健次郎は短く、必要最小限の言葉を返した。
「……怒鳴らない。必要がない」
侍女は息を呑んだ。
目がまんまるに開き、
口元が震えたまま固まる。
「お、お嬢様……こんなに落ち着いておられるなんて……」
まるで、氷が突然水に変わったかのような驚きぶりだった。
この反応だけで、
レティシアがどれほど問題の多い人物だったかが
確定的に理解できる。
健次郎は心の奥で小さく頷く。
――ふむ、そういう“設定”のリングか。
レフェリーの癖で、
まず“状況の整理”が終わったのだった。
侍女の過剰な反応が収まらないまま、
健次郎は一歩引いた視点で彼女を観察した。
怯え、安堵し、混乱している。
その感情の揺れ幅は、
まるで彼女の世界の中心人物が、
“突然別人のようになった”と受け取ったがゆえのものだ。
――なるほど。
健次郎の内側で、静かに結論が形を成した。
(私は“任意に行動を選ぶプレイヤー”としてではなく、
“既に社会的な立場を持つ人物”として扱われている……)
ゲームであれば、
開始直後に選択肢が現れ、
“自分は何者で、どう振る舞うか”を問いかけられるだろう。
だがここにはそれがない。
自分の意思とは関係なく、
“レティシア”としての日常が当然のように周囲から押し寄せる。
――つまり、この世界はレティシアを必要としている。
その役を、
気づいた時には自分が継いでいた。
そんな“引継ぎのない交代劇”に放り込まれたのだ。
健次郎はゆっくりと息を吐いた。
主観の違和感はもう薄れている。
目の前の景色は自然に見え、
身体の重さや呼吸のリズムも完全に馴染んでいる。
だが、記憶だけは――
どうしようもなく、津久田健次郎のままだ。
レティシアの過去も人格もない。
それなのに周囲は、
彼女としての「これまで」を前提に話しかけてくる。
そのアンバランスが、
健次郎の思考をより冷静にさせた。
(まずは――情報だな)
環境、関係性、立場、役割。
どれか一つでも欠ければ判断を誤る。
レフェリーとして培った職業病のような習性が、
自然に優先順位を組み立てていく。
今は、動かず、焦らず。
徹底的に状況を把握すること。
それが、この“役の継承”における
最初の最適解だった。
侍女に導かれ、
健次郎は寝台の脇に置かれた大きな姿見の前へと歩いた。
木枠には繊細な彫刻が施され、
ただの鏡というより、
貴族の威信を象徴する調度品といったほうが正しい。
「お嬢様、こちらを……」
侍女は不安を押し隠すように背筋を伸ばし、
健次郎――いや、レティシアを鏡の中心へと立たせた。
そして映った“それ”を見た瞬間、
健次郎の心は奇妙な静けさに包まれた。
長い赤髪が、朝光を受けてゆらと燃える。
肌は白磁の器のように薄く光を帯び、
その中央に置かれた瞳だけが、
年若さにそぐわない“疲労を含んだ強さ”を湛えていた。
細い肩を覆う寝衣は、
糸の一本にまで贅が込められた高級品で、
この体の持ち主が
明らかに高貴な身分であることを物語っている。
鏡の中に健次郎の面影は一片もなかった。
だが――取り乱れはしない。
胸がざわつくでもなく、
自我が軋むでもない。
むしろ、彼は“採点”する者の目をして鏡を見つめていた。
(ふむ……この顔で怒鳴ったら、確かに迫力はあるな)
その冷静さは、
リング上で乱闘寸前の選手を見ても動揺しない
審判としての癖の延長だった。
姿見に映る“レティシア”は、
美しくも、人を睨みつければ
侍女が怯えて泣き出すほどの圧を宿し得る。
健次郎は鏡の中の少女と目を合わせる。
そのまなざしに、
どこか“過去のしこり”のような影が揺れた。
(この身体の持ち主は……随分と無理をしてきた顔だな)
独りごちるように思いながら、
鏡に映る“役職としての自分”を静かに受け止めていくのだった。
姿見から目を離した瞬間、
侍女がこちらを窺うように、そっと唇を震わせた。
「お嬢様……ご気分は、本当に……?」
その声は、胸の奥に小さな棘のように刺さった。
“ご気分”という言い回しに込められた遠回しの恐れ。
侍女が何を恐れているのか、
言葉にしなくても察することができる。
健次郎はすぐに答えず、
短い沈黙の中で状況を整理し始めた。
(この世界の秩序は、まだ何一つ分からない)
(侍女の態度から、“レティシア”は相当に扱いづらい人物だったようだ)
(ここで健次郎としての素を出せば、逆に怪しまれる可能性がある)
リングに立つ前、
観客の熱や選手の緊張を肌で読み取る――
そんな審判としての“現場勘”が、自然に働く。
(まずは……静かで礼儀のある令嬢として振る舞い、様子を見るべきだ)
結論が定まった瞬間、
健次郎はレティシアの声帯を使って、
落ち着き払った声を紡いだ。
「……問題ない。準備をしてくれ」
その声音は驚くほど澄んで、
鏡で見たあの白磁の顔にふさわしい響きさえ帯びていた。
侍女は目を大きく見開き、
次の瞬間には信じられないものを見るように胸元を押さえた。
「か、かしこまりました……! すぐに、すぐに!」
駆け出すように動き出す侍女の姿には、
“普段のレティシアがどれほど苛烈だったか”が
言葉よりも雄弁に刻まれていた。
健次郎は、
その慌ただしく揺れる侍女の背中を静かに見送りながら思う。
(さて……この世界は、私に何を求めている?)
侍女が部屋を出ていったあと、
健次郎はふと窓辺へと視線を向けた。
薄金色の光が天蓋を撫で、
その縁を透かして部屋に柔らかな陰影を落としている。
窓の向こうには、
石造りの塔屋根がいくつも重なり、
赤茶の瓦が朝日に照らされてきらめいていた。
遠くでは市場らしき場所に人が集まり、
小さな馬車が通りをゆっくりと進んでいく。
中世、というにはあまりにも清潔で、
洗練されている。
職人の手仕事が残る世界でありながら、
どこか“整えられた生活水準”が見え隠れしていた。
(なるほど……ここでは、この景色が日常か)
ベッド脇に整然と並べられた衣服は、
刺繍が細かく、布地の質が驚くほど滑らかだ。
侍女が着ていたエプロンドレスのデザインも、
歴史書で見たどの時代とも微妙に違う。
(中世風……だが、写実的ではない。
“物語の中の中世”と言うべきか)
推理は尽きない。
しかし健次郎は長く息を吐き、
意識を整理するように軽く首を回した。
(ルールがわからない試合ほど、
慎重に立ち回らねばならん)
未知の世界、未知の立場、未知の役目。
だが、混乱よりも状況把握が先。
それが長年身体に染み付いた審判としての習性だ。
静寂の中、レティシアとしての一日が――
いや、“レティシアという役割を背負った男の初日”が
静かに幕を開けようとしていた。




