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伝説のレフリー津久田健次郎、悪役令嬢に転生す。  作者: 南蛇井


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薄闇の夢のなか

暗転――ではない。

 最初に消えていったのは、光ではなく“音”だった。


 怒号があったはずだ。

 リングサイドで吠えるレスラーたちの声、

 金属がはじけるようなゴング、

 観客の波が押し寄せては引くざわめき。

 それらが、健次郎の耳に届く直前で

 ひとつずつ“席を立つ”ように遠ざかっていく。


 まるで興行が終わって、観客が帰路につくように。

 あるいは古い録音テープが、

 最後だけ微妙に軋む音を残して止まるように。


 痛みは――ない。

 いや、あるにはあるのだが、

 どうにも“体が痛みを処理する順番”を間違えたらしく、

 生身の痛覚として受け取れない。


 生きているのか死んでいるのか、

 そのどちらにもまだ所属が決まっていない、宙ぶらりんな感触。

 健次郎は、そんな曖昧な状態を、

 仕事帰りの満員電車で半分寝落ちしている時の感覚に少しだけ似ていると――

 都合のいいことに――思った。


 落ちているわけではない。

 なのに、上に行っている気もするし、

 下に向かっているような気もする。


 重力が、

 「今日はちょっと休ませてもらうよ」と早退してしまったかのようで、

 身体の輪郭だけがふわりと浮き、

 方向感覚がひどく頼りない。


 空でも地でもなく、

 それ以外のどこか――

 地図の余白のような場所。


 健次郎は、そこに漂っていた。

 静かで、音のない、

 しかしどこか懐かしい、“間”のなかに。


暗闇の中で、最初に輪郭を取り戻したのは――匂いだった。

 目も耳もまだ働く気がないというのに、

 鼻だけがやけに勤勉で、

 幼いころの柔道場の香りを、容赦なく送り込んでくる。


 使い込まれた畳が放つ、乾いた藺草の匂い。

 稽古で擦れた道着の、わずかな布の摩擦音。

 そして、汗が乾きかけのときだけ漂う、

 あの特有のすっぱさ――

 あれらが、ぬるりと時間を巻き戻してくる。


 なのに視界は依然として闇の中だ。

 どれほど懐かしい景色が脳裏に浮かんでも、

 肝心の“映像”は提供されない。

 匂いだけが、

 「ここがどこか、わたしは知っている」と主張してくる。

 むしろ過剰に。


 ――これは、記憶が勝手に上映を始めたパターンだ、と

 健次郎はすぐに気づいた。

 上映権を持つのが誰かは知らないが、

 彼にとって夢というものは総じて説明責任を果たさない存在であるため、

 抗議する気にもなれない。


 そこへ、祖父の声が落ちてきた。


「健次郎、審判というのはな、

 勝ち負けよりも、大事なものがあるんだよ」


 低く、穏やかで、

 どこか“もう少しで肝心なことを言うぞ”という構えがある声。


 だが、ここで決まって音声は乱れる。


 砂嵐の向こうへ放り込まれたように、

 大事な部分だけが毎度欠落する。

 まるで古いVHSの、肝心な場面だけ必ずノイズまみれになる現象。

 記憶というのも意外と意地が悪い。


 (……どうして、いつもこのあたりだけ聞こえないんだ)

 健次郎は心の中で呟く。

 しかし、この問いに答えてくれる夢を

 彼はいまだに見たことがない。


 夢というのは、

 聞かれたからといって説明してくれるほど、

 人間に優しい仕組みではないのだ。



柔道場の匂いがすっと引いていく。

 畳のざらつきも道着の音も、

 まるで「ここまでが担当です」と持ち場を離れるように消え、

 闇だけがあとに残った。


 その闇のすぐ耳もとへ、

 ふっと誰かの吐息が触れた。


 いや、吐息というより――

 “吐息の気配”と言ったほうが近い。

 物理的な温度はないのに、なぜか距離だけが妙に近い。

 近すぎて、逆に現実味がない。


 そして、あの声が出る。


「……次は、もうちょっと気楽にやりなさいな」


 間延びしていて、やけにやさしい。

 やさしいのに、微妙に上から目線。

 そして少しだけ事務的。

 決して怒っていないのに、

 “提出物が遅れてますよ”と言われているような圧を帯びていた。


 声の主は姿を見せない。

 足音も衣擦れも呼吸もない。

 ただ“声そのものだけ”が、

 存在の必要最低限としてそこにある。


 健次郎は、聞いたことのない声だと思った。

 だが同時に、聞き覚えがあるような気もした。

 懐かしいと言えるほど過去のものではないのに、

 既知の何かとつながりそうで、つながらない。


 (次って……何の次だ?)

 疑問が泡のように浮かび上がるが、

 口に出す前にしぼんでいく。


 夢の中では、

 問いはたいてい答えになる前に消えてしまう。

 夢は、聞かれたことに答える義務がないのだ。

 むしろ、答えたら夢としての沽券にかかわる、

 そんな顔すらしている。


 だから健次郎は、

 その“次”が何を意味するのか知らないまま、

 またひとつ、違う明るさへと押し流されていった。



畳のざらりとした感触が、

 まるで役目を終えた背景装置のようにふっと消えた。

 匂いも音も、後片づけをするように淡く遠のき、

 残されたのは、やけに綺麗な闇――

 “整えすぎた闇”とでも呼ぶべき静けさだった。


 そこへ、吐息が落ちてくる。

 生温さはないのに、距離だけが異様に近い。

 耳のすぐそばに“気配だけ”が置かれるという、

 理屈の合わない感覚。


 そして、あの声が響いた。


「……次は、もうちょっと気楽にやりなさいな」


 相変わらず妙に間延びしていて、

 なだめるようでもあり、

 次回のアポイントを取りつけにきた秘書のようでもある。

 不思議なやさしさと、あいまいな事務的態度が同居している。


 声の主は見えない。

 いや、見えないどころか、

 “存在しているという気配”すら欠け落ちている。

 ただ声だけが、自立した影のように、

 そこに置かれている。


 健次郎は、その声の新しさと懐かしさの奇妙な混合に

 ひっかかりを覚えた。

 (会ったことはない……ないはずだ。

  なのに、知らないとは言い切れないのはどういう理屈だ?)


 考えようとした瞬間、

 別の疑問がふっと浮かぶ。


 (次って……何の次だ?)


 しかし、その問いは言葉になる前に

 口の内側で霧散した。

 夢というのは、質問を最後まで形にする隙を

 ほとんど与えてくれない。

 問いを発する前に“答えを失わせる”のが、

 夢のもっとも一般的な仕事である。


 こうして健次郎の疑問は、

 触れる前に消える水面のように静かにほどけていき、

 彼は再び、ゆっくりと別の光へ押し流されていった。


闇の底で、誰かの手がそっと背中に触れたような感覚があった。

 押されたと言うにはあまりにやさしく、

 けれど確かに「上へ」と促す、

 静かな意志のようなものがそこにある。


 その合図に呼応するように、

 まぶしさがじわりと広がり始めた。

 強烈な光ではない。

 むしろ、白い布の向こう側で誰かが灯した小さな照明が

 ゆっくりと透けてくるような――

 記憶の輪郭だけを浮かび上がらせる、

 淡く曖昧な光だった。


 光が滲むにつれ、音が戻り始める。

 はじめは、乾いた金属飾りが揺れる涼やかな音。

 それに続いて、衣擦れの軽い響き。

 どれも耳に馴染みのない音だったが、

 不思議なことに、違和感よりも

 「こういう音のある世界もあったな」と

 思い出すような感覚が先にくる。


 そして――遠くで誰かが言う。


 「……お嬢さま」


 女性か男性かも判別できないほど遠いのに、

 呼びかけの柔らかさだけがやけに鮮明だった。

 その声が、どこかの記憶に接続されているように思えるのに、

 健次郎にはまったく心当たりがない。


 光はますます広がり、

 境界線をなくした世界へと彼を包み込んでいく。


 健次郎は、反射的に手を伸ばした。

 何かを掴むつもりではなく、

 ただ、触れたものがどんな温度をしているのかを

 確かめたかった。


 しかし指先が触れたのは“無”だった。

 空気すら抵抗を持たず、

 ただ光だけが、彼の指の輪郭を淡く縁取る。


 その瞬間――

 夢の布地が裏返されたように、

 視界がぱたりと切り替わった。


 光は一気に形を持ち、

 気配は現実の重さを帯び、

 音は鮮やかな輪郭を伴って降り注いでくる。


 だがその“現実”は、

 健次郎が知っているものではなかった。


 彼はまだ、

 自分が別の人物の世界へ押し出されたことを

 理解していない。






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